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#751 2018年02月27日 18:04:29

アボガドバナナ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

>こんな長い文章、読む人ほとんどいないと思いますが。

私はいつも読んでいますよ。jw出版物がひとりよがりなのがよくわかります。

#752 2018年03月01日 08:38:03

えー
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

バカデスマ さんの発言:

「聖書についての質問」さん

こんな長い文章、読む人ほとんどいないと思いますが。


私も友達も読んでますよ!
これだけ深い内容をさらっとした語り口で書けちゃうところがすごいよね!と話していたところでした。

これからも楽しみにしています!

#753 2018年03月03日 15:46:39

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

「語彙、文体、思想、歴史的状況、クリスチャン共同体の状況がパウロのものとは違う。
1世紀の終わりから2世紀にかけて書かれたとすると、つじつまが合う。」
「その根拠をひとつ教えてくれませんか?」
「テモテ一の3:1に、“監督の職”、3:8に“奉仕の僕”という役職が出てくる。
それを指導するのがテモテというわけだ。つまり3段階の役職制度が存在している。
パウロの時代にはそんなものはなかった。
パウロは、もうすぐ終わりの日が来ると本気で思っていたの。
組織作りに取り組んでいる状況じゃない。
ところが、パウロが死んで、終わりの日は、はるか後と考えざるを得ない時点で
(1世紀の終わりごろ)、組織作りが始まる。監督も奉仕の僕もパウロの死後の時代のものだね。
これらの牧会書簡の主張は、
後にローマ・カトリック教会へと発展していく人たちの主張なのだろうと考えられている。」

聖書についての質問さん、いつも興味深い解説をありがとうございます。
わたしもどちらかというと全部読ませていただいているほうの人間です。
上記の説明ですが、わたしなりに気になったので所持している
ティンダル聖書注解を読んでみました、部分的にですが…。
この本はテモテ第一、第二とテトス書が一冊の注解書としてまとめられています。
聖書についての質問さんが述べている、語彙、文体、思想、歴史的状況が
パウロの時代とは違っていて、一世紀の終わりから二世紀にかけて書かれたという
主張する人々のいることが述べられていました。
また、その主張に対する解説と反論も述べられています。

その説明の中でこれら牧会書簡に記述されている「監督の職」が
パウロの時代に存在しなかったのかどうかという説明がありました。
注解書では、使徒14:23、使徒20:17、使徒20:28が取り上げられています。

使徒14:26では、パウロ一行が会衆ごとに年長者たちを任命したこと、
使徒20:17では、エフェソスの年長者たちをパウロが呼び出したこと、
使徒20:28では、それらの年長者たちが監督として任命されていること、

を明らかにしている聖句として説明されていました。

年長者というのは新世界訳の訳語でいくつかの日本語訳で確認したところ、
「長老」という表現になっていました。
「監督」という語はどの翻訳を見ても「監督」でした。

使徒たちの活動が一体何年ごろ書かれたのかもこれらの問題に関係がありそうだったので、
同じくティンダル聖書注解の「使徒たちの活動」では西暦70年ごろを有力視していました。

それですから、パウロの時代にもうすでに長老や監督がいたとしてもよいのではないでしょうか。

JWは「奉仕の僕」という立場を設けてます。
多くの翻訳では「執事」と表現されているようです。
ほんとうのところは単なる「奉仕者」という意味だそうです。
「奉仕の僕」というのはJWの都合で設けられた役職だと
原語のギリシャ語から説明してくれていたwebがありました。
別のパソコンに保管していますので、後程URLをお知らせしようと思います。

実のところ、注解書を読むのは骨の折れる仕事で、
ものみの塔出版物を読んで理解するのとちがってとてもたいへんです。
わたしは、それほど詳しくは知りませんので、
反論されてもお答えできないと思いますが、
別の見方も存在することを知るのはとても必要なことだと思いました…。

編集者 ラハム (2018年03月03日 19:31:52)

オフライン

#754 2018年03月04日 22:02:00

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ラハムさんの、
「別の見方も存在することを知るのはとても必要なことだと思いました…。」
というご意見に、まったくその通りと思います。

JWの人もそのような精神でバイブルレッスンをしてくれたらいいと思います。

しかし、ラハムさんが参照した、「ティンデル聖書注解」ですが、これはかなり党派性があるものと私は理解しています。

ティンデル聖書注解は、ティンデルハウス聖書研究所に所属する福音派の学者たちによって執筆されています。

日本では「いのちのことば」社によって発刊され、聖書本文は新改訳聖書第3版を使用しています。

福音派とは、JWと似た、聖書は神の霊感によって書かれ、誤り無い神のことばであるという立場であり、学問的な聖書研究の立場とは相いれないものです。

#755 2018年03月05日 17:32:30

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、「神は疲れた者に力を与えておられる」でした。要するに、なにがなんでも集会に出席せよという内容です。」
「第1節が泣けてくるね。
<多くの人は,1つではなく幾つもの問題を抱えています。たくさんの時間を取られ,精神的にもくたくたになります。お金もかかります。>」
「“多くの人”ではなくて、“エホバの証人の多くの人”と正確に書いて欲しいですね。エホバの証人であるために、“たくさんの時間を取られ精神的にもくたくたになります。お金もかかります。”」
「その解決策が、第3節の、<わたしたちはクリスチャンの活動を行なうと強くなります。>なんだから、また泣けるね。」
「ものみの塔で、あなたの問題の解決策は、エホバの証人を辞めることですとは、いえないですよね。それが真実でも。」
「宗教組織の限界がわかるね。よりいっそう宗教活動をせよ、これしか言えないんだから。」

「3節で、<この記事では,神への奉仕の妨げとなる2つの状況を取り上げ,聖書の原則を当てはめることがどのように役立つかを考えます。>とあります。聖書の原則ってそもそも役に立つんですか?」
「この記事でいう2つの状況とは、会衆の間での不和と重大な罪を犯した、ということのようだね。それに聖書の原則を当てはめると、どうなるの?」
「不和に関しては、詩篇37:8から、<怒りをやめ、激怒を捨てよ>。あとは、エフェソス4:26の<憤っても,罪を犯してはなりません。あなた方が怒り立ったまま日が沈むことのないよう>でしょうか。」
「ろくな助言じゃないね。要するに我慢しろ、耐えろ、と言うことでしょう。これは現実問題に当てはめると、被害者は泣き寝入りしろということになる。」

「重大な罪を犯した場合は?」
「おそらくこの部分が答えなのだと思うのです。17節です。
<そのためには,神が長老たちを通して与えてくださる助けを受け入れなければなりません。(箴 24:16。ヤコ 5:13‐15)すぐに行動してください。永遠の命がかかっているのです。>
ところが、これは引用されている聖句と関係ないですよ。」
「ヤコブ5:13-15は、<あなた方の中に病気の人がいますか。その人は会衆の年長者たちを自分のところに呼びなさい。>とあるように、病気の人に向けられた助言で、罪を犯した人ではない。箴言の引用も意図がよくわからない。」
「ものみの塔としては、長老に解決を委ねるというような仕組みを作りたい、ということなんでしょうが、そんなことは聖書に書いていないので、関係ありそうなものをいくつか引用してみたと言うことですね。」

「根拠があまりないときに限って、<すぐに行動してください。永遠の命がかかっている>なんて、恐怖心をあおって、思考停止に追い込もうとする。18節に、こうある。
<あなたが以前に罪を犯したとしても,誠実に悔い改め,エホバに告白し,長老たちから必要な援助を受けたなら,エホバは許してくださいます。>」
「また長老ですか。」
「実は元の英語版では、17節も18節も長老とは書いていない。18節はこうだよ。<If you are sincerely repentant of past sins and have confessed them to the extent necessary,(もしあなたが過去の罪を誠実に悔い改め、必要な範囲に告白したなら)>」
「告白する範囲は特に定めていないですね。<to the extent necessary>ですから。日本語に訳する人が、<エホバに告白し、長老にも告白して>と勝手に決めちゃったんですね。<長老たちから必要な援助を受けたなら>なんてことも書いていないですね。日本支部がこれまた勝手に付け加えてしまった。排斥処分ものですね。」
「翻訳者は、ちゃんと訳すよりも、自分たちの思想を紛れ込まそうと初めから考えているように見えるね。」

「引用されている聖句についてはどうですか?」
「マタイ11:28-30を引用しているのがブラックジョークのようだ。
<すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう。  わたしのくびきを負って,わたしから学びなさい。>
この聖句を、ものみの塔では、7節でケーラという人の例を出して、病気の人も集会に来ると、幸せになる、というような意味に解釈している。全然違うでしょ。」
「僕が思うに、“労苦し,荷を背負っている人”というのは、律法でがんじがらめになっていた当時のユダヤ人のことですよね。律法主義者から離れてイエスの教えを学びなさい。イエスの教えは、細かな規則を守ろうなどというようなものじゃなくて優しいよ。こんな意味じゃないですか?」
「その当時の時代背景を考えればそうなるよ。その当時の言い方に、「律法のくびき」というのがあって、“私のくびきを負って”というのは、それを踏まえた言い方でしょう。」
「そうすると、現代で、“労苦し,荷を負っている人”というと、エホバの証人のことですね。不合理な規則に縛られ、ケーラみたいな病気の人にも集会に出席するという重荷を背負わすのですから。」
「JWのくびきは重く、つらいようだね。病気の人の家に、誰かが訪問して、集会の話をすればいいんじゃないの。」
「研究生ならいいですよ。時間が入りますから。それ以外はダメです。」
「それから、新世界訳で“さわやかにしてrefresh”と訳しているのが奇妙だね。普通は、”休ませるrest”と訳する。疲れた人を休ませるんじゃなくて、より元気にするという意味にする根拠はないでしょう。“さわやかにする”と訳しているギリシャ語は新約聖書の中で5回使われている。新世界訳でも、ここ以外は全部“休む”と訳している。このマタイの部分だけ、“さわやかにする”と訳するのは奇妙だ。」
「休むのはダメだからじゃないですか。疲れても休むな、もっと奉仕活動をしなさい、といいたいのですよ。」

#756 2018年03月05日 20:13:18

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん 自分もいつもたのしく読ませていただいてます

ところで774さんの とりあえず書き込みのトピのイザヤの予言♯1253

についてご存知のことありましたらまた教えてください

オフライン

#757 2018年03月06日 09:23:17

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

「休ませてあげましょう」なのに(弟子たちに忙しい日だったから、もう「休むがよい」と言ったのと同じ言葉)、それを「さわやかにしてあげましょう」と訳し変えて → もっとJWの宗教活動をしなさい、のお決まりのオチに持っていくのは、もはやブラックジョークの伝統芸ですね。

#758 2018年03月06日 13:25:33

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

ラハムさんの、
「別の見方も存在することを知るのはとても必要なことだと思いました…。」
というご意見に、まったくその通りと思います。

JWの人もそのような精神でバイブルレッスンをしてくれたらいいと思います。

聖書についての質問さん、
ていねいなご返事をありがとうございます。
もう35年以上前のことですが、地元王国会館で開かれている
集会の招待ビラに「宗派に偏らない聖書教育を行なっている」
という文言が記載されていたのを思い出しました。
振り返ると、自分たちがいちばん宗派に偏っていたのに、
偏らない聖書教育をしているなどと主張していたのですから、
自分のしていることの意味なんてほとんどわからないで
しているものだと思いました。
滑稽旋盤で恥ずかしい宗教に入っていたものです。

ティンデル聖書注解のことですが、
詳しい説明をありがとうございます。
その注解書がかなり党派性があるとすれば、
党派性がほとんど見られないというか感じさせなくて
きわめて公平な注解書ってあるのでしょうか。
存在するのであれば、一冊ぐらい読んでみたいのですが…。

オフライン

#759 2018年03月06日 14:05:18

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

ラハム さんの発言:

JWは「奉仕の僕」という立場を設けてます。
多くの翻訳では「執事」と表現されているようです。
ほんとうのところは単なる「奉仕者」という意味だそうです。
「奉仕の僕」というのはJWの都合で設けられた役職だと
原語のギリシャ語から説明してくれていたwebがありました。
別のパソコンに保管していますので、後程URLをお知らせしようと思います。

このURLは
https://bibleking.org/1timothy-3/
です。

この説明がどこまで妥当かはわかりませんが、
そのような説明もあるということです。

オフライン

#760 2018年03月12日 17:13:24

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“記念式で一致の快さを味わいましょう”というもので、記念式に出なさいと言う内容ですね。」
「“ぜひおいでください”という紙が郵便受けに入っていたよ。」
「僕が入れときました。ルカ22:19で、イエスが「これを行い続けなさい」といっているのですから、一緒に行いましょうよ。」
「主の晩餐は、3つの福音書に出ているけど、「行い続けなさい」とあるのは、ルカだけだよ。マタイ26章でもマルコ14章でも、イエスはそんなことは言っていない。ヨハネではその晩餐自体がない。しかもルカは、他の二つとは順番が違う。他の二つはパン、ワイン、神の王国まで二度と飲まないという宣言だけど、ルカだけは、二度と食べない宣言、ワイン、二度と飲まない宣言、パン、ワインとくる。」
「ということは、主の晩餐は後の作り話ということですか?」
「これを続けなさいというのは、教会組織がずっと続くことを前提とした話だけど、イエスは終わりの日がすぐ来ると思っていたわけで、歴史上のイエスがそんなことを言うはずはないと思うね。」
「と言うことは、ルカの福音書が書かれた頃、80年ころにそのような習慣ができてきたと言うことですか?」
「そうでもないよ。主の晩餐の最も古い記録はパウロの書簡、コリント一の11:20-33なんだ。書かれた年代は50年代。福音書よりもかなり早い。その頃すでに、コリントでは主の晩餐が行われていたことがわかる。」

「エホバの証人のようにパンとワインを回して、ただ見るだけということをしていたんですか?」
「それは、エホバの証人の独自の習慣で、聖書とは何にも関係ないよ。11:20,21にこうある。
<こうして,あなた方は一つの場所に集まっても,主の晩さんを食べることができません。 あなた方が[それを]食べるとき,各自自分の晩さんを前もって取るので,ある者は空腹で,ある者は酔っているという状態だからです。 >」
「主の晩餐の前に、皆が持ち寄った料理を食べたり、飲んだりしていたということですね。」
「主の晩餐という儀式が独立してあったと言うより、普段から集まって食事を共にする習慣があって、最後にパンとワインを皆で食べたと推測できる。コリントでは階級や貧富の違いで会衆が分裂していて、それができていないのでパウロが怒っている。」

「それでは、主の晩餐は1年に1度ではなく、頻繁にあったのですか?」
「何回しても問題ないでしょう。初期のクリスチャンはともに食事をすることを重視していたようだからね。使徒20:7にはこうある。
<週の最初の日,わたしたちが食事をするために集まっていた時,パウロは,次の日には出発することになっていたので,彼らに対して講話を始めた。そして話は長くなって真夜中にまで及んだ。>
ここで、<食事をする>と訳されているけど、文字通りは“パンを裂く”。」
「ここで言う食事は主の晩餐を指しているという解釈ですね。パンを裂いて皆で食べたとすれば、通常の食事と言うより儀式的な食事ですから。」
「そう解釈すると、日付に関しては、<週の最初の日>としかないから、毎週日曜日にそういった儀式をしていた可能性もある。」

「ものみの塔の記事についてはどうですか。記念式よりも、一致とかひとつに結び合わせるとかが強調されていますよね。なにかへんですよ。」
「一致団結せよ!というわけで、カルト色が強い内容だね。それでも日本語版はそれを薄めようとしている。」
「そうなんですか?」
「1節で、英語版では、記念式にことを<the most amazing unifying event that takes place on planet Earth! 地球上で行われる最も驚くべき統一したイベント>と極めて大げさにいっているのに、日本語版では、<世界中の人々を1つに結び合わせる素晴らしいイベントです。>と弱めた表現にしている。」
「確かに、あの儀式をthe most amazingと呼ぶようでは、まともじゃないですね。」

「カルト的なのは、4節のこの部分だね。
<崇拝のための集会を大切にしていることを行動で示すなら,エホバはわたしたちの名前を「覚えの書」,つまり永遠の命を得る人の名前が記された「命の書」にとどめてくださるでしょう。(マラ 3:16。啓 20:15)>」
「言葉は丁寧ですが、脅迫していますね。集会に来ないと、「命の書」に名前がかかれないぞ、といっているようなものですから。集会に行けば「命の書」に名前がかかれるなんて、聖書のどこにも書いていませんよね。マラキ3:16は、<エホバを恐れる者のため,またそのみ名を思う者たちのために,覚えの書がそのみ前で記されるようになった。>とあります。覚えの書に記される人は具体的にどのような人なのですか?」
「マラキのいう「エホバを恐れるもの」というのは、「律法を守るもの」ということさ。旧約聖書の預言者の基本的なメッセージは、律法を守れば神の祝福、守らなければ神ののろい。なぜなら律法は神とイスラエルの契約だから。これが基本。だから、マラキ書の「覚えの書」と啓示の「命の書」は無関係だよ。」

「8、9節にある、エゼキエル37:15-17の二つの棒がひとつになるという預言の解釈がおかしいですよね。」
「これは南のユダ王国と北のイスラエル王国がひとつになるという預言だよね。実現しなかったけど。それを、2016年7月号「読者からの質問」の記事を引用して、これは油そそがれた者たちとほかの羊がひとつになることを表していると、何の根拠もなく主張している。」
「以前の避難都市の話で、“聖書的な根拠がない場合は,特定の人物や記述に対型があると考えることを控えるべきです”と書いていたのですが、ここではエゼキエルの記述を現代に当てはめているわけで、全く一貫していませんね。」
「油注がれた144000人だけが天に行き、その他大勢は地上で復活するという教義自体が、何の聖書的根拠もないものだから、その二つがひとつになるとエゼキエルが預言していましたと言われてもね。苦笑いするだけだね。」
「統治体の誰かの思いつきじゃないですか。数年後にはなかったことになると思いますよ。」

#761 2018年03月19日 17:00:30

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「土曜日に特別集会がありまして、そのあと、ものみの塔を学ぶというスケジュールでした。今週のものみの塔は、“神からいただいたものを神にささげるのはなぜですか”というもので、“貧乏人も、もっと寄付をしろ!”と言うわかりやすい内容ですね。」
「英語では、“Why Give to the One Who Has Everything?”(なぜ全てをもっている方に捧げるのですか?)というタイトルだよ。誰もがいだく当然の疑問じゃないか。それに答えていないダメな内容だと日本側で判断して、タイトルを変えたんじゃないの。」
「日本支部に電話してみますよ。答えないと思いますけど。」
「寄付の要請は、昨年の7月号の「真の富を追い求める」でやったばかりだよ。半年に1度は寄付の要請の記事を学ぶようになっているのかな?」
「組織宗教にとって、お金ほど貴重なものはないのですよ。」

「そうだろうね。今度の記事はどんな理屈で信者に金を出させようとしているの?裁判で負け続けて賠償金が巨額だからとはいえないしね。」
「エホバに感謝しよう。与えることは崇拝の一部だ。与えることは自分にとってもよいことだ。昔の忠実な人も自発的に寄付したぞ、それをみならおう。最後に、寛大に与えるものは豊かな報いを受ける。こんな理屈でしょうか。」
「あまり説得力がないね。5節で<与えることはエホバへの崇拝の一部です。>といってから、啓示4:11を引用しているけれど、そこには、与えることはエホバへの崇拝の一部なんて書いてないよ。また、申命記16:16をもとに、<イスラエル人は「むなし手でエホバの前に出て」はならず,供え物をささげなければなりませんでした。与えることは崇拝の一部だったのです。>とあるけれど、古代イスラエルの決まりごとは現代でも有効なの?そうだったら、男は皆割礼をしないといけないよ。」
「新約聖書の中から、いい聖句を見つけられなかったからでしょう。」

「昔の人をみならえと、ダビデの神殿建設計画で、イスラエル人が自発的に喜んで寄付をした話を歴代一29章から繰り返し引用しているね。」
「本当のことではないですよね。」
「歴代誌はバビロン捕囚以降に書かれたもので、国家を失った人々が、はるか昔の栄光の時代をものすごく美化して描いたもの。そこではダビデはずる賢い権力者ではなく、理想の王として描かれ、民衆はその理想の王にすすんで従うというありえない構図になっている。そんなものを引用して、過去のイスラエルの民をみならえといわれてもね。」

「統一イスラエルはダビデとソロモンの2代しか続かないわけですが、分裂したのはソロモン時代の極めて不平等な重税が原因のひとつですよ。一般国民が喜んで神殿建設のために寄付をしたなんて嘘だと思います。」
「そうでもないと思うよ。意外と喜んで寄付したのかもしれない。それが古代社会における宗教の役割だから。」
「宗教は政治権力者のためにお金を集めてきたということですか?」
「政治権力者が民衆からお金を巻き上げる際、いかに民衆の不満を抑えるかは、重要な政治問題だ。古代社会では、宗教を利用して民衆の不満を抑える。まず、政治指導者は神によって選ばれたと主張し、宗教指導者はそれにお墨付きを与える。そして政治指導者も宗教指導者も、自分たちの宗教を維持することが、自分たちの平和と安全を保障とする、と民衆に信じ込ませる。その上で、神殿を作るとか、儀式にお金がかかるとかいって、民衆からお金を巻き上げて、両者で分け合う。」
「ダビデとサムエルがそんな同盟関係ですね。国家宗教ってそんなものですよね。それを美化したのが歴代誌なわけですね。」
「ものみの塔の統治体も同じやり方をしているだろう。自分たちは神に選ばれた人間だと主張し、自分たちを支えることが信者の幸福につながると思い込ませて、信者から寄付を集める。各会衆が貯めていた資金や資産だって、取り上げる。」
「今の統治体もこれからどうなるのでしょうね。」

「最後の2つの節は、寄付を募るには、あまりにもひどい内容だね。18節では、<王国のために与える人は必ず祝福される,と保証しておられます。(マラ 3:10)>とあるけれど、マラキ書が言っているのは古代イスラエルのことで、今のエホバの証人とは関係ないよ。その後、<寛大に与える者は豊かな報いを受ける,とも約束しておられます。(箴言 11:24,25を読む。)>とあるけれど、引用されている聖句は、施しと貪欲を対比させて、寛大に貧しい人に施すことはいいことだ、かえって豊かになる、といっているだけ。巨大新興宗教に寄付したらいいことがあるよ、という主張をしているわけではない」

「その次に、<与えるなら幸せになれます。「受けるより与えるほうが幸福」だからです。(使徒 20:35)>とありますが、どうですか?」
「引用されている使徒20:35は、初めに<弱い者たちを援助しなければならない>とある。その後に、<受けるより与えるほうが幸福>というのが続く。弱いものとは誰なの?統治体の人たち?違うよね。弱いものを助ける、これは新約聖書が強調していること。しかも、聖書の事例は、どこかの組織に寄付するのではなくて、直接助けている。助けられる人より助けることができる人のほうが幸福な立場なのは当然だ。それが、<受けるより与えるほうが幸福>の意味じゃないの?」
「イエスが言ったことになっていますけど、聖書のどこを探してもない言葉ですね。本当にものみの塔に寄付をして幸せになるのなら、こんな記事は必要ないですよ。」

「6節のこの部分が気になるね。
<親元で開拓奉仕をしている子どもは,家賃や食費を幾らか負担することができます。親はそのようなことを期待してはいないかもしれませんが,喜んで受け取ることができるでしょう。>」
「若い開拓者の中には親に寄生して生活をしている人が多いから、すこしぐらいは親に払えよ、という統治体からのアドバイスでしょう。」
「それだったら、テモテ一5:8くらい引用して欲しいね。
<当然のことですが,自分に属する人々,ことに自分の家の者に必要な物を備えない人がいるなら,その人は信仰を否認していることになり,信仰のない人より悪いのです。>
この聖句が示すように、神に仕えるといって、家族に寄生するのが正しい生き方とは思えない。」
「ものみの塔は、奉仕活動第一主義だから、宗教と仕事のバランスの取れた生活をしましょう、といった当たり前のことがいえないのです。」

#762 2018年03月26日 17:13:43

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“本当の幸せにつながるのはどんな愛ですか”というもので、幸せな生き方は統治体の奴隷となることだ、と言うよくある内容ですね。」
「第1節でいきなり、<800万人を超える幸福で「強大な国民」が「昼も夜も神に神聖な奉仕をささげて」います。>と、誇大妄想的に断定し、6節では、<エホバは幸福な神です。ですから,神の民も幸福です。>と、非論理的なことを言っている。エホバの証人は、北朝鮮の国民と同じくらい幸福なんだろうね。」
「そこは元の英文では、<Jehovah is a happy God, and his people reflect that quality. >ですけど。エホバが幸福だ。だから神の民も幸福だ、とおバカなことは言っていませんね。」
「元の英文だって、似たようなものだよ、」
「論理的に言うと、エホバの証人は幸福である、が真実とすれば、その対偶である、幸福でなければエホバの証人ではないということななりますね。そうするとエホバの証人の数は、800万人ではなく、統治体の8人だけかもしれませんね。」
「5節に、利己的な愛のことが出ていて、<自分のことばかり考え,他の人のことはほとんど気にかけません。物事がうまくいかないと,自分の責任を認めずに,他の人のせいにします。>とあるけど、これってものみの塔の統治体によく当てはまるよ。」

「確かにそうですね。ところで、テモテ二3章が何度も引用されていますが、3:1にはこうあります。
<しかし,このことを知っておきなさい。すなわち,終わりの日には,対処しにくい危機の時代が来ます。>
それで、読み続けていくと、遠い未来の人に対する警告ではなく、この手紙を読んでいる1から2世紀の人たちに対する警告としか読めないのですよ。ものみの塔では、まるで21世紀に住んでいる私たちに対するものであるかのように論じていますけど。」
「“終わりの日”の解釈ね。3章は2章を受けて、“しかし”で始まる。2章はどんな内容かというと、異端者あるいは偽教師を警戒し、正しい行いをすることの重要性を説いている。その次に3章になって、“しかし”でつなげる。つまり、2章も3章も、遠い未来ではなく手紙が書かれた時代の人たちに向けて書かれている。当たり前の話だけどね。」
「というと、“終わりの日”というのは、テモテ二が書かれた時点で、もう始まっているということですか?」
「そうだね。」
「3章2から5節までに挙げられる人達って、いつの時代にもいる人ですよね。自分を愛する者と金を愛する者が最初に出てきますが、こんな人がいなかった時代なんてないですよ。とても終わりの日の特徴とは思えませんね。」
「新約聖書の著者の歴史観は、キリスト以前、キリスト時代、キリスト以後の3段階になっているという説がある。この歴史観だと、キリスト以後は終わりの日と呼んで構わない。例えば、ヨハネ第一2:18にはこうある。
<幼子たちよ,今は終わりの時です。そして,あなた方が反キリストの来ることを聞いていたとおり,今でも多くの反キリストが現われています。>」
「“今は終わりの時です。”とはっきり書いていますね。終わりの時といっても、相当長い期間のことで、終わりの日の直前のことを指すわけではないのですね。」
「それから、テモテ一や二、ティトスは牧会書簡とよばれていて、宗教組織の管理・監督について主に書かれているもので、自分を愛する者とか金を愛する者というのは、組織内部の人間つまり信者のことを言っているわけで、世の中の人の一般的な傾向を言っているわけではない。」

「ほかに気になることはありますか?」
「今回は、5節で、“ある聖書注解者は”といって、ハリネズミの話を引用しているけれど、途中をかなり省略した細切れ引用だ。本当に正しい引用か、気になるね。どうして名前をあげないのだろうか。おかしな引用をしていることがわからないようにするためと、思ってしまうね。」
「6節にも、“ある聖書学者たちによれば”と引用していますけど、これも誰なのか、本当にそういったのか、確かめようがないですね。」
「ものみの塔は神の唯一の経路なんだから、組織外の人の意見をなぜ参考にするのか理解できないね。真の宗教なんだから、自分たちの解釈を述べるだけで十分じゃないの。」
「本当は自信がないのですよ。聖書の専門家なんか組織にはいないと思いますよ。だから、組織外の専門家の権威借りるわけです。」

「それから、今週の記事を読むと、ものみの塔は、どうしても信者が貧乏になることを望んでいるように思えるね。」
「12節にこうあります。
<生活をシンプルにするなら,エホバに仕える時間を増やすことができ,もっと幸せになれます。>
“働く時間を減らす→奉仕時間を増やす→より幸せになる”という幸福の3段階説なのです。結果として、たまたま、より貧しくなるだけです。統治体は、信者が貧乏になることではなく、幸せになってほしいだけですよ。」
「旧約聖書を見ると、神様に愛された、アブラハムやダビデはかなりの資産家だよ。ソロモンだって、裕福であることを自慢している。今週のものみの塔の初めに引用されている詩篇144:15だけど、」
「“エホバをその神とする民は幸いだ!”というのですね。」
「省略された前半があって、<[この]ようになる民は幸いだ!>と書いてあるの。“このようになる”とはどういうことかというと、12から14節にかいてある。」
「13節では、<我々の穀倉は満ち,種々の産物を供給し,我々の羊の群れはちまたで,一頭が数千頭にも一万頭にも殖えてゆく。>とありますね。」
「エホバを神としていると、当時の主要な産業である農業や牧畜業がうまくいく、つまりより物質的に豊かになる、とても幸せなことだ、といっている。いかにも古代的な素朴な宗教観だ。」
「本当にそうだといいのですけどね。」
「アブラハムの神は、富を悪だなんて考えていないよ。ヨブ記からわかるように貧困は不幸であり、神に愛されるものは豊かになる。まじめに働き、いくばくかの財産を築く、これは神が良しとされていることだ。」
「それを否定するから、エホバの証人はカルトなんですね、」

#763 2018年03月27日 08:43:00

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ヘレニズム時代のユダヤ人には、創造に始まる今のアイオーン(ヘブライ語でオーラーム)・・時間があって有限と、来るべきアイオーン・・時間がなく永遠という概念が広まっていて、そこに、イエスをメシアと信じたクリスチャンが「キリスト前」「キリスト後」を導入して、キリスト後の時間は「残りの時」であって、その「時」は少なくなっている、縮められている(コリント一7章29節など)と考えるようになったんですよね。


彼らにとってはキリスト後の時間=残された定めある時(終わりの時)であって、ありのままに読めば、パウロ書簡にも、牧会書簡にも、はるか遠い将来を予言しているつもりなんてないと思います。

#764 2018年04月02日 17:13:34

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“神に仕える人と仕えない人はどのように異なっていますか”というもので、先週に引き続きテモテ二3:1-5を扱った内容ですね。」
「主の記念式は楽しかったかな。2節には、<終わりの日の今,世界は道徳的に退廃しています。テモテ第二の手紙には,神に仕えていない人々の特徴が記されています。>とあるけれど、そうとはいえないだろう。」
「テモテの手紙は信者を監督するテモテにあてたという形式ですから、信者のことを言っているというご意見でしたね。」
「そのとおり。だから3章5節で、<敬虔な専心という形を取りながらその力において実質のない者となるからです。>と締めくくられる。これは神に仕えてない人ではなくて、神に仕えているというふりをしている形だけの信者のことでしょう。」
「19種類の人が挙げられているのですが、ずいぶん多いですよね。」
「かといって網羅的でもない。興味深いのはそこで使われている単語だね。19のうち、7つは、ここでしか使われていない単語で、6つは、新約聖書ではあと1か所しか使われていないレアな単語。」
「要するに、パウロの単語の使い方と違うといいたいわけですね。」

「新世界訳で面白いと思ったのは、3節の“自然の情愛を持たないもの”という訳。astorgoiの訳だけど、ギリシャ語の辞書に、よく“without natural affection”と説明してあるの。辞書の説明をそのまま持ってきた感じだね。」
「新共同訳だと、“情けを知らず”ですね。確かに新世界訳は辞書の説明文をそのまま訳語にしたようなものが多いですよね。訳した人の無能さのあらわれですね。1節の、“対処しにくい危機の時代”というのも、単語の訳というより、その単語の解釈ですよね。」
「*をクリックすると、字義的には“猛烈な”であると説明が出てくるけどね。新共同訳では、“困難な時期”としている。」
「ものみの塔としては、どうしても危機の時代になってほしいから、“猛烈な”を“対処しにくい危機の”と、普通には考えられない訳語をひねり出したのでしょう。」

「4節に“片意地な者”(headstrong)とあるけれど、これは誤訳だね。新共同訳では、“軽率になり”と訳していて、こちらのほうが正しい。本当に誤訳か、ギリシャ語王国行間逐語訳聖書をみてみようか。」
「なんですか?それは?」
「知らないの?ウエストコット・ホートのギリシャ語本文の行間に一語ごと英訳を入れて、新世界訳と対比したものだよ。ものみの塔から1969年に発行されている。今買うことは難しいけれど、インターネットから無料でダウンロードできる。」
「ダウンロードしてみると、片意地な者と訳した語には、forward-fallingと訳していますね。“前へ倒れる”という意味ですか?」
「元のギリシャ語はpropetés。これはpro(前に)とpipto(倒れる)の合成語。forward-fallingは、まさに字義訳だね。辞書にはそのギリシャ語の意味をheadlong(真っ逆さま、急いで)と書いてあることが多い。それを無知な訳者がheadstrong(片意地な)と見間違えたんだと思うよ。」
「誤訳がわかっただけでなく、その原因も推測できたということで、よかったです。新世界訳って、本当にダメですね。」

「6節に、ダビデがサウル王の娘との縁談を断ったことをもって、ダビデは謙遜だったと書いてあるけれど、ぜんぜん違うよ。これを書いた人は聖書を知らないね。」
「はじめはメラブという娘ですよね。その縁談を断ったのは、条件付きだったからですよね。サムエル一18:17には、<ただ,わたしのために勇敢な者となり,エホバの戦いを戦ってくれ>とあります。サムエルはダビデを戦死させようとたくらんでいるわけで、それを見抜いたダビデが断っただけです。ダビデは謙遜だから王の娘の縁談を断りましたなんて、子供向け聖書物語ですね。」
「それに婚姻費用の問題もあった。結婚するとき、男性側は多額の贈り物をする必要がある。王の娘ともなれば、相当な贈り物が必要だ。」
「それでサウル王は別の娘ミカルの婚姻に際しては、18:25で<フィリスティア人の百の包皮>でいいよといったわけですね。日本風に言うと100人の首を取ってこい、それで婚姻費用はなしにしてやるということですよね。本当の狙いは戦死させることですが。」
「ところが、ダビデはその条件をなぜか承諾し、200人分の包皮を持ってきて、めでたくミカルと結婚している。このダビデのどこが謙虚なんだろうね。」
「敵の兵士の包皮を取るって、実際にはどのようにするのでしょうかね。」
「これは史実ではないよ。まじめに考える必要はないよ。」

「11節に、<互いを愛することは真のクリスチャンを見分けるしるしであるとも述べました。(ヨハネ 13:34,35を読む。)クリスチャンは敵でさえ愛します。(マタ 5:43,44)>とあります。これを書いた人は、自称真のクリスチャンであるJWの排斥制度やその後の集団無視のことをどう思っているのでしょうかね。排斥された人は敵よりも悪い存在なのでしょうか。」
「これを書いている人は、JWの現実を何も知らないのさ。兄弟姉妹と呼びあっていたって、集会に来なくなれば忘れ去られる、それがJWの現実だろう。」
「会衆内に党派ができたり、お互い中傷したり、長老が権力を乱用したり、ごくありふれたことですから。」
「そうなの。」

「僕が面白いと思ったのは、15節です。イザヤ11:6,7を取り上げていて、オオカミもライオンも他の動物と仲良くなって、草を食べるようになるという聖句なのですが、<この預言は象徴的な意味で人間に成就します。>と書いてあることです。」
「この聖句を、野獣のような危ない人が、いい人になるという象徴的意味だと解釈することにしたわけだ。どうでもいいけど、楽園の絵ではライオンと遊ぶ子供は定番だろう。それは間違いということね。」
「動物好きのJWは裏切られたと思うでしょうね。JWをやめる人がまた増えることになるかも。 」

#765 2018年04月02日 21:55:17

トカゲの王
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

15節のイザヤ11:6,7に関する説明の何がアレって、記念式ではまさにその聖句が動物たちとの楽しい生活が待っていることの根拠として用いられていることですよ。

#766 2018年04月09日 17:12:46

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“ノア,ダニエル,ヨブの信仰と従順に倣う”というもので、子ども向け聖書物語といった程度のものでした。」
「エゼキエル14:14の引用ね。」
「そうです。<ノア,ダニエル,ヨブがその中にいたとしても,彼らは,その義のゆえに自分の魂を救い出すであろう>とありますが、どういう意味なのですか?」
「14から20節までが一つの話で、20節で、<息子も娘も彼らは救い出せない。彼らは,その義のゆえに自分の魂を救い出すであろう>とまとめる。つまり、どんな義人も救えるのは自分だけ。息子や娘だって救えない。現代的な個人主義的な倫理観の芽生えだ。これはエゼキエル18章で、さらに展開されている。」
「創世記18章では、ソドムを滅ぼすというエホバに対して、アブラハムがもし50人の義人がいたら、滅ぼすのをやめないのですか、と問いますよね。エホバは結局10人までまけてくれるわけですよ。そこには個人ではなく集団的な倫理観しかないわけですね。エゼキエルの時代になって、集団全体ではなく個人の責任を問うという発想が出てきたということでしょうか。」
「創世記では、10人の義人が町全体を救うことが可能なんだ。しかし、エゼキエルでは、義人は自分しか救えない。旧約聖書の中の思想の転換だ。」
「救う話ならいいですけれど、ヨシュア記7章では、略奪品を隠したアカンが家族や家畜もろとも殺される話がでてきますね。集団的倫理って、恐ろしいですね。」
「ところが、エゼキエル18:20では、<子が父のとがのゆえに何かを負うことはなく,父が子のとがのゆえに何かを負うこともない。義なる者の義はその人自身に帰し,邪悪な者の邪悪はその人自身に帰する。>とエホバが言うの。それならアカンの家族はどうなんだよ。エホバっていいかげんな神様だってよくわかるよね。」
「いいかげんじゃなくて、エホバの思想が進歩したということですよ。」
「ところがJWはどうも集団主義的倫理のようだよ。JWの組織にいれば救われると思っている。ある集団の一員かどうかで、生きるか死ぬかが分かれるというのは、エゼキエル以前の思想だ。」

「3人のうちの2番目のダニエルは、ダニエル書のダニエルなのですか?ものみの塔ではそう主張していますけど、時代が合わないですよ。2節では、西暦前612年にエゼキエルが書いたとあるのです。この時ダニエルは無名の若者じゃないですか?“洞察”によれば、ダニエルは西暦前617年ごろ10代で、バビロニアに連れていかれたとあります。ノアに並ぶほど有名人ではないはずですよ。」
「その年代は、JW以外支持者のいないエルサレム陥落607年説に基づく、でたらめだけどね。エルサレム陥落を嘘の607年にしているので、そのあたりのJW年代はすべて史実と違う。今更変えられないから、嘘をつき続けるしかないのだろう。エゼキエルが書いたのは西暦前592年前後で、ダニエルが連れていかれたのは西暦前605年。3人の順番も気になるよね。」
「時代順にノア、ヨブ、ダニエルならわかりますが、ダニエルは2番目ですよね。ヨブより前の人じゃないですか。」
「ダニエルはエゼキエル書の28:3にも出てきて、<見よ,あなたはダニエルよりも賢い。>とティルスの指導者に言う。ダニエルは外国人であるティルスの指導者も知っている知恵のある存在だということがわかる。となると、バビロニアの宮廷で活躍していたことになっているダニエルではなくて、別のダニエルと考えるのが妥当だ。読み方もDanielではなくて、Danel という説もある。」
「別のダニエルというと?」
「有力なのは、ウガリット神話にでてくるダネルだ。これならティルスの指導者も知っているはずだからさ。異論もあるけどね。」
「ダニエルじゃなくてダネル?」

「ところで、その3人の信仰と従順の何を具体的に倣うわけ?」
「ノアについては、10節で、<あなたはいかがですか。ばかにされたり批判されたりしても,「神と共に歩」み続けますか。経済的に難しい状況に置かれたとしても,エホバへの信仰を保ちますか。>とありますから、バカにされても耐えろ、貧乏でも耐えろ、ということでしょうか。」
「聖書には、ノアがバカにされたとか、貧乏だったとか、何も書いてないだろう。ものみの塔の勝手な過剰解釈だよね。JWのイメージをノアに投影しているんだろうね。」

「ダニエルについては、何を倣うの?」
「14節で、<わたしたちも他の人々とは異なっているため,あざけられることがあります。(マル 13:13)でもダニエルのように,エホバ神に近づきましょう。>とありますね。」
「また、周りからあざけられている自分たちの姿をダニエルに投影しているのね。ダニエルは妬まれただけで、バカにされてはいないよ。ダニエルは外国の宮廷で出世しつつも、自分たちの信仰を守ったというわけで、国をなくしたユダヤ人の理想が投影されている人物ね。それから、引用されているマルコ13:13は、<そしてあなた方は,わたしの名のゆえにすべての人々の憎しみの的となるでしょう。>だけど、<私の名ゆえに>とは、イエスの名ゆえにという意味で、エホバという名前を付けて威張っているエホバの証人とは関係ないよ。」
「確かに、エホバの証人と名乗っていますからね。」

「最後にヨブについては?」
「19節に、<どんな状況に置かれても,いつもエホバを第一にした生き方をしましょう。エホバを全く信頼し,心から神に従いましょう。>とあります。」
「この場合、エホバ=統治体なんだよね。どんなひどい目にあっても、統治体に従え、ということね。子ども向け聖書物語から恐ろしい宗教残酷物語と変わったようだね。」

#767 2018年04月13日 06:52:36

万年研究生
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん:
ヨブ記の1章と2章は冒頭の所がほとんど同じ場面で文面もほぼ違いが無いのですが
これも付け加えられた箇所なのでしょうか?
登場のサタンについても固有人物のサタンとは別の存在の1つなのでしょうか?

おわかりになりましたらご教示ください。

#768 2018年04月13日 07:11:34

万年研究生
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

補足ですが

1:6節 と 2:1節 のところです。
ほとんど同じです。

#769 2018年04月13日 14:52:19

聖書についての質問の答え
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

万年研究生さんのご質問にお答えします。

「ヨブ記の1章と2章は冒頭の所がほとんど同じ場面で文面もほぼ違いが無いのですがこれも付け加えられた箇所なのでしょうか?」という質問ですが、あとから付け加えられたと思います。

ヨブ記を読んで誰もが気付くのは、その冗長性(くだくだしく長く、重複が多い)です。それから文学作品としての不完全性です。

不完全とは、内容面では、サタンが提起した問いに結局答えていない。ヨブ記のテーマは、「人はなぜ苦しむのか」であると多くの人が考えているのですが、それに対する明確な答えがない。苦しみに対するヨブの反応は、1と2章では、穏やかに苦しみを受け入れるというものですが、3章以降は苦悩と怒りにとって代わります。つまりヨブという人物に一貫性がない。構成面では、ヨブの発言―友人(エリパズ、ビルダト、ツォファル)の発言が3回(①3:1から11:20、②12:1から20:29、③21:1から31:40)繰り返される構成ですが、3回目ではビルダトの発言が非常に短く、ツォファルの発言が全くない。32章から突然エリフが登場する。エリフは初めの部分でも終わりの部分でも言及されない人物です。対話の内容も基本的に同じことの繰り返しで、内容が深まっていかない。初めの部分(サタンが問題提起)と最後(サタンに触れられずヨブの友人について語られる)が対応していない。最初と最後は散文(普通の文)で、その間は詩形式だが、そのような構成は珍しく、本来別のものをくっつけたように見える。

以上のことは何を意味しているかというと、短いオリジナルのヨブ記(おそらく義人が苦しむが、最後は祝福されるというような内容。エゼキエルはこのような話を知っていて、14:14でノアやダニエルと一緒にヨブについて言及した。)があり、それに後からいろいろな人が文章や別の話を付け加えていったということです。そのため、内容面でも構成面でも首尾一貫性がなく冗長になったわけです。


次に、「登場のサタンについても固有人物のサタンとは別の存在の1つなのでしょうか?」という質問ですが、はい、別の存在です。悪魔サタンは比較的新しい思想です。旧約ではそのような思想はほとんどありません。

サタンという単語は、旧約聖書では、告発する、あるいは敵対する存在一般を指します。例えば民数記22:32ではこうあります。これはバラムの旅をみ使いが妨害する場面です。

「するとエホバのみ使いは彼に言った,「どうしてあなたは自分の雌ろばをこうして三度も打ちたたいたのか。見よ,わたしは,あなたに抵抗するために出て来た。」

「あなたに抵抗するために出てきた」というのは、原文には、「サタンとして出てきた」なのです。サタンは妨害するもの、敵対するものという意味なのですね。「抵抗する」はおかしな訳です。

ヨブ記のサタンはゼカリヤ3章のサタンと同じで、神を中心とした天の組織の一つの役職、現代風に言うと、人の罪を告発する検事のような役職を指しています。固有名詞のサタンではなく、冠詞がついたサタン(英語で言えばthe satan)となっています。ヨブ記のサタンはあくまでも神の許す範囲で行動しています。ヨブを苦しめるのも、神の許可のもとです。

冠詞のない固有名詞のサタンが初めて出てくるのは、歴代誌第一21:1です。

「それから,サタンがイスラエルに逆らって立ち上がり,ダビデを駆り立ててイスラエルを数えさせようとした。」

歴代誌はバビロン捕囚期以降に書かれたもので、これはバビロン捕囚期以降のペルシャ支配の時代に悪魔サタンという思想が出てきたことを示しています。ペルシャの思想は、世界は善と悪の神の対決の場という二元論的なものです。これに影響されて、サタンが悪の代表になっていくのです。また、ヨブ記と関連するのですが、「人はなぜ苦しむのか」という問題の答えとして、悪魔サタンの存在が要請された面もあります。

どういうことかというと、それ以前は、歴史はすべて神が支配しているというのが旧約聖書の思想でした。エルサレムが陥落して、ユダ王国が滅亡したのは、神が不信仰で堕落したユダ王国を罰するためだという歴史観です。ところが、異教の外国の支配下では、神に忠実であろうとすればするほど迫害を受けるようになります。なぜ神に忠実なものが苦しむのか?苦しみは不信仰ゆえの神の罰だという考えは現実に合わなくなってきたのです。神の罰を警告した預言者という存在も消えていきます。

そこでペルシャの善と悪の二元論に影響されて、このように考えるようになりました。この世界は悪と善なる神が戦う場なのである。現在は、よくわからない理由で、なぜか神は悪を許している。そのため自分たちは苦しんでいるのだ。しかし、まもなく神が悪を一掃してくださる。そのあとには自分たちの王国が復興し永遠に栄える。このような世界観を黙示録的世界観と呼びます。この世界観は旧約ではダニエル書の後半にはっきりとあらわれます。ダニエル書は旧約では最後に書かれたもので、新約聖書が書かれるまで約200年待つ必要があるのですが、その200年間にユダヤ人の間では黙示録的世界観はかなり浸透し、その世界観にとづいて悪の代表サタンという存在が要請され、定着していったのです。

イエスもパウロも、黙示録的世界観の持ち主で、サタンはキリスト教にも導入されます。有害図書のヨハネの黙示録(啓示)も新約聖書に採用されてしまいます。その結果、悪魔サタンという比較的新しい思想から、遡及的に、そんな思想がなかった旧約聖書を解釈するようになり、エデンの園の単なるヘビはサタンになっていくわけです。

簡単にまとめると、旧約聖書のサタンは悪魔サタンじゃないよ、ヨブ記のサタンも悪魔じゃないよ、ものみの塔の聖書解釈は全くダメだよ、です。

#770 2018年04月13日 15:03:17

万年研究生
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん

丁寧に回答いただきありがとうございます。

いつも読ませていただいておりますがとても勉強になります。

#771 2018年04月15日 14:35:46

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

「それでサウル王は別の娘ミカルの婚姻に際しては、
18:25で<フィリスティア人の百の包皮>でいいよといったわけですね。
日本風に言うと100人の首を取ってこい、
それで婚姻費用はなしにしてやるということですよね。
本当の狙いは戦死させることですが」
「ところが、ダビデはその条件をなぜか承諾し、
200人分の包皮を持ってきて、めでたくミカルと結婚している。
このダビデのどこが謙虚なんだろうね」
「敵の兵士の包皮を取るって、実際にはどのようにするのでしょうかね」
「これは史実ではないよ。まじめに考える必要はないよ」

聖書についての質問さん、
いつも読み越えのある説明をありがとうございます。

上記の部分ですが、
史実ではないので真面目に考える必要はない、
ということですが、どのような根拠でそういえるのでしょうか。

実のところ実際の出来事でないほうがわたしは安堵します。
ですが、現役のころからその記述のは当惑され続けていました。
ダビデがフィリステア人200人を殺害して、
手術まがいのことをし陰茎の包皮200人分を
サウルに差し出したということです。
ダビデはミカルを妻にするためそのようなことをしました。
現在の感覚からすると、一人の女性を妻にするため、
200人の男性を殺害したわけです。
彼らにも家族がおり、妻や子どもがいただろうと思います。
そうした残酷ともいえる行為をしていても、
ダビデは聖書の中で「義人」と呼ばれ、
エホバの目にかなう人物として評価されています。

ダビデは神殿を建設することを神に願いますが、
戦士として血を多く流したので、
それを認めてもらえなかったことが記録されています。
ダビデは果たして義人なのでしょうか。

この話を現役JW長老にしたところ、
彼は洞察の本のフィリステア人の項目を
コピーして持ってきたのです。
彼が言うにはフィリステア人は神の敵だから、
殺害してもいいんだということでした。

わたしはこれが非常に恐ろしい理屈だと思いました。
というのは、もしJW以外の宗教に属する人たちが、
JWは自分たちの宗教の神の敵だから、
自由に殺害してもいいんだと考えて、
実行したらどうでしょうか。
お互いを自分たちの神の敵として扱い、
殺戮を正当化しているようにしか思えません。

こうした疑問について非JWの牧師関係者にも質問したのですが、
はっきりした答えはありませんでした。

聖書についての質問さん並びにほかの方で、
この問題について正しい見方をご存じであれば、
ぜひ知らせていただきたいのですが…。

よろしくお願いします…。

オフライン

#772 2018年04月16日 17:02:07

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ラハムさんの質問に2つだけお答えします。あとの質問は意味がよくわからないのです。

①    「史実ではないので真面目に考える必要はない、ということですが、どのような根拠でそういえるのでしょうか。」

ダビデが成り上がっていく過程がサムエル記第一に書かれているわけですが、サムエル記は、宗教的な歴史小説のようなもので、歴史書ではありません。歴史書としてみた場合、おかしな点がたくさんあります。例えば、有名なダビデとゴリアテの戦いの様子は、ダビデが生きていた時代よりずっと後の時代のものです。日本風に言えば、源氏と平氏の戦いの物語に数百年後の戦国時代の鎧兜と武器を身に着けた兵士が登場してきたようなものです。

サムエル記の目的は、ダビデ王朝の弁護です。ダビデは無法者で、脱走兵で、フィリスティア人の傭兵で、サウル王の死を利用して王位についただけの男なのですが、それを神によって選ばれた油注がれた王であり、その王朝は永遠に続くのだというふうに美化し、ダビデ王朝の正当性を主張するものです。

しかし、興味深いのはその弁護にあまり成功していないことです。サムエル記のダビデは戦いには強いが、モラルの欠けた日和見主義者にすぎません。サムエル記は、本来なら北朝鮮で指導者について描かれるような、政治的プロパガンダのはずですが、そうならず、歴史小説に似てきています。

②    「ダビデは神殿を建設することを神に願いますが、戦士として血を多く流したので、それを認めてもらえなかったことが記録されています。ダビデは果たして義人なのでしょうか。」

答えは、いいえです。目的達成のためには人殺しも平気な男です。

戦争行為のゆえに神殿建設を認められなかったというのは、列王記第一5:3に書いてありますが、サムエル記第二7章では、違うことが書いています。6節で神様は、<わたしは,イスラエルの子らをエジプトから連れ上った日より今日まで家に住んだことはなく,いつも天幕,すなわち幕屋の中で歩き回っていたのである。>といい、7節では<『あなた方はなぜわたしに杉の家を建てなかったのか』と言った言葉が一言でもあっただろうか>といいます。要するに神様はテントが好きだから、神殿はいらないよ、といっているのです。これは史実として神殿はソロモン時代にできたということがあって、なぜそうなのか、その説明として2通りあったことを示しています。列王記のほうが、道徳主義的で後世の歴史家(いわゆる申命記史家)の解釈でしょう。サムエル記では、宗教の連続性を重視して、従来のテントのままにしたという説明になります。こちらのほうが本来の説明だと思います。戦争が悪だなんていう思想は当時はありません。血を流したゆえに神殿建設ダメというのは、その当時の発想ではないでしょう。

#773 2018年04月16日 17:10:02

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“あなたはノア,ダニエル,ヨブのように,エホバをよく知っていますか”というもので、先週の続きですが、執筆者の妄想全開という内容でしたね。」
「正確なタイトルは、“あなたは統治体のように、エホバをよく知っていますか”だろう。それにしても、ノアってよくものみの塔にでてくるよね。」
「終末論が欠かせないものみの塔ですから、ノアの話はいろいろ利用しやすいのですよ。」

「ノアって、新約聖書では偉大な人物になっているけれど、実は創世記ではそうでもないよ。創世記6:9では、新世界訳では、<ノアは義にかなった人であり、同時代の人々の中にあってとがのない者となった。>となっているけれど、これは誤訳で、新共同訳にあるように、<その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。>と訳すほうが正しい。」
「“同時代(その世代)の”が一部にかかるのか、全体にかかるのか、の違いですね。」
「ノアは最低のダメな世代のなかでは偉い人だったというのがこの聖句の趣旨。別の世代だったらそれほどでもないよ、という言外の意味が含まれている。聖書以外の洪水物語の主人公はもっと活躍するけれど、ノアは従順なだけで何の個性もない。ところが、ノアを持ち上げまくっているものみの塔としてはそれでは困るので、あのような訳にしているのだろう。」
「確かに、洪水後のノアは単なる酔っ払いですね。世界の終わりを見たノアが、洪水には溺れなかったけれど、酒に溺れたというのが、不思議なくらいリアルな展開ですね。」
「ハルマゲドンの戦いで人類の99.9%が死ぬにもかかわらず、そのあと何もなかったかのように楽園で楽しそうにしているというものみの塔の想像図は、創世記よりもリアリティーがないことがわかるね。」

「創世記6:9 に戻りますが、正しい訳は“同時代”ですか、それとも“その世代”ですか?ものみの塔では、終末予言の関係から”世代“という語には神経質になっていると思うのですよ。」
「どちらでもいいと思うよ。でも出エジプト記1:6<ついにヨセフは死に,また彼のすべての兄弟とその世代のすべての者たちも[死んだ]。>の“世代”と訳している語と同じ単語だよ。」
「その聖句は、ものみの塔にはものすごい重要な聖句です。この聖句をもとに、二つの重なる世代という衝撃の珍説を導き出したのですから。ここで世代と訳しているのなら、創世記のほうでも、“同時代”ではなく“同じ世代”と訳すべきでしょうね。」
「そうすると”世代“は同時代の人々という意味になってしまって、重なれば80歳でも3歳でも同じ世代というものみの塔流の珍説が成立しなくなる。ここは世代以外の訳にしておく必要がある。教義に合わせて聖書を翻訳するというのはものみの塔の方針でしょう。」
「聖書よりも教義のほうが大事ですから。」

「3節に、<大切なのは,神についての正確な知識を得ることです。>とあるけれど、なぜそんなに知識を強調するのか理解できないね。」
「統治体は、最近のJWは、知識の点でだいぶ以前より見劣りする、と判断しているからじゃないですか?」
「でも、聖書に出てくる多くの人は正式な教育を受けたことなどないよ。彼らはその信仰心と勇気で神に選ばれている。女性はみんなそうだ。」
「旧約ではルツなんかそうですよね。ルツの子孫からダビデが生まれる。新約ではイエスの母マリアですね。」

「高度な教育を受けたとされた人はたいてい異教の地での教育だし。」
「モーセはエジプトで教育を受けたことになっていますし、今回取り上げられているダニエルはバビロンで教育を受けたことになっています。ダニエル1:4を見ると、<カルデア人の読み書きと国語>を教えられたようですね。カルデア人ってなんですか?」
「カルデア人については2通りの見方がある。ひとつはバビロニア人全体を指すという見方。もう一つは特殊な社会集団、つまり天文学や魔術や占いなどの専門知識をもった集団を指すという見方。保守的な人は前者で、そうでない人は後者の見方をとる。ダニエル5:11で、王妃がダニエルのことを、<魔術を行なう祭司,まじない師,カルデア人,占星術者たちの長>と呼んでいる。どういう人かわかるよね。」
「ダニエルが学んだのが、怪しげな魔術や占いに関する書物だったら、ものみの塔としては困ってしまいますよね。それはサタンのものだと教えているわけですから。」
「ダニエルは、王の夢の解釈や、壁に書かれた文字の解読をしているから、特殊な技能集団の教育を受けた一員とみなせるね。ダニエル1:5で、<三年のあいだ彼らを養い>とあるから、3年間教育受けたようだけど、バビロニアの文字はいわゆる楔形文字で数百の種類があって、それを覚えるだけでも3年では無理だろう。」

「13節で、ダニエルの6章が取り上げられていています。ダニエルが30日間王以外のものに祈ってはならないという王の禁令を破ってエルサレムの方向に向かって祈ったので、ライオンの穴に投げ込まれたけれど、なんともなかったという話です。」
「ところが、ダニエルを訴えた男たちは家族もろともライオンの穴に入れられて皆殺し。いかにも大昔のお話だね。まずこの時の王様は、メディア人ダリウス62歳となっている。そんな王様は歴史上存在しない。ダニエルは三人の高臣の一人とあるけれど、便宜的に高臣と訳されている役職(sarak)は歴史上存在しない。聖書外のダニエルの記録も一切存在しない。王以外のものに祈ってはならないというバカげた法律が作られたという記録もない。ダニエル書の1から6章は、歴史のように書かれたお話だよ。7章以降は予言のように書かれた歴史ね。」
「この王様はあり得ないくらいいい人ですよね。そして無力。」
「宮廷陰謀物語によくある人物設定。6章は、ダニエルの信仰が主題ではない。ダニエルは外国人でありながらバビロニアで異常な出世をした。それをねたむものがたくさんいて、陰謀を企てたけれども、神の力で守られたというお話。祈りはそのプロットの中での材料に過ぎない。このお話で重要なのは、悪いのは妬む家臣どもであって、王ではないという政治的メッセージ。ダニエル書は外国の支配に対して抵抗するのではなくて、積極的に貢献することによって、ユダヤ人の地位向上と信仰が守られるという立場で書かれている。そうしていればやがて神様が外国を打ち負かしてくれると信じているからだ。」
「ユダヤ人の多数派はそうではなくて、結局は武装闘争を選ぶわけですね。」

#774 2018年04月16日 18:31:30

out/loser
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

もしもノアが義にかなった人でなければ私達は全滅しているってことにならない???
ノアとノアの息子、妻、息子たちの妻、ノアを除いての「ノアの妻と息子たちの妻」はその当時の悪の対象にならなかったのか???ただ単に家族ぐるみのようにしか思えない。それにノアの箱舟は誰が舵をとったのか疑問です。

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#775 2018年04月17日 16:27:17

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

ダビデが成り上がっていく過程がサムエル記第一に書かれているわけですが、サムエル記は、宗教的な歴史小説のようなもので、歴史書ではありません。歴史書としてみた場合、おかしな点がたくさんあります。例えば、有名なダビデとゴリアテの戦いの様子は、ダビデが生きていた時代よりずっと後の時代のものです。日本風に言えば、源氏と平氏の戦いの物語に数百年後の戦国時代の鎧兜と武器を身に着けた兵士が登場してきたようなものです。

サムエル記の目的は、ダビデ王朝の弁護です。ダビデは無法者で、脱走兵で、フィリスティア人の傭兵で、サウル王の死を利用して王位についただけの男なのですが、それを神によって選ばれた油注がれた王であり、その王朝は永遠に続くのだというふうに美化し、ダビデ王朝の正当性を主張するものです。

しかし、興味深いのはその弁護にあまり成功していないことです。サムエル記のダビデは戦いには強いが、モラルの欠けた日和見主義者にすぎません。サムエル記は、本来なら北朝鮮で指導者について描かれるような、政治的プロパガンダのはずですが、そうならず、歴史小説に似てきています。

②    「ダビデは神殿を建設することを神に願いますが、戦士として血を多く流したので、それを認めてもらえなかったことが記録されています。ダビデは果たして義人なのでしょうか。」

答えは、いいえです。目的達成のためには人殺しも平気な男です。

聖書についての質問さん、
ダビデについて詳しい説明をありがとうございました。
旧約聖書に記述されている彼の物語を素直に読むのであれば、
聖書についての質問さんが説明してくださったとおりだと思います。

その一方、新約聖書のほうではダビデを信仰の人として、
好ましい扱われ方をしているように読めるだろうと思います。
ダビデの行動についてどのように解釈するのかは、
聖書に対するそれぞれの人のスタンスによるのだということが、
よく理解できました。

これからもよろしくお願いします。

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