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#726 2018年01月04日 14:22:01

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

恐怖独裁体制 さん 書き込みありがとうございます

>ブラック企業も顔負けの縦社会ですので、下の者から上の人への提言なんて恐ろしくて誰もできません

スターウォーズの帝国の恐怖によって支配する方針と同じですね

最近読んだ 服従の心理 ミルグラム


の言葉を思い出しました 244ページ
各人には良心が具わっており、多かれ少なかれ、良心が、他の人々に対する破壊衝動の無制限な発散を抑制するのに役立っている。しかし、人間が体制的構造のなかに人格を埋没させると、自主的人間が姿を消して新しい動物が出現する。その動物は、個人的道徳の制約に妨げられることなく、人間らしい抑制から解放され、権威による賞罰のみを気にする動物である。

234ページ
上品で親切な人が、ほんの二、三か月のちに、良心に遮られることなく他の人たちを殺すようになるのは、どうしてであろうか?その過程を考察してみよう。
まず、彼は、軍の権威組織の外側の位置から内側の位置へ移らねばならない。有名な徴兵令状が形式を整える。その上さらに、新兵を新しい役割に強く拘束するため、忠誠誓言が用いられる。軍事訓練が行なわれる地域は、一般社会と空間的に隔離されている。それは、他の競合権威が眼につかないようにするためである。賞罰は、どれほど忠実に命令に従ったかによって割当てられる。数週間は基礎訓練に使われる。その表向きの目的は新兵に軍事技術をたたき込むことであるが、その根本的目的は、個人であること、自己であることのいっさいの名残りをたたき出すことである。.....

部分的にしか代理状態に移行していない者もいる。人間的価値が吹き出してくる。良心を失っていないこのような兵士は、どれほど少数であろうと、秩序を乱す危険があり、部隊から隔離される。しかし、ここに、体制が機能するための力強い教訓がある。たった一人の任務放棄は、押えつけることができるかぎり、たいしたことではない。次に控えている者に交替させればよい。軍の機能に対する唯一の危険は、一人の任務放棄者が他の者たちを刺激することにある。したがって、模倣を思いとどまらせるために、そのような者は厳罰に処するか、隔離するかしなければならない。

編集者 てつてつ (2018年01月04日 14:57:39)

オフライン

#727 2018年01月04日 19:13:57

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

てつてつさんの書き込みはその通りだと思います。
JWも人間の本来の良心を
ねこぎにすることに成功していますから…。

オフライン

#728 2018年01月04日 21:36:24

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

ささらさん書き込みありがとうございますお大事に cry

オフライン

#729 2018年01月08日 16:48:24

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

近所のJW少年が、夕方に走ってやってきた。
「今週のものみの塔は、“エホバのもとに避難しますか”でした。先週の歌の話よりはましでした。でも、本文よりも、最後の網掛けの部分の“教訓か、対形か”のほうが興味深いですね。こう書いています。
<「ある人物,ある出来事,ある物事が別のものの予型であると聖書が教えている場合は,それを問題なく受け入れます。しかし,聖書的な根拠がない場合は,特定の人物や記述に対型があると考えることを控えるべきです」。聖書は避難都市の対型的な意味について何も述べていないので,この記事と次の記事は避難都市から学べる教訓を際立たせています。>」
「よくわからないね。予型論的解釈をやめるということ?」
「予型論的解釈というのは、旧約聖書に書いてあることを、新約聖書に書いてあることから、時間をさかのぼって解釈する解釈法のことですよね。旧約の出来事を何でもイエスキリストの予言だと強引に解釈するあれですよね。ヨナが大魚に飲み込まれて、吐き出される話は、イエスが死んで復活する話の予型である、というような解釈ですよね。」
「予型論的解釈を控えたいといっているようだけど、2週前のゼカリヤの幻の話は、聖書になにも書いてない宇宙主権と結びつける強引な解釈していたよ。ものみの塔内に対立する二つのグループがあるのかもね。」
「避難都市の話を、ものみの塔では、初めは、キリストのこと、その次に、<血の神聖さに関する神のおきてに違反した罰としての死からわたしたちを保護するために設けられた神の備え>と解釈していたとは初めて知りました。これではなんでもありですね。」
「ものみの塔では触れていないけど、もっと変な解釈もしていたよ。避難都市、より一般的な言い方だと“逃れの町”は6つだろう。6は不完全数なので、この数字は、不完全な条件がまだ地球上に残っている間に避難のための神の用意、すなわちエホバの証人の組織を表していると解釈している時代もあったのさ。」

「エホバの組織は避難所ではないですよ。すぐ排斥とか言い出す組織ですからね。僕がへんだと思ったのは、ものみの塔8節のこの部分です。
<第一に,重大な罪の関係した問題を長老たちが扱うのはエホバの取り決めです。(ヤコ 5:14‐16)>
それで、引用されているヤコブ書を見てみますと、14節では<あなた方の中に病気の人がいますか。その人は会衆の年長者たちを自分のところに呼びなさい。>とあるのです。これは、“病気の人”に向けられた聖句なのに、ものみの塔では“重大な罪に関係した人”にすり替わっています。本文と関係ない聖句を持ち出すのはものみの塔のいつものやり方ですが、もうやめて欲しいです。」
「そういうことをいったらきりがないよ。同じ8節にこうあるよ。
<第二に,悪行を悔い改めた人は神の恵みのもとにとどまり,罪を繰り返さないよう助けられます。(ガラ 6:1。ヘブ 12:11)>
ガラテア6:1には、<兄弟たち,たとえ人がそれと知らずに何か誤った歩みをする場合でも,霊的に資格のあるあなた方は,温和な霊をもってそのような人に再調整を施すことに努め,>とあり、“霊的に資格のあるあなた方”というのが長老を指しているという解釈のようなんだ。この新世界訳がへんなんだよ。新共同訳では、““霊”に導かれて生きているあなたがたは、“だ。特別な役職についている人ではなくて、クリスチャン全体を指していると普通は解釈される。」
「“再調整を施す”なんて言う訳もへんですよね。」
「また、同じ8節にこうある。
<神は長老たちを「雨あらしからの隠れ場所[または,避難所]」と呼んでいます。(イザ 32:1,2)>
それでイザヤ32:1をみて見ると<見よ,ひとりの王が義のために治める。君である者たちは,まさに公正のために君として支配する。 >とある。“君であるものたち”を長老たちのことをいっていると解釈しているみたいだけど、全然違うよ。新共同訳では“高官たち”、英語の聖書ではrulers(支配者たち)とかprinces(王子たち)としているのが多い。」
「要するに、王に次ぐ地位の人ですよね。それをたかが長老のこととするなんて、笑ってしまいますね。」
「長老の権限を何とか正当化しようとして、聖句の誤用しまくっているという状態だね。」

「ところで、ものみの塔17節では<避難都市はエホバの憐れみを際立たせています。>とありますが本当でしょうか?」
「違うよ。大昔のギリシアや中東の世界では、神殿などの宗教施設は聖域とされ、そこに逃げ込めば犯人はかくまってもらえたんだ。イスラエルでもそうで、例えば列王記一の1:50と2:28にはこうある。
<そして,アドニヤもソロモンのために恐れた。それで彼は立ち上がり,去って行って,祭壇の角をつかんだ。>
<それでヨアブはエホバの天幕に逃げて行き,祭壇の角にしがみ付くようになった。>」
「これは、ダビデの後継者争いの話ですよね。アドニアとヨアブは反ソロモンだったので、ソロモンに殺されることを恐れた時のことですね。祭壇が聖域なので、そこにいれば殺されないと思って、しがみついていたんですか。」
「そうだろうね。このアドニアとヨアブの行動は、古代の聖域が避難所だったということを前提にした話だね。そうでなければ二人のとった行動は全く愚かしい行動になってしまう。」
「そうすると犯罪者は神殿に逃げ込めばよいことになって、問題じゃないですか?」
「それで、避難所を制限するようになり、イスラエルでは6つの町だけで、しかも過失致死に限るという制限が設けられたというのが歴史の流れだろう。避難都市の制度は、憐みの表れじゃなくて憐みの制限ね。それから奴隷は対象外。奴隷は過失で死なせても死刑。」

「現代人が旧約聖書の律法を読んで、憐み深いなと思うわけはないですよ。すぐに死刑ですから。しかし、避難都市は民数記やヨシュア記にでていますよ。ソロモン王の時代よりだいぶ前に制定されたことになっていますけど。」
「避難都市については、民数記とヨシュア記が引用されているけど、それらの本が完成するのはだいぶ後なんだ。モーセやヨシュアがそれらを書いたわけじゃない。民数記35:25では避難都市に逃げた人は大祭司が死ぬまで、そこにとどまらなくてはいけないとなっている。ところが大祭司という言い方はバビロン捕囚以後のいい方なの。王国があった時代では祭司長だ。」
「確かに、列王記二25:18では、<その上,護衛の長は祭司長セラヤと次位の祭司ゼパニヤと入口を守る者三人を捕らえ,>とあり、大祭司ではないですね。」
「避難都市の話は、バビロン捕囚以後のペルシア支配下の時代で、王国再建が絶望的になり、過去の王国に理想を投影した創造の産物と思うね。」
「避難都市の話は、過失致死の人を救う仕組みとしては空想めいていると思います。」

#730 2018年01月08日 17:25:40

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん いつも興味深い書き込みありがとうございます

組織の言う 霊的に病んでいる人たちに施す再調整とは このようなものだと思います cry

オフライン

#731 2018年01月08日 19:19:32

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

てつてつ さんの発言:

組織の言う 霊的に病んでいる人たちに施す再調整とは このようなものだと思います cry

すごいマンガですね。一体なんて言うマンガですか。

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#732 2018年01月08日 20:19:18

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

これです ぜひ読んでみてください

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#733 2018年01月08日 23:13:09

通りすがり
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さんの知識量には驚かされます。大学で学ばれたのですか? 聖書についての質問さんの1000/1ぐらいの知識量でかまわないので、これまで学ばれた書籍等があれば教えていただけませんか?

#734 2018年01月09日 18:49:17

袋小路
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

10000/1の1でいいので私にも恵んでくださーい。

#735 2018年01月15日 07:58:33

さやか666
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

あけましておめでとうございます

ことよろし

昨年のWHOの統計で、yhwhのために断食する人よりもdietのために食事制限する人の数が上回ったという報告が寄せられました。

冗談はさておいて





避難都市ですか、命懸けの鬼ごっこには興味がありますが

奴隷を一般人扱いしないのはいただけませんね

#736 2018年01月15日 17:17:40

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

センター試験の日の夜に、近所のJWの少年がやってきた。
「今週は、“エホバの公正と憐れみに倣いましょう”というテーマで、先週に引き続き避難都市の話です。」
「2週にわたって、避難都市(逃れの町)を取り上げているけど、避難都市の教訓って何なの?」
「ものみの塔は親切に、最後の19節にまとめてあります。
<避難都市の取り決めは,長老たちが「真の公正をもって……裁きを行な[い]」,わたしたちが「互いに対して愛ある親切と憐れみとを実行」することの大切さを教えています。(ゼカ 7:9)>」
「要するに、長老は裁判官としてしっかり仕事をしろということ?でも、長老って、ものみの塔のこと以外では、ど素人だろう、そんな人が裁判官のまね事なんかしていいの?ど素人でも、それなりの社会的経験を積んだ人ならまだいいよ。古代の年長者ってそういうものでしょう。ところが、ものみの塔の長老は、社会的に未熟な人が多いと聞くよ。」
「そんな長老が、密室で、弁護人も付けずに審理して、処分を決めていますね。そして排斥とかいって、皆で無視。おかしな仕組みです。その仕組みを改めることが、“エホバの公正と憐みに倣う”ことと思います。」
「ヨシュア記20:4では、<その都市の門の入口に立ち,都市の年長者たちの聞くところで自分の言葉を述べなければならない。>とある。つまり公開の場での審理。なぜこれを教訓にしないの?密室の方が、悪事をするには都合がよいからと思われるよ。」

「ものみの塔18節で、<イエスは,従属の牧者である長老たちがご自分と同じような裁きを行なえるよう助けます。(マタ 18:18‐20)>とありますが、どう思います?」
「引用されているマタイ18:18の一つ前の17節では、
<もし彼がそれらの人たち[の述べること]を聴かないなら,会衆に話しなさい。もし会衆[の告げること]にさえ聴かないなら,その人を,あなたにとって,諸国民の者また収税人のような者としなさい。>
とあって、会衆が最後の判断をするように言っている。長老なんて言葉は出てこないよ。それから男だけで判断するように、ともいっていない。女性差別が始まるのはパウロから。」

「パウロは当時の習慣に従っただけです。ものみの塔10節で、こうあります。
<書士やパリサイ人は,人々に神の言葉の意味を説明して,永遠の命の道を歩むよう助ける立場にいました。しかし実際には,「命の主要な代理者」イエスから人々を遠ざけ,永遠の滅びに至る道に導いていました。(使徒 3:15)>
イエスのことを“命の主要な代理者”と呼んでいます。使徒3:15からの引用なのですが、変な訳だと思いませんか?」
「それだとイエスはアメリカの弁護士みたいだ。新共同訳では、“命への導き手である方”となっている。英語の聖書だと、the author of life、 the Prince of life、the source of lifeだ。元のギリシア語はarchégosで、意味は創始者とか指導者。新約聖書に4回出てくるけど、新世界訳ではすべて“主要な代理者”と訳している。これはイエスの神としての性質を否定するために作られた訳語だね。命の源はエホバであって、イエスではないと言うのがものみの塔の教えだから、それに不都合な聖句は変えてしまう。」

「やはりへんな訳語ですか。初めに戻って、ものみの塔1節に、
<イエスはモーセの律法を愛していました。ご自分にとって最も大切な父エホバからのものだからです。>
とありますが、本当でしょうか?律法では不十分だというのがイエスの教えと思っていたのですが。」
「イエスの律法に対する考えは今でも議論の対象だね。一見すると矛盾しているように感じられるからだ。ものみの塔ではマタイ5:17-19が出ていて、そこでは、律法に対してすごく肯定的なことを言っているわけだけど、その後の節では、律法を破棄する、あるいは大きく改変するような発言が続く。」
「離婚や誓いに関して、ですよね。それから、“目には目を、歯には歯を”ではなく、右のほほを打たれたら、左をだせとか、隣人だけでなく、敵を愛せ、いう教えのことですよね。律法のアンチテーゼといわれますよね。」
「それから、マタイ12:1-8では、弟子たちが安息日に穀物の穂をむしって食べているのを、パリサイ人に注意されると、イエスは律法に対する独自の解釈を示して、問題ないよと主張している。という訳で、律法に対してイエスは矛盾があるようだけれど、実は、そうではないのだ、ということで、様々な議論があるんだ。」

「要するに、ものみの塔が言うほど単純ではないということですね。前から疑問に思っていたのですが、弟子たちの行動にパリサイ人が文句をつけると言うシーンが結構ありますけど、パリサイ人ってイエスたちをスパイしていたんですか?」
「パリサイ人は福音書の中で悪役を押し付けられているだけだよ。イエスの時代では、パリサイ人は政治的な影響力もないし、自分のグループ以外の人が何をしているかなんか関心もないよ。」
「パリサイとは“分離したもの”と言うペルシア語が語源ですよね。この世のものではない孤立した集団ですよね。それが何で福音書では悪役になっているんですか?」
「パリサイ人は、福音書が書かれた時代(西暦70年以降)においては強力な集団となっていて、初期のクリスチャンとしばしば対立したようだ。その対立を過去のイエスの時代に反映させたのだろう。パリサイ人は、特に西暦70年のエルサレム破壊の後は、ローマ当局から、行政機関の代理のように扱われていて、権力を振るうようになったんだ。」
「福音書に書かれているパリサイ人は、イエスの時代ではなく、後の時代を反映しているわけですね。」
「そうだね。」

「また、イエスと律法の関係ですけど、イエスは敵を愛せとか、無茶なことを要求していますよね。イエスはまじめにそういっているんですか?」
「難しい問だね。ルターは、イエス様は人間が神の基準に達することはなく、罪深いことを教えるためにあんな無茶なことを言ったのだと書いている。」
「“イエスという男”という本では、イエスは逆説的反抗者だったからあんなことを言ったと主張しているようですが?」
「あの本は、あまり学問的じゃないし、著者の思い込みが激しいからね・・・。」
「僕の理解では、イエスは超過激で危ない人だと思います。だからあれはまじめに言っているんだと思います。」
「確かにイエスは、聖なるいいお兄さんではないよね。」

#737 2018年01月16日 09:55:34

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ルターは律法を、患者に病状を悟らるために、自力ではできないと分かっていることをするように言う医者に例えています。

それでも己の「罪深さ」とやらを悟らない人たちに、律法よりもさらに強いことを言ってのけた、が田川さんの解釈ですよね。「情欲を抱いて女を見た」ことまで自白させて石でも投げればよい。それが無理ならもう目をえぐり出すしかないね。


シニカルなのかシリアスなのかはイエス本人に聞かないと分かりませんが、真意はともかく、新約の文章を律法に代わる条文のように抜き出すと、もっと過激なルールブックになるという人はいます。

ものみの塔みたいな過激団体は、ポルノを1回見ただけでも自白させようとしつこいですし。

#738 2018年01月16日 11:14:53

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

塔研17 11月号 P13 さんの発言:

2 イエスは,書士やパリサイ人が律法を間違った仕方で適用しているのを見て,深く悲しんだに違いありません。彼らは律法の詳細な点に注意深く従いました。「あなた方は,はっか・いのんど・クミンの十分の一を納め[ています]」とイエスも述べています。では何が問題だったのでしょうか。彼らは「律法のより重大な事柄,すなわち公正と憐れみと忠実を無視して」いました。

塔研17 11月号 P15 さんの発言:

10 エホバとは異なり,書士やパリサイ人は人々の命を軽視しました。イエスは彼らにこう述べました。「あなた方は知識のかぎを取り去ったからです。あなた方自身が入らず,また,入ろうとする者たちをも妨げたのです」。(ルカ 11:52)書士やパリサイ人は,人々に神の言葉の意味を説明して,永遠の命の道を歩むよう助ける立場にいました。しかし実際には,「命の主要な代理者」イエスから人々を遠ざけ,永遠の滅びに至る道に導いていました。(使徒 3:15)誇り高く利己的で,人々の命や幸福を気にかけなかったのです。何と無慈悲で冷酷だったのでしょう。

この「書士やパリサイ人」を「ものみの塔組織」に書き換えると、あらピッタリ!!
律法ばかりか新約の聖句まで文脈無視でルールブックに盛り込んで、人々の命や幸福を気にかけず、無慈悲で冷酷な扱い方をしているのは他でもない、誇り高く利己的な「ものみの塔組織」ですよね。

オフライン

#739 2018年01月16日 11:56:30

不思議
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

iris さんの発言:

律法ばかりか新約の聖句まで文脈無視でルールブックに盛り込んで、人々の命や幸福を気にかけず、無慈悲で冷酷な扱い方をしているのは他でもない、誇り高く利己的な「ものみの塔組織」ですよね。

医師でカトリックのirisさんが、今日も診察休んで「ものみの塔組織」の悪口言ってますが、大丈夫ですか。論文発表とか学会出席とかカルテの見直しとかナースへの指導とかしなくて大丈夫ですか。元JWの味方してるけどなんか目的あるんですか。

#740 2018年01月17日 14:45:30

三太郎
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

先日図書館から借りてきた「空海の思想について」(梅原猛)という本の中で、興味深いことが書かれていました。

人類哲学者の梅原氏はこの本の中で、宗教家は自己の存在を著作の中に閉じ込めようという意思を持たず、イエスも釈迦も自分の教えを著作として残してはいないと述べています。

確かにその通りで、新約聖書はパウロをはじめとするイエスの追随者によって記され、仏教の経典も釈迦の言行録を弟子たちが編纂したものがベースになっています。
儒家の始祖、孔子の言行を記録したとされる「論語」も、後世の弟子たちが纏めたものです。

しかし例外として際立っているのが、真言宗の開祖、空海。
空海の場合、伝説的な人物でありながら、実に多くの著作を残しており、そこから彼の事績を高精度で知ることができます。

その著作物は質・量的に超人的なもので、語学・文筆・文学・土木技術にも長けていた空海を、梅原氏は日本史上の比類なき大天才であると評しています。
(物理学者の湯川秀樹も、「長い日本の歴史の中で、空海は最も万能的な天才であった。世界的なスケールで見ても、アリストテレスとか、レオナルド・ダ・ヴィンチとかいうような人よりも、むしろ幅が広い。宗教、文芸、美術、学問、技術、社会事業の各方面にわたる活動を通観すると、超人的というほかない。」と語っている)

真言密教は空海の後に、中興の祖や傑出した僧が出てないことからも、一代でほぼ完成の域まで高めた空海が宗教的大天才であったことは間違いないでしょう。
それ故に梅原氏は、これほどの著作を遺してくれても、空海の実像に迫るのは極めて困難であるとも述べている。

その空海自身も、文書ごときで真言の神髄を伝えることなどできるわけがないと語っています。
天台宗開祖の最澄が、真言の神髄でもある「理趣経」の借用を空海に願い出た時に、次のように言って拒絶していることが「性霊集」の中に収められている。

「(上略)また秘蔵の奥旨は文の得ることを貴しとせず。唯心を以て心に伝ふるに在り。文はこれ糟粕なり、文はこれ瓦礫なり。糟粕瓦礫を愛すれば純粋至実を失ふ。(下略)」

密教の法とは、心から心へと伝えるものであって、書に記したものなどは、酒の搾りカスのようなもので、瓦礫同然。そんなものだけ求めても真意を知ることはできない。
つまり、文書そのものには大した意味などなく、実践こそが肝要と言って、文字だけで理解しようした最澄を退けている。

同様に、イエスにしても釈迦にしても宗教的天才とされる人は、真理を文書に全て詰め込むことなどは不可能で、それにこだわる愚かさは百も承知だったのでしょう。
だからこそ、実際の行動こそが教本であると考えていたのだと思います。

宗教文書への過度なこだわりは、JWに限らず教義宗教全てに当てはまり、カルトへと発展していく危険性をはらんでいます。
まあ、JWのルールブック式信仰には呆れてものが言えませんが。。。 もう何も申すまい。飽きてきた。。。

どの宗教や哲学、思想にも、現代に通ずる普遍的要素はあるので、全てを鵜呑みにすることはせず、それを熟慮と行動による検証によって取得できれば、特定の宗教や団体に入る必要はないというのが私のスタンスです。

しかしながら、数多くの著作を残した空海でさえ、その実像に現代の私たちが迫るのは困難。
それを考慮すると、後継者が編纂した不純物の多い文書から、イエスや釈迦の実像を正確に描くのは、今となっては絶望的と言えます。

#741 2018年01月22日 17:13:47

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

夕方、近所のJW少年がまたやってきた。
「今週のものみの塔のテーマは、“世の考え方を避けましょう”でした。ここで紹介されている世の考え方というのが、エホバの証人の考え方とかなり似ていて困りましたね。」
「コロサイ2:8の引用から始まるんだね。
<気をつけなさい。……世の……哲学やむなしい欺きにより,あなた方をえじきとして連れ去る者がいるかもしれません>
途中をだいぶ省略しているけど、もともとは、ある種の哲学を非難している部分だね。」
「どんな哲学なんですか?」
「それは、コロサイ全体を読んでもよくわからない。“哲学”という言葉は、新約聖書の中でここだけにしか出てこない。現代とはだいぶ違う意味である可能性が高いね。2:6から23までが1つのかたまりなんだけど、そこに出てくるのは、まず割礼の話で、けっこう長く続く。割礼が大事だというのはユダヤ系の人たちね。その後、16節ではこうある。
<ですからあなた方は,食べることや飲むことで,また祭りや新月の習わしや安息日に関して,だれからも裁かれるべきではありません。>
食物規定や安息日などのカレンダー問題についてこだわっているようだから、やっぱりユダヤ系の人のようだ。」
「つまり、コロサイ2:8で非難されている哲学というのは、律法にこだわるユダヤ系のキリスト教徒やユダヤ系のある種の思想家たちの哲学ということですか?」
「ところが、2:18では、<み使いたち[をあがめる]崇拝の方式を喜びとし>とあり、天使礼拝が出てくる。これは当時のユダヤ系の思想ではない。でも、一番非難しているのは、ユダヤ系の思想だろう。」
「ということは、ものみの塔2節がいっているように、一般的な<世の考え方>を非難しているのではなく、その当時のある種の思想について、パウロは非難しているわけですね。」
「前も言ったけど、コロサイはパウロでなく誰かがパウロを語って書いたものね。」

「そうでした。それでは、ものみの塔1節では、<西暦60-61年ごろ>書かれたとありますが、実際はいつごろ書かれたのですか?」
「まず重要なことは、コロサイという所は、は西暦61年の地震で壊滅的被害を受けたと推定されていることなんだ。」
「ということは、突然、パウロの手紙が発見されても、コロサイでは地震以前の文書はおそらく消失したでしょうから、そんな手紙はもともと存在しないと誰も証明できないわけですね。偽物を本物に見せかけるにはいい場所ですね。」
「偽物と見破られないためにコロサイに宛てたことにしたのなら、61年から相当たってから書かれたことなる。しかも、コロサイの著者は、パウロの書簡をよく知っていて、それを踏まえて書いている。パウロの書簡集ができて、それが流布するはかなり遅いようだから、早くても70年代、遅いと90年代と推定される。」

「ものみの塔では、世の考え方を避けよといって、5つの質問をしているのです。初めの二つは“神を信じる必要があるか”、“宗教は必要か”です。」
「仮に、二つとも同意したとしても、エホバの証人になる必要はないでしょう。」
「3つ目は、“道徳基準は必要か”で、ものみの塔が大好きなセックスの話が出てきます。」
「“誰とセックスをしてもかまわない”という、ものすごい極端な主張を出している。わざと極論を出して、それを否定する。そして、自分たちの主張に誘導する。これはカルトがよく使う論法だね。」
「ところで、引用されているテサロニケ一4章の4節が全然意味がわからないのです。淫行を避けよといってから、こう言うのです。
<[そして]あなた方一人一人が,自分の器をいかに聖化と誉れのうちに所有すべきかを知り >
自分の器ってなんですか?淫行とどういう関係があるのですか?」
「ここは難解な部分なの。自分の器とは、妻のことというのが1つの解釈。新共同訳がそうで、<おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、>と訳している。この難点は、元の動詞は“所有する”だから、“生活する”という訳が成り立たない。しかし“妻を所有する”と訳するのは、文章表現としておかしいし、また結婚に対して否定的なパウロの思想にあわない。そこで、自分の器とは自分の肉体のことで、自分の肉体を清く保ちなさいということだと解釈する。口語訳がその解釈で、<各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち、 >となっている。」
「不倫なんかすると、自分の体が穢れるから、そんなことしちゃダメだよという意味なんですか?」
「当時は男性の淫行は、ささいな事としていたわけで、パウロの考えは珍しいものだったろうね。」

「4つ目の問いが、“仕事を生きがいにすべきか”で、当然答えはNo!なんですが、でも、ものみの塔のからお金をもらっている専属の職員は、ものみの塔の活動が仕事なわけで、矛盾しませんか?」
「英語版にはa secular careerとあって、“世俗的な職業” と書いてある。careerというと、特別な知識や訓練を要するような専門職を指すことが多い。非難されているのはそういった職業につこうとしている人ね。だから、ものみの塔の組織内で、“権力や名声を手に入れる”ことは対象外で、それを生きがいにするのはよいことなんだよ。その代表が統治体の皆さんでしょう。」
「それで12節の、<この世では激しい競争心が見られ,人々は互いに張り合い,ねたみを抱いています。でも結局,「風を追うような」むなしさを味わっています。>を読んだとき、エホバの証人のことをいっているのだと思ってしまったのですね。」
「ものみの塔が、よくないといっているのはa secular careerなのに、日本語版では、仕事となって、普通の人が読めば、仕事はよくないといっている、反社会的な宗教と思うよ。」

「翻訳者は何も考えていませんね。最後の問いが、“人間の力で解決できるか”です。それに対する答えが、16節で、
<現在の経済体制や政治体制を動かしているのは利己的な人々です。そのような人々が戦争,犯罪,病気,貧困をなくすことはできません。それができるのは神の王国だけです。>」
「終末論的宗教は、世の中はどんどん悪くなっていって、まもなく神の裁きが下ると考える。終末論宗教のものみの塔からすれば、世界は悪化しなくてはいけないから、世界の悪化を100年間くらい言い続けているよね。でもデータの出所は書いて欲しいね。たいした根拠もなく、“人間の問題は深刻な状況にある”と書くのはいただけないな。」
「でも、最近のものみの塔は迫力不足ですよね。でたらめでも、病気はますます悪化し、エイズで毎年1億人が死んでいるくらい、気持ちの悪いイラストつきで書いて欲しいです。恐怖をあおるのが終末宗教なんですから。」

#742 2018年01月29日 17:09:38

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年が、寒そうにやってきた。
「今週のものみの塔は、“賞を奪い取られないようにしてください”です。コロサイ2:18の部分引用です。この部分だけを取り上げれば意味はわかりますが、2:18全体が何を言っているのか全然わからないです。こう書いています。
<あなた方は,[見せかけの]謙遜やみ使いたち[をあがめる]崇拝の方式を喜びとし,ただ自分の見たものの「上に立ち」,もっともな理由もなくその肉の思いのままに思い上がる者に賞を奪い取られてはなりません>」

「これは、意味不明な聖句だね。それでいいんじゃないの。」
「そんなこといわないで、一緒に考えましょう。」
「長たらしい文だね。文をだらだら続けるのはコロサイの著者の特徴だね。簡単にいえば、ある特定の思想を持った人たちを警戒せよということだ。まず、“見せかけの謙遜”が何を指しているかというと、2:23に、<[見せかけの]謙遜,すなわち体を厳しく扱うこと>とあるだろう。これがヒントね。」
「2:16で、<食べることや飲むこと>で裁かれるべきではないとありますし、21節では、<「手にするな,味わうな,触れるな」といった定めになおも服するのですか。>とありますので、食べたり飲んだりすることに関して否定的な人たちのことですか?」
「いつの時代にもいるけど、厳格な禁欲主義者のことだと考えられる。彼らは食べることに関してもきわめて禁欲的で、断食などして“体を厳しく扱う”。そうすることによって、幻を見たり、声を聞いたりという、一種の神秘体験をするわけ。こういった人たちは普通のキリスト教徒を貪欲とか言って非難したのだろう。」

「“み使いたち[をあがめる]崇拝の方式”とは、どういう意味ですか?」
「これは訳が難しいところなんだ。天使を崇拝する方式という訳と天使が崇拝している方式という訳の2つが可能で、どちらを取るかで解釈が変わる。多数説は天使を崇拝するという訳だね。ヘブライ1:4にこうある。
<こうして彼はみ使いたちよりも優れた名を受け継ぎ,それだけ彼らに勝る者となられました。>
彼とはイエスのことで、その後でイエスとみ使いを比較して、イエスの方が優れているんだという話が続く。これは、その当時天使崇拝が存在していることを前提にしたものね。つまり、天使崇拝している皆さん、天使よりイエスの方がずっと偉いんだから、イエスを崇拝すればいいんだよ、と説教しているんだ。」
「天使が崇拝している方式という解釈だとどうなるのですか?」
「最初に出た厳格な禁欲主義者のこととなる。難行苦行をする中で、天の様子の幻を見るわけ。そこで天使が神様を崇拝している様子が見える。かれらは幻で見た天使と同じように崇拝をし、他のキリスト教徒にそんな崇拝じゃダメだよ、と非難する。」
「その場合、見せ掛けの謙遜とみ使いたちの崇拝とは同じグループのこととなるわけですね。」

「次の“自分の見たものの上に立ち”とはどういう意味ですか?」
「ここも難解な部分で、解釈が別れる。新共同訳では、<幻で見たことを頼りとし>となっているけど、これは全くの誤訳。新共同訳のコロサイはダメだよ。ここで使われている動詞embateuōnは、新約聖書の中でここにしか出てこない単語で、意味が不明なんだ。さらに、“自分の見たもの”なのか、“自分が見ていないもの”か、が問題になっている。両方の写本があるんだ。どちらの写本を採用するかで解釈は変わる。昔の聖書は“見ていない”方を採用していたけど、最近の聖書は“見た”方を採用している。難しいので、次に行こう。」
「“肉の思いのままに思い上がる”とは?」
「著者が批判しているグループのことを表現したものだね。彼らは決して霊的でもなく、超自然的でもない、たいしたことのない連中といいたいんだと思うね。」

「それでは、この場合、”賞“ってなんですか?」
「“賞を奪い取られない”の“奪いとる”という動詞は、またもや新約聖書でここにしか使われていない単語。コロサイの著者は独特な言葉の使い方をする。この動詞の意味は、スポーツ競技で不公平な審判のせいで、賞を失うというニュアンスと解釈されている。これは次の本当のパウロの手紙の一節を踏まえた表現だね。コリント一9:25には
<競技に参加する人は皆,すべてのことに自制を働かせます。もちろん彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが,わたしたちの場合は不朽の[冠のため]です。 >
またフィリッピ3:14では、
<キリスト・イエスによる神からの賞である上への召しのため,目標に向かってひたすら走っているのです。>
というわけで、賞とは天での永遠の命のことをいっている。それをものみの塔のような怪しげな連中に騙されてとられないようにということだね。」

「ものみの塔によりますと、14万4千人しか天に行かないのですよ。このものみの塔のイラストでも、左側が天で、右側が庭園のような地上が描かれています。ものみの塔では、エホバは2種類の賞を用意していることになっていますけど。」
「2種類の賞があるなんて、聖書のどこにもないよ。一種類だけ。14万4千人しか天に行かないというのは、ものみの塔だけのヘンテコ教義でしょう。もしそうなら新約聖書はその14万4千人のためだけに書かれたことになるよ。」
「でも、ものみの塔1節に、<ほかの羊は地上での永遠の命という賞を得ることを楽しみにしています。それも素晴らしい希望です。(ペテ二 3:13)>とありますよ。」
「引用しているペテロ第二3:13は、“ほかの羊”となんの関係があるの?“ほかの羊”という言い方は、ヨハネ10:16にしか出てこない。“ほかの羊”が地上で永遠に生きるなんて事は聖書のどこにも書かれていないよ。聖書のことを多少知っている人だったら、“ほかの羊”とは異邦人(非ユダヤ人)の事と答えるよ。ヨハネ10:16は、その後半に、<彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります。>とあるように、ユダヤ人も異邦人も区別がなくなって一緒になるといっているわけ。これを福音の普遍主義という。」
「確かに、“ほかの羊”が地上、油そそがれた人が天と分かれるなら、1つの群れとはいいませんよね。」

#743 2018年02月05日 16:56:32

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“彼が……よみがえることは知っております”で、復活を信じろという内容ですね。ラザロの妹か姉のマルタが模範的人物として、取り上げられていましたね。」
「マルタって、いつも食事に関することで忙しい人だよね。ラザロの復活の話では、マルタは偉大な女性として描かれている。マルタは、イエスに対して、<わたしは,あなたが神の子キリスト,世においでになるはずの方であることを信じてまいりました>と答えるだろう。偉大な女性だね。」

「そうですか。ものみの塔1節に、<イエスはマルタにこう言います。「あなたの兄弟はよみがえります」。マルタはその言葉をうれしく思ったでしょう。「彼が終わりの日の復活の際によみがえることは知っております」と言います。> とあるのですが、全くの誤読じゃないですか?マルタは、イエスの言葉を聞いてがっかりしたんじゃないですか?」
「普通はそう解釈するよ。マルタは、21節で、
<主よ,もしここにいてくださったなら,わたしの兄弟は死ななかったことでしょう。>
とイエスに言っているからね。今死んだ人が遠い未来の終わりの日に復活するといわれたって、うれしくないだろう。ものみの塔は、死んだ人の復活の話で、信者を集めようという下心があるから、へんな解釈をしているんじゃないか。」
「その当時の普通のユダヤ人は、終わりの日に死者が復活するということを信じていたのじゃないですか?なぜなら、使徒23:8にはこうありますよ。
<サドカイ人は,復活もみ使いも霊もないと言うのに対し,パリサイ人はそれらすべてについて公に宣明するからである。>」
「パリサイはユダヤ教の主流になるグループだけど、復活を信じているのがわかるよね。」

「ものみの塔5節に、<マルタがそう確信していたのは,子どものころから昔の復活の奇跡について家や会堂で聞いていたからでしょう。>とありますが、どうなんでしょう?」
「そんなことわかるわけはないよ。ものみの塔って、てきとうな推測が多すぎるよね。奇跡物語ではなく、普通の人の死者の復活について旧約聖書はほとんど何も言ってない。唯一触れているのがダニエル12:2だ。こうあるよ。
<塵の地に眠る者のうち目を覚ます者が多くいる。この者は定めなく続く命に,かの者は恥辱に,[また]定めなく続く憎悪に[至る]。>」
「これだけなんですか?天に昇るとか、地上で過ごすことか、なにも書いていませんね。」
「古代のイスラエルの人の希望は、長生きして、子孫をいっぱい残すことで、死後に復活するなんて事は考えていない。それが、旧約聖書の中で最後に書かれたダニエル書(紀元前2世紀)になって、黙示思想の影響もあって死者の復活という思想がおぼろげに出てきた。新約聖書の時代には、その思想がかなり普及していたのだろう。」

「ものみの塔17節で、<老齢のダニエルは,死者が休んでいること,墓には「企ても知識も知恵もない」ことを知っていました。ダニエルは間もなくそこに行くのです。(伝 9:10)>とあります。これは本当ですか?」
「まず、ダニエルは架空の人物ね。次に、古代イスラエル人が、死んだらどうなると思っていたかは、時代とともに変わる。考古学による発掘では、墓に食べ物や飲み物を供えた後が発見されている。死者が食べたり飲んだりするという思想があったことがわかる。それから、聖書からは、霊媒師がいたことも分かる。死者の霊を呼び出して対話する人ね。」
「サムエル第一の28章に、サウル王が変装して、女霊媒師のところに言ってサムエルの霊を呼び出してもらい、サムエルに相談するも、サムエルから、冷たく、<明日,あなたとあなたの子らはわたしと共になるであろう。>といわれて、倒れてしまうという話がありますね。」
「死者は、生きている時と同様に話をしたり、考えたりしているわけだ。イザヤ8:19,20にも、<生きている者たちのために死者に[問い合わせることがあってよいだろうか]。律法と証しとに[問え]!>とあり、イザヤの時代でも、霊媒は盛んだったことがわかる。」
「聖書では霊媒を禁止していますけど、不適切といっているだけで、インチキだとはいっていませんから、死者はしゃべるし、考えるという思想はあったわけですね。」
「それが、伝道の書やヨブ記が書かれる頃、つまりバビロン捕囚期以降は、死者は“企ても知識も知恵もない”ことに変わっていったようだね。」

「ものみの塔15節で、<ヨブも将来復活があることを信じていました。>といって、ヨブ記14:13-15を引用しているのですが、ヨブは復活を信じていたのでしょうか?」
「違うでしょう。引用の少し前の12節にこうあるよ。
<人もまた横たわらなければならず,起き上がらない。天がなくなるまで,彼らは目覚めない。その眠りから起こされることもない。>
ヨブは、死とは不可逆的で、復活などはないといっている。」
「復活、復活と、復活の安売りをしている、ものみの塔とは大違いですね。」
「ヨブは、10人の子どもを皆殺しにされる。でも復活はない。新たに10人の子どもがうまれるだけ。それをもって慰めとするしかないことをヨブは知っている。」
「神から見れば人間などはとるにたりない無価値な存在だというのがヨブ記のメッセージですものね。」

「翻訳の話題を付け加えておこう。ものみの塔11節にこうある。パウロの話を聞いているときに、寝てしまい、3階から落ちて死んだけど、復活したというユテコの事ね。
<恐らく,医師のルカが真っ先にユテコのもとに駆けつけたことでしょう。ユテコはけがをしただけでも気を失っただけでもありませんでした。死んでいました。>
もとの英語ではどうなっているかというと、
<Perhaps the physician Luke was the first to reach Eutychus, and Luke made a medical assessment: Eutychus was not merely injured and unconscious—he was dead!>」
「<and Luke made a medical assessment:>を訳さなかったのですね。」
「ルカが医学的診断を行った、という意味だけど、訳者もあまりにもバカバカしいと思って、省略したんだろう。神様より偉い統治体が認めた文を勝手に削除するなんて、排斥ものだね。」
「ユテコの話は復活の話としてはあまり迫力がないですよね。一時的に気を失っていたのが、あとで意識が回復しただけのようにみえますから。パウロがCPRをしたみたいですし。」
「それで、ものみの塔の執筆者は、聖書に書かれていない、ルカを登場させ、ルカが聴診器で心音と呼吸音の停止を確認し、ろうそくの光で瞳孔の散大も確認したことにしたんだろうね。医者のルカが死を確認したんだから本当に死んだ、といいたいのだろう。」
「おそらく高卒程度のアメリカの執筆者よりも多少常識のあった日本の訳者がその部分を削除したんでしょうね。高等教育は重要ですね。」

#744 2018年02月05日 22:33:02

とおりすがり
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ものみの塔出版物はごくまれに日本語への翻訳に間違いがあるようですが、2重、3重のチェックはしないのでしょうか。それとも全員がその程度の能力なのでしょうか。

#745 2018年02月07日 19:30:15

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

火曜の夜に、珍しく近所のJW少年がやってきた。
「ものみの塔の翻訳がいい加減だと母に言ったら、母はむきになって否定するのです。統治体が与えてくださった霊的食物を日本支部の人たちが粗末に扱うはずはないと、涙ながらに言うのです。まともな精神状態じゃないと思って、家を飛び出したのです。」
「若いときから苦労しているね。あまり刺激しないほうが良いよ。人間を変えることは、とても難しい。」
「今日は、特別にものみの塔の日本語訳について研究してみましょう。英語は得意ですから。辞書もありますし。来週の研究記事「わたしは神に対して希望を持っております」から見てみましょう。」
「めんどうだね。英語版と日本語版を比べてみればいいんだよ。」
「簡単でいいですから。」

「ものみの塔の日本語訳の特徴は、まず、本来の英文を忠実に訳すよりは、基本的な意味だけを伝えればよいという、いいかげんな姿勢かな。次の例が典型的だ。第1節から引用しよう。
英文:But would you mention the resurrection as one of your most cherished beliefs?
日本語訳:では,復活についても話しますか。」
「すごく、簡単になっていますね。翻訳じゃないですね。僕の英語の先生だったら10点くらいの評価ですよ。」

「ほかの特徴はありますか?」
「英文でははっきりと断言しているのに、疑問文にかえて、主張を和らげることだね。英文を読むとJWって結構狂信的という印象を持つけど、日本語訳ではそれを避けようとしているんじゃないかな。第2節から引用しよう。
英文:We have good reasons to include the resurrection as a key teaching even if we personally hope to survive the great tribulation and live on earth forever.
日本語訳:大患難を生きて通過し,地上で永遠に生きることを願う人にとって,復活はそれほど重要ではない教えでしょうか。」
「この文は、われわれは~、復活を~、基本的な教義に~、含める~、正当な理由があることを~、ここに~、宣言する~。”、こんな感じで訳するほうがいいですよね。それを日本語訳だと、気持ちの悪い“~でしょうか”文。JWらしい、いいまわしって、日本語訳が作ったものなんですね。」
「日本共産党の新聞“赤旗”の文章に似ているかもしれないね。ソフトな印象を与えようと作為的な文章を作っている。」

「その他に特徴はありますか?」
「英語的な言い回しの訳し方を知らないということかな。」
「英語力が基本的にないということですか?」
「そうだね。3節から引用しよう。
英文:And Paul stressed the resurrection as something he had faith in.
日本語訳:パウロ自身,復活を信じていると述べました。」
「ひどい訳ですね。正しいのは“パウロ”と“復活”だけですね。Somethingという単語は日本語に訳しづらいですよね。」
「この場合、somethingは“何か”ではなくて、“重要なものとか価値のあるものとか真理”という意味だよ。」
「たしかに、辞書を見ますと、“He thinks something of himself 彼は自分をひとかどの人物と思っている”という例文が出ています。ものみの塔の翻訳者はこの文をうまく訳せるほどの知識がないので適当に訳をつけたわけですね。」
「しかも、この翻訳者はキリスト教を理解していない。復活の教義というものがあるとしたら、その発明者はパウロだよ。そのパウロについて、“復活を信じていると述べました”はないよ。」
「ダーウィンについて書かれた英語の文章の意味がよくわからなかったので、“ダーウィンは進化を信じていました。”と訳したようなものですね。」
「7節にも似たような誤訳がある。
英文: turning their backs on Jesus
日本語訳:イエスをあざけったり,」
「辞書をみますと、”turn one’s back on”は、“~に背を向ける、~を見捨てる”とありますね。あざけるという意味はないようです。この程度の英語表現を知らないのに翻訳の仕事をしているんですね。。」

「その他の特徴といえば、勝手にもとの英文にないことを加えて、引用されている聖句と内容が、ずれたり、つながりが悪くなっても気にしないことだね。3節にある文がその例だ。
英文:does not mean that it is a simplistic teaching. (Heb. 5:12) Why not?
日本語訳:聖書をよく学ぶ必要があります。(ヘブ 5:12)」
「聖書をよく学べ、なんてことは英文では言っていませんね。復活の教義は簡単なことではないと言った後、ヘブライ5:12が引用されて、その中では“実際あなた方は,(略)固い食物ではなく,乳を必要とするような者となっています” とありますので、復活の教義は“固い食物”であなた方には難しいよという意味になるわけですね。英文だとそれなりに論理性がありますが、日本語訳だと、ヘブライ5:12がなぜここに出てくるのか分かりにくいですね。」

「次に4節をみると、変なところはここだね。
英文:Still, how would you respond if asked for evidence that resurrection promises are valid many years or even centuries after they were made?
日本語訳:では,「ずっと昔に約束された復活が起きると信じられるのはなぜですか」と尋ねられたら,どう答えますか。
不正確な訳だね。もとの英文は旧約聖書的な契約概念を下敷きにした言い方なの。復活を神との約束(契約)と理解し、その約束がいまだに有効な証拠はありますか、と尋ねられたらどうしますかという意味。単に“信じられるのはなぜですか”とは違う。契約が有効である証拠の提出を求められているわけで、信じる、信じない、の問題ではない。」
「これも訳者が、英語力が不足しているのに加え、聖書的な契約概念になじんでいないからですね。」
「5節以降で、詩篇の引用をして、ものみの塔としては、約束が有効であることの聖書的な証拠の提出を行ったつもりなんだ。それが、日本語訳では全くわからない。」

「5節以降はどうですか?」
「もうあきたからやめよう。」
「今度の日曜にこれをやらないといけないと思うと、気が重いです、」

#746 2018年02月08日 21:28:31

とおりすがり
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

翻訳の間違い以外にも色々と問題があるのですね。いっそのことgoogle翻訳に任せてしまったほうが良いかもしれませんね。ありがとうございました。

#747 2018年02月12日 16:38:01

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、「わたしは神に対して希望を持っております」です。また、復活の話です。復活で信者の関心を引きとめようと必死になっているのがわかりますね。」
「オリンピックでも見ていたらいいのに。この記事では、詩篇のいくつかの聖句をつまみ食いして、イエスの復活が預言されていたと主張しているね。」
「詩篇118:22と詩篇16:10ですね。」

「その前に、ものみの塔6節のこの部分が面白いんだ。
<イエスは亡くなる数日前のニサン9日,子ろばに乗ってエルサレムに入りました。その時,人々はメシアに関するこの詩編の預言を引用してイエスを迎え入れました。(詩 118:25,26。マタ 21:7‐9)>」
「どこが面白いのかわかりませんね。」
「引用されているマタイ27:7には、
<こうしてろばとその子ろばを連れて来て,その上に自分たちの外衣を置き,次いで[イエス]がその上に座られた。>
とあるけど、ものみの塔はこの聖句を、イエスは子ロバに乗ってきたと解釈しているんだとわかったことだね。」
「素直に読むと、ロバと子ロバを2頭並べて長い服を置いて、その服の上にイエスが座っているという、きわめて間抜けな姿が描かれているように思いますけど。」
「そうなるよね。ものみの塔が子ロバに乗っていると解釈しているのは、ルカやマルコで子ロバに乗ってきたと書いてあるからだろう。このイエスのエルサレム入りはゼカリヤ9:9の預言の成就とされている。そこにはこうある。
<シオンの娘よ,大いに喜べ。エルサレムの娘よ,勝利の叫びを上げよ。見よ,あなたの王があなたのもとに来る。義にかなった者,救われた者である。謙遜であり,ろばに,しかも成熟した,雌ろばの子に乗っている。>」
「ゼカリヤは雌ロバの子に乗っていると書いてあるのに、なぜマタイは不自然な入場シーンにしたのですか?」
「マタイの著者は、ヘブライの詩の決まりごとを知らなかったからさ。新世界訳は詩であることを無視して訳しているので、新共同訳から説明するよ。9:9の後半部分ね。
<見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。 >
はじめのロバと最後に出てくるロバは同じロバなの。これはヘブライの詩でよくあるテクニックだ。何かを強調したい場合、それを繰り返すのだけど、2回目は少し言い方を変える。王たるものがロバに乗ってくるんだよ。あの貧相なロバだよ、と強調しているわけ。」
「わかりました。マタイの著者はその程度の教養もなく、ゼカリヤの詩を別々の2頭のことと、トンデモ理解をし、その場合、2頭の間に布を渡して真ん中に座るしかないと推測して、イエスの入場シーンを書いた、それがマタイ27:7というわけですね。」
「マタイでは、イエスは旧約聖書で預言されていたメシアであるという理解のもと、なんでも旧約聖書に結び付けて、ほら、預言が成就したでしょ、すごいね、という感じで書いている。でも、ミスもしでかしたということ。」

「それじゃ、詩篇118:22はどうですか?」
「そこには、<建築者たちの退けた石が隅の頭となった。>とあるだけだね。これは、預言じゃなくて、ことわざでしょうね。最初何の役にも立たないと思われたものが、後で重要な役割を果たすようになる、ということを表したもの。日本のことわざだと、“埋もれ木に花が咲く”が、意味が近いかな。便利なことわざだから、新約聖書で、6回も引用されている。元の詩篇の中では、この石はイスラエルのことを指しているんだ。詩篇118はルターの好きな詩として有名だね。基本的に、感謝の詩だね。」
「それを、ものみの塔は、預言の成就だと、ドヤ顔で、信者に説教するわけですね。」
「ものみの塔だけでなく、新約聖書自体がそうなっている。」

「詩篇16:10はどうですか?こうありますが。
<なぜなら,あなたはわたしの魂をシェオルに捨て置かれないからです。あなたはご自分の忠節な者が坑を見ることを許されません。>」
「これはダビデが自分のことを言っている詩だよね。それを、使徒2:29-32の中で、ペテロが、それを引用して、<キリストの復活を先見し,それについて,彼がハデスに見捨てられず,その肉体が腐れを見ることもないと語ったのです。 >とし、イエスの復活によって、この預言が成就したと説教している、というものだよね。」
「元の文と引用文では、かなり違いがありますね。」
「新約聖書の中で、旧約聖書を引用している場合は、ほとんどが70人訳(ギリシャ語)からの引用なんだ。なぜか新約聖書の登場人物はヘブライ語が読めない。一方、我々が見ている旧約聖書はヘブライ語の本文からの翻訳。旧約聖書といっても、その二つはかなり違いがある。」

「詩篇の中で、ダビデが預言していたと思えませんし、かりに預言だとしても、キリストの復活がその預言の成就とは思えないのですが?」
「そうなんだけどね、それをいったらキリスト教という宗教が成り立たないの。宗教は古いほど価値があるから、突然出てきた宗教なんて誰もありがたがらない。まず、初期のクリスチャンたちは、自分たちの宗教が、刑死した男を救い主とするへんな宗教であるというハンディキャップがあった。」
「そのハンディに打ち勝つために、イエスという男は旧約聖書において1000年以上の大昔から預言されていた偉いお方であるという大キャンペーンを展開したというわけですね。本来は旧約聖書に書かれていることは、迫害されて刑死するイエスの事なんか想定していなかったのですよね。」

「それで、福音書の著者は、旧約聖書の記述に合うように、イエスの生涯をでっち上げた。」
「例えば、ベツレヘムで生まれたとか、処女から生まれたとか?」
「そうだね。でも処女から生まれるというのは、厳密に言うと旧約聖書ではなく、そのギリシャ語訳の70人訳の記述ね。」
「若い女性という語を70人訳で処女と訳したという有名な話ですね。福音書の著者はヘブライ語ができないので元の意味を知らず、マタイとルカは、処女から生まれた話を作らなくてはいけないことになった。」
「でも、その話は多くの人の想像力を刺激して、様々な芸術作品の素材になっているし、聖母マリア信仰をうみだした。」
「誤訳が生んだ、聖母マリアですか。」

#748 2018年02月19日 16:16:49

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、「親の皆さん お子さんが「賢く」なり「救い」に至るよう助けてください」です。テモテをみならいましょう、早くバプテスマを受けましょうという話でした。」
「危ない誘いだね。オリンピックのスケートでも見ようよ。」
「そういわずに、ものみの塔の復習をしましょう。」
「それなら、テモテは聖書に親しんでいたとあるけど、ものみの塔の雑誌や書籍に親しんでいたわけじゃないよね。JWの模範にはならないでしょう。JWにとって、聖書は単なる権威付けで、本当に学ばせたいのは、ものみの塔の独自の教義でしょう。」

「そうですね。バイブルレッスンとか言って、実際に学ぶのは別のものですからね。ところで、テモテは“幼い時から”聖書に親しんだとありますが、英語版では、“from infancy”です。同じ意味ですか?」
「もとのギリシャ語は、“赤ちゃん”というような意味でしょう。赤ちゃんどころか、胎児という意味もあるようだ。ルカ1:44にも同じギリシャ語が使われている。エリサベツの言葉ね。
<ご覧なさい,あなたのあいさつの響きがわたしの耳に入ると,わたしの胎内の幼児は,歓喜のあまり躍り上がったのです。>」
「さすが、新世界訳。“体内の幼児”などとアホな訳をしていますね。新共同訳のように。“胎内の子”ぐらいの表現にしてほしいですね。」
「Infancyは乳児期に近い意味だから、幼い時よりは正確な訳だね。テモテは赤ちゃんの時から、母のユニケに抱かれながら、ロトの妻が塩の柱になる話とかエジプト人が海に飲み込まれて溺死する話とかを聞いていたんだろうね。教育的だ。」

「ところで、そもそもテモテ第一と第二、テトスは、パウロが書いたものではないと聞いたことがあるのですが、どうなんですか?」
「その3つは牧会書簡と呼ばれていて、同じ人が書いたと考えられる。その人がパウロかというと、パウロではない。」
「ものみの塔では、「洞察」にあるように、これらをパウロの著作で、61から65年ごろに書かれたものという立場ですね。これは間違いということですか。」
「語彙、文体、思想、歴史的状況、クリスチャン共同体の状況がパウロのものとは違う。1世紀の終わりから2世紀にかけて書かれたとすると、つじつまが合う。」
「その根拠をひとつ教えてくれませんか?」
「テモテ一の3:1に、“監督の職”、3:8に“奉仕の僕”という役職が出てくる。それを指導するのがテモテというわけだ。つまり3段階の役職制度が存在している。パウロの時代にはそんなものはなかった。パウロは、もうすぐ終わりの日が来ると本気で思っていたの。組織作りに取り組んでいる状況じゃない。ところが、パウロが死んで、終わりの日は、はるか後と考えざるを得ない時点で(1世紀の終わりごろ)、組織作りが始まる。監督も奉仕の僕もパウロの死後の時代のものだね。これらの牧会書簡の主張は、後にローマ・カトリック教会へと発展していく人たちの主張なのだろうと考えられている。」
「たしかに、これらの手紙を読むと、権力者に対して服従せよというのがひとつのテーマになっていますよね。女性は男性に服従、平信徒は役職者に服従、奴隷は所有者に服従ですから。権威主義的で階層的な教会組織が出来上がっていく準備段階ですね。」
「ものみの塔がテモテなんかを好むのは理解できるよね。」

「今週の記事は、ものみの塔流の教育論ですよね。7節のトーマスの例はどう思いますか。いい親じゃないですか。」
「その例が示しているのは、簡単に言えば、自由主義的なよき親のふりをしろ、ということだ。子どもと辛抱強く話し合えといっているが、正確に言えば辛抱強く説得せよ、だろう。JWの教育は上からの押し付けでしかない。」
「たしかに、話し合いで、エホバの証人の側が意見を変えることはないですね。話し合いの目的は、自分たちの意見を押し付けることですね。結局12節ではこういう結論ですからね。
<神から見て十分に成長しているかどうかは,年齢だけで決まるわけではありません。エホバへの健全な恐れを持っているか,神の命令 に進んで従うかが重要です。(詩編 111:10を読む。)>」
「服従こそ美徳なりだね。しかし、引用されている詩篇111:10は<エホバへの恐れは知恵の初めである>と言っているだけで、“健全な恐れ”なんて言っていないよ。」
「<エホバへの恐れは知恵の初めである>というのは、旧約聖書の中で何度も出てきますよね。箴言とかヨブ記とかに。」
「旧約聖書の根本思想の一つといってもいいかもね。それを現代人に受け入れやすいように“健全な恐れ”に変えるなんて、許しがたいね。申命記10:12にはこうある。
<ゆえに今,イスラエルよ,あなたの神エホバが求めておられることは,あなたの神エホバを恐れてそのすべての道を歩み,[神]を愛し,心をつくし魂をつくしてあなたの神エホバに仕えること,>
まず恐れなさい、その次に愛しなさい、とあるでしょう。これを変えちゃダメだよ。でもこれは現代人には理解しがたいね。」

「最後の19節に、こうあります。
< 親には,「エホバの懲らしめと精神の規整とをもって」子どもを育てる重い責任があります。それはエホバから与えられた素晴らしい仕事でもあります。(エフェ 6:4)>
この「エホバの懲らしめと精神の規整とをもって」は、エフェソス6:4からの引用ですが、この訳はどうなんでしょうか?“精神の規整”なんて意味不明ですよ。」
「なぜ普通の言葉を使わないのかな。新世界訳の英文は “in the discipline and admonition of Jehovah.” 。日本語の新世界訳は英語版を訳したものだよね。admonitionは、説諭とか戒告でしょう。“精神の規整”なんて訳するのは、訳者がこりすぎだね。Disciplineは、懲らしめより、訓練か鍛錬でしょう。懲らしめが重要だという訳者の思い込みによる偏った訳だね。日本のJWの懲罰好き体質が反映されているんじゃないの。新共同訳では、“主がしつけ諭されるように、”だね。わかりやすくていいね。」

#749 2018年02月26日 17:11:38

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“若い皆さん 「自分の救いを達成してゆきなさい」”でした。先週に続いて、子どもたちよ、バプテスマを早くしろという内容ですね。」
「オリンピックも終わったからね。少し読んでみようか。ものみの塔は小学生でもバブテスマを受けさせるんだね。初期のクリスチャンがどのようにバプテスマをしていたかは謎だから。おそらく、乳児に対しても行われていたんじゃないかな。」
「そうですか?ものみの塔では幼児洗礼はだめだ、と攻撃してますけど。」
「そうなの?例えば使徒16:15にはこうあるよ。
<さて,彼女とその家の者たちがバプテスマを受けた時,>
使徒16:33ではこう。
<そののち彼は,夜のその時刻にふたりを連れて行ってそのむち跡を洗った。そして,彼もその[家の者]もひとり残らずすぐにバプテスマを受けた。>
“家の者”の中には、当時の多産多死社会を踏まえれば、乳幼児もいた可能性が高い。成人だけ受けたと書いていないからね。家のもの全員がバプテスマを受けたなら乳幼児が含まれるはず。この場合、水を全身につけたかは不明だ。水をふりかけただけかもしれない。詳しいやり方は聖書にない。」

「バプテスマというと、よくわからない聖句があるのです。コリント一15:29です。
<そうでなければ,死んだ者[となる]ためにバプテスマを受けている者たちは,何をしていることになりますか。死人のよみがえらされることが決してないのであれば,なぜ彼らはそのような者[となる]ためにバプテスマを受けたりするのですか。>
[となる]はものみの塔で勝手に付け加えたものですよね。それを除くと、死者のためにバプテスマを受けている、となります。こんな習慣があったのでしょうか?」
「それはへんだと、ものみの塔の側で思ったので、[となる]と付け加えたわけだね。この聖句は昔から解釈が分かれる。ひとつは文字通りの解釈。バプテスマを受けたかったけれども受けられずに死んだ人がいる。その人のために家族の誰かが代わりにバプテスマを受ける。そうすれば、その死んだ人も復活できると考えられていた。そのようなことをする人たちがコリントにはいたということだね。このような習慣は2世紀にはあったことが知られている。」
「文字通りの、その解釈でいいんじゃないですか?」
「この解釈の問題点は、死者の代わりにバプテスマを受けるという意味なら、そのことについてパウロが何も非難していいないことなんだ。そんなことを認めていたらバプテスマの意味なんかなくなるわけで、パウロなら、怒り爆発させて、ののしるところだろう。パウロはなぜなにも言わないのか?というわけで解釈の難しい聖句なの。」
「でも、コリント一1:17で、パウロは、<キリストがわたしを派遣されたのは,バプテスマを施すためではなく,良いたよりを,ことばの知恵によらないで宣明するためであったからです。>といっています。バプテスマなんて重視してなかったんじゃないですか。」
「ヘブライ6:2ではこうあるよ。
<[さまざまな]バプテスマについての教えや手を置くこと,死人の復活や永遠の裁きなどの土台を再び据えるのではなく,円熟に向かって進んでゆきましょう。 >
バブテスマが複数形なので、[さまざまな]を付け加えたようだけど、ここではバプテスマについて様々な考えがあったことがわかる。初期のクリスチャンはバプテスマを柔軟に考えていたんじゃないのかな。柔軟な考えを認めないのがものみの塔だけど。」

「ものみの塔の13節にこうあるのです。
<でも,あなたがエホバに献身してバプテスマを受けたということは,あなた自身が神との特別な関係を築いたということです。あなたはエホバに知られています。「人が神を愛しているなら,その人は神に知られているのです」とあるとおりです。(コリ一 8:3)>
引用されている、コリント一8:3は、バプテスマを受けていない人間のことを神は知らないという意味ではないですよ。」
「この部分は偶像に捧げられた食物を食べていいのかという問題を扱った部分だよ。バプテスマなんか関係ないよ。文脈無視だね。引用する聖句が思いつかなかったんだろう。」

「バプテスマ以外の話題についてはどうですか?」
「今週は、カルト的体質が目立つ記事だね。2節にある、この部分がいいね。
< エホバに従うことは全く正しい選択です。ほかの生き方をしていたらどうなっていたでしょうか。エホバに従わない人はサタンの支配のもとにいます。>」
「人類の99.9%はサタンの支配下と断言していますね。天の王国設立から100年以上たってこの状態ですからね。勝負あった、サタンの勝ちですね。自分たち以外の人を悪魔だと敵視するのは、典型的なカルトですよね。」
「その主張内容もそうだけど、思考方法がカルト的なの。」
「二分的思考法ですか。選択肢は2つしかない。ひとつはダメである。とすればもうひとつを選ぶしかない。そうやって1つの選択肢を選ばせる。」
「そのとおり。サタンかエホバか、と提示し、どちらを選びますかと迫る。エホバしかないだろう、となるわけだ。そうやって一生従わせるわけだね。しかし、サタンかエホバかという2つの選択肢しかないというのが、そもそも間違いでしょう。」
「ハルマゲドンの戦いで死ぬか、永遠の命か、というのも極端な二分的思考ですよね。」

「こんな記事を学ばせるのは、10代でやめてしまう人が多いからなんだよね。若者の引止めに必死というかんじだ。新しくバプテスマを受けるのはほとんどが信者の子どもでしょう。彼らにやめられると老人ばかりになる。」
「そもそもエホバの証人であることのメリットなんか何もないですからね。2節に、<バプテスマを受けるとたくさんの祝福があります。>と書いていますが、具体的になんなのかは何も書いていませんからね。執筆者も思い浮かばなかったんでしょう。」
「ものみの塔によれば、祝福は楽園で暮らすことでしょう。でも、それを書くと冷ややかな笑いが起きるから書かなかったんじゃないの。」
「エホバの証人であることによって得になることは思いつかないですね。制限の多い抑圧的な宗教ですから。損をすることはいくらでも思いつきますけど。」

#750 2018年02月26日 23:04:20

バカデスマ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

「聖書についての質問」さん

こんな長い文章、読む人ほとんどいないと思いますが。
あと、質問は何なんですか?

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