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#701 2017年11月20日 17:13:20

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

いつものJW少年が夕方ごろやってきた。
「今週のものみの塔は“神の言葉は・・・力を及ぼす”というもので、先週に続いて聖書に関する話でした。いい記事ですよね。」
「2番目の質問が、< 1世紀当時,聖書は人々にどんな力を及ぼしましたか。>になっているけど、これは、へんだよ。」
「1世紀には、聖書はまだ存在しないからですか?」
「そうだよ。英文では、聖書ではなくて、ちゃんとGod’s Wordになっている。ところが日本語では聖書だ。日本人は聖書に無知と思っているから、こんな軽率な訳をしているのだろう。」

「訳した人が、神の言葉=聖書と短絡的に思っただけじゃないですか。訳した人が無知なのですよ。ところで、ものみの塔2節に、
<聖書は,1世紀のある油そそがれたクリスチャンが排斥され,後に復帰したことを記しています。(コリ一 5:1‐5。コリ二 2:5‐8)>
とあって、聖句を引用しているのですが、気になるのは、コリ二2:6,7です。
<そのような人にとって,大多数の人から与えられたこの叱責は十分です。ですから,今はむしろ,親切に許して・・・>
とありますが、“この叱責は十分です”というのは、ものみの塔のいうように排斥された人が復帰したと言う意味ですか?違うと思うのですが。」
「復帰とは書いてないから違うよ。ものみの塔も排斥制度を正当化するのに必死だね。ここでいう叱責あるいは罰が何を指しているかは不明。コリント二は幾つかの手紙を組み合わせたものなので、解釈が難しいの。引用されている聖句のすぐ前のコリ二2:4に、
<わたしは多くの患難と心の苦もんから,多くの涙をもってあなた方に書いたのです。>
とある。この新世界訳ではわかりにくいので、新共同訳を紹介すると、
<わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。>
とあって、パウロは、通称“涙の手紙”を書いたといっている。それはどこにあると思う?」
「失くしたんでしょう?」
「そうかもしれないけど、内容からコリント二の10:1から13::13がその涙の手紙の主要部分と考えられている。それまでのトーンが急に変わり、苦々しく怒りに満ちたものになっている。その中の、10:10節には
<というのは,「[彼の]手紙は重々しくて力強いが,身をもってそこにいる様は弱々しく,その話し方は卑しむべきものだ」と彼らは言うからです。>
とあり、パウロがコリントの信者から公然と侮辱されたことを記している。パウロはカリスマ性に欠けたインテリタイプのようだね。そして、13:2には、
<今そこにいないとはいえ,あたかも二度目にそこにいるかのように,前に罪をおかした人たちとほかの人たちすべてにあらかじめ言っておきます。すなわち,再び行くことになれば,わたしは惜しみ見るようなことはしません。>
と、次にそっちに行ったら厳しく罰するぞと警告している。」
「ということはコリ二2:6の“叱責”の対象となったのはこのパウロを馬鹿にした信者なんですか?よくわからないな。」

「時系列で示すと、まずパウロはコリントを訪問し、その後最初の手紙を書く(これは失われた。コリ一5:9で<わたしは自分の手紙の中で,淫行の者との交友をやめるようにとあなた方に書き送りましたが,>で言及されている手紙)、その後コリントから手紙が来る。パウロは返事を書く(これがコリ一の手紙)、そしてコリントの2回目の訪問。この時、パウロは侮辱される。パウロは“涙の手紙”(コリ二の10:1から13::13)を書き、テトスが持っていく。テトスが戻ってきて、態度の悪い奴がコリントの“大多数の人から叱責を受けた”という良い知らせを持ってくる。そこで、友好的な手紙を書く(コリント二1-9章、あるいは1-7章)。」
「複雑ですね。とにかく、“叱責”は排斥ではないということですね。」
「そうだね。」

「ものみの塔の最後に、ビクトリアの体験談が、結構長く出ているのですが、その中で、
<話し手がヤコブ 1章23,24節に言及しました。その聖句は神の言葉を鏡になぞらえており,その鏡を使うなら自分自身に関してエホバと同じ見方ができる,ということでした。>
とあるのです。そこでヤコブ1:23,24をみてみると、こうでした。
<み言葉を聞いても行なわない人がいるなら,その人は,鏡で自分の生まれつきの顔を見る人のようなものだからです。 その人は自分を見はしますが,そこを離れると,自分がどのような者であるかをすぐに忘れてしまうのです。>
この聖句は、ものみの塔がいうように“神の言葉を鏡になぞらえて”いるものですか?いつものインチキ解釈ですよね?」
「神の言葉が鏡ね・・・。違うでしょう。例えば、コリ一13:12には、こうある。
<現在わたしたちは金属の鏡でぼんやりした輪郭を見ていますが,>
当時の鏡は金属を磨いた物で、今の鏡のようにはっきり映るものではない。ぼやけた姿しか映らないの。そのような鏡を神の言葉になぞらえるわけないじゃない。聞くだけで実行しない人を、鏡を見るだけの人になぞらえているわけでしょう。ヤコブと称する人は、パウロの信仰によって義とされるという信仰義認論に反対して、行いが大事だと反論しているのね。」
「ヤコブは2:14で<ある人が,自分には信仰があると言いながら,業が伴っていないなら,それは何の益になるでしょうか。 >と言っていますけど、実はパウロの追随者を非難しているのですね。」
「そうだね。パウロは、アブラハムが義とされたのは、神の約束を信じたときで、そのときは何もしてない、行いによって義とされるのではなく、信仰によって義とされるんだ、というようなことを繰り返し言っている。ユダヤ系のキリスト教徒は、それに相当むかついていたんだと思うよ。」
「それでヤコブの名で、反論文を書いたわけなのですね。でも、聖書が、“力を及ぼす”と言うのは本当ですよ。聖書を用いて、ものみの塔の教えについて質問すると、普段は穏やかな長老や巡回監督が怒りだすことがよくあります。そんな時は、聖書は力を及ぼすなとしみじみ思いますね。」

#702 2017年11月27日 17:20:53

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

いつものJW少年が夕方ごろやってきた。
「今週のものみの塔は“勇気を出し・・・行いなさい”というもので、勇気づけられる話でした。」
「どんな内容?」
「いつものとおり旧約聖書の人物紹介が半分くらいでしょうか。ヨセフはまた登場しています。人気者ですね。簡単にいうと、若い人は、高等教育を受けない勇気を持とう、大人は残業を断る勇気を持とう、会衆では、他の人の生活に厚かましく干渉する勇気を持とう、そんな内容でしょうか。」
「ものみの塔らしい記事だね。こういうのを毎週してほしいよね。しかし、それと旧約聖書の人物がどう関係するのか疑問だね。特にモーセの例は笑ってしまうよ。」
「11節の<多くの国の若い人たちは,高等教育を受けて高収入の仕事に就くようにという圧力を受けます。>の後の部分ですか?
<いずれの場合もモーセの手本は助けになります。ファラオの娘に育てられたモーセは,名声や経済的安定を求める生き方もできました。エジプト人の家族,教師,助言者から相当大きな圧力を受けたでしょう。でもモーセは圧力に負けず,勇気を出して清い崇拝を支持しました。>」
「モーセは何歳までファラオの所にいたか知っている?」
「使徒7:23によれば、40歳です。若くしてエホバに見出されたわけじゃないです。」
「40歳といえば、古代では初老の男だよ。若者向けの手本にはならないよ。その前の使徒7:22にはこうあるよ。
<モーセはエジプト人の知恵をことごとく教授されたのです。事実,彼は言葉にも行ないにも強力な者でした。>
つまり、モーセはエジプトの宮廷でその当時の高等教育を受けたエリートなんだ。それでエジプトの王や高官とも対等に渡り合えた。いまの統治体のメンバーとは大違いだね。」
「モーセを見習うなら、最高の教育を受けて、この世の指導者と対等に渡り合え、ですね。今の統治体は逃げ隠れしているだけですよ。」
「使徒7章は、ステェファノの最後の大演説だよ。この後石打の刑で死ぬわけだけど、ものみの塔の執筆者はこの使徒7章の内容をたぶん知らないね。だからこんな笑えるような記事を書けるんだよ。」
「出エジプト記に書いてあることしか、モーセのことは知らないのかもしれませんね。」
「それも疑わしいよ。出エジプト記7:7にはこうある。
<そして,ふたりがファラオに話した時,モーセは八十歳,アロンは八十三歳であった。>」
「スゴーイ老人ですね。ということは、ファラオのところから逃げて、40年間、もたもたしていたわけなんですね。」
「モーセがファラオのところから逃げた理由を知っているかな?」
「知っていますよ。モーセがエジプト人を殺し、砂に埋めたのですが、
<後にファラオはその事について聞き及び,モーセを殺そうと図った。しかしモーセはファラオのもとから逃げて行き,ミディアの地に住もうとした。>出エジプト2:15 」
「モーセは、勇気を出したのか、頭に血が上っただけなのかわからないけど、人を殺してしまい、今度は自分が殺されそうになったので逃げました、という話だね。名声や経済的安定なんか無理な逃亡者だよ。」
「でも、ものみの塔の記事では“モーセの手本は助けになります。”なんですから、確かに笑えますね。ブラックジョークですね。」

「挿絵は、ひょっとしてラハブなの?赤いドレスなのね。」
「そうです。ラハブって、勇気ある人なんですか?戦いで勝ちそうな方についただけじゃないですか。」
「そうだね。ラハブ自身もそんなことを言っているよ。でも聖書の中では信仰の人になっているけど。」
「ヨシュアは斥候2人をエリコの町に派遣しますけど、この斥候はまっすぐ遊女の家に行ってます。これはいいのでしょうか?」
「まあ、いいんじゃないの。ラハブの話は、二人の男がある町を訪ねて、ある家に泊まる。すると、2人の男を出せと要求される。その町は破壊されるが、2人を泊めた家のものだけは救われるという話。どこかで聞いた話と似ていない?」
「ロトの話ですね。ロトの家に来たのは、御使いですが。似ているのは偶然ですか?」
「ラハブは2人を逃がすとき“山地に行ってください”ヨシュア2:16という。御使いはロトに“あなたは山地に逃れよ!”創世19:17と言っている。」
「わかりました。同じようなせりふをわざわざ使うことによって、ラハブの話はロトの話と関連している、とほのめかしているのですね。」
「こういうのを引喩というのね。聖書にはこのような引喩がたくさんあるんだ、それに気づくと話の理解も深くなる。この場合は、ラハブはロトと比較され、ロトの決断力に欠けたぐずぐずした態度に比べて、ラハブの積極果敢な態度が際立つというわけだね。また、エリコの町がソドムの町と同じように罪深い町で、滅ぼされて当然ということをほのめかす効果もある。」
「エリコの住人はラハブ一家を除いて皆殺しですものね。ソドムと同じように悪い町なんですかね。」

「2人の斥候は、
<緋糸でできたこの綱を,わたしたちを降りさせたこの窓に結んでおき,あなたの父と母と兄弟たち,あなたの父の家のすべての者を,この家の中のあなたのところに集めておくようにしてください。>
といっているけど、これは何の引喩かわかる?」
「緋糸とは赤い糸ですよね。それでできた赤い綱を窓に結んで、家族の者はその中にいて、それ以外の人間は死ぬ。これは、エジプトの初子が殺された夜と似ていますね。戸口に子羊の血で印をつけた家にとどまっていれば安全だったという夜です。」
「そうだね。そのため綱は絶対に赤くなくてはいけなかったのさ。赤というのは血のほのめかしだね。どうやって赤く染めたか知っている?」
「赤い花か葉をつかったんじゃないですか?」
「虫の卵だよ。カイガラムシ科の木に寄生する昆虫の卵。赤い染料はとても貴重なものなの。アラブ名はケルメズで,英語の“crimson”(紅)はそこからきたんだ。英語の聖書ではscarletかred という語が使われているけど、crimsonにしてほしいね。暗い紫に近い赤ね。」
「ということは、ラハブが赤い服を着ていたということはありそうもないですね。ものみの塔の挿絵では赤い服を着ていますけど。」

#703 2017年11月28日 18:34:04

通りすがり
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん、いつも思考を刺激する記事をありがとうございます。
これらの記事は、正しい心を持つ証人に対しては力を及ぼすのではないかと考えます。

#704 2017年12月01日 21:05:13

マタイ7:7
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さんへ
死にたいと思っている人が死ねなくて、行きたいと思っている人が死んでいくのはなぜなのかな?

#705 2017年12月04日 17:12:20

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

JW少年が、日曜の夕方にまたやってきた。
「今週のものみの塔は、“行いと真実をもって愛し合いましょう”というもので、感動しました。愛は行為で示さないといけないということですよ。」
「愛の行為といっても、使われている写真は、王国会館の清掃と建設作業だね。ものみの塔が求める仕事を、文句も言わずに無給でやりなさいということかな。」

「愛を示すというのはつらいですね。ところで、10節には
<イエスのように他の人を敬うには謙遜さが必要です。>
とありますが、“謙虚さ”のほうが適切じゃないですか?以前、ある人に、謙遜な方ですねと言ったら、そういう時は、謙虚な方と言うんだよ、といわれた事があるのです。」
「どちらかと言えば、謙虚のほうがよいと思うよ。自分の能力・地位などにおごることなく、素直な態度で人に接する人を、謙虚な人と呼ぶけど、謙遜な人とは言わない。謙遜って、卑下するという意味で、テストで100点取ったときに、“まぐれです”、というような態度のことだね。ある意味、嫌な態度だよ。謙遜は必ずしも美徳とはかぎらない。」
「なるほど。エホバの証人は謙遜な人を目指し、普通の人は謙虚な人を目指すわけですね。」

「それより、最初の節の愛についての説明がへんだよ。こうある。
<正しい原則に基づく愛(アガペー)はエホバからの贈り物です。エホバは愛の源だからです。(ヨハ一 4:7)これは最高の形態の愛です。>」
「どこがへんなのですか?」
「アガペーは新約聖書の中で143回出てくる。その使い方を見れば、正しい原則に基づく愛なんていう解釈は出てこない。アガペーはこんなふうにも使われている。
<世も世にあるものをも愛していてはなりません。>ヨハネ一2:15
<彼は悪行の報いを愛しましたが,>ペテロ二2:15
<デマスは今の事物の体制を愛してわたしを見捨て>テモテ二4:9 」
「悪いことを愛するときも、アガペーが使われているわけですから、アガペーは正しい原則に基づく愛とか最高の形態の愛だとはいえませんね。」
「近くの書店でキリスト教関係の本を立ち読みしたら、そう書いてあったので、ものみの塔にもそう書きました、という感じかな。大学生のレポートレベルだね。」

「絶対、立ち読みですね。それから、4節に、
<アベルは自分の持つ一番良いものをささげて,神への愛を示しました。(創 4:3,4)>
とありますが、創世記4:4には、<自分の羊の群れの初子の中から,その脂ののったところを携えて来た。>とあるだけで、一番良いものとは書いてないのですが?」
「そうだね。しかし、後の時代になると、初子というのが一番良いものという考えが出てくる。でも、人類2代目のアベルの時代にはそのような発想はないはずでしょう。」
「ものみの塔の表現は時代錯誤ということですね。エホバはなぜアベルの捧げ物を良いとし、カインの捧げ物は良いとしなかったのですか。聖書には理由を書いていませんね。」
「書いていないのは、カインとアベルの物語の本文がかなり失われたためというのが1つの説だね。理由が書いてあったけれども、何らかの理由で削除されたのではないかと言う推測だ。後の人からみると不都合なので削除したのかもしれない。」
「そんなことで削除しませんよ。」
「また、もともとは捧げ物に関する規則に関する話があって、アベルはそれに従ったが、カインは従わなかったという内容の部分があったが、その部分が失われたという説だ。捧げものの規則がないとしたら、なぜアベルが、わざわざ初子と脂肪を選んで捧げたのかわからないからね。」

「創世記4:8に、カインがアベルを殺そうとして<さあ野に行こう>というのですが、僕はこのせりふが好きなんですよ。嫌な奴がいると、“さあ野に行こう”と言うんです。でも、これは70人訳にからのもので、ヘブライ語の本文にはないのです。失われてしまったのですか?」
「なんともいえないね。その前の4:7は訳するのが非常に難しい部分として有名なんだけど、それは単語の幾つかが消えてしまったからと考えられている。アベルとカインの物語の元の文章は、かなり失われたと考える方が適切じゃないかな。」
「この部分ですか?
<善いことを行なうようになれば,高められるのではないか。しかし,善いことを行なうようにならなければ,罪が入口にうずくまっており,それが慕い求めているのはあなたである。あなたはそれを制するだろうか>
新世界訳だと意味がわかりませんね。」
「そうだね。」

「また4節で、ノアは、<義の伝道者>だったとペテロ二2:5の聖句を引用しているのですが、ノアがエホバの証人みたいな伝道をしたと思えないのですが、いかがですか?」
「新共同訳では、“義を説いていた”となっている。英語ではpreacherと訳すことが多い。新世界訳でも英語版はそうなっている。preacherは家から家の伝道はしないね。伝道者と訳すのは誤訳でしょう。元のギリシア語も伝令とかメッセンジャと言う意味で、王の命令を家臣や一般の人に知らせる人を指す。同じ単語はテモテ一と二に1回ずつ出てくるけど、新世界訳ではともに<宣べ伝える者>と訳している。それなのに、ノアの部分だけ<伝道者>と訳すのは、ノアをエホバの証人の先駆者に仕立て上げるためだね。」
「となると、ノアの場合だと、大勢の人が集まる場所に行って、時々洪水が来るぞと叫んでいたというイメージでしょうか。箱舟作りも忙しそうですし。」
「ディスプレイかもよ。洪水の絵が描かれているんだ。」

「次にアブラハムの例が出てきて、
<アブラハムは息子イサクをささげるよう命じられた時,強い葛藤があったはずですが,神への不動の愛を示しました。(ヤコ 2:21)>
とあるのですが、引用されているヤコブ2:21には愛という単語はでてこないんです。インチキ引用でしょうか?」
「イサクの犠牲の話は、信仰の話でしょう。愛に強引に結びつけちゃったんだ。」
「アベル、ノア、アブラハムを、愛の例として出すのはあまり適切じゃなかったと言うことですね。」

#706 2017年12月11日 17:02:22

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

いつものJW少年が、疲れた雰囲気で、夕方にまたやってきた。
「今週のものみの塔は、“真理は「平和ではなく,剣を」もたらす”というもので、残念ながら退屈でした。」
「でも挿絵がいいよ。十字架のついた聖書らしきものを持った凶暴そうな男に対して、冷静かつ毅然と対応するエホバの証人を描いたものなんでしょう。すごい印象操作。狂信的なのはどっちかな?」
「挿絵はいいとして、内容は、家族の誰かがエホバの証人になると、家族関係は滅茶苦茶になるわけですが、それをどう取り繕うかといったものでした。ところで、7節にこうあるのですが、
<聖書は,結婚する人が「自分の肉身に患難を招く」と述べています。(コリ一 7:28)>
“自分の肉親”とは“自分の家族”の事を指しているのですか?新世界訳ではこうなっていて、
<童貞の人が結婚したとしても,その人は罪を犯すことにはなりません。しかしながら,そうする人たちは自分の肉身に患難を招くでしょう。>」
「へんな訳だね。新世界訳の英語版では
<And if a virgin married, such a person would commit no sin. However, those who do will have tribulation in their flesh. >
“in their flesh”を“自分の肉親に”と誤訳をしたんだね。flesh(肉)はspirit(霊)の対立概念。新共同訳では、<その身に苦労を負うことになるでしょう。>と訳しているけど、こちらの方が正しいよ。」
「ものみの塔の翻訳は誤訳だらけですね。パウロは、結婚は霊的に問題ないが、天ではなく地上で生きている肉体をもつ私たちには苦労の種になると言っているわけですね?エホバの証人同士の結婚を見たらその意味がよくわかります。」
「“童貞の人”と言う訳もへんだね。英語では“a virgin”で、意味は”未婚の人“。医学的に処女と言う意味じゃないよ。もしそうだとしたら、一体誰がそれを確認にするの?新共同訳では”未婚の女“と訳しているけど、元のギリシア語は女も男も含むから、”女“は正しくないよ。」
「そうなんですか。童貞じゃない人が結婚するのは罪なのかと思いましたよ。」

「この記事で一番面白いのは、19節だね。
<排斥という神の取り決めは,最初は痛みを生じさせるかもしれません。でも長期的に見ると,排斥された人を含めすべての人に最善の結果をもたらします。(ヘブライ 12:11を読む。)>
ヘブライ12:11を引用しているけど、そこにはこう書いてある。
<確かに,どんな懲らしめも当座は喜ばしいものに思えず,かえってつらいことに[思えます]。しかし後には,それによって訓練された人に,平和な実,すなわち義を生み出すのです。>
問題は“懲らしめ”と訳されている言葉。英語の“discipline”の訳だね。この日本語訳がへんなの。普通は訓練とか鍛錬と訳する。懲戒と言う意味もあるけれどその意味ではあまり使わない。元のギリシア語も訓練とか鍛錬というのが主な意味。新共同訳では“鍛錬”となっている。そうしたほうが後半とうまくつながる。」
「たしかに、“それによって訓練された人”とありますからね、前半が鍛錬だとつながりますが、懲らしめられた人を訓練された人とはいいませんものね。ここも日本語訳の問題があるのですね。」
「おなじヘブライ12:7では新世界訳でも同じ単語をちゃんと“鍛錬”と訳しているよ。<あなた方が忍耐しているのは鍛練のためです。>」
「懲らしめじゃ意味が通じませんよね。1つの章の中の同じ単語を、鍛錬と訳したり、懲らしめと訳したりと変えるのは、おかしいと気づかないのですね。」
「そもそも、この聖句は排斥制度とはなんの関係ない。ヘブライ書の12章は迫害を受けているクリスチャンを励ましている所だからね。」
「ものみの塔得意のインチキ引用ですか。」

「19節の後半はすごいよ。
<エホバは,悪い行ないを悔い改めない人との「交友をやめ」るよう命じておられます。(コリ一 5:11‐13)排斥された家族との交友をやめるのはつらいことです。しかし,電話や手紙やメールやソーシャルメディアで不必要に接触すべきではありません。>
こんなことはっきり言っちゃっていいのかな。聖書的根拠はないから、ものみの塔独自ルールね。排斥された家族が死んでも葬式にも出てはいけないんだろうね。信者の家族に様々な不幸を生み出すルールだけど、どうなるのかな。」
「ものみの塔では“最善の結果をもたらします”と言い切っていますから、どんどんするんじゃないですか。」
「引用されているコリ一5:11-13だけど、交友をやめるようにいっているのは次の人。
<兄弟と呼ばれる人で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者>
ものみの塔は、これを拡大解釈しているよね。しかも、“兄弟と呼ばれる人”が対象なわけで、クリスチャンを辞めた人は適用外のはずだね。」
「コリ一5:11には、
<交友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないように>
とありますが、一切の会話もいけないと言う意味なのですか?」
「“交友”と訳されている元のギリシア語は“混ぜ合わせる”と言う意味。友人として交流するなと言う意味だよ。現代ならば、一緒にゴルフに行くな、一緒に酒を飲むなという意味だと思うよ。エホバの証人みたいに、一切の交流禁止、顔を合わせても無視せよ、一切しゃべるな、なんてことをパウロは考えていないでしょう。引用されている聖句の少し前のコリ一5:9、10で、
<わたしは自分の手紙の中で,淫行の者との交友をやめるようにとあなた方に書き送りましたが,(略)全く[交わらないようにという意味]ではありません。もしそうだとすると,あなた方は実際には世から出なければならないことになります。>」
「パウロがなんと言おうが、狂信的と呼ばれようが、最善の結果を求めて、親子でも、挨拶なし、会話なし、接触なしの三無視運動を押し進めるのがエホバの証人の正しい姿です。」

#707 2017年12月11日 19:05:19

またい7:7
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

献体する人送った。ちょっと淋しかった。神は見ているのかな?

#708 2017年12月11日 22:01:22

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん いつも興味深い書き込みありがとうございます

新共同訳では ヘブ12.11 およそ鍛錬「たんれん」というものは当座は喜ばしいものではなく悲しいものと思われるのですが 後になるとそれで鍛え上げられた人々に儀という平和に満ちた実を結ばせるのです

フランシスコ訳 は どんな訓練でもその時は楽しいものではなくむしろ苦しいものに思われますが後になるとこの訓練はそれによって鍛えられた人々に儀という平和の実をもたらします

ティンデル聖書注解も こらしめではなく訓練として理解してますね

やっぱり ものみの塔は自分たちの邪魔者に対する態度を聖書の裏づけがあるように見せかけるために 恣意的に翻訳しているみたいですね

あとこの記事全般は最近組織からの離脱者があとをたたないので 脅しを加えているみたいな記事ですね

イエスの時代の宗教指導者そっくりですね
(使徒 4:17) …民の間にこれ以上広まることがないよう,もうこの名によってだれにもいっさい語らぬよう,脅しを加えて命じておこう…

追伸 この方も書いてましたね
https://ameblo.jp/yohdh/entry-123351785 … voritemail

編集者 てつてつ (2017年12月11日 23:54:00)

オフライン

#709 2017年12月11日 22:46:27

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

またい7:7 さんの発言:

献体する人送った。ちょっと淋しかった。神は見ているのかな?

お身内の方でしょうか、御愁傷様でございます。
また献体ありがとうございます。私も学生時代にお世話になりました。

またい7:7さんの神さまが、慰めてくださいますように。

オフライン

#710 2017年12月13日 15:16:15

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

「19節の後半はすごいよ。
<エホバは,悪い行ないを悔い改めない人との「交友をやめ」るよう命じておられます。(コリ一 5:11‐13)排斥された家族との交友をやめるのはつらいことです。しかし,電話や手紙やメールやソーシャルメディアで不必要に接触すべきではありません。>
こんなことはっきり言っちゃっていいのかな。聖書的根拠はないから、ものみの塔独自ルールね。排斥された家族が死んでも葬式にも出てはいけないんだろうね。信者の家族に様々な不幸を生み出すルールだけど、どうなるのかな。」
「ものみの塔では“最善の結果をもたらします”と言い切っていますから、どんどんするんじゃないですか。」
「引用されているコリ一5:11-13だけど、交友をやめるようにいっているのは次の人。
<兄弟と呼ばれる人で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者>
ものみの塔は、これを拡大解釈しているよね。しかも、“兄弟と呼ばれる人”が対象なわけで、クリスチャンを辞めた人は適用外のはずだね。」
「コリ一5:11には、
<交友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないように>
とありますが、一切の会話もいけないと言う意味なのですか?」
「“交友”と訳されている元のギリシア語は“混ぜ合わせる”と言う意味。友人として交流するなと言う意味だよ。現代ならば、一緒にゴルフに行くな、一緒に酒を飲むなという意味だと思うよ。エホバの証人みたいに、一切の交流禁止、顔を合わせても無視せよ、一切しゃべるな、なんてことをパウロは考えていないでしょう。引用されている聖句の少し前のコリ一5:9、10で、
<わたしは自分の手紙の中で,淫行の者との交友をやめるようにとあなた方に書き送りましたが,(略)全く[交わらないようにという意味]ではありません。もしそうだとすると,あなた方は実際には世から出なければならないことになります。>」
「パウロがなんと言おうが、狂信的と呼ばれようが、最善の結果を求めて、親子でも、挨拶なし、会話なし、接触なしの三無視運動を押し進めるのがエホバの証人の正しい姿です。」

わたしも質問さんが述べられているように
脱塔前後の時期に親しかった人たちに説明したことがありました。
しかし、彼らには何のことだかまったっく理解できなかったようです。
熱心な現役JWに組織と異なる素直な聖書の読み方や理解を示すと、
「わからない」などの言葉を繰り返し、凍り付いてしまうようです。
組織の考え以外はまったく間違っているのか、
バビロン的なキリスト教世界の理解だとか、
背教者たちの述べていることだと解釈されてしまうのです。
聖書そのものよりも組織の考えや理解が優先されてしまいます。
霊的な意味で盲目にならされているというのが
彼らに対するわたしの判断です。

オフライン

#711 2017年12月13日 16:06:51

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

自分も現役のころ 集会でキリスト以前の信者たちは地上の復活ということをいっていたので そのあと野外奉仕である兄弟と一緒に奉仕していたとき 集会であんなこといってたけど ヘブライの聖句みると彼らは天への希望をもってるとかいてあるんじゃない? といって開いてみせたけど そのようにも読めますねー というのが答えでした いやいやあんたどこに目をつけてんのと思いましたがそれ以上は話せませんでした cry

(ヘブライ 11:16) …しかし今,彼らは,さらに勝った[場所],すなわち天に属する[場所]をとらえようとしているのです。ゆえに神は,彼らを,[そして]彼らの神として呼び求められることを恥とはされません。彼らのために都市を用意されたから…

レイフランズさんも 良心の危機 368ページで

ヘブライ 11:16節にアブラハム、イサク、ヤコブなどの人々が「さらに勝った場所、すなわち天に属する場所をとらえようとしている」とあるが、これは天上の命を得るという意味であるはずがない。 どこにそんなことが書いてあるのか。

といってますね

編集者 てつてつ (2017年12月13日 16:08:07)

オフライン

#712 2017年12月18日 13:41:42

無酵母パン
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

割り込み失礼します。
創世記3:16‚の女ですが、私はエバてはなく、神の女(キリストの花嫁)ではないかと思います。

オフライン

#713 2017年12月18日 16:23:49

ゾンビー・チョッパー
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

無酵母パン さんの発言:

割り込み失礼します。
創世記3:16‚の女ですが、私はエバてはなく、神の女(キリストの花嫁)ではないかと思います。

創世記3:16 「わたしはあなたの妊娠の苦痛を大いに増す。あなたは産みの苦しみをもって子を産む」というのは、啓示12:2「 彼女は妊娠していた。そして,苦痛と子を産むもだえのために叫ぶ」とリンクされている預言です。
ですから、「神の女」は『上なるエルサレム』です。「キリスト(イエス)の花嫁」ではありません。
なぜなら、啓示12章で『上なるエルサレム』(神の女) が「苦痛と子を産むもだえ」の末に、「あらゆる国民を鉄の杖で牧する者」(メシアであるイエス)を産むからです。

ところで、無酵母パンさんの疑問の視点はとても興味深いものでした。ありがとうございました。

#714 2017年12月18日 17:07:53

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

JW少年が、咳をしながら、夕方にまたやってきた。
「今週のものみの塔は、“ゼカリヤの幻とあなた”で、もっとトンデモ解釈をしているのかと期待していたのですが、退屈なものでした。体の具合も悪かったです。」
「お大事に。ゼカリヤの6と7番目の幻の話ね。どんな内容?」
「要するに、盗みはいけない、誓いを守れ、特に献身の誓いは絶対守れ、神の家から悪を追い出せ、排斥せよ、最後に大艱難は近い、と締めくくる。マンネリですね。来週に期待します。」
「来週はクリスマスだね。神の家から悪を追い出せというのは正しいよね。いつになったらJWから児童の性的虐待者を追放するのかな?2人の証人がいなければ無罪放免でしょう。」

「それが神の律法です。ところで、第6の幻って、要するに、盗みと偽りの誓いを一掃するぞ!というメッセージですか?」
「そうではないよ。それ以前の幻で、エルサレムと神殿の復興が約束されているけれど、それは条件付のもので、律法に忠実でなくてはいけないと言うメッセージだよ。」
「盗みと偽りの誓いをエホバが特に憎んでいるから、この幻で取り上げたと言うように、ものみの塔では解釈しているようですが。」
「空とぶ巻物は神の律法を象徴している。盗みと偽りの誓いの禁止は十誡の中にも出てくるけど、当時のユダヤ人社会では、それらが目立ったんじゃないかな。それで、その二つで律法全体を代表させた。律法は人間の間の決まりと人間と神の間の決まりからなっていているけど、盗みと神の名を使った偽りの誓いが律法のその二つの要素を代表しているともいえる。」

「巻物の表と裏に書かれているという設定上、二つの罪しか取り上げられないので、盗みと偽りの誓いが選ばれたわけですね。その程度のことを言うために、エホバは大きな空飛ぶ巻物の幻を見せたのですか?」
「そこがゼカリヤ書の新しいところなんだ。幻は夢とは違う。ゼカリヤの時代には夢のお告げを語るというのが時代遅れになってきたようなんだね。例えば、エレミヤ23:25に、こうある。
<「わたしの名によって偽りを預言している預言者たちが,『わたしは夢を見た! わたしは夢を見た!』と言ったのをわたしは聞いた。>
エレミヤの時代では、こんな夢を見たと言う予言者は偽りの預言者と軽蔑されている。そこで夢ではなくて幻ね。しかも幻を解釈してくれる天使も登場している。新しいアイデアだね。この“幻+解釈天使”と言うアイデアは当時の大国ペルシャの影響だろうね。でも、ゼカリヤの幻は後のダニエルの幻に比べると、具体性や異様さに乏しいので、ゼカリヤはダニエル書に代表される黙示文学への移行期の作品と評価される。」
「黙示文学って、へんな幻が次から次と現れるといったものですか?」
「まあ、そうだね。それからエホバの証人が大好きな二元論的終末思想が特徴。」
「ゼカリヤにはサタンも出てきますしね。」

「それよりも興味深いのは、ものみの塔の2節だね。
<西暦前537年は,エホバに献身した民にとって喜ばしい年でした。70年に及ぶ捕囚が終わり,バビロンから解放された民は,熱意にあふれてエルサレムで真の崇拝を回復し始めました。西暦前536年には神殿の土台が据えられました。その時の様子について,聖書は「民が大声で喜び叫[び],その声は相当遠くまで聞こえた」と記録しています。(エズ 3:10‐13)>」
「それがエルサレム滅亡607年説をさりげなく述べているからですか?西暦前537年の70年前は607年ですからね。西暦前537年に帰還したというのも、何の根拠もないものみの塔独自の見解ですけど。それとも、ユダヤ人のことを“献身した民”とおかしな表現で呼んでいるからですか。いつ献身したのですかね。」
「ここで問題にしたいのは“西暦前536年には神殿の土台が据えられました。”という主張。エズラ記を引用しているけど、その引用部分のちょっと前の3:8にはこう書いてある。
<エルサレムの[まことの]神の家に彼らが来た次の年,その第二の月に,シャルテルの子ゼルバベルと,エホツァダクの子エシュアと,(略)は着手した。>
土台をすえたのはゼルバベルとエシュアになっている。ゼルバベルはダリウス王の時代(在位、西暦前522-486)の人なので、西暦前536年ということはありえなくて、帰還してから20年くらい後のことになる。」
「しかし、エズラ5:16では、
<そのセシバザルは来て,エルサレムにある神の家の土台を据えましたが,>
とあり、セシバザルが土台を据えたことになっていますよ。」
「しかし、今週のものみの塔に取り上げられているゼカリヤは、4:9で、
<ゼルバベルの手がこの家の土台を据えた。>
と言っているので、やっぱりゼルバベルだ。ゼカリヤが活動したのはダリウス王の時代ね。」
「土台をすえたのはどっちなんですか?エズラ1:11では、
<セシバザルは,流刑にされた人々をバビロンからエルサレムに導き上ると共に,すべてのものを携え上った。>
とありますから、土台をすえたのはセシバザルのはずなのですけれど。」

「エズラ4章では、神殿再建の妨害工作の話が出ていて、建設阻止派は、<彼らはあの反逆的な悪い都市を建てており,その城壁を完成し,その基を修理しかけております。 >4:12とペルシャ王に手紙を書いたのだけど、そのペルシャ王の名前は誰かな?」
「キュロスですか?何か建設しようとすると建設阻止派が必ず出てくるんですね。」
「アルタクセルクセスだよ。アルタクセルクセス1世を指すと思われているけど、統治期間は西暦前465-424。西暦前536年とは少なくとも70年くらい後だよ。」
「でも、次の5章で、またペルシャ王に手紙を書いていますね。今度はダリウスになっていますよ。なんとアルタクセルクセスより前の王ですね。それでも西暦前536年とはだいぶ違いますけど。時系列が滅茶苦茶ですね。」
「つまり、神殿再建に関するエズラ記の記述は全く信用できないということ。神殿の土台が作られたのは西暦前536年より、ずっと後の時代だろうね。ハガイ書1:9にはこうある。新世界訳では分かりにくいので新共同訳を引用するよ。
<わたしの神殿が廃虚のままであるのに/お前たちが、それぞれ自分の家のために/走り回っているからだ。 >」
「ハガイはゼカリヤと同じ時代の人で、ダリウス王の時代ですよね。そのときでも神殿は廃墟のままと言っていますね。」
「というわけで、土台が据えられたのは、西暦前536年は考えにくく、それよりだいぶ後のダリウス王の時代にゼルバベルとエシュアによって土台が作られたとするのが妥当じゃないか。」
「西暦前536年に土台ができたことにしないと、例の607年に影響しますからね。変えられないんですよ。」

#715 2017年12月22日 11:31:28

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

「この“幻+解釈天使”と言うアイデアは当時の大国ペルシャの影響だろうね。でも、ゼカリヤの幻は後のダニエルの幻に比べると、具体性や異様さに乏しいので、ゼカリヤはダニエル書に代表される黙示文学への移行期の作品と評価される。」
「黙示文学って、へんな幻が次から次と現れるといったものですか?」
「まあ、そうだね。それからエホバの証人が大好きな二元論的終末思想が特徴。」


鳥の翼を持つ女形の堕天使?を出しちゃうあたりは、かなり斬新な異様さではないかと思います。

ダニエルでは、エル系の名前がついた天使勢がペルシャ側の守護天使と戦っている設定など、黙示文学特有のファンタジー色がさらに強まりますね。

#716 2017年12月25日 17:05:05

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

近所のJW少年が、マスクをして、夕方にまたやってきた。
「今週のものみの塔は、“兵車と冠はあなたを守る”で、先週よりはトンデモ解釈が出てきて、多少面白かったです。」
「クリスマスイブなのに風邪をひいたの?ケーキでも食べたら。どんな内容?」
「ゼカリヤの8番目の幻の解説です。二つの山の間から4台の兵車が出てくる幻です。その前に、まず、ゼカリヤ6:15を引用しまして、<必ずそうなるのである ― あなた方があなた方の神エホバの声に確かに聴き従うならば>と力強く始まります。感動的ですね。」
「なんかへんだな。新共同訳をみてみると、こうなっているよ。
<あなたたちがひたすらあなたたちの神である主の声に聞き従うなら、万軍の主がわたしをあなたたちに遣わされたことを知るようになる。 > 」
「“必ずそうなる”という力強い言葉がないですね。どうしてですか?」
「そんな言葉は元の文にはないからさ。6:15は文としては途中で終わっている。それで意味が通るように、訳する人が言葉を補ってきたわけ。英語圏では昔から、this shall come to passとか this will happen と付け加えてきたの。新世界訳を作った人の中には特別な学識経験者は1人もいないので、昔からある英語の聖書をみて、真似したんだろう。新世界訳の英語版では、“it will occur”だね。それを日本語で“必ずそうなる”と誤訳したわけだ。」
「正しく訳せば、“そうなるだろう”くらいですか。日本語に翻訳した人って本当に無能ですね。となると、ものみの塔19節にある、<清い崇拝に関するエホバの目的は「必ずそうなる」のです。>という力強い宣言は日本語版だけなのですね。」
「英語版では、<Jehovah’s purpose regarding pure worship “will occur.”>。」

「聖書の中に未完成の文ってあるんですか?」
「よくあるよ。翻訳の際に不十分な部分を補うので気づかないだけさ。1つの文が丸ごと消えていると思われるところもある。今週のものみの塔で取り上げられているゼカリヤの6章にもあるよ。」
「わかります。6:6ですよね。赤い馬がどこに行ったのか書いてないです。黒は北、白は西、ブチは南とありますから、赤は東に行くはずなのに、書いてないですね。」
「元は、赤い馬は東に行ったという文があったのでは、と推測されている。でも白馬は西に行ったかどうかはわからない。“それらの後に”行ったとしか書いていないからね。」
「新世界訳では、“海の後ろに向かって”としていますが、意味が通るように本文を変えて訳しているわけですか?」
「そのとおり。海の後ろとは地中海方面のことで、エルサレムから見たら西と解釈できるだろう。聖書は神の言葉と言っているけど、ものみの塔も勝手に本文を変えていることがわかるね。」

「第8の幻に二つの山が出てくるのですが、ものみの塔によると、<1つはエホバの永続する宇宙的な支配権を表わし,もう1つはイエスを王とするメシア王国を表わしています。> 期待どおりのぶっ飛んだ解説です。うれしいです。」
「確かに、何の根拠もない、トンデモ解釈だね。山は山なんじゃないの。元のヘブライ語では山と言う単語に定冠詞がついている。英語で言えばtheね。だから特定の山を指しているという解釈が昔からあるよ。ゼカリヤはエルサレムにいるみたいだから、シオンとオリーブ山を指しているという解釈だ。ゼカリヤの2:10には、
<シオンの娘よ,声高らかに叫び,また歓べ。今わたしは来て,あなたのうちに住むからである」と,エホバはお告げになる。>
とあって、神様はシオンにいることになっているからね。その辺から4つの兵車が出てくるという設定なのかも。」
「そうですか。その山は銅でできているのですが、それは<エホバの宇宙主権とメシア王国の卓越性を際立たせています。>と解説しています。」
「それなら、その卓越性は金や銀には及ばないので銅になった、とからかわれちゃうよ。初歩的なことだけど“銅”という訳はおかしいよ。新共同訳では“青銅”。英語の聖書ではbronze(青銅)かbrass(真鍮)だね。青銅は銅と錫などの合金のことで、こちらの方が適切。銅100%だとやわらかすぎるよ。新世界訳を作った人はその程度の知識もないのだろうね。10円硬貨でも銅95%の青銅だからね。それにしても、宇宙主権という奇想天外な言葉が好きだね。」
「銅の山は何を意味しているのでしょうか?」
「長くなるから、次に行こう。」

「その続きとしては、冠を作って、大祭司ヨシュアにかぶせろと言われるのですが、ものみの塔によると、そのヨシュアは、<将来,永遠の王また祭司となる者を預言的に表わしていました。王とされる大祭司の名は「新芽」です。聖書によれば,新芽とはイエス・キリストのことです。(イザ 11:1。マタ 2:23,脚注)> そして、<キリストは間もなく,神の主権を支持してエホバの民を守るため,諸国家を征服します> エホバが大好きな大虐殺ですね。」
「もういいよ。まず“新芽”とはなにか。引用されているイザヤ11:1はこうだね。
<そして,エッサイの切り株から必ず小枝が出る。その根から出る新芽はよく実を結ぶであろう。>」
「エッサイはダビデの父で、エッサイの切り株とは、切り倒されたダビデ王朝のことで、将来枝が出て新芽を結ぶというのは、ダビデ王朝が復興すると言っているわけですよね。」
「新芽はダビデの血を引くものというだけで、イエス・キリストとは限らない。それがイエス・キリストのことだと言うのはキリスト教的偏向だね。ゼカリヤの言う新芽とは、ダビデの子孫である総督ゼルバベルだ。ゼルバベルという名の意味は“バビロンの種”。種から芽が出るというわけだね。一種の言葉遊び。ところが、ゼルバベルは消えてしまう。どうなったかわからない。ペルシャ側によって辞めさせられたんじゃないかな。」
「それで、後で、ゼカリヤ書からゼルバベルの部分を削除した、ということですか?」
「ゼカリヤと同じ時代に活躍したハガイは、ハガイ書2:21、22の中でこう書いている。
<ユダの総督ゼルバベルにこう言うように。『わたしは天と地を激動させようとしている。 また,わたしは必ずもろもろの王国の王座を覆し,諸国民の王国の力を滅ぼし尽くす。>
そして、2:23では、
<『その日に』と,万軍のエホバはお告げになる,『わたしはあなたを召す,わたしの僕,シャルテルの子ゼルバベルよ』と,エホバはお告げになる。『わたしは必ずあなたを印章指輪として据える。>
つまり、これはペルシャ帝国が崩壊し、その過程で、ゼルバベルが王になると言う預言なんだ。ダビデの血を引くゼルバベルに対する期待が相当あったことがわかるよね。」
「当然、ペルシャ帝国としては、ゼルバベルを危険人物と見なして、暗殺あるいはどこか遠くに飛ばすことぐらいしますよね。それでゼルバベルは突然消えしまう。ハガイの預言は大はずれになったわけですね。」

#717 2018年01月01日 17:11:24

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

大晦日の日に、近所のJW少年がまたやってきた。
「今週のものみの塔は、“喜びにあふれて大きな声で歌いましょう”でした。つまらない内容で、ほとんど寝ていました。要するに大きな声でまじめに歌えということです。」
「餅でも食べたら。エホバは耳が遠くなったので、でかい声を出さないと聞こえないんだよ。歌の好きな統治体の誰かがこの緊急性のないテーマを思いついたんだろうね。」
「レット兄弟じゃないですか。ものみの塔15節に、
<統治体のスティーブン・レット兄弟は「喜びにあふれてエホバに歌う」(英語)という新しい歌の本を発表しました。>
と、レット兄弟をしっかり宣伝していますから。レット兄弟が嬉しそうにでかい口をあけて歌うようすが目に浮かびます。」

「好きな歌は何なの?」
「“忠節を保つ”です。3番が好きですね。“たもとう忠節、長老たちに、指導に服そう、心を込めて”。ところで、ものみの塔1節に、<ある人気作詞家はこう言いました。「歌詞は考えを刺激する。曲は感情を刺激する。歌は考えと感情の両方を刺激する」。>とありますが、インチキ引用じゃないですか?」
「これはYip Harburgの引用だね。“オズの魔法使い”の主題歌、”Over the Rainbow”で、アカデミー賞を受賞している人だ。いつものことだけど、日本語訳がひどい。」
「どこがですか?」
「英語版では、
< “Words make you think thoughts. Music makes you feel a feeling. But a song makes you feel a thought.”>
最後は作詞家らしくひねった言い方で決めているのに、ものみの塔の訳は、<歌は考えと感情の両方を刺激する>だからね。全く文章を理解していないね。」
「さいごのa song makes you feel a thoughtはどういう意味ですか?」
「この文はButでつないでいるのがポイントね。前二つで、think  thoughts とfeel a feelingと当たり前のことをいってから、But(しかし)で,つないで、歌では“feel a thought(思考を感じる)”という普通ではありえないことが起こる、だから歌って素晴らしいねといっているのさ。」
「そういう意味ですか。それなら、その後の文は、訳としてどうなんですか。
<エホバへの賛美と愛を歌うなら,最も優れた考えで感情を刺激することになります。>」
「英文では、
<What better thoughts could we “feel” than those that express praise and love for our heavenly Father, Jehovah?>
初めの文を適当に訳するから、次の文の訳もつながらない。単に賛美と愛を表すよりも、どんな優れた考えを“感じる”ことができるのですか、すなわち“思考を感じる”こと、つまり歌うことの何が優れているのですか、と問いかけている文だね。ここも全くの誤訳だよ。」
「ものみの塔の翻訳している人を変えるべきですね。でも、いい加減な訳でも、エホバの証人はありがたがって聞いていますから。集会が早く終われば何でもいいんですよ。」
「そういうものなの?」

「ところで、ものみの塔4節に、
<例えば,ダビデ王は,神殿で賛美の音楽を奏でる4000人のレビ人を組織しました。そのうち288人は「エホバへの歌の訓練を受けた……専門家」でした。(代一 23:5; 25:7)>
と、あるのですが本当でしょうか?当時、イスラエルはできたばかりの小国で、そこで4000人の演奏家は多すぎると思うのです。」
「歴代誌が引用されているけれど、歴代誌はいつごろ書かれたかと言うと、バビロン捕囚以後の時代で、早くても紀元前400年くらいで、歴史書としての価値はほとんどない。捕囚以降にできた第二神殿では音楽が重視されたようなので、その時代のことをダビデの時代まで、つまり数百年さかのぼらせたのだと考えられている。宗教音楽は王様の命令で出来上がるものではないからね。長い時間をかけて少しずつできあがっていったんじゃないかな。」
「ものみの塔5節では、
<神殿の奉献式が行なわれた際,楽器の演奏と歌は非常に重要な役割を果たしました。こう記録されています。>
といって、歴代誌二の5章が引用されているのですが、これも歴史的に正しくないのですか?」
「歴代誌二の5章は契約の箱が安置される様子が描かれているけど、列王記一の8章とほとんど同じで、列王記をもとにして書いていることがわかる。しかし、歌と演奏について書かれている11節の後半から13節は、列王記になく、歴代誌で付け加えられたもの。」
「より歴史的価値のある列王記では歴代誌にあるような大音楽イベントは描かれていないのですね。」
「サムエル二6:14,15には、神の箱をエルサレムに運んだ様子のことがかかれている。こちらのほうが実際の歴史を反映している。
<そして,ダビデはエホバの前に力の限り踊り回っていた。その間ずっと,ダビデは亜麻布のエフォドをまとっていた。 そして,ダビデとイスラエルの全家は,歓声を上げ,角笛を鳴らしながら,エホバの箱を運び上っていた。>
訓練された音楽隊なんかは出てこない。王自らが踊り、使われている楽器は角笛という原始的なもので、これがその当時の様子でしょう。」
「でも、サムエル二19:35では、ダビデ王に80歳のバルジライが語るセリフの中に、<男女の歌うたいの声をまだ聴けるでしょうか。>とありまして、宮廷では、男女の合唱隊のようなものがあったことがわかりますけど。」
「それはダビデ王の晩年の話だね。そのころにはそのようなものができたのでしょう。」

「当時の楽器はどんなものがあったのでしょうか?」
「詩篇150:3-5に楽器が出てくる。
< 角笛を吹き鳴らして[神]を賛美せよ。弦楽器とたて琴をもって[神]を賛美せよ。 タンバリンと輪舞をもって[神]を賛美せよ。弦と管をもって[神]を賛美せよ。 美しい響きのシンバルをもって[神]を賛美せよ。>
「弦楽器ってどんなものなのですか?」
「プサラルタリーというものだ。木の箱に弦を張って、指ではじいて音を鳴らす。弦は10本らしい。管はいわゆるパンパイプというもので、長さや太さの異なる複数の管を束ねたたもの。」
「弦楽器と管楽器でメロディーをつくり、タンバリンとシンバルでリズムを刻む、こんな感じの音楽でしょうか。」

#718 2018年01月03日 15:58:04

ニューリッチ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

いつもながらすごい知識量に驚かされます。オズの魔法使いの主題歌までカバーしているとは! 今後ともよろしくおねがいします。

#719 2018年01月03日 17:34:36

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

日本支部の中に、和訳がデタラメであることに気付くスタッフはいないのでしょうか?
そんなに難しい英語ではないと思うのですが。

他の言語への翻訳は大丈夫なのでしょうか?

オフライン

#720 2018年01月03日 21:37:05

恐怖独裁体制
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

iris さんの発言:

日本支部の中に、和訳がデタラメであることに気付くスタッフはいないのでしょうか?
そんなに難しい英語ではないと思うのですが。

他の言語への翻訳は大丈夫なのでしょうか?

今の日本支部は、戦前の日本さながらの独裁体制なんですよ。
自分の持ち場以外のことに口出しするなんて傲慢、反抗的とみなされます。
求められているのは、組織に対する完全な従順だけです。
英語の語学力やその他の能力は付随的なものにすぎません。
こんな風通しの悪いものだから、教理面の数々の矛盾なんてなおのことタブーなんですよ。
真理を探求するなんて過去の美談です。

#721 2018年01月03日 21:39:48

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

そうなんですかありがとうございました

オフライン

#722 2018年01月03日 22:29:50

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

組織に対して完全に従順であるために、正確な翻訳も必要ではないかと思いますけれどね。大変ですね

オフライン

#723 2018年01月03日 22:40:41

恐怖独裁体制
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

irisさん

組織というより、上司に対する完全な従順と言った方が的確かもしれませんね。
日本支部の成員は支部内の権力者には提言なんてできず、はたまた日本支部のトップも米国の世界本部には頭が上がりません。
変なことしてるとときどき本部から問題是正を命じられたり、人事を変更されたりはしますが。
ブラック企業も顔負けの縦社会ですので、下の者から上の人への提言なんて恐ろしくて誰もできません。
まあ、組織自体も「神権統治」という名のもとに縦社会であることは公認ですけどね。

エホバ > イエス > 統治体 > 支部委員 > 支部の奉仕部門 > 巡回監督 > 会衆の長老 > その他の成員

この逆で組織のやり方に意見を述べるなんて、排除の対象になりかねないので基本あり得ません。

#724 2018年01月03日 22:52:55

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

詳しいコメントをありがとうございます。

恐怖独裁体制 さんの発言:

エホバ > イエス > 統治体 > 支部委員 > 支部の奉仕部門 > 巡回監督 > 会衆の長老 > その他の成員

この逆で組織のやり方に意見を述べるなんて、排除の対象になりかねないので基本あり得ません。

私の勝手なイメージでは、

ハルマゲドン > 統治体 > 支部委員 > エホバ > 支部の奉仕部門 > 巡回監督 > 会衆の長老 > イエス > その他の成員

くらいな感じがします。イエスはもちろんエホバさえも組織に従わされていると思います。
エホバが起こすはずのハルマゲドンの恐怖だけがすべてを支配している印象です。

編集者 iris (2018年01月03日 22:55:25)

オフライン

#725 2018年01月03日 23:01:03

恐怖独裁体制
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

エホバもイエスも誰の目にも明らかな発言なんてないですもんね(統治体は霊感による導きを受けていると言っていますが…)。
このあたりも、天皇陛下の名を騙って自分の意見を押し通した旧日本軍を彷彿とさせます。
本当は天皇陛下は何も言っていないのに、その名を騙って出された指示が独り歩きし、末端の国民は盲目に従うのみ…。
いや、ホント笑えません…。

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