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#601 2017年10月05日 16:10:29

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

(2014/03/23)
JWICに投書した、わからなかったシリーズ三部作の
最初のものですが、13年以上たって読み返しても
まったくその通りだと思いますね…。

わたしにとってわからなかったこと-その一

最近、とある大きな書店に入ってユダヤ人関係の書籍を眺めていたら、見覚えのある
少女の白黒写真が表紙にあるのに目が留まった。どこかで見たような気がするなあと
思いながら、ぱらぱらと本をめくって最後に、その少女の現在の写真があり、
奥付などを読んでみると、やはり雑誌に掲載されたことのある姉妹の写真で、
少女時代の写真は2003・3・1号のものみの塔 9ページにあるものと同じだった。

この本は「ライオンに立ち向かって」というのが日本語タイトルで、
そのタイトルの上に「ナチ占領下で良心に従って生きた少女の記録」という
ことばもつけられていたので直感的にエホバの証人の本だと感じた。
なぜなら、エホバの証人は迫害されたときの表現で「ライオン」という
ことばを、ダニエル書から連想して好んで使うからだ。

この本は“FACING THE LION Memoirs of a Young Girl in Nazi Europe”という
英語タイトルがある。日本語版はドイツ語から翻訳されたことがあとがきに
記されており、著者は“シモーヌ・A・リープスター”という
現役で忠実なエホバの証人の姉妹である。そして、巻頭の謝辞のところには
統治体の成員であったロイド・バリー、ジョン・E・バーが本に書くことを
熱心に勧めたことが記されており、ブルックリンの協会にある保存資料からも協力を
得たことが述べられているので、エホバの証人公認の商業ルートの本だと思う。

組織を離れて、協会の出版物をほとんど読まなくなったわたしが
この本に興味を持ったのは、子どものときの記憶というものに関心があるからだ。
わたしは成人してからエホバの証人になったので、子どものころに
組織の主張する聖書の原則を守ろうとして、周囲の子どもから嫌がらせを受けたり、
大人から圧力を受けたことはないが、別の面でいじめや、大人からの
圧迫を受け大いに苦しんだので、それを書き記したら、原稿用紙で300枚を超えた。
形は違えど圧迫や圧力を受けたもの同士の共通点を知りたかったのである。
またどのようにして精神的にも生き延びることができたのかをも…。

しかしながらこれを購入しようとしたとき、組織を離れたわたしがこれを読むことに
よって、逆戻りさせられることになりはしないかという懸念も持った。
まあそのときはそのときで考えることにし、とりあえず読むことにした。
日本語訳で忠実なエホバの証人に関する本が発行されるのは極めてまれだと思っ
たからだ。

さて、日本語でエホバの証人の年鑑が発行されたのは1975年版が最初であり、
これには、第二次世界大戦当時のドイツでエホバの証人が受けた
迫害の記録が掲載され、わたしも夢中になって読んだ覚えがある。
そこには、リープスターが述べるように、幼い子どもたちが学校から
放校処分を受けたり、親から引き離されたことが記録されていたと思う。

そのような処置がなされたのは、ドイツ国旗に敬礼しないとか、
“ハイル・ヒトラー”などと、周囲の子どもたちといっしょに叫ばないという
理由だったと思うが、ほかにもあったかもしれない。
現在でも、学校生活で学級委員-今はクラス委員であろうか-を選ぶ選挙に参加しないとか、
校歌や国家を歌わないということが、聖書の原則にかなっているとされ、
その子どもが良心的に参加できないことだとされている。

聖書を学び始めたわたしは、ドイツの兄弟たちがとった行動は、聖書そのものの
原則にかなっていると思い込み夢中になって年鑑を読んだ。
でも、組織にいる時間が長くなり、聖書そのものを読み始めると、
組織が出版物で主張する聖書の原則はどこのどの聖句に基づいており、
それはいったい聖書のどこに書かれているのかと考え始めるようになった。

“ハイル・ヒトラー”と叫ぶときの-ハイル-ということばの意味は正確にわからないが、
万歳であるとか賛美だとか聞いている。国旗に対する敬礼は偶像崇拝だと言われている。
これの掲揚の参加については出版物は多くのことを述べている。

もし、ものみの塔の主張を聞かないで、聖書から直接これらの考えを示すように
求められたら、おそらく不可能であろう。直接は何も書かれていないのだから。
学齢期の子どものいる姉妹に学級委員を選ぶ選挙になぜ参加しないのかを
子どもに説明できるかどうかを質問してみたら、彼女は正直に自分もなぜそうなのか
わからないと述べていた。彼女は子どもにどうするのかを任せているそうだ。
長老に聞いても、出版物に書いてあることしか言わず、答えは決まっているので
聞かないとも言っていた。賢いと思う。

要するに、出版物にそう述べられているだけで、聖書の根拠はないのである。
それは当然で、聖書時代に学級委員などはなかったはずだ。
偶像については聖書には多く述べられており、バアルやタゴン、ネブカドネザルの建てた
像などがある。これを知らないエホバの証人がいるだろうか。
聖書に忠実でありたいなら、偶像は崇拝するべきではないが、何を偶像というかは
かなり難しく、個人によって判断はかなり違うだろう。

何しろ聖書は人間の欲望までいきすぎると偶像だと教えている。
貪欲だとか性欲などとうてい物理的には見えないものまで含んでいるのである。
国旗は過去において国家の象徴であったので敬礼することは国家崇拝だと
聞かされてきたが、現在の日本でもそうした意味合いがあるのであろうか。

結局“良心に従って”とは主張するが、いったい誰の良心なのか、わからなかった。
これらを考えていたときはJWICのことは知らなかったが、うすうす、
出版物を書いた人の良心、最終的には統治体の人々の良心だと思っていた。

当時小学校3年生の女の子が、学級で席がえをするときにくじ引きで決めることに
参加しないというのを聞いたことがある。くじ引きが聖書に反していると言っていた。
親もいたこともあって、わたしはものみの塔の中で、商店が景品としてくれる
くじはもらっても良心状の問題だと認めていること、箴言の書では
くじによって得られる結果はエホバからだと述べていることや、イスカリオテの
ユダが死んでから後任の使徒がくじによって選ばれたことなど、
悪い例ばかりでないことを話してあげたら、彼女たちは驚いていたと思う。

結局、エホバの証人は聖書を研究して信じていると主張するが、
普段からの会話を通しても、組織による聖書解釈を信じているのであって、
聖書そのものですらまともに読んでいないと思う。
わたしが奉仕会のプログラムで、毎日の聖書通読や全巻を読んだという人の
インタビューを扱うときに、これに応えてくれる人はほとんどいず、
奉仕の僕クラスでもいなかったのが現状である。

リープスターの本は500ページ以上あるので、読み終わってから
感想は後日ゆっくり書いてみたい。しかし、当時彼女たちが書いたという
楽園の絵画がたくさん掲載されていることは興味深い。

わたしは、組織の聖書解釈をひとつ残らず否定しているわけではないが、
個人として聖書を読んで、組織の聖書解釈に無理がある、あるいは、
根拠がどこにあるのかと思うことが多くなっていった。

たとえば、楽園についてである。わたしとしては休日に人々が海や山に出かけること、
つい近年までは自然と調和して生きてきたことを考慮すると、楽園の状態で
生活するほうが自然だと思うし、大好きだった死んだ祖母にも会いたいので、
復活もあってほしいという気持ちが今でもある。

エホバの証人がヘブライ語聖書と呼んでいる旧約聖書には楽園の情景を
心に描かせ、その到来を思わせる記述がいっぱいあるが、おもしろいことに
クリスチャンギリシャ語聖書-新約聖書-にはそうした記述がほとんどないのは
いったいなぜだろうか。もし指摘できるとしたら、ルカ23:43や啓示21:3,4ぐらいだろう。
わたしには「楽園が来る」という直接的な聖句を読んだ記憶がないのである。

アダムが禁じられた木の実を食べなければ、彼は死なずに永遠に生きたはずだと
いう主張がある。しかしその創世記の記録を読んでみると、食べると死ぬということだけ
述べられており、食べなければ永遠に生きられて死なないという記述もない。
だから、逆に解釈したい気持ちは理解できるが、その解釈が
神の意図や目的に、かなっているかどうかはわからないと思った。

太陽の寿命は100億年とか言われ、現在は50億年ぐらいだとか聞いている。
これが真実であれば、人間はそれをはるかに飛び越えて永遠にいたるわけだから、
太陽の寿命が尽き果て、なくなってしまうことになってしまう。
太陽が地球を飲み込むほど膨張するかどうかは別にして、物理的には
エネルギーがなくなってしまうわけだから、人間はどうなるのかという
考えが浮かんできた。しかし、エホバ神の全能性を考えて心配するのをやめたが、
これもわたしにはわからなかった。

ギリシャ語聖書を読むと、イエス・キリストや弟子たちが多くの奇跡をおこない、
死んだ人を生き返らせ、病気の人をいとも簡単に治している。
こうしたことが現在でもあればいいのにとわたしは思う。
組織の解釈ではそのような奇跡はイエスによる王国支配が始まったときに
大規模な仕方でおこなわれる奇跡の証拠だということになっている。

それはそのように考えれば、そうとも主張できるが、その聖書的な根拠は
何ですかと問われれば、わたしは聖書からの答えがわからない。

わたしがなかなか奉仕の僕や長老になれないので、どのような努力をすれば
よいのかを、巡回監督や会衆の長老に聞きにいっても、あいまいな返事しかなく、
出版物には彼らに援助を求めるように述べられているのに、
理解不可能な助言をされる理由がわからなかった。
しかし、いまとなってみればわたしが彼らにとって、その矛盾した物事の
扱い方を指摘するので、都合の悪い存在だったからだと気がついた。

結局、聖霊による任命などと神がかり的なことを言うけれど、
彼らの指図に盲従し、お気に入りにならなければいけなかったということだ。

組織は1919年にキリストが地上の組織を検閲してものみの塔の役員が
ご自分にかなっているとして判断し、忠実で思慮深い奴隷の代表として
任命したとか主張していることはずっと聞かされてきた。そうかもしれない。
聖書によれば、モーセの時代もイエスの時代も誰もが認識できて
理解できるような出来事があり、彼らには天からの声が聞こえていた。
だから、彼ら自身にもまわりの人々にもはっきりわかったはずである。

しかしながら、それ以降は天からのしるしや神からの声がはっきり聞こえたことは
確かめられていないのではなかろうか。だのに、彼らは自分たちが神やキリストから
任命されたなどということがどうしてわかるのだろうか。
自分で勝手に思い込む以外にないのではなかろうか。

末端のエホバの証人は善良な人が多いと思う。
しかし、自分の体験もネットで公表されている情報も組織の上層部に行くほど、
不思議なぐらい、偽善が蔓延していることを証明していると思う。
聖書に示されている全能の神はそうした偽善的な上層部の人間が運営する
組織を用いなければ、ご自分の意志や目的を知らせることができなかったのだろうか。
聖書に示されている神の善良さを考慮するとこれはわたしにとって大きななぞだ。

なぞだったことはたくさんあるので、再び書いてみたいと思う。
振り返ってみるとなぞだらけのことのかくも深くはまっていたのかというのも
大きな疑問ではあるが、自分で自分の気持ちを押し殺し、
疑問を感じさせないようにしてきたのであろうと思う。

《編集者より》
「ライオンに立ち向かって」という本は、
エホバの証人の第二次世界大戦中のドイツでの活動を賞賛する本として書かれ、
エホバの証人の間で広く読まれているようですが、
私は読んだことはありません。
ただ、エホバの証人とヒットラー政権との関係については、
ものみの塔協会の宣伝が余りに一方的で、
ヒットラーとの裏取引があったことに沈黙を守っている以上、
いかに「立ち向かった」と言っても、私には宣伝広告以上の意味は見出せません。
あなたも指摘している通り、末端のエホバの証人はドイツでも苦しんで、
永遠の命を信じて殺されたのかも知れませんが、
当時から上層部は偽善と腐敗が横行していました。
これは今も変わらないと思います。

永遠の命の希望ですが、これは私が何度も言ってきたことですが、
一見理論上は素晴らしいことに見えるが、
実際に人間が永遠に生きられるようになったら、
そのこと自体が最大の災いとなって人類は滅びるでしょう。
全てのいい事は「過ぎたるは及ばざるがごとし」なのです。
最高においしいご馳走でも、いつまでもたらふく食べ続ければ病気になるし、
人間が生きて行く上に不可欠の水も余りに多くなれば洪水で人は死に絶えます。
人生は確かに素晴らしいものですが、それが限りなく続いたら、
人口過剰で住む所も仕事もなく、食べる物もなくなるでしょう。
どんなにいい事でも、人生でもご馳走でも、
「もうちょっと」という所で終わるから本当の素晴らしさがあるのです。

「生」が続くためには「死」が不可欠なのです。
「死」は生物の世界で不可欠な重要な働きがあります。
私の住むオレゴンの川には、太平洋から鮭が産卵にのぼってきますが、
彼らは必死の思いで川を遡り、浅瀬で産卵をして死に絶えます。
そしてその死体は幼魚たちの重要な栄養源となります。
親魚の「死」は、幼魚たちの「生」にとって絶対に必要なことなのです。
「生」と「死」は、生物の存在にとって不可欠な「抱き合わせの」二つの現象です。
その抱き合わせの二つの現象から、「死」を取り除き
「生」だけを永遠に続けようというのは、
昔からある不老長寿の欲望の極端を行ったものであり、
私はこれは物質欲にかられて現実を見失った妄想だと思っています。
私は適当な時期が来たら、ご馳走を腹八分で終えて満足するように、
「人生ご馳走様」と言って感謝して死を迎えたいと思っています。
私たちが死に絶えて新しい世代が主役になること、
それが私たちの子孫にとって私たちができる最大の贈り物なのです。

オフライン

#602 2017年10月05日 17:25:46

てつてつ
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

ラハムさんこんにちはライオンは自分も現役のころ読みましたあまり覚えていないですが感化院みたいなところに入れられて素朴な信仰で頑張ったような内容だったような気がします

オフライン

#603 2017年10月11日 16:36:57

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

たしかにてつてつさんが言うような内容でした。
わたしは脱塔した直後の2014年ごろ読んでいると思います。
そのころ、脱塔直後ということもあって、
現役の姉妹がヘルパーに来てくれていたのです。
彼女に現役の姉妹の経験が述べられているから、
読んでみるようすすめたのですが、読もうとはしませんでした。
だから、商業ルートに乗せられている出版物は、
JWに忠実な人が書いても、
統治体メンバーの推薦があっても読まないものなんだと
不思議なような、感心したような感覚が
あったことを思い出しました。

JWっていうのは摩訶不思議な世界ですね。
理解不可能っていうのか…。

オフライン

#604 2017年10月12日 16:37:13

iris
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

地上での永遠の命に憧れる方へ

「時をさまようタック」ナタリー・バビット

児童文学ですが傑作ですよ。
その昔、読書感想文コンクールの課題図書だったことがあります。

オフライン

#605 2017年10月29日 15:24:48

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

これはわからなかったことシリーズのふたつめの投稿です。
ちょっと気恥しいですが、そのようなことも真剣に
考慮し続けてきたことを思い出します。

(2004/04/21)
先月は、わたしが組織に交わっていた頃、疑問に感じていたことを
いくつか書き連ねてみた。一度では書ききれなかったことを
再度書き出してみたのが今月の投稿である。

以前の投稿で「エホバの証人と性の問題」として性に関しての考察を
書いてみたので、今回のもそれに該当するかもしれないが、
罪として感じさせてわたしたちの人間としての存在を卑しめることについて
述べたところが、異なる点だと思う。

今回ふれたことは、兄弟のあいだでも、たとえ個人的にも
話し合ったことはなく、心に秘めてきたことだ。
年若い二世の研究生でこれらについての疑問を持ちかけてきた人もいたが、
わたしは自分の立場を守るために、あいまいな返事をしてきたので、
その彼に対する返事の意味も含まれている。

彼は不幸にして交通事故で亡くなったと聞いているので
彼に読んでもらうことはできないが、これを読んでくださる、現役、
非現役の方にはそのように柔軟に考えていた者のいたことを知って欲しい。


最初の人であるアダムが罪を犯したのでその結果として、わたしたちにまで罪が及び、
キリストが血を流して贖う必要が生じたということは、聖書にはっきりと
記されているのでキリスト者であれば否定のしようがないと思う。
これはこれで純粋にキリスト教という宗教の教義だろう。

わたしにとって不思議だったことは、出版物で人間は不完全で、受け継いだ罪のゆえに
罪人であり、間違いを避けることはできないと、呪文のごとく教えられているのに
自分自身の内側に、罪人だという意識や、感覚を感じられなかったことだ。

わたしも聖書を真理だとして受け入れてきたので、直接聖書に述べられていることを
否定したいわけではないが、組織の言うように人間というものが罪人で
アダムの原罪を背負い込んでいるのがほんとうであれば、そうした感覚や感じを
現在に至るまで持ち続けているのではないだろうかと思ってきた。

でも、自分が誤りや失敗を犯すことが多々あっても、罪の意識や感覚を
感じ取ることはなかった。これは現在でも同じだ。
こう述べたからといっても聖書の教えを否定したいというわけでもない。

その罪の意識を感じない理由は、自分が日本という非キリスト教の国で成長して、
根本の土台にキリスト教がなかったためであろうか。
要するに背景がキリスト教国とぜんぜん違っているということだと考えた。

また、わたしたちがエホバの証人になってから自分が悪いことをしたと
感じさせられるのは聖書の原則に触れたというよりは組織が出版物で
はっきりと、あるいは暗に聖書的に罪だと判断したことについてだった。

先回の投書でも書いたことだが、学級委員になること、宝くじを買うこと、
投票に参加すること、誕生日を祝うことなど際限がないほどたくさんあった。
現在でもほとんどこれらの聖書解釈は有効とされている。
それらは他の人に目撃されてしまうので、発覚すれば長老たちからの
助言の対象となって、いやな気分を味わうことになる。

レイモンド・フランズ兄弟の書いた“良心の危機”でも取り上げられているが、
夫婦が寝室でおこなう性的なたわむれにまで聖書的だとされる制限が
課されたときもあった。
また、独身者、特に男子を大いに苦悶させるのがマスターベーションの
禁止だろうと思う。女子よりも男子のほうが苦しいそうである。

わたしが研究を始めた十代後半の頃、イエスが言われた「女を見続けて
情欲を抱くものは姦淫を犯したことになる」とか「霊と肉の汚れから
清めて…」というパウロの言葉を読んで、自分なりにこれらは
マスターベーションにも当てはまると考えて避けるよう努力したが、
これはとてもつらすぎることだった。

そうして研究を続けているうちに出版物にもマスターベーションを
禁じていることがあるのを知った。
わたしも純粋だったから必死になってこの聖書解釈を守ろうとしたが、
苦しすぎてどうしても守ることができなかった。
バプテスマを受けて兄弟になっても同じだった。それをおこなったときは、
エホバに罪を犯したと思い、惨めさに浸って自分を責めた。

自分を責める理由として、組織は出版物でそれを克服した人の例を
たくさん載せているので、克服できない自分は信仰が弱くて
モーセのごとく神を目の前においたような行動ができないと考え、
無理矢理にでも罪の意識を感じるようにさせられたと思う。

しかし、わたしはあるときからこう考えるようになった。
もし、マスターベーションというものがほんとうに神から見て
悪いことであるのなら、聖書に直接、禁じる聖句がないのはどうしてか?

ある時には死ぬほど辛い思いをして克服の努力をしている
自分がどうしてその行為を避けることができないのか。
神の組織が述べている助言を必死に守ろうとしているのに
どうして神は助けてくれないのか、などなどである。

聖書は日本語訳でも2000ページ近くあるので、たかだかマスターベーションのことに
ひとことぐらいふれることができないはずはない。だから、述べられていないことは
神から見てどうでもいいことだったのだろうと考え始めた。

それから、体から排出される体液や便についても考察した。どの排出物でも
溜まれば自然にか人為的にか必要に応じて流れ出るようになっている。
わたしは組織の出版物でマスターベーションについて述べているものを
たくさん読んだが、そのひとつに精液は体に溜まれば夢精という形で
自然に排泄され、溜まったからといって体に害はないというものがあった。

害はないかもしれないが、これは自然なことだろうか。
よく考えてみれば、大便も排尿もあるところまで自制しコントロールできる。
排尿については夜中眠っている間にもらしてしまうこともあるわけだが、
だからといって眠る前にトイレに行かないであろうか。
だれも、自然に出るものはそれにまかせればよいなどとは考えない。

女性だって神による自然の摂理というべきだが、毎月の生理の時不要になった
血液が排泄されてくる。人為的な処置を講じなければ、止めることはできない。

体から出るべきものは、せきやくしゃみ、鼻水、汗だってある。
他にもあるがどれも、必要だから出てくるのだ。

このような考察を通して、聖書的原則と称しマスターベーションを禁止するのは
非常に不自然で自然の摂理に反していると考えるようになった。
男女ともに手の長さもそこに届くようになっている。
聖書が述べるように、こうしたように創造されたのは神なのだから。

そのような考察の結果、直接聖書と自分の良心に反しなければ、
他の人、特に仲間に知られなければよいと考えるようになった。

わたしが献身したのは神に対してであり、仲間でもなく
ものみの塔でもないのだから神が直接悪いと言うのでなければ、
人間のこしらえたつまらない規則で自分を苦しめることをやめたら、
ほんとうに気が楽になった。もし見つかって責任を追及されるのなら、
聖書の根拠を強く要求するつもりだった。神に献身したのに、どうして
人間性の解釈による規則で自分を縛って苦しめる必要があるだろうか。おかしい!

そこで不思議に思ったのは、どうしてそのような不自然な規則、
まったく個人的なことまで無理矢理抑制させようとするのだろうか、ということだった。
それはきっと、性的に不能な人間がひがんでこしらえた規則だろうと、推測した。
こうして考えてくると、罪でもないものを罪と感じさせ、
規則を守りきれない人間を、自分たちよりも低めて支配しようとしたのだろう。

さらに、わたしにとってもっともわからなかったことのひとつは、
自分はなぜ幸福ではないのだろうかというものだった。
いや、幸福感に乏しいというべきか。なぜむなしさ、空虚感があるのか。

日常生活において収入面で満たされ、霊的には奉仕の僕であり、
聖書や出版物もすべて読むことができ、
公開講演、奉仕会、神権宣教学校、群の書籍研究の司会の割り当て
適度な伝道活動、こうした活動に十分参加できているのに、
どことなく空虚で満たされない感覚があるのが不思議だった。
なぜそのようであるのかわからなかった。

聖書そのものも出版物もエホバの民であれば世界一幸福であり、幸いだと
述べられているのに、なぜ自分にはそうした感覚がほとんどないのか。
自分の信仰に欠陥があり、弱いからだとも考えた。はたしてそうなのか。

わたしの人生において自分が行き詰るのは、わたしが霊的でないからだ、
と言ってわたしを責めた仲間もいた。わたしは霊的でないとなぜ行き詰るのかと
彼に説明を求めたが、彼は答えずにわたしを悪魔の考えを持っていると言った。

エホバの証人の立場から考えれば、聖書の登場人物である
モーセ、ダビデ、ヨブなどはきわめて霊的な人々だったであろう。
でも、モーセは一度の失敗で約束の地にはいれなかった。
ダビデは殺人・姦淫・盗み・人口調査をおこなった。
ヨブはサタンの攻撃で妻以外の所有を失い、死ぬほど健康を害した。

彼らはきわめて霊的な人物であるはずなのに失敗をし、失意に沈んで
行き詰まらなかったと主張できるだろうか。
だのに、霊的でないから行き詰まると言えるのだろうか。
わたしを責めた仲間はこのような疑問にも答えなかった。

あるいは、結婚できないから幸福ではないと言う仲間もいた。
これもおかしいとわたしは感じた。
組織で結婚できている人は大勢いる。わたしはその男女を観察して
どのように考えても見ても、幸福そうに感じられなかったのが多かったからだ。

わたしにとって幸福そうに見える人々は、たとえ未信者の配偶者がいても
愛されていることを感じている、感じ取ることができている人々だった。
集会で見られる多くの表情は、うなだれ、疲れきっている印象があった。
口元は笑みがあるようだが、目は疲労しているように見えた。
何かを訴えたそうで押し黙っているようにも見えた。
これが聖書的に世界一幸福なはずの民なのか?

こうして振り返ってみると、組織から離れた現在のわたしのほうが
精神的に安定しており、空虚感も少なくなった。
やはり、聖書にこじつけて自分の心に無理を強いてきたということかもしれない。

組織を離れてもわからないことはまだまだあるので引き続き書いてみたい。

《編集者より》
毎回斬新な視点から、様々な問題提起をしていただきありがとうございます。
まず、戒律と罪の問題ですが、これらの多くは、宗教が形成した時代と
その場所の伝統やタブーが反映されていると思います。
血の例がその典型だと思います。
時代と場所が異なれば、そのようなタブーが
全く不自然で無理な戒律であるのは当然であると思います。
あなたも指摘していられるように、昔の多くの宗教的戒律は、
人間の生理的な現象に関係しています。
それらは「欲」、仏教では「煩悩」などとされ、
克服されなければならないものとされました。
しかし、人間が知恵を増すにつれ、それらの生理的現象は
人間の健康にとって必要なものであることがわかってきました。
一生を童貞や処女で通すことを戒律としている宗教もまだありますが、
現代ではそれが全く不健康であるばかりか、
社会全体としても有害にしか働かないことがわかり、
多くの宗教では僧職者でも立派に妻帯しています。

あなたが取り上げたマスターベーションは、
聖書にはっきり書かれていないのに、
なぜものみの塔協会がこれを禁じたのか、
あなたも色々推察していますが、私もわかりません。
ただ、個人的な生活に介入するものみの塔宗教の無数の戒律を見れば、
その姿勢から理解できるのではないでしょうか。
つまり、それは戒律や禁則(タブー)を出来るだけ沢山つくり、
それを達成させることに信者の時間とエネルギーを費やさせることにより、
常に地上の楽園の目標に向かって自分は努力しているという
幻想を与えることだと私は思います。
ものみの塔宗教が最も嫌うのは、
「信じることで直に救われる」という多くのキリスト教や、仏教などの教義です。
このような教義では、一見余りにも達成が容易に見えるために、
組織の権威が不要になります。
ものみの塔にとって望ましいのは、
努力を要する難しい目標を沢山信者に与えて、決してゴールが達成しない、
無限のマラソンを走らせることなのです。
そして、このものみの塔宗教の本質が、あなたに決して幸福感を与えず、
何かいつも空虚で物足りない気持ちを与えた理由なのではないでしょうか。
心理学の実験では、ボタンを押すと必ず餌がもらえる装置に入ったねずみは、
自分のペースに合わせてボタンを押して、
必要な餌を食べる分だけボタンを押します。
しかし、装置のプログラムを変えて、ボタンを押しても餌が出たり出なかったり、
ねずみにとって全く予想がつかず、
何時になったら空腹がいやされるかわからないようにしますと、
ねずみは装置の奴隷になったように、餌が出ても出なくても、
ただひたすらボタンを押し続けるだけになります。
私はこのねずみの姿が、組織の教義に没入している
エホバの証人の姿と二重写しになって見えます。
ところで、このねずみの行動は、
人間のどのような行動のモデルとして使われていると思いますか。
これは人間のギャンブルに対する嗜癖のモデルなのです。
人がギャンブルに耽るのに特別に大きな儲けは必要ありません。
少しでも儲かりそうだという希望があり、時々少しのお金が出てくるだけで、
ある人々はひたすら(スロットマシーンの)ボタンを押し続けるのです。
ものみの塔協会は、このような人間の心理を知っているのかどうか私は知りませんが、
見事にこのメカニズムを使って信者を奴隷化していると思います。

オフライン

#606 2017年10月29日 23:08:34

iris
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

ラハムさん、こんばんは。

後半の幸福感に関しては、以前も書き込んでおられましたね。

ラハム さんの発言:

《編集者より》
(前略)
ものみの塔宗教が最も嫌うのは、「信じることで直に救われる」という多くのキリスト教や、仏教などの教義です。このような教義では、一見余りにも達成が容易に見えるために、組織の権威が不要になります。
ものみの塔にとって望ましいのは、努力を要する難しい目標を沢山信者に与えて、決してゴールが達成しない、無限のマラソンを走らせることなのです。
そして、このものみの塔宗教の本質が、あなたに決して幸福感を与えず、何かいつも空虚で物足りない気持ちを与えた理由なのではないでしょうか。(後略)

編集者さんの御指摘の通り、修行に専念する余裕のない一般人にとっては「信じる者は救われる」という教えこそが必要なのであって、本来のキリスト教では組織の権威は必要なく、教会も単に信仰を共にする仲間の集まりであったはずです。理想の生き方に近づこうとする努力は必要でも、信仰そのものによって救われ、幸福に生きることができるのです。

宗教を自称しながら信者に決して安心も幸福も得させようとしないものみの塔はまさに詐欺だと思います。

オフライン

#607 2017年11月14日 15:48:24

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

JWサロンに出席したおり、
「霊的な虐待」のあることを知りました。
そのことについて話してくれたもとJWが
それを記載している書籍を貸してくれたのです。
持ち帰り読んでみると手に入れておく価値が
ありそうなので、同じものを購入しました。
すべて読み切っていませんが、
「霊的な虐待」について次のように述べられています。

霊的な虐待は議論の別れるところであり、
めったに話し合われることはないながらも、
現実的な問題です。たとえば、子どもを、
無神論者や狂信的宗教の信者に育て上げることは、
ある親にとっては霊的な虐待のように思われるかもしれませんが、
他の親にとってはそうではありません。
より微妙なところでは、既成宗教のなかには、
罪悪感や恥辱感を課する怒れる神といった強い信条を教えたり、
他の宗教はすべて邪悪で劣っていると唱えるものがあります。
後者は、ある原理主義キリスト教派のなかに容易に見出せますが、
これは彼らにだけ限ったことではありません。
こうした特徴は、
世界の宗教体系の隅々にまで行き渡っています。
実際、それが原因で世界中で戦争が起こり、続いているのです。
-「内なる子どもを癒す」p57、誠信書房-

この部分だけ読んでみても
「霊的」という意味がJWとずいぶん違うと思いました。
ここで述べられている「霊的な虐待」というものを
JWはずっとおこなってきています。
現役だった時はそのような内容の教育が
虐待だとは考えず、正義そのものだと思っていました。
恐ろしい宗教に関わってしまったと反省する次第です。

オフライン

#608 2017年11月28日 17:20:18

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

以下はわからなかったことシリーズ三つ目の投稿です。
2004/7/19 -究極の言い逃れ-

わたしにとってわからなかったことの一つに、エホバの証人が頻繁に使う、
「人間は不完全だから間違いを犯すのは仕方がない」ということばがあるが、
これがどこから来て、なぜ平然と使われているのか、というのがあった。

これはエホバの証人特有の言い訳に使う決め言葉であり、せりふだろう。
というのは、世の中の人は誰もこのようなことを言わないからである。
それは当然のことで、人間が過ちや失敗を犯すことが生活していくうえで
大前提になっており、わかりきったことだからである。

何らかの方法で過ちや失敗を完全に避けることができるのであれば、
現在の世の中で存在している、過ちや失敗を避けるための研究や
保険制度などは必要ないと思われるからだ。

それにしてもこの決めぜりふがエホバの証人の社会で頻繁に用いられるように
なったのはどうしてだろうか? わたしは以下のように考えた。

わたしたちが伝道者と接して家庭聖書研究を始め、最初のころ学ぶことは
アダムが罪を犯してその影響が現在までずっと続いており、
それゆえに人間は不完全で罪を犯すことは避けられないということだ。

ものみの塔出版物では、罪ということは完全さの的をはずす、
つまり、神の基準に達しない不完全だということになっている。
これは申命記32:4、5の聖句とも調和しているように思われる。

しかしわたしは考えた。どうもおかしい!
福音書の記録を読んでいると、あるいは使徒たちの記録を読んでいると、
イエスの直属の弟子たちが多くの失敗や過ちを犯していることが
理解できるのだが、彼らは自分たちのおこないに関する言い訳として
現在のエホバの証人がするように「不完全だから仕方がない」という
せりふは言ったことはないし、イエスが弟子たちに対して
「あなたがたは不完全だから仕方がないので許してあげましょう」
などと述べたことはないだろう。イエスから叱責されていることもある。
また、パウロの書簡を読んでいると、罪の影響はたくさん述べているが、
上記のようなせりふはやはり出てこない。

だから、現在のエホバの証人がこれを用いるのは、聖書に基づいて
組織上の策略として考案した究極の言い訳だろうと思った。

また、わたしがエホバの証人として生活していて妙に感じたことは
物事をしくじったときや約束ごとを守れなかったときに、
申し訳ないのひとことを言わず、先に言い訳をはじめてしまうことだった。
わたしも人間だから、真っ先に自分の事情を説明したい気持ちはわかる。
この傾向は特に二世の人たちに多く現れていると思うが、
一世でもこの傾向の強い人がいるのは言うまでもない。

そこでわたしは現役時代に二世である子供たちにこの傾向が強いのは
どうしてだろうかということを、その母親と話し合ったことがある。
そのときの話し合いでは、彼らは子供のうちから
「愛によって許しなさい」とか「愛によって覆いなさい」
というような言葉を聞かされているので、そうなってしまうのではないだろうか?

あるいは、そうした許すという行為がまわりの信者から自発的に
なされていて、自分の失敗や過ちを指摘されないためだろう、
ということになった。これらは一理ある考えだ。

しかし、わたしはウェブで公表されているものみの塔の
過去の失敗の記録に現れている言い逃れのすべを知ってそのような言い訳を
おこなうことがもっと根深い組織上の体質だと考えるようになった。

いちばんわかりやすいのは預言が当たらなくての失敗であろう。
ものみの塔はその歴史上いくどもハルマゲドンの期日を設定しては
そのたびにはずれている。
「良心の危機」で、レイモンド・フランズ兄弟が述べているように、
ハルマゲドンが生じる期日をにおわせる話は信者側が
言い出したことではなく、ものみの塔などで組織側が公表したものを
聞いたり読んだりした信者の言動によって広められたことである。

もし信者側が言い出したことであれば、組織に先走った者とか
背教などと扱われて排斥処置の対象になってしまう。
だから、信者側からできるはずがない。

そうであるのに、いつの間にか信者が勝手に信じたとか、行き過ぎた
などということにされてしまう。

聖書をよく読んで比較検討してみれば理解できるのであるが、
聖書時代の預言者たちが、エホバから預けられた預言のことばを
語ってその成就がはずれた、解釈を間違えたなどという記録はない。
ひとつとして存在していないのである。

しかし、ものみの塔がそのような事実を外部や一部の信者から指摘されると、
自分たちは預言者たちのようにエホバの名前によって語っていないとか、
霊感を受けておらず、霊によって導かれているだけなのです、
などという言い逃れとしか思えないような言葉が出てくるのである。

どのような方策を用いても絶対に過ちや失敗を認めないというのが
この組織に染み付いた、あるいは自ら築き上げた体質であろうとわたしは思う。

この傾向はわたしが所属していた末端の会衆の長老にもあった。
すべての長老たちがそうでないことも事実である。
しかしながら、彼は自分の過ちを認めないし、それを指摘されると
不完全だから仕方がないということを繰り返した。

彼についてわたしだけがそう考えていると思っていたのだが、
あるとき別の長老にそのことを打ち明けたら、そのことを認めていた。

エホバの証人は「霊的な進歩」ということが大好きである。
開拓者になったり、長老になったり、あるいは集会や奉仕に熱心だったりすると
周囲から霊的に進歩したと認められ、ほめられることが多い。

わたしはこのいわゆる「霊的な進歩」には人間としての精神傾向の成長や
人としての人格面での向上というものが含まれていると考えていたし、
聖書にもパウロが随所でそうしたことに触れていることを読むことができる。
それだから、人間は不完全だから仕方がない、ということを
最初に持ち出すようではまったく話にならないと思ったのである。
過ちに対する改善の余地が全然ないからである。そのかけらもない。
このようなことで、霊的な進歩とはお笑いぐさである。
もしかするとエホバの証人の言う霊的な進歩とは、この言い逃れを
巧妙に使えるようになることが含まれているのかもしれない。

この事実を最初に持ち出すということは、トランプゲームでいつも
ジョーカーだけを持ち出して絶対に負けないようにすることに似ている。
いつも、刀という刃物を振り回して誰も近ずけないようにしているようだ。
要するに失敗したときの究極の切り札であり、
万人が認めるほぼ絶対的と言えることだからである。

しかしながら、社会で生活していればこの言い訳の通らないことが
多いことに気がつかざるを得ないであろう。
交通事故を起こした場合、医療ミス、職場での過ち、どのような場合でも、
謝罪と弁済が要求され、それ相応の責任を負わねばならない。

これらが必要とされるとき、人間は不完全だから仕方がないんです、などと
言おうものなら、それこそ「おまえばかじゃないか、そんなことが通ると
思っているのか」と言い返されるのがせいぜいだろう。
実際これを未信者の職場で言い訳にした二世の話を聞いている。

人間として生活している限り過ちを犯し、それに伴う責任と
自分自らおこなったことの結果に正面から立ち向かって
問題の解決の仕方を学び続けねばならないであろうと思う。
そうすることによって人は精神的にも成長して大人になっていくのであろう。

わたしたちが子供だったときにも、また現在、子供の言い訳を聞いていると
なにかを壊してしまったとき「こわれちゃった」という言葉が聞かれ、
いかにも、それそのものが自然に壊れたのか、誰か自分以外のものが
壊したかのような言い方をする場合がある。
この言い方は、しかられることを何とか、回避しようとするすべなのである。
また、大の大人であってもこれに類似する言い方をする場合が
少なからずあるのではなかろうか?

組織が、個々のエホバの証人が、預言であれ他の何であれ、過ちを犯したとき、
そのことに真剣に注意を払い、正面から取り組んで、誠実な態度で問題解決に
立ち向かっていかず、人間のおろかさや不完全さのせいにし続けるのであれば、
上記に述べた子供の言い訳となんら違いはないと思う。
端的に言うのであれば、自分たちの失敗や至らなさを間接的には
神のせいにして責任を転嫁していることになるだろう。

そうであれば、組織全体としておこなっている事柄が、世界のベストセラーと
銘打たれている聖書に基づいた言葉の子供のお遊びであり、
聖書ごっこ、キリスト教ごっこということになってしまうと思う。

この言い逃れを用いることによって、統治体が誤りや失敗を犯したとき、
権威や威厳を保つことができるだろうと思う。また、つごうよく聖書には
人間が罪を負っていることが記されているので、信じ込んでしまった
信者には言い逃れが通じる素地ができあがっていることになる。

そして、信者をマインドコントロールして、組織の拡大に貢献させたい側の
統治体などの支配階級にはつごうよく、信者を精神的な意味で
大人に成長させずに、子供の状態に保っておく役割があるのかもしれない。

この言い逃れを組織全体にいきわたらせた目的はわたしの憶測であるが、
わたしとしては現役時代から、これらの言葉を頻繁に用いることに
納得していなかったし、嫌いだったので、自分のためにも
他の人のための弁護にも用いた記憶はない。
ただ、あえて言うのであれば、自分が自分を弁護するためではなく、
他の人が自分に使ってくれるとありがたい言葉であろう。

マインドコントロールから目が覚めたので、はっきりこう書いてはいるが、
わたし自身について言うのであれば、自分自身の選択によって
精神的な成長を鈍らせる組織に身を30年近くおいたのであるから、
いっさいの言い逃れをせずに自らの責任を負っていこうと思う。


《編集者より》
あなたも書かれているように、
人間の不完全さを究極の言い訳とする心理の基盤には、
アダムの原罪の思想があると思います。
何か悪いことが起こると、それはエホバのせいには出来ないし、
自分で責任を負うだけの心構えも勇気もない、
一番簡単な逃げ道は全てをアダムの責任にすることで、
心の平安を得ようとしているのです。
これは他の宗教にもある、悪魔信仰、
サタン信仰と同じ起源であると思います。
善の源である神を信じることは基本ですが、
残念ながらある人々はそれだけでは宗教の
一番大事な不安解消を得ることは出来ません。
いくら神仏を信じても、世の中に悪事は横行しますし、
自分が信頼していた他の信者も「不完全」さから
「間違い」や「悪」を行なってしまいます。
そこに、善悪二極的な宗教がどうしても出来る
必要があったのだと思います。
現代の多くのキリスト教では、「罪」は
あくまで神と自分との個人関係の中で論じられるだけですが、
ものみの塔宗教では、伝統的な原始宗教を引き継いで、
罪や悪を外に投影し、
その存在を信じてそれに罪や悪事を帰することによって、
心の平安を達成しようとしているのだと思います。
私は、ものみの塔宗教はやはり宗教の進化の過程の中で、
いつまでも原始宗教の未熟な部分を受け継いで進化できないがために、
現代社会にどうしても適応できないが、その反面、
現代社会の中でも同じ様な未熟な精神構造を持った階層に
大きな魅力がある宗教なのではないか、と最近思うようになりました。

オフライン

#609 2017年12月15日 10:13:26

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

「輸血と血液分画についての考察」(2004/5/20)

わたしが研究を始めた30年近く前、エホバの証人が輸血を受けない
ということを聞いても何の問題も感じなかった。
わたしは高校生で、元気だったし輸血に関して必要とする
治療や怪我が自分に生じる可能性すら思い浮かばなかったのである。
だから、輸血を受けないという教義を聞いても
“なあんだ、輸血を受けなければいいのか!”という程度だったのである。

しかし、組織にとどまって時間が長くなってくると様々なことを聞くし、
ことさら、川崎で起きた“大ちゃん”事件という小学生の
輸血拒否死亡事件の時は緊張感が走ったものである。

友人にJWICを教えられ輸血に関しての多くのウェブを見るようになってから
いかに自分の認識や考えが浅はかであったかを思い知らされるようになった。

知人から2004/6/15のものみの塔を受け取って内容を確認すると
研究記事と読者からの質問が、特に血液分画の扱いに関してであることに
注意を引きつけられた。わたしもたくさんのサイトを読むことができたので
その知識にも影響されていると思うが、その助けも借りて
その号のものみの塔の記事を考察してみたい。


この記事を読んで最初に受けた印象は、
「輸血を受けるための抜け道を教える記事なのだろうか」というものだった。
以下にその理由を述べてみる。

22ページには「血に関する基本的な立場」という図表がある。
この図表はエホバの証人が受け入れられないものが
全血で、それを構成するのは、赤血球/白血球/血小板/血漿であり、
エホバの証人各自が決定すべきは、
赤血球の分画/白血球の分画/血小板の分画/血漿の分画と図示されている。

わたしは日本語で読んでいるのでこの「分画」が単数形なのか
複数形なのかはっきりわからないが、分画がひとつでは主要成分を
細かくいくつにもわけて分画にすることができないだろうから、
当然ふたつ以上の複数形だと思う。

ここでは実例として主要成分の赤血球を考えてみたい。
たとえば赤血球の分画に(a,b,c,d,e)があるとする。
分画を主要成分である赤血球にするためには分画a,b,c,d,eを
単純に合成すればよいと思ったのである。

わたしは医者ではないから緊急時にそうしたのんびりしたことを
していられるのか、分画をバラバラに体内に注入して
体のほうで赤血球として合成できるのかはわからないが、
残りの3個の主要成分だって分画の単位までバラバラにして
体内に注入できれば、結局は合計が同じになり、
全血を輸血できたことになるのではなかろうか、と思う。

輸血が必要なときは緊急時ばかりではないだろうから、
時間が許されるのであれば、分画の単位まで分けたものをいくつも
準備しておいてそれらを同時に注入するのはどうであろうか。
わたしは病院でいくつかのビンを使用して同時に点滴しているのを
見たことがあるので、素人ながらにこれを思いついた。

最近の輸血は全血を必要としない場合も多いようだから、
こうした方法は可能かもしれないし、自己血であれば、
安全性も高いので、わたしだったら抜け道として実行してみたい。
この考えが単純で愚かなことは承知だが、
このようなことを思いつく者がいることを知ってほしかったのである。

単純に言ってエホバの証人はエホバが血を食べてはいけないと
命じられたので、それを輸血に当てはめて拒否するわけだ。

サイトでは食べることに関してのたとえがよく使われているし、
イエスに見習ってたとえを使うことに熟達するよう
神権宣教学校では訓練されてきたので、それを活用する。

糖尿病の患者は糖分の摂取を制限されることが多い。
だから、彼らは甘いお菓子などは控えることがある。
甘いお菓子にはアンパンやケーキ、饅頭などがあるが、
そのどれにでも砂糖が多く使われている。

それらのお菓子の主要成分は薄皮やあんこや乳製品だろう。
それらを分離させれば、小麦粉、小豆、砂糖、乳製品、
タンパク質などの分画になると思う。もっと分けることも可能だろう。
どれも糖分があるが甘い大元は砂糖という分画である。

医者から甘いものの代表として菓子類を食べないように言いつけられた
患者がお菓子の分画である砂糖を食べたり、水に溶かして飲んでも
点滴したりしてもいいと理解するであろうか?

そのような理解は子供じみたこっけいな言葉の遊びという意外にはない。
だから、血を避けること、食べないことを輸血に適用するのであれば、
主要成分はだめで、分画は良心の問題などとわかりにくいことを言わずに、
すべてを徹底して避けるほうが道理に合っていると思う。
これ以外は矛盾と混乱を引き起こすだけだろう。

一世紀当時のクリスチャンが血を食べなかったという証拠に
「テルトゥリアヌス」という人物がものみの塔では頻回に使われている。
わたしは1977年頃発行された「エホバの証人と血の問題」という
小冊子をはじめにずいぶんと血に関する出版物を読んできたが、
聖書以外の出典で一世紀当時のクリスチャンが血を食べなかったという
証拠として提出されるのが、この人物のことば以外に読んだ記憶がない。

もうひとつあるとすれば、迫害で死ぬ直前にクリスチャンがどうして
血を食べるであろうかと語ったとされる名もない少女の言葉である。
今回の記事では「テルトゥリアヌス」以外は登場していない。

仮に上記の二人がそうした記録を残したとしても、
非常に証拠に乏しいのではないだろうか。
当時のキリスト教の人々がほんとうに血を食べなかったのであれば、
もっと記録があってもよいと思うのであるが、どうだろうか?

さて、研究記事21ページの10節から12節は「医薬としての血」
という副見出しになっており、血液の主要成分と分画に分け、
エホバの証人が主要成分を受け入れず、分画を受け入れる
根拠が述べられているのであるが、信仰の基本である
聖書中の聖句が、かっこ付きであったとしても
ただの一部分も引用されていないことが非常に目立つ。
要するに神からの直接の指図はないという証拠だろう。

ここで根拠として提出されている文献は
エホバの証人自らアメリカ医師会ジャーナルに寄稿したもの、
「救急医療」というテキストの文章である。
これらを読んでも主要成分は受け入れず、分画であるのなら
良心上の問題であるという聖書的根拠は示されていない。

わたしがJWICも含めて、ネット情報を何も知らなかったときから、
もっとも当惑し欺瞞的でおかしいと感じた
一文がここにも使われている。

それは「証人たちはこれらの句により…」「医学上の事実とも
一致してエホバの証人は…」「証人たちの宗教上の理解によれば…」
など、責任転嫁と考えられる表現である。
これらの表現はことばを変形させ、多く用いられてきた。

信者一人一人が人生や命をかけねばならない場合に、
このような表現を用いて、それら統治体が提出する規則集に
あたかも信者が自分自身も同意し、賛成したかのような印象を与えるが、
わたしたち自分個人は同意も賛成もしていないので、
ここで述べられている「エホバの証人」とはいったいどこのだれなのか、
という強い疑念にとらわれるのである。

わたしたちが、血に関する理解も含めて、新しい解釈が統治体により
公表される以前に自分で聖書を学んで、ある事柄を良心上の問題であると
定めて、実行し、他の仲間に話したりするのなら、おそらく多くの場合、
背教行為と解釈され、審理委員の聴聞を受けることになる。

そして、悔い改めて、その行為が間違っていたことを認め、
実行することをやめないのなら、排斥になることは間違いない。
聖書そのものよりも組織の解釈が優先されるからである。
いや、その長老たちのきまぐれな気分かもしれない。

だから、「エホバの証人は…」と記されてはいるが、
ここで述べられているのは、執筆委員の兄弟たちか、
これらの記事を承認した統治体の人々であることは間違いない。

ものみの塔のバプテスマを受けた信者によってバプテスマを受けた研究生は
「エホバの証人」であるとみなされるから、そのような表現を使うことにより、
血液分画を使用せずに死亡事故が生じた場合に、記事の執筆者や統治体に
責任が及ばないという狡猾で、ずる賢い書き方であるとも思う。

さらに、29ページから掲載されている読者からの質問であるが、
2000年6月15日号の再掲載となっている。

「再掲載」と言うから、質問までそっくりかと思ったが、2000年6月15日号の
29ページに記載されている質問は「エホバの証人は、血液に由来する
医薬品を受け入れますか」となっており、
今回のほうは「エホバの証人は、血液の小分画を受け入れますか」である。
答えの内容に差異はなさそうである。

ここで述べられている「血液に由来する医薬品」と「血液の小分画」は
どのように異なっているのであろうか?

わたしのような素人が、血液に由来する医薬品から思い浮かべるのは
全血、主要成分、分画など血液関係全般すべての医薬品であり、
血液の小分画といわれれば、分画のみを考える。

質問内容を変更した理由は、JWICなどで公表されている、
「ポリヘム」などの血液成分が使用されるようになってきているからだろう。
これは、ヘモグロビンの薄皮をむいたものとされているので
明らかに組織の言う血液の小分画だと思う。

この読者からの質問に関しての妥当性には、JWICからリンクされている
サイトで多くが述べられているが、わたし自身はそれらの意見に賛成している。

わたしはJWICなどからの情報を得てから、ことさら聖書を注意深く
読むようになり、輸血に関して組織と対立する意見を持つようになった。
当然分画についても同様である。

現在のわたしの意見は、この血に関する教義は命がけで守るべきもの
ではないというものである。
もちろんのこと、健康上の問題から血液に関連する感染症を避けたいので、
可能であれば血液関連の製剤は一切避けていきたいが、
事故や手術において多量の出血が生じた場合は、必要に応じて用いることも
キリスト教の原則に反していないと思う。

また、5月の投書のひとつで編集者が述べているように、
ものみの塔が過去において種痘を禁じて、それを撤回したときと同じように、
血の教義が撤回されたとき、それにより排斥されて精神的な打撃を
加えられ、また輸血拒否により、死に至ったりした仲間に対して、
また神に対しても、どのような弁解をおこなうのかということにも、
大きな関心を抱いている。
はたして、こうした教義が継続されてもいいのであろうか?

わたしが自分で聖書を研究して考察したことについては、
別の機会に公表してみたいと思う。
彼ら、聖書研究者と自称してきた、エホバの証人個人個人が、
いかに聖書そのものを読むことをおろそかにしてきたことを知ってもらい、
自分の信仰の根拠を自らの知力で再確認してほしいからである。


《編集者より》
本年(2004年)6月15日のものみの塔誌は、
2000年6月15日のものみの塔誌に掲載された、
輸血拒否に関する方針転換の記事の4周年記念のように、
この新しい方針を再確認する記事を掲載しています。
しかし、細かくこの記事を検討すると、
興味ある問題がそこには内在しています。
この編集者は、
現時点で日本語のものみの塔誌6月15日号を入手しておりませんが、
英語版で検討してその解説記事を英語で掲載しています。
このリンクでご覧下さい。(リンク切れのようです)
日本語版のものみの塔誌が入手できましたら、
次回の更新時に日本人向けにした日本語版を掲載する予定です。

ラハムさんも「抜け道を教える」と指摘していますが、
この記事は「輸血拒否」の「原則」を前面に打ち出すことをしながら、
もう一方でいかに沢山の血液製剤を受けて構わないかを
強調する記事となっています。
早い話が、「原則で拒否、実際には受け入れ可」という姿勢で、
いかに原則を形だけ守りながら、
実際には輸血を受け入れるのと同じ効果になる「抜け道」を、
何度も強調して教えているのです。
この記事は、「皆さん、これらの血液製剤は受け入れて構わないのですよ、
忘れずに受け入れなさい」と必死で呼びかけているようです。
ラハムさんも指摘しているように、原則が血液を受け入れないことなら、
単純に全てを拒否すればいいはずなのに、
実際にはものみの塔協会は必死で
「血液の小分画」を受け入れるように呼びかけているのです。

このことは、ものみの塔協会の輸血拒否の教義がますます形骸化し、
ここまで無数の死者を出してきた長年の協会の方針を
引き下げるわけにはいかず、そうかと言って輸血絶対拒否を貫いていては、
ますます死者が山積し社会や医学界からの風当たりが強くなることから、
教義を実質的に形骸化し、広い抜け道を作って何とかお茶を濁そうという、
ものみの塔協会の狡猾な苦肉の策を良く示しています。
聖書の時代にパリサイ人の安息日の教義が形骸化していたのと
何と良く似ていることでしょう。
よくエホバの証人は現代版パリサイ人と言われますが、
輸血拒否の教義は、その最も良い例と言えるでしょう。

オフライン

#610 2017年12月16日 11:28:32

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

きょう、12月16日はわたしの脱塔記念日です。
誕生日のようにお祝いしたりしませんが、
生涯忘れることがない日だと思います。
あすから脱塔15年目が始まることになります。

14年前の12月16日最後の集会に出席し、
奉仕会の紹介の言葉を扱ったのを
最後に集会出席を辞めました。
当時奉仕のしもべでしたが二人の長老に
僕を降りることを告げていました。
わたしは、奉仕のしもべに任命されるとき、
長老二人の前で自主的に立場の受け入れを宣言したので、
信じられなくなったとはいえ、無責任な辞め方は
したくありませんでした。だから、最後の割り当てを果たし、
集会の参加を辞めたのです。

奉仕のしもべの削除が発表されたのは、
それから半年後でした。

その集会から帰宅して、近所のすし屋に行き、
おいしいものを食べながら脱塔の祝杯を一人で上げたのです。
そのすし屋もたぶん主人の高齢化で店を閉めたようです。
あれから、丸14年ですが、ずいぶん経ったものです。
脱塔したことを後悔していません。
取り戻した霊的・精神的自由を
これからも謳歌し続けようと思います

オフライン

#611 2017年12月16日 13:03:47

野の花
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

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編集者 野の花 (2017年12月16日 13:14:04)

オフライン

#612 2017年12月16日 15:36:50

てつてつ
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

ラハムさん おめでとうございます

取り戻した霊的・精神的自由をこれからも謳歌し続けようと思います

楽しんでくださいね kiss

脱塔後すぐに生活を立て直すことを考えて必死に働いて来ました。
集会や奉仕や会衆内のお年寄りの世話に当てていた時間を働いて
天に宝のつもりだった寄付も貯金し将来に備えました

野の花さん大変だったんですね cry  なんとなくお金持ちの奥さんかなーなんておもってましたので

年金も生命保険もJWは信仰があるので払わないんですと
司会者や他の姉妹から言われていました

自分もそういわれて開拓時代免除の申請してました あとで払いましたけど 貯金があと一月分の生活費しかなくなって開拓おりました そのときは0になるまでやらなきゃ信仰が少ないのではと自責の念にかられたことを覚えています cry

まさか生保ではないですよね

生活保護しかないのではないでしょうか cry

編集者 てつてつ (2017年12月16日 15:44:25)

オフライン

#613 2017年12月16日 16:14:25

鬼太郎
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

本当に罪な組織ですね。
最後はエホバが養って下さる  幾度も言われたものです。
本当にJWにあてはまるかどうか、還暦を過ぎた開拓者だった現役JW達は知ることになりますね。
もうとっくに楽園になっているはずでしたから、、、。

オフライン

#614 2017年12月16日 16:57:55

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

野の花 さんの発言:

’87~88年頃 日本で大勢(800人?)の特開者が降ろされ
これからは正規開拓者として生活するようにと海老名支部から
言われましたが現在年金世代の彼らがどんな生活をされてるのか
興味があります。
まさか生保ではないですよね。

野の花さん、てつてつさん、
わたしの脱塔記念日に祝杯を挙げてくださり、
ありがとうございました。
この掲示板に集う、
いやすべての脱塔者の健康を祝し続けたいです。

さて、野の花さんが述べておられることですが、
当時、能登半島珠洲市で奉仕していた特別開拓者の
女性たちに事情を聴いたことがありました。
このころ社会的に「リストラ」ということがはやりで、
特別開拓者から正規開拓者に移行することを
「リストラ」と表現していたのを思い出します。
年配の女性と比較的若い女性のペアでした。
協会から正規に戻るすすめの手紙が来て、
その提案に従っていました。

ところが後日その提案というのは日本支部委員が
地帯訪問者の言葉を誤解してなされ、
誤解したことを統治体から知らされたということだったのです。
それで、正規に戻った人たちに再度特別開拓に復帰するよう
知らされてきたということでした。
たぶん、元の地位に多くの人は戻ったのでしょう。

でも、わたしは特別開拓者の老後というのは聞いたことがありません。
その時代協会から支給される生活費を「手当」と表現し、
後ほど「払戻金」という言い方になったと聞いています。
これをいつまで支給してくれるのか知りません。
多くのJWの場合「国民年金」に加入することになりますが、
掛け金を支払っていても、知ってのとおりその年金額では
生活全般を賄うことが不可能な額です。

ですから、国民年金での不足分は
生活保護を当てにすることになってしまうのが現状でしょう。
自分たちが老年期に突入する前に楽園が来て、
すべてがバラ色になるはずだったのですが、
それは無情にもはかない夢だったのです。

わたしは幸運にも親が準備しておいてくれた資産を
賢く活用することによって生き延びていますが、
親がJWであってもどこまで準備してもらえるのか、
当てにすることはできないでしょう。

現役の皆さんは現実を見据えて、
将来の生活を計画しなければならないのです…。

編集者 ラハム (2017年12月16日 16:59:42)

オフライン

#615 2017年12月16日 17:54:45

鬼太郎
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

ラハム兄弟 親御さんが資産を準備しておいてくれて、本当に良かったですね。
金は身の守り ですね。
現役の時は、稼ぐことが悪いことのような、変な価値観でした。
某巡回監督などは、『全時間働くのは物質的な人、パートで働くのは霊的な人』などととバカ丸出しの話をしました。

オフライン

#616 2017年12月16日 23:20:58

iris
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

ラハムさん、脱塔14周年おめでとうございます。
本当に素晴らしい選択をなさった記念日ですね。
これからもラハムさんらしく、充実した日々をすごされますように。

オフライン

#617 2017年12月17日 14:18:37

またい7:7
ゲストユーザー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

ラハム、おめでとう。遅れてごめんなさい。
      心から。

#618 2017年12月17日 18:37:29

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

irisさん、またい7:7さん、
脱塔祝いのお言葉をありがとうございます。

皆さんにお祝いしてもらうというよりは、
自分の人生の整理をし、気持の整理も成し遂げてゆくという
意味で書き込んでみたのです。
これほど皆さんに喜んでもらえると思いませんでした。

その同じ時期、ちょうど50年前のきょう、
施設にいたわたしに連絡があり、葬儀に出席することになった
おばさんの50回忌として墓参りをしてきました。
当然、お布施を納めて塔婆も立ててきたのです。
弟や甥の家族の協力を得てできたことです。

JWからすれば偶像崇拝であり、バビロン的なことです。
でも、わたしはこのおばあさんの復活を見るために
命がけでJW人生を歩んできたことも厳然たる事実なのです。
脱塔することはこの希望が実現せず無意味であることを
認めることが必要でした。
わたしは断腸の思いであきらめたのです。

わたしも還暦を超えました。
50年の歳月は非常に長く感じています。
まさか、50年前のおばあさんの50回忌を計画することなど、
考えることがあるとは想像すらできませんでした。
おばあさんの思い出にけじめをつけ、
自分の気持ちを整理するための行動だったのです。
これからは思い出を大切にして生きようと思います。

考えてみれば、JWも法要に近いことをしています。
それは、毎年必ず行われている記念式の行事です。
イエスが西暦33年に亡くなったとすれば、
2000回近く記念式があったことになり、
思い出していることになるのです。
だから、別の表現では二千回忌ということでしょう。

JWがキリストを愛して毎年思い出す行事をするなら、
わたしたち一人一人が大事に思ってきた人を
思い出すための行事をすることに異存はないのです。

現役の皆さんは、人が人間として心の内で
何を大事にする必要があるのか
ぜひ深い考察をしてほしいと思います。

編集者 ラハム (2017年12月17日 18:40:13)

オフライン

#619 2017年12月17日 20:22:49

三太郎
ゲストユーザー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

いつの日か必ず、おばあさんに会えますよ、ラハムさん。きっと。
私は自分のじいちゃん、ばあちゃん、その他の方々、本当に自分に良くしてくれた人に、いつの日か会ったなら、何も返せず、お墓にも行けなかったことを謝りたいです。

#620 2017年12月18日 15:08:15

iris
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

子どもが重い病気や障害を負うことになって、復活のときにその病気や障害がなくなることを希望として、そのためにエホバの証人をしている人も少なくないように感じます。ものみの塔の出版物でもそのような体験談を読んだことがありますし、実際にそのような親子と関わったこともあります。

そのような希望をもって満足している方には何も言うことはないのですが、それが本当に慰めになるのか疑問に思います。そのような希望のために「エホバに献身」して、世を否定して生きることが本当に幸せなのでしょうか。

特定の信仰を持たなくても、この世の命を終えた後に天国や極楽で親しい人と再会すると期待している人は珍しくないと思います。また、天国や極楽でも病気や障害に苦しむと思っている人はあまりいないのではないでしょうか。そうなるとエホバの証人でなくてもいいように思います。

私も亡くなった祖母や子どもたちに天国で会うことを楽しみにしています。地上では短い命だった子どもたちも、天では曾祖母と楽しく遊んでいることでしょう。科学的根拠はなくても、それが私にとっての慰めになっています。

オフライン

#621 2017年12月18日 15:32:25

iris
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

ラハムさんの真剣な思いは尊いものと思います。

それだけに、ものみの塔の組織のほかに慰めとなるものと出会えていたらと思わずにはいられません。
それが宗教である必要はありませんが、宗教であってもよいと思います。

オフライン

#622 2017年12月18日 17:07:14

てつてつ
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

子供たちって irisさんの子供さんですか おばあちゃんは順番で仕方がないとしても 子供さんは残念でしたね cry

オフライン

#623 2017年12月28日 17:07:25

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

世の中のことわざに
「地獄の沙汰も金次第」というのがあります。
この言葉の意味を知らない人はいないでしょう。
これを文字ってこれから、
「任命の沙汰も金次第」、
「排斥の沙汰も金次第」をしたためてみたいと思います。

この掲示板にも何回か書き込んでくださった、
「パパさん」というもとJW兄弟のブログがあります。
このブログに
「長老や奉仕の僕になる為の秘訣」という記事があります。
「https://ameblo.jp/beth-sarim/entry-12318653270.html」ですね。
この記事を読むと彼も入信したての頃は、
早く奉仕のしもべになり、特権を得たかったと述べています。
そこで友人に相談すると巡回監督に心遣いを渡すよう提案されたので、
これを実行したところ、あっさり任命されたいきさつが述べられています。
金額も3万円だったということですね。

わたしは最近までわいろが使われて任命に影響があることを
知りませんでしたから、へどが出そうなぐらい不快になりました。
ひと月ぐらい気分的におかしくなったぐらいです。
集会や奉仕に熱心で霊的に成長できれば、
わたしのようなものでも僕や長老になれると
心の底から信じ切って必死の努力を払い続けてきたのです。
でも、努力などせず、ちょっとわいろを工面すれば、
あれほどの苦闘を払う必要はありませんでした。
当時、それぐらいのお金は持っていましたから…。

このことを最近脱塔した友人に話したところ、
彼はわいろが使われているのを知っていたと話してくれました。
彼は二世で、父親がJW長老歴50年以上の人物です。
あるとき父親からこっそり打ち明けられました。
ひとりの姉妹の審理問題を扱ったとき、協会から連絡があり、
その人を排斥しないよう通達されたそうです。
理由はその人が協会に直接多額の寄付をしているからだというものでした。

だから、排斥にあたるようなことをしていても協会に直接
多額の寄付を送金していれば、処置を免れる可能性があります。
わたしはこれを聞いて、排斥されて復帰したい人は
多額の寄付をすれば、早急に復帰できるかもしれないと思いました。
復帰を認めてもらうのはたいへんな努力を必要とされますから…。

最近、協会は寄付に飢えているような傾向がありますので、
効果絶大だろうと思うのですが、いかがでしょうか。

それにしても、自らが軽蔑しているこの世よりも金に汚いです。
やはり、脱塔して大正解だったというのが真実でしょう。

「地獄の沙汰も金次第」、
任命の沙汰も排斥の沙汰も金次第というところに
現役の皆さんはとどまり続けたいのでしょうか…。

編集者 ラハム (2017年12月28日 17:09:22)

オフライン

#624 2017年12月28日 17:33:05

とおりすがり
ゲストユーザー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

>理由はその人が協会に直接多額の寄付をしているからだというものでした。

あー、やっぱり。
それもあるかもしれませんが、お偉いさんのどなたかに直接個人的な寄付をしていた可能性もあるとおもいます。

#625 2018年01月05日 16:33:37

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

JWICに書き込んだものです。もう14年近く前の投稿ですが、
今、読み直してみても気持ちは変わらないなあという
印象が強いですね…。

「30歳を過ぎて理学療法士になられた方へ」

(2004/6/21)
わたしは兄弟の気持ちがよくわかります。わたしも組織に30年
近くいましたが、ついに結婚できませんでした。いや、つきあってくれる
女性も皆無に等しいものでした。交際を申し込んだとき、
わたしの話も最後まで聞こうとしない人がほとんどだったのです。

わたしの場合、正規開拓奉仕をおこない、奉仕の僕となって
書籍研究の司会、奉仕会、神権宣教学校、公開講演など、
いわゆる長老でないと果たすことができないとされること以外は、
およそ何でもおこなってきたのですが、そのようだったのです。

兄弟は理学療法士になられて、援助の必要な高齢者や肢体不自由者に
接することを職業とされましたから、わたしの経験よりも
肢体不自由者の兄弟の経験のほうがなじむであろうと思いますので、
最近組織を離れた理由を手紙で知らせてきた、
障害を持つ、兄弟の経験をお伝えしたいと思います。
彼に許可をいただきましたので、特定されない程度に
手紙を引用してみたいと思います。

-以下引用文です-

…わたしが組織に、はいってきた理由のひとつとして、
世の中では障害者として疎まれているわたしが、
聖書のすばらしい原則を信じ実行している人々の中から、
自分が愛情を注ぎ、偏見もなく自分をも愛してくれる
女性が見つけられるという期待感もあったのですが、
これは完全に裏切られる結果になり、
つまづかせるものになってしまいました。

わたしが女性を見る目がなかったというのもあるとは思います。
わたしとしては霊的であれば、きっとわたしの人間としての
価値を認めてくれ、障害を持っている障壁を乗り越えることが
できると考えました。でも、そうではなかったのです。

この15年間は必死になって配偶者を見つけようと努力をし、
見合いもしたのですが成立しませんでした。交際相手を見いだそうとして、
せめて交際だけでも申し込むのですが、それも成立しませんでした。
こうしたことが幾度も生じ、わたしは「人間としての価値がないのだろうか」
という思いに、取り憑かれたようだったのです。

あるときは、同じ障害を持つ娘の母親からわたしに向かって
「兄弟は結婚する資格はない、王国会館を背負ってあげてもらっている人が
自分の娘の世話をできるはずがない」という暴言までありました。
この二人はともにバプテスマを受けています。

わたしたち人間は生まれてくるときの状態をだれも選択はできません。
ましてや、障害者になるかどうかなどは選択の余地はないのですが、
真理を知ってエホバの特質を反映していると主張している人々の中から、
無理解どころか、傷つけ打ちのめすようなことばの出てくることが
わたしには信じられませんでした。組織と交わったわたしには期待とは、
逆のことが生じてしまったのです。
 
でも、悪いことばかりではありませんでした。わたしがほんとうに
霊的であろうと、努力してきたことを認めてくれる人はいました。
**姉妹や##姉妹、現在ヘルパーに来てくれている$$姉妹も
そうだと思いますし、わたしの人生においてみなさんは貴重な存在です。

エホバの証人として聖書を学んできた者として残念な感じ方かもしれませんが、
パソコン教室や他のことを通して多くの慰めを得ていることにも
気がつきました。わたしとしてはより霊的な人として成長するために
努力をしてきても、自分の人間としての価値をほとんど認めてもらえなかった
と思うわけですが、パソコンの指導は、いくらかの収入になり、
尊敬され、感謝されることが多くなりました。

また世界中では戦争やテロの脅威があるわけですが、日本において、
特にわたしにとってかもしれませんが、障害者にとって
生活しやすくなっており、社会全体としても、わたしが子どもだった
ときよりも積極的に手助けしてくれ、やさしくなっているというのが現状です。

今のわたしにとっては、聖書の言う終わりの日のしるしとは正反対のような
気さえするのです。いったいどうなっているのだろうかとさえ思います。

わたしは自分の意志と選択によってエホバの証人になりましたので、
そうなったことについて後悔はありませんが、
あまりにも自分を傷つけすぎました。これを回復させるには
膨大な時間が必要であり、おそらくは人生の幕を閉じるまで
背負っていく荷なのでしょう。ですから、どうぞ温かく見守ってください…

-ここまでが引用文です-

彼がリハビリを施されたのは小学生時代でした。
現在から40年以上前の出来事でしたが、そのころのリハビリの考え方は
不自由に生まれて身体的な機能が欠損している子供たちに
スパルタ式の残酷で非人間的な訓練をおこない、無理やりにも、
健常者の社会に物理的適合をさせようとするものでした。
それは非常につらく苦しいものだったのです。

現在では、バリアーフリーという言葉がちまたで聞かれて、
障害を持った人々の必要に合わせ、さまざまな改良改善がなされ、
精神面でも、物理面でもハンディというものを軽減しようという方向に
社会全体が動いていると思われます。

わたしはこの広場の投書に組織での障害者に対する扱いを書きましたが、
それは主に彼のことでした。(2-28-04)

エホバの証人は聖書の預言を現代に当てはめて、
社会全体の愛が冷えることを主張しています。
でも彼の話では、自分が車いすで病院の外を出歩くようになった、
30年以上前と比べると現在のほうがずっと暖かく、親切で
人々が気軽に声をかけて、サポートを申し出てくれるそうです。

兄弟は霊的な差別の存在することを述べておられましたね。
まったくそのとおりだと思います。
エホバもイエスも外見を見ずに心を見ると聖書は述べています。
当然、エホバの証人もそうであるべきですが、現状は違っていました。

もしそれができるのであれば、真に聖書的・霊的であれば、特権の有無や
身体上のハンディに左右されることは非常に少なかったでしょう。
それですから、彼もわたしもパウロが述べたテモテ第二3章の終わりの日の
自然の情愛がないとか愛が冷えるというイエス・キリストの
預言を自ら成就させているのは、
エホバの証人全体としての傾向だと考えています。

組織を離れて彼は、半年になろうとしていますが、
自分の所属していた会衆には80人ほどの成員がいても、
この手紙に現れる**姉妹以外からは
電話の一本、はがきの一枚もないそうです。

長老も4人いますが、最初のころ同じ群れの長老からいくどかの
電話があっただけで、ほかの3人からは何もありませんでした。
彼は電話をかけてきた長老は彼を大きく傷つけたゆえに
非常に嫌っていましたので、電話をしないように
伝えたところそれっきりになりました。
##姉妹は以前から親しかった近隣の会衆の人です。

彼はエホバの証人ではない友人の提案で視覚障害者を含めた
パソコン指導の技能を身につけ、パソコン教室を開いており、
手紙で述べられているように、組織では得ることのできなかった、
感情的な必要を満たすようになっています。

編集者が兄弟の投書に対するコメントで述べてくださっているように、
高齢者や身体の機能にハンディのある人々を扱うには、
エホバの証人のおこなっているような一律の価値観を押し付けたりせずに、
その人々のありようを受け入れ、個々の人の人間としての自尊心を保ちつつ、
残された機能を最大限に活用できる道を模索することが必要でしょう。

こうした事柄は、組織の拡大に貢献せず、役に立たない人々に
無関心になっていくエホバの証人全体の傾向とは大いに異なります。

わたしも長いこと組織と関係を保ってきた人間ですから、
編集者が「神の神経学」で述べておられるように、進化の過程で
「内なる神」という概念を獲得してきたことを受け入れておりませんが、
反面「内なる神」という概念は長いこと神に関する考察を続けてきた
わたしには、疑問に関してひとつの答えが与えられたと感じております。

外なる神や内なる神が存在するのかどうかは別にしても、
この投書を読んでいる、兄弟やわたしたちが存在し、
この世の中の片隅で生きていることは厳然たる真実だといえるでしょう。

そして、このサイトの編集者も彼もわたしもあなたも
人としての良心を持ち、他の人の福祉を顧みたいという
気持ちを抱いて生活していることも真実なことです。
これがわたしたちにとっては「内なる神」かもしれません。

早い時期に組織から出てリハビリや他のことをおこなえばよかったと
考えて悔やむことは当然のことです。ですから、後悔を感じるのであれば、
そう感じることは、その人にとって必要なことですので、
そのように感じる自分を受け入れて愛し、大切になさってください。

そして、その中から立ち上がってきたときに、自分がいたことを悔やんだ組織で
学び知ったことが、きっとリハビリで扱う人々の必要を顧みるために
役に立つことが少なからずあることを発見できるでしょう。

あなたにお会いすることはないであろうと思いますが、
同じ空の下で生きており、同じような苦難を味わったもの同士として、
わたしは残りの人生をできる限り有意義に生きていくつもりです。

どうぞ、ご自分の人生の持ち時間を大切に有意義に送ってください。
そして、最善・最良の配偶者が見つかることを願っています。

《編集者より》
ものみの塔の教える「終わりの日」の証拠の一つとして、
現代の社会の愛が冷えていることがよく上げられますが、
あなたも、あなたの障害者の兄弟も書いているように、
必ずしもそのようなことは言えないと私も思います。
人の愛の表現の仕方が変わっていることは、
全ての人間の行動と同様、時代と共に変化するので当然ですが、
昔のような愛情表現がなくなった代わりに、
昔なかったような愛情の表現が出てきたのも確かでしょう。
障害者に対する扱いはその一つの例でしょうし、
高齢者、女性に対する扱いも、社会全体としては
昔よりはるかに愛情があるように思います。
これも、ものみの塔協会がいかに物事を
一面的にしか見ないかを示す、一つの例だと思います。

私の著書で論じた「内なる神」について言及されていますが、
「内なる神」の元型は、やはり誰にでもある
愛情、同情、哀れみ、良心などであると思います。
これが組織だった個々の宗教よりも、
人の心(脳)に普遍的に存在し、人の宗教心の原点になっていること、
それが「内なる神」を論じた私の本の一番の論旨なのです。
あなたも多分気がついておられると思いますが、
あなたも私も、多くの元エホバの証人も、
その外形はどうであっても「内なる神」において、
共通のものを分かち合えるのではないでしょうか。
これが私の訴えたい結論なのです。

この書き込みに出てくる障害を持つ兄弟というのは
読み直してみるとわたし自身です。
脱塔した直後だったので、特定されることを
懸念していたのだろうと思います。
いまとなってはどうでもいいことですが…。

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