#201 2017年11月21日 01:59:34
- ユーリ
- メンバー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
連続性(スペクトラム)ということから・・・。
キリスト教が始まって現代に至るまで、多くの分派が存在してきました。
あきらかに、エホバの証人もキリスト教の連続性の結果です。
「人間は社会的動物である」とは、紀元前328年ごろにアリストテレスが著した『政治学』の中に書かれていた一文です。
社会心理学者のゴードン・オルポートは、
社会心理学を「他者が実際に存在したり、想像の中で存在したり、あるいは存在することがほのめかされている
ことによって、個人の思考、感情、および行動がどのような影響を受けるかを理解し説明する試み」と定義しています。
この場合の他者は、実際に目の前に存在している必要はなく、頭の中で他者のことを想像したり、
他者に見られているかもしれないと思ったりするだけで、さまざまな心理的変化を経験することも含まれています。
また、さまざまな極端な事件、たとえばホロコーストや悲惨な事件がなぜ起きたかを
検証することによって、それまで当たり前のように”真実” だと信じてきた事柄が、研究によって
”誤り”だと明らかにされました。
実際、社会心理学では、人が他者の行動について考えるとき、状況(環境)の影響を軽視しがちであることや、
後知恵バイアス(ある事象がおこり、その帰結を知ってしまうと、その帰結は事前に予測できたものとして、
自分の予測能力を過大に評価する傾向のあること)のために、
一旦、事が起こった後では「最初からそうなると思っていた」と考え勝ちで、しかし現実には事前に物事が
そのように進むと予測できることはまれであることが、実験結果として実証されました。
エホバの証人などの団体は次から次へと出現しており、実際にレオン・フェスティンガーという人は、
ある新興宗教集団に潜入調査をし『予言が外れるとき:この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する』
という書籍を参与観察の記録として出しましたが、元エホバの証人である人が読めば、その教団の行動が
予言をはずしたあとのエホバの証人とほぼ同じであることがわかります。
ご存知の方も多いと思いますが、それらは「認知的不協和理論」としてまとめられています。
これは長くなるので、続きはまた書きますが
自分は大丈夫と思っている人で、大丈夫な場合はとても少ないということが実証されています。
詐欺やカルト被害は、とても多いのです。
実際に被害件数に上がっていないものが、どれほど多いか元JWだったらきっとわかると思います。
誰だって、自分の黒歴史を人には言いたくないものです。
詐欺に遭った人も、恥ずかしいし怒られるから、家族にも誰にも言わないで、苦しんでいる人も大勢います。
また権威に対して服従をするという性質は、集団生活を営む人間にとっては、欠かせない性質です。
物事を成し遂げるには、ヒエラルキーが必要であり、そこには必然的に下位の者による上位の者への
服従が含まれます。
人の脳が、実際に目の前に存在していない他者の影響を受け、性質として権威に服従するのであれば
連続性の中にある宗教がどこまでが現実か、妄想かなど判断をつけるのは容易ではありません。
ましてや、こういう場合 つけを払わされるのは、子供たちなのでは。
現在は測定技術の進歩により、脳神経科学の分野で解明されていることが、
さまざまな現実場面に応用可能となってきています。
編集者 ユーリ (2017年11月21日 02:04:24)
オフライン
#202 2017年11月21日 13:19:41
#203 2017年11月21日 19:26:15
- ユーリ
- メンバー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
irisさん、こんばんは。
情報量が多いのはいいことですね。
『予言がはずれるとき』(1956年)
フェスティンガーの実験だけ記述しておきます。
古今東西宗教には救世主の再来、大災害による世界の破滅など さまざまな予言がつきものということで、
信者たちは預言者、教祖の行う予言は信者たちに最悪の結果を回避し、最良の結果を得られるよう祈りをささげ
宗教活動にいそしんできました。
ただほとんどの場合は、予言は外れています。
本来なら、信者たちは予言が外れたことにより、失望し、宗教活動に熱心だった人たちも、意味のないことだと理解し
離れていくだろうと、常識的には考えられますが、歴史的事実を見ると、逆のことが生じていることに
研究者たちは気がつきました。
予言が外れた場合、信者たちはますます教団に愛着をもち、熱心に宗教活動にいそしんできたというのです。
実際、このある女性が教祖となった新興宗教に潜入した研究者たちは、それを実体験しました。
12月のある日に、アメリカに大洪水が起こって、選ばれた人たちだけが UFOに乗った宇宙人に救い出される
という予言が外れたにもかかわらず、信者たちはその後さらに熱心に布教活動をおこなったそうです。
数年の潜入観察で、明らかになったことです。
その後別の研究者が類似の研究を何度も行っていますが、結果は同じようなものだったそうです。
エホバの証人も、何度も予言をはずしていますが、何十年も信者を続けている人もいます。
そして、とても組織に愛着を持っています。
これは信者たちのよりどころとなるものがなくなった場合、極度の不協和を自分たちの内部に巻き起こします。
その不協和を解消するために、手っ取り早いのは、その教団を脱退することです。
ですが宗教活動に費やしたそれまでの時間や労力やお金、また人間関係、などを犠牲に払った人たちは
どうやっても取り戻せるものではないのです。
つまりそういった人々にとっては、教団を辞めるという選択肢ははじめからないので、「自分は教団の信者である」
という認知を前提としながら、その認知と矛盾しない別の認知を作り出す必要があります。
それは、「預言は実は外れていないのだ」という認知だったり、
「預言が外れたのは、自分たちが熱心に祈りをささげたからなのだ」 だったり、つまりは私たちの教団は
素晴らしいものなのだと、認知だったりします。
それだけでは足りない場合は、さらにはますます熱心に布教活動を行うことにより、
信者の数を増やすことで、私たちと思いを共有する人達がこれほどまでにいるのだから、
この教団はすばらしい教団に違いないという認知を作り出すことになります。
「認知的不協和理論」です。
傍から見ると、あきらかに矛盾していることや、厭わしい行いが教団内で行われているとしても、
それを認知しないことは、その矛盾から逃れるために無意識に行われることだと観察することができます。
だから先に脱退した者がいくら教団内にいる信者に、「預言が外れてるじゃない!」とか、
「教団内で、児童の性的虐待が相当数行われているし、裁判にもなっている」と、訴えても
まったく動じないのです。
私の友人の元JW2世は、組織を離れるときに自分の弟から「今までがんばってきたのに、もったいない」
と言われたそうです。
間違っているかいないかに関わらず、それまでのコストを「もったいない」と考えるのでしょう。
人が常識的に考えると、予言をはずす宗教から離れるのは当然と思うでしょうが、そうではないのが現実のようです。
これは宗教に限らず、現実の生活の中でも多く見られます。
傍から見るとわかるのに・・・、ということでしょうね。
オフライン
#204 2017年11月22日 12:30:45
- ユーリ
- メンバー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
実は、NHKの100分de名著 「聖書」では、一神教のはじまりについて、この上記の原理で説明してありました。
私は社会心理学の基礎の教科書から書いたのですが、その番組では北のイスラエル王国が滅びたときに
一旦多くの民が離れましたが、それまで仕えていた一部の人々の考えを解説していました。
自分たちが苦境に陥った時(つまり、予言がはずれたときと同じです)→
「駄目な神に仕えているわけには行かない」→「神が駄目なわけではない」→
→「自分たちが悪いので」→「原罪」の概念の誕生→「どんなひどい目に陥ろうとも、神はなにもしてくれない」→
→「自分たちが罪の状態にあるからだ」→「神はなにもしてくれないという議論は起きない。」
これで、何が起こっても、神から離れる理由はないということになります。
番組内の例えでは、DV夫を持つ妻は「私が悪いので、夫はDVを振るうのだと。夫は悪い人ではない。
だから、離婚しない。」と考えるということです。
驚きですが、納得です。
歴史的には、こういうことはよくあることだけれど、ひとつの国家としておきたのはユダヤ民族が初めてでした。
そういう点で、特別なことで、当然そういう考えについていけず、離れた民は多くいましたが、
そういう人たちの記録は残っていないのです。
支配のためのシステムが構築されたというより、自己を守るための悲しい認知のシフトだったんですね。
どんな苦境に陥っても、それは神のせいだとはならない。
土地や神との関係を具体的に表現できるものが、すべて奪い去られても、神との思い出がある。(出エジプト)
またあのすばらしい日々がくるのではと。
苦しければ苦しいほど、追い求める心理が切ないほどわかります。
どれほどの人が、神の沈黙の中で、来るはずのない救いを祈り求めたのでしょう。
何度、神に対する深い愛の表明をしたでしょうか。
私自身が、苦しい中で神を祈り求めていた過去の姿に重なります。
今は正しい情報が得られていることは、本当によかったと思っています。
編集者 ユーリ (2017年11月22日 12:33:35)
オフライン
#205 2017年11月22日 17:31:00
- ユーリ
- メンバー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
比較認知科学より
迷信行動
日ごろ私たちは、縁起を担いだり、おまじないをしたりといったさまざまな奇妙な行動をとります。
それらが非科学的な行為であることを認識しているにもかかわらず、やめようとしません。
このことを、人がもともと宗教心や信仰心を持つものとして存在しているということだと結び付けるかもしれません。
スキナー(1984)は、ハトを実験箱に入れ、ハトが何をしようが無関係に15秒に一度、食物を提示しました。
するとハトは、ひたすら待っていればよいだけであるにもかかわらず、ぐるぐる回る、床をつつくなどの、その固体(ハト)によって異なるさまざまな行動を繰り返し見せるようになりました。
これを、食物の提示前に生じていた反応が偶然強化された結果であると考え、迷信行動と名づけました。
いったんこうした無意味な行動が強化されると、その出現頻度は高まり、その結果さらにその行動が強化される機会が多くなりました。多くのルーティーンはこのような偶然の強化の結果生じたものかもしれません。
しかもこうしたルーティーンは、強化との因果関係はないのですから、毎回強化されるわけではなく、間欠強化を受けます(間欠強化:心理学的用語で、犬のしつけのときなど、同じ行動のあとに毎回同じ結果を与えるよりも、間が開いたほうがさらに強く印象付けられること)
そうすると、こうした迷信行動はますます強固になっていきます。
雨乞いや人柱やさまざまな恐ろしい宗教的儀式も、もとをたどればこのような偶発的強化によって形成されたものかもしれません。
ハトがとった行動から、人間が超自然的な因果関係を求めはじめるようになった経緯が理解できました。
(もちろん、これだけの観察結果だけでそのように結論付けたわけではありませんが、顕著な点を載せました)
現在は、人柱と雨に関連はないとわかっていますが、それでもいろいろな迷信や儀式が残っています。
科学の解明が進んでいくのをみていると、誤った方向への労力が減らせて
そういった迷信などに苦しめられていた人や、無駄な出費をさせられていた人たちが
開放される日が近いかもしれないな・・・と、思います。
オフライン
#206 2017年11月23日 00:02:57
- 三太郎
- ゲストユーザー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
安定した人生という観点では、人間には宗教が必要だろうかとか、人に幸福をもたらすのは宗教か科学かを論ずるよりも、寧ろプライオリティ(優先順位)を重要視したほうが、余程人生がうまくいくような気がします。
どういうことかというと、先ず物質世界に生きている我々は、何といっても食わなければ生きていけない。
つまり、自分や家族を養うためには一生懸命働かなければならない。そして労働を通して世の中に貢献し、世の中から学ぶ。
次に、その結果として余剰の時間や金銭が生まれたなら、ゆっくり休み、好きなことや楽しいことをする。
次に、さらに余裕があるならば、身近な人を助けたり親切にしたり元気づけたりする。
宗教や精神的なことを考えるのは、その後でいい。
科学は、それらを円滑に遂行するための道具に過ぎないという位置づけ。
精神が病み、生活が破綻し、一家が離散するケースが少なからず見受けらるJWは、このプライオリティを間違えている。
また、科学は快適な生活をもたらし、悪しき慣習から人々を解放してくれたが、マイナスの副産物もある。
現代レベルの科学でそれを至上としてよいのか、効率や損得を追求する合理主義に盲点はないのだろうか、という姿勢は保っておく。
かなりざっくりとした個人的な意見ですが。
明日から4連休。
ここ数週間、忙しくてヘトヘトになってしまったので予定は入れてません。
天気も悪そうなので、蔵書の多い最新の図書館に入り浸って、本を読み漁りたいと思います。
そしてその図書館の近くには通い慣れた飲み屋があり、夕方はたぶん一杯引っかけるでしょう。
勝手に行ってこいという感じですかね。
こんなことに、ささやかな幸せを感じてしまいます。
#207 2017年11月23日 08:04:08
#208 2017年11月23日 09:30:12
- ユーリ
- メンバー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
三太郎さん、4連休いいですね。
三太郎さんの言われていることと、ほぼ同じことを紀元前5世紀ごろに語った人がいます。
釈迦です。
こういう感じです。
「毒矢が飛んできて体に刺さり、毒が回りだしました。そのときに、人間は何を考えるでしょう。
たとえば、毒矢はどこから飛んだ北のだろうか?
あるいは、この読破どんな毒だろうか?
誰の仕業だろうか?
などなど。
毒が刺さったことで、いろいろ考え悩むことは増えたでしょうが、その前にやるべきことがあるはずです。
それは、まず矢を抜きなさい、ということです。」
つまり、あの世について語ること、その前に将来について語ること、それはすべて妄想だから、
目の前にあるやるべきことをやりなさいという感じでしょうか。
釈迦は、「あの世はない」とか「霊魂はない」といったことを直接的には言及はしていないようです。
それを語ること自体が無駄なことだ、それよりもやるべきことをやれ、だそうです。
元来、釈迦の教えは西洋的な定義では宗教ではないです。
ちなみに、キリスト教世界では長い間、釈迦の教えのことを「悪魔の宗教」と呼んでいました。
神を否定する釈迦が生み出した仏教が、キリスト教徒たちの目には邪悪なものに映ったのでしょうね。
釈迦は悪魔の存在も否定していますけど。
神も悪魔もいない釈迦の教えは、人を脅したり支配する影響力がないので、宗教としては弱いです。
また、釈迦は悟りを開くために修行することを「無駄」といって否定していますし、お経を唱えることも否定しました。
彼は死ぬ前に弟子たちに、自分の教えが誰にでもわかるように、生きた言葉で語って伝えるようにするようにと言い残しました。
ですが残念なことに、経典はサンスクリットで現代に伝えられ、単にお経を唱える宗教に変わってしまいました。
死んだらどうなるか・・・、
現存しているヒトは、当然 生きるために必死に戦ってきた種です。
今までに絶滅した生物の中でも、きっと最高度に、死なないために頑張ってきたでしょう。
結果的に「死ぬこと」に対する恐怖心は強く、転じて「死んだらどうなるか」ということをものすごく考える生き物になったんでしょうね。
でも、平衡の取れた考えをもった賢人たちは、死に対する見方について、死をむやみに恐れる必要はないということを
伝えたのだと思います。
残念なことに、その賢明な考えは弟子たちには伝わらず、
今では権威主義な宗教ばかり残ることになっているのかもしれません。
科学的な思考ということは、実証性のあること、つまりは客観的に見ることだと思います。
それは人間性を否定しているわけではありません。
闇を恐れすぎて、疑心暗鬼になって、争いや人間不信が広がっている中で、
その闇にほどよく光を照らして、普通に対処できるようにしているのが科学かもしれません。
その方が安心していろいろなことを楽しむことができるのではないでしょうか?
びくびく怯える子供の時代はすぎて、「大人」になる時期が近い将来くるといいですね。
そのような中での、子育てはとても楽しいものでしょう。
お酒もさぞかし美味しいでしょうね。(今でも、美味しいですけれど)
編集者 ユーリ (2017年11月23日 10:56:37)
オフライン
#209 2017年11月23日 12:46:03
- ジョエル
- ゲストユーザー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
釈迦は筏の譬えも語ったとされていますが、何かの聖典や団体をいつまでもありがたがって担ぎ続ける「修行」で精神が病んだり一家が離散したりするのは、どこか間違っていますよね。
#210 2017年11月23日 15:02:19
#211 2017年11月23日 16:00:40
- ユーリ
- メンバー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
ジョエルさん。
自由に考えられるための先人の知恵を、人を苦しめて、縛り付ける重荷にしてしまう。
そういうものに、振り回されないようにということでしょうね。
irisさん、釈迦の教えは、神が人間に寄せる無条件の愛といった、
人間の心に強烈に突き刺さる幻想を売り物にはしていません。
むしろ、人間にまとわりつくそうした幻想を徹底的に剥ぎ取り、
その足かせやくびきから自由になることを教えています。
その意味で、その教えは宗教的には非常に貧弱です。
だから、弟子たちはその後、道教やらさまざまな宗教と混ぜてしまったり、
女性の宗教家を否定したり(釈迦は女性を出家させたりと、当時の仏教界でも、現代のユダヤ教や
キリスト教でもなかなかできなかったことを数世紀も昔にやっていたそうです)釈迦の教えを実践することが
できなかったようです。
科学はその点を、実験と実証とで私たちに理解させてくれます。
すべての人が、実験や研究ができるわけではありませんが、情報は誰でも調べてみることができます。
オフライン
#212 2017年11月23日 16:35:32
- ユーリ
- メンバー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
釈迦だけではありません。
古代の学問は相当進んでいました。
wikiで調べることができますが、古代の学問の中心地であったアレキサンドロス図書館の例があります。
紀元前300年ころに立てられた図書館です。
「アレクサンドリア図書館は世界中から文学、地理学、数学、天文学、医学などあらゆる分野の書物を集め、ヘレニズム文化における学術研究にも大きな役割を果たした。
アレクサンドリア図書館で研究され発表された知識は、その後の西洋科学の誕生に大きく貢献した。
幾何学のエウクレイデス、地球の直径を計測したエラトステネス、天動説の大家プトレマイオスなど、
ヘレニズムにおける学芸の巨人の多くは、この図書館で研究した。」
400年頃、ヒュパティアとい女性が新プラトン主義哲学校の校長になりました。
以下wikiより
新プラトン主義の他の学校の教義より、彼女の哲学はより学術的で、
その関心のためか科学的で神秘主義を廃し、しかも妥協しない点では、
キリスト教徒からすると全く異端であった。
「考えるあなたの権利を保有してください。なぜなら、まったく考えないことよりは
誤ったことも考えてさえすれば良いのです」とか「真実として迷信を教えることは、とても恐ろしいことです」
という彼女のものであると考えられている言動は、当時のキリスト教徒を激怒させた。
その時すでに彼女は、キリスト教から見て神に対する冒涜と同一視された思想と学問の象徴とされたのである。
-------------------------------------------
この女性は、後に総司教キュリロスの部下である修道士たちより、殺害されてしまいます。
(ちなみにこのキュリロスはカトリック教会の聖人です。)
そしてキュリロスは、アレクサンドリア図書館を壊滅させます。
おそらく、学問の進歩は相当遅れたでしょうね。
その後の研究者たちは、キリスト教の逆鱗に触れないよう、しかも多くの場合、教会はスポンサーでもあるので、
相当苦労があったでしょうね。
オフライン
#213 2017年11月23日 16:55:03
- さやか666
- ゲストユーザー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
女の校長さん、もう少し長く引用されている翻訳がありました
作り話は作り話、迷信は迷信、奇跡は文学的な妄想として教えるべきである。迷信を真実として教えるのは、あまりにも恐ろしいことである。子どもはそういうものをそのまま受け入れてしまい、人は後で何年もかけて、死ぬ思いをしないと、なかなかそういうものから抜け出ることができないものである。実際、本物の真実のためよりも、むしろでたらめの迷信のために人は戦うものである。なぜなら、迷信というのは、調べようがないので、でたらめであることには気がつきにくいが、真実は考え方であるため、変わる時には変わるからである。
#214 2017年11月23日 17:15:44
#215 2017年11月23日 18:03:28
#216 2017年11月23日 18:05:45
#217 2017年11月23日 18:15:38
#218 2017年11月23日 18:19:08
- 三太郎
- ゲストユーザー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
irisさん、私は体に悪いところがないわけではないのですが、病院は余程のことがない限り行かない人間でして、健康保険料は毎年ドブに捨てているようなものです。今年は一回も行ってません。いつも気分転換している酒場が私の病院みたいなものですね。(笑)
ユーリさん、最近は人生のマニュアル有りきではなく、様々なことを体験しながら自分自身の中に自分なりのマニュアルを構築していくものという考えに移行しています。釈迦の毒矢の例えはその通りで私が言いたかったことです。
現存しているヒトは、当然 生きるために必死に戦ってきた種です。
今までに絶滅した生物の中でも、きっと最高度に、死なないために頑張ってきたでしょう。
結果的に「死ぬこと」に対する恐怖心は強く、転じて「死んだらどうなるか」ということをものすごく考える生き物になったんでしょうね。
それが延命治療などにも反映されています。
あたふたせず、その時がきたと受け入れるべきではと今では考えています。
最近は、縄文時代のアミニズムに非常に興味があります。
教義も存在せず、海に囲まれ、外部の影響を受けにくい当時の日本列島で、大自然と共に生きていた彼らの中で発生した信仰とはどのようのものだったのか。今では絶対にあり得ない環境や条件の中での彼らの信仰を知ることによって、人間の本質を知ることができるのではないかと考えているからです。そのあたりも図書館で調べています。
ユーリさんも酒がお好きなようですね。私はもう長年、BSでやってる「吉田類の酒場放浪記」状態です。
ほとんどこれでゼニが飛んでいきます。そのかわり服なんてスーパーの衣料品コーナーの輪っかにぶら下がっている特売品の安物ばかりですよ。
ジョエルさん、釈迦の「筏の譬え」読んでみました。確かにあの団体に似てますね。(笑)
#219 2017年11月23日 19:18:39
- iris
- メンバー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
三太郎さん、酒場で治療中でしょうか。
病院など縁がないのが一番です。どこか悪いのではないかと用もないのに病院通いをすることほど健康を害するものはありません。
医者が言うのもなんですが、私も病院嫌いで薬もなるべく使いません。
ただ、せっかく病院があるのですから必要なときには大いに活用してくださいね。
大人の病気には不案内なのですが、肝臓にはお気をつけて。
さて、日常から死が見えにくくなったのか、日本人は以前より死を受け入れることが難しくなっているのではないかと感じることがあります。
医療は命をつなぐお手伝いはしますが、生きるか死ぬかはまず御本人の生命力にかかっています。医学という科学が万能であるわけではありません。
人間はいつ死ぬかわからない、いつかは死ぬのだということを意識しておくことは、よく生きるためにも必要なことです。
生きること、死ぬことについて、自分なりの死生観を持てるような機会は誰にでも必要ではないかと思います。
オフライン
#220 2017年11月23日 20:32:58
- 三太郎
- ゲストユーザー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
irisさん ありがとうございます。
今 治療現場に向かってます。
何かあったときはいろいろ教えてください。
#221 2017年11月24日 00:07:16
- マタイ7:7
- ゲストユーザー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
自分なりの生死観を持てたとしても、本当に死に近ずいている時は自分がどうあるかはわからない。その時、私は祈れるかな?
#222 2017年11月25日 21:14:12
- マタイ7:7
- ゲストユーザー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
私毎日死に向き合ってる。だから祈ってる。
#223 2017年11月25日 21:23:39
- マタイ7:7
- ゲストユーザー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
DEARカレブ
ありがとう。
#224 2017年11月26日 08:38:02
- 三太郎
- ゲストユーザー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
マタイさん
「老い」そのものは、その準備なのかもしれませんね。
#225 2017年11月27日 17:47:17
- 三太郎
- ゲストユーザー
Re: 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか
「中庸(ちゅうよう)」という語は、よくよく調べてみるとかなり奥が深いんですね。
何事もほどほどがいいということを、別の言い方で、中庸がいいとか、中庸が大事などとよく言います。
中庸については、その程度のことしか知りませんでした。
意味は、偏ることなく、常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。また、そのさま。
孔子は「中庸の徳たるや、それ至れるかな」と語り、過不足なく偏りのない徳を修得することは非常に難しいと説いています。
「中庸」は、儒教の根本経典とされる「四書」の一つで、朱子が中庸を儒教哲学の最高峰とし、儒学者がまとめた「礼記」から抜き出した「四書」の一つ。
つまりこの「中庸」というのは、儒教においては中心概念であり、最高概念らしい。
ギリシャ哲学においても、「中庸」は倫理学上の主要概念の一つとされている。
最初にピタゴラスが調和的存在として考え、これを倫理学的領域に導入したのがプラトン。
アリストテレスは「ニコマコス倫理学」の中で、過大と過小の両極端が悪徳、正しい中間が徳、すなわち中庸(メソテース)とした。
例えば「勇気は、蛮勇や臆病の中間的な状態である時、初めて徳として現れる。」と言っている。
アリストテレスも中庸(メソテース)を、徳目全体の最高位に位置付けているようです。
仏教には中道というものがあり、中庸と似ていますが、本質的には違うという異論もある。
釈迦は、中道について説法を行った際に、世俗的な快楽を求めることも、肉体的な疲労消耗を追い求めることも正しいことではなく
中道こそが人の目を開き、悟りを得させるものだと説いている。
中庸が中間を求めるものであるならば、中道は、対立するものどちらか一方に執着しないことを説いているようです。
中庸も中道も、実践することが極めて難しい、高い徳であることが理解できます。
中庸は、ほどほどだから、楽チンでいいやというのが低思考の自分。
これがいにしえの賢者たちと私との差になる。
そして注目すべきは、洋の東西を超えて、類似する高い概念に行きついている点。
ではキリスト教ではどうか。
旧約聖書の律法的な部分はどうか。私は中庸からの乖離は大きいと感じます。
しかし、その乖離を縮めたのが新約聖書ではないかと思います。
イエスほどの人物であれば、中庸の徳を知らないわけがない。
もしやイエスの最大の目的というのは、中庸から遠くかけ離れた律法主義のユダヤ人社会の矯正であって、本当に贖いの原理、神の王国、預言まで語ったのかと。
残念ながら、この新約聖書も不純物が多い。おそらく、イエスが言ったことは歪められ、言わなかったことまで付け加えられている。そして、無数の解釈。
これからも聖書だけを人生の教本にしたい人は、この不純物を取り除く作業は不可避で、それは自分自身でやらなければならないと思います。
「中庸」から発展して、こんなことまで考えてみました。
それにしても「中庸」には、何やら宇宙の大原則的なものが見え隠れしているような気もします。
日馬富士にビール瓶で殴られたようなとまではいきませんが、結構それに近い衝撃的なものがありました。
久しぶりの図書館、いろいろと勉強になった次第です。