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#776 2017年11月06日 17:13:11

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

近所のJW少年が、今週もやってきた。
「今週のものみの塔は、“同情心を培いましょう”でした。いい内容でした。」
「問題の多い不良長老むけのプログラム?」
「そんなことないです。ものみの塔によりますと、“エホバは同情心の完全なお手本”だそうです。ロトを助けた話と担保にとった服は日が沈む前に返すといいう律法がその証拠なんです。同情心に富んでますね。」
「よくこんな記事を書くもんだね。ものみの塔を学んでいる人って、長い人は何十年も聖書研究と称するものをしてきたんでしょう。旧約聖書には同情心に欠けた話がたくさんあることを当然知っているんじゃないの。こんな子供だましの記事をみて、エホバは同情心のお手本だなと思うの?」
「聖書研究ではなくて聖書レッスンと呼んでいます。皆さん、疑問なんか思いませんよ。」
「そうなの?多くのエホバの証人にとって、聖書の言葉とは、一日一善とか、善は急げとかの標語の様なものなのかな。」

「まあいいじゃないですか。エホバの証人は、ロトの妻が塩の柱になったことは知っていますよ。後ろを振り返っただけの理由で。聖書の律法の特徴は、同情心に富んだものと言うより、やたらと死刑が多いことですか?」
「くだらないことで死刑になるよね。例えば、
<人の妻と姦淫を犯す者,その者は自分の仲間である者の妻と姦淫を犯すのである。その者は,姦淫を犯した男も女も共に,必ず死に処せられるべきである。>レビ20:10」
「不倫はスキャンダルですけど、今では犯罪ではないですよね。律法では死刑だなんて、エホバは死刑好きですね。」
「こういうのはどう?
<その娘に処女の証拠が見いだされないのであれば, 彼らはその娘をその父の家の入口のところに連れ出すように。その都市の人々はこれを石撃ちにしなければならず,彼女は死ななければならない。>申命記22:20,21」
「これも現代なら処罰の対象ですらないですよね。ところが、古代イスラエルでは、皆で、石をぶつけて死刑。エホバって女嫌いですよね。」
「律法の内容や形式は、その当時の中東地域の法律と同じようなもので、特別同情心に富んだものではない。奴隷制度だって認めている。」

「でも、ものみの塔によりますと、担保に取った服をその日のうちに返すので、同情心に富んだことになるわけです。ものみの塔の2節では、
<聖書には,人々の同情心を際立たせる記述が数多くあります。ソロモンの前で言い争った2人の女性のことを思い出してください。>
とあって、子どもをめぐる有名なソロモンの裁判の話が続くのですが、この話はどう思いますか?」
「この話の中では、ソロモンという名前は一度も出てこない。すべて“王”なんだ。ある王様の裁判の話をどこかからか持ってきてものだろう。もし本物の母親が、子どもを半分にすることに同意したらどうするのだろうね。非常にリスクが高い。賢者は無駄なリスクを避けるものだろう。」
「同情心の例としてものみの塔では引用していますが、これは子どもに対する愛の例でしょう?」
「同情心からと3:26には書いてあるよ。」
「新世界訳では<内奥の感情がその子に対してかき立てられたので>としか書いていません。」
「英語版では、< her compassions were stirred toward her son>で、はっきりとcompassions=同情、あわれみと書いてある。日本語訳がへんだね。ちなみに新共同訳では、<その子を哀れに思うあまり>だよ。」
「ものみの塔の翻訳者は無能なのですね。悲しいな。」

「ところで、7節のボスニアのミランの話はどう思いますか?現代の奇跡ですよね。」
「どんな戦争でも、助かった人も死んだ人もいた。生き残った人は奇跡だと思い、それを語る。何も不思議じゃない。シリア内戦で何十万の人々が国外に脱出した。途中で死んだ人もたくさんいたから、ほとんどがイスラム教徒の助かった人は、アラーのおかげだと思っているよ。となると、アラーは何十万人も救ったのに、エホバは何人救ったの?数人じゃない。アラーの勝ちだね。でも、このボスニアの話は、10節の話に続くとまずいね。」
「ものみの塔、10節は、
<同情心を示すべきではない場合もあります。サウル王は,神の民の敵であるアガグの命を容赦し,羊や牛の群れの最も良いものも殺しませんでした。自分では同情心を示したつもりでしたが,神の指示に背いていました。そのためイスラエルの王の立場から退けられました。>」
「これは、アマレク人を皆殺しにせよ、家畜も殺せという神様の絶滅命令いわゆる“聖絶”にサウルが部分的にしか従わなかったという話だけど、これはボスニアで起きたことと似ている。」
「民族浄化ですね。」
「そのとおり。異民族を追放したり殺害したりすることが旧ユーゴスラビア各地で行われた。ミランもその被害者になりそうだったんだろう。ところがアマレク人絶滅は神の命令だから同情心なんかいらないという主張だ。悪いことをした人の子孫だということで絶滅だというのは狂気の沙汰だね。」
「アマレク人を殺せというのは、出エジプト後、イスラエル人を妨害をしたというのが理由みたいですけど、サウル王の時代の数百年前の出来事ですよね。日本だと、鎌倉時代のモンゴルの侵略を理由にモンゴルに宣戦布告するくらい滅茶苦茶な理屈ですよね。宗教戦争の狂気しか感じません。旧約聖書の嫌な部分ですね。」
「ものみの塔の執筆者は何も考えていないね。現代の民族浄化を悪とするなら、旧約聖書の聖絶も悪として、徹底的に批判しなくちゃ。神の命令だと無差別殺人もOKなら、エホバの証人は、潜在的テロリストと見なされても仕方ないよ。」
「ハルマゲドンで、人類皆殺しを待ち望んでいる人たちですからね。」

#777 2017年11月13日 17:12:04

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

いつものJW少年が夕方ごろやってきた。
「今週のものみの塔は“神の言葉は,定めのない時に至るまで保つ”というもので、聖書に関する話でした。興味深いでしょう?」
「エホバの証人はものみの塔が書いたものを読んでいればいいんでしょう。なぜこんな聖書の話をするんだろうね。」
「いきなりものみの塔の教えに引きずり込むのは難しいのですよ。その前にワンクッション入れるわけです。それが聖書なんですよ。 “聖書→ものみの塔”二段階作戦だからじゃないですか。」

「なるほどね。2節に
<エホバは聖書を与えてくださいました。また,聖書に収められている情報が永久に存続する,と約束しておられます。>
とあるけど、嘘だよね。聖書にどの文書を採用するかを決めたのはエホバじゃないよ。プロテスタント(全66巻)とカトリック(全72巻)では違うし、ものみの塔は全く無視しているけど、東方教会の聖書も西側とは違う。ものみの塔はアメリカのプロテスタント系の宗教として出発したから、基本的にはプロテスタント系の聖書を自分たちの聖書(全66巻)としているけれど、これもエホバが決めたの?ドイツのルターやイギリスの清教徒が決めたんじゃなかったっけ?」
「まあいいじゃないですか。それに関連して、前から気になっていたことがありまして、ユダの手紙の13節には
<そうです,アダムから七[代]目の人エノクも彼らについて預言して言いました。>
とありまして、その後“エノク書”からの引用をしているのですが、“エノク書”って聖書にないですよね?どう考えたらいいのですか?」
「エノク書は、初期のクリスチャンの間では正典の一部と認識されていたということだろうね。エチオピア正教会の聖書には今でも含まれているよ。ところが、それ以外の教会では聖書に入れてもらえなかった。明らかに偽書だからね。でも初期のクリスチャンを見倣うのがエホバの証人だろう。エノク書も新世界訳に加えたらいいんじゃない。」
「要するに、聖書と言ってもいろいろあって、ものみの塔はプロテスタント系の聖書のみを聖書とよんでいるけれど、そう決めたのはエホバじゃなくて、プロテスタント系の人で、初期クリスチャンは違うのですね。」

「そうだね。それからオリジナルの聖書はどこに行ったの?エホバは一体何をしているの。すべて存在しない。ものみの塔では、そう批判されると予想して、“聖書に収められている情報”なんて回りくどい言い方をしているけれど、英文では“his message”だよ。」
「オリジナルは失くしちゃったけれど、エホバのおかげで、そのメッセージは写本に正確に残っているのではないですか?」
「答えはNO。写本ごとに内容が大きく違う。どれがオリジナルか決めようがないのさ。たとえば、8節に
<この聖書はギリシャ語セプトゥアギンタ訳と呼ばれており,ヘブライ語聖書全巻の最初の翻訳として知られています。>
と、いわゆる70(LXX)人訳のことが紹介してあるけど、今あるヘブライ語聖書とはかなり違う。ダニエル書なんかはずっと長いけど、エレミヤ書はずっと短い。どちらが本来のあり方なのかは判定しようがない。そのことには何も触れないなんてずるいね。」

「ずるいやり方は神権的戦略なので問題ないのです。6節に、エホバの証人が世界に誇る新世界訳について、
<重要な特色として,聖書中の正当な箇所に「エホバ」という名前を復元しています。>
とありますが、本当なんでしょうか?」
「まず神の名前はエホバじゃないよね。そんなことを言っているのは、ものみの塔だけ。でも、ものみの塔の2代目会長のラザフォードが1931年に、“エホバの証人”という名称を採用したので、いまさら変えられなくて困っているんだろうね。それまでは“エホバ”なんて言う名前にこだわっていなかったと思うよ。今となっては、エホバで押し通すしかなくなって、新約聖書にエホバなんて一度も出てこないのに、無理やり入れちゃっうという改ざんまでした。おかげで新約聖書の解釈が滅茶苦茶になってしまった。」
「なぜ新約聖書にエホバと言う名前をそこまでして入れる必要があるのですか?」
「エホバの証人はクリスチャンと称しているからだよ。しかも真のクリスチャンね。イエス様や使徒たちがエホバなんて一度も使わなかったとなると、困るんだよ。新約聖書にエホバの名前をいれて、1世紀のクリスチャンもエホバを使っていたと主張することによって、自分たちは新興宗教エホバ教の信者ではなく由緒正しい真のキリスト教徒なのだと、正当化できると思っているからじゃない。」

「しかし、新世界訳ですけれど、ローマ10:13には、
<「エホバの名を呼び求める者はみな救われる」のです。>
とありますよ。エホバの名前は大事じゃないですか?」
「それはヨエル書3:5のセプトゥアギンタ訳からの引用ね。そこにはエホバは出てこない。κυρίου(主)だ。少し前のローマ10:9には、
<イエスは主(κυρίου)であるということを公に宣言し>
とあるから、文脈からいって、κυρίουはイエス様を意味している。新世界訳は改竄だ。」
「エホバじゃなくて、イエスの名を呼び求める者が救われるのなら、エホバの証人は救われないですね。」
「そうかもね。どっちでもいいけど。」
「それでは、ものみの塔の2節で引用しているペテロ第一の1:25にある
<しかしエホバのことばは永久に存続する」とあるからです。>
という今週のテーマに関わる部分は、本当は主(κυρίου)でキリストを指すのですか?」
「そうだよ。引用部分の前に当たるペテロ第一の1:23には、<神の言葉を通して>という文言があるけど、神(theou)と言う言葉を使っている。ところが25節では主(κυρίου)に変えているの。エホバなら神(theou)のままでよくて、言いかえる必要はない。というわけで、ものみの塔以外では、主はエホバじゃなくてキリストを指していると理解されている。新約聖書の多くの部分では神とキリストの区別はあいまいだね。」
「それだと、ものみの塔としては困るので、主をエホバに強引に代えて、“新世界訳では正当な箇所に「エホバ」と言うお名前に変えています”と自画自賛するしかないわけですね。」

#778 2017年11月13日 19:31:03

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

ものみの塔の教えがキリスト教ではなくてエホバ教であることがよくわかっちゃうお話ですね。

オフライン

#779 2017年11月14日 17:44:00

通りすがり
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書にかなり詳しい。
”神権的戦略”というJW用語も知っている。
この、聖書についての質問と名乗るものは何者なのか。

#780 2017年11月20日 17:13:20

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

いつものJW少年が夕方ごろやってきた。
「今週のものみの塔は“神の言葉は・・・力を及ぼす”というもので、先週に続いて聖書に関する話でした。いい記事ですよね。」
「2番目の質問が、< 1世紀当時,聖書は人々にどんな力を及ぼしましたか。>になっているけど、これは、へんだよ。」
「1世紀には、聖書はまだ存在しないからですか?」
「そうだよ。英文では、聖書ではなくて、ちゃんとGod’s Wordになっている。ところが日本語では聖書だ。日本人は聖書に無知と思っているから、こんな軽率な訳をしているのだろう。」

「訳した人が、神の言葉=聖書と短絡的に思っただけじゃないですか。訳した人が無知なのですよ。ところで、ものみの塔2節に、
<聖書は,1世紀のある油そそがれたクリスチャンが排斥され,後に復帰したことを記しています。(コリ一 5:1‐5。コリ二 2:5‐8)>
とあって、聖句を引用しているのですが、気になるのは、コリ二2:6,7です。
<そのような人にとって,大多数の人から与えられたこの叱責は十分です。ですから,今はむしろ,親切に許して・・・>
とありますが、“この叱責は十分です”というのは、ものみの塔のいうように排斥された人が復帰したと言う意味ですか?違うと思うのですが。」
「復帰とは書いてないから違うよ。ものみの塔も排斥制度を正当化するのに必死だね。ここでいう叱責あるいは罰が何を指しているかは不明。コリント二は幾つかの手紙を組み合わせたものなので、解釈が難しいの。引用されている聖句のすぐ前のコリ二2:4に、
<わたしは多くの患難と心の苦もんから,多くの涙をもってあなた方に書いたのです。>
とある。この新世界訳ではわかりにくいので、新共同訳を紹介すると、
<わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。>
とあって、パウロは、通称“涙の手紙”を書いたといっている。それはどこにあると思う?」
「失くしたんでしょう?」
「そうかもしれないけど、内容からコリント二の10:1から13::13がその涙の手紙の主要部分と考えられている。それまでのトーンが急に変わり、苦々しく怒りに満ちたものになっている。その中の、10:10節には
<というのは,「[彼の]手紙は重々しくて力強いが,身をもってそこにいる様は弱々しく,その話し方は卑しむべきものだ」と彼らは言うからです。>
とあり、パウロがコリントの信者から公然と侮辱されたことを記している。パウロはカリスマ性に欠けたインテリタイプのようだね。そして、13:2には、
<今そこにいないとはいえ,あたかも二度目にそこにいるかのように,前に罪をおかした人たちとほかの人たちすべてにあらかじめ言っておきます。すなわち,再び行くことになれば,わたしは惜しみ見るようなことはしません。>
と、次にそっちに行ったら厳しく罰するぞと警告している。」
「ということはコリ二2:6の“叱責”の対象となったのはこのパウロを馬鹿にした信者なんですか?よくわからないな。」

「時系列で示すと、まずパウロはコリントを訪問し、その後最初の手紙を書く(これは失われた。コリ一5:9で<わたしは自分の手紙の中で,淫行の者との交友をやめるようにとあなた方に書き送りましたが,>で言及されている手紙)、その後コリントから手紙が来る。パウロは返事を書く(これがコリ一の手紙)、そしてコリントの2回目の訪問。この時、パウロは侮辱される。パウロは“涙の手紙”(コリ二の10:1から13::13)を書き、テトスが持っていく。テトスが戻ってきて、態度の悪い奴がコリントの“大多数の人から叱責を受けた”という良い知らせを持ってくる。そこで、友好的な手紙を書く(コリント二1-9章、あるいは1-7章)。」
「複雑ですね。とにかく、“叱責”は排斥ではないということですね。」
「そうだね。」

「ものみの塔の最後に、ビクトリアの体験談が、結構長く出ているのですが、その中で、
<話し手がヤコブ 1章23,24節に言及しました。その聖句は神の言葉を鏡になぞらえており,その鏡を使うなら自分自身に関してエホバと同じ見方ができる,ということでした。>
とあるのです。そこでヤコブ1:23,24をみてみると、こうでした。
<み言葉を聞いても行なわない人がいるなら,その人は,鏡で自分の生まれつきの顔を見る人のようなものだからです。 その人は自分を見はしますが,そこを離れると,自分がどのような者であるかをすぐに忘れてしまうのです。>
この聖句は、ものみの塔がいうように“神の言葉を鏡になぞらえて”いるものですか?いつものインチキ解釈ですよね?」
「神の言葉が鏡ね・・・。違うでしょう。例えば、コリ一13:12には、こうある。
<現在わたしたちは金属の鏡でぼんやりした輪郭を見ていますが,>
当時の鏡は金属を磨いた物で、今の鏡のようにはっきり映るものではない。ぼやけた姿しか映らないの。そのような鏡を神の言葉になぞらえるわけないじゃない。聞くだけで実行しない人を、鏡を見るだけの人になぞらえているわけでしょう。ヤコブと称する人は、パウロの信仰によって義とされるという信仰義認論に反対して、行いが大事だと反論しているのね。」
「ヤコブは2:14で<ある人が,自分には信仰があると言いながら,業が伴っていないなら,それは何の益になるでしょうか。 >と言っていますけど、実はパウロの追随者を非難しているのですね。」
「そうだね。パウロは、アブラハムが義とされたのは、神の約束を信じたときで、そのときは何もしてない、行いによって義とされるのではなく、信仰によって義とされるんだ、というようなことを繰り返し言っている。ユダヤ系のキリスト教徒は、それに相当むかついていたんだと思うよ。」
「それでヤコブの名で、反論文を書いたわけなのですね。でも、聖書が、“力を及ぼす”と言うのは本当ですよ。聖書を用いて、ものみの塔の教えについて質問すると、普段は穏やかな長老や巡回監督が怒りだすことがよくあります。そんな時は、聖書は力を及ぼすなとしみじみ思いますね。」

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