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#651 2017年09月09日 15:40:53

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん、いつも楽しみに拝読しております。
毎回毎回とても面白いのですが、

聖書についての質問 さんの発言:

「貧しい人を救おうなんて言い出したら、キリスト教みたいでへんだろう。」

という台詞は、傑作でした。
今後も力作を楽しみにしております。

オフライン

#652 2017年09月12日 17:17:11

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

近所に住むJWの少年が泣きながら家の前を通りかかった。
「どうして泣いている?ムチでひっぱたかれたんだろう。」
「ちがいますよ。メキシコで地震があって、エホバの証人も3人亡くなったそうです。今週のものみの塔は“泣く人たちと共に泣きなさい”で、それで泣いていたんです。」
「旧約聖書の預言者みたいなパフォーマンスだね。ものみの塔らしくないデーマね。」
「記事の中に<ハルマゲドンの前に家族を亡くすことなど,予期していなかった人もいるでしょう。>とありまして、なかなか来ないハルバゲドン対策じゃないですか。」
「つまり、JWの中には自分の家族が死ぬなんて想像すらしなかった人がいるってこと?おめでたい人たちなんだね。」

「ところで質問なのですが、今週のものみの塔の3節で
<わたしたちに必要な慰めを与えてくださるのは,何と言っても,わたしたちの優しい父エホバです。(コリント第二 1:3,4を読む。)>
と書いてあるのですが、本当ですか?」
「確かに、4節では“[神]はすべての患難においてわたしたちを慰めてくださり”とあり、正しそうだけど、ものみの塔が引用していない5節になんて書いてあるかというと、“わたしたちが得る慰めもまた,キリストを通して満ちあふれている”とあって、慰めはエホバじゃなくて、キリストによってもたらされるというのがパウロの主張だね。ものみの塔の典型的なおかしな引用。パウロは神様のことは論じないよ。パウロが論じるのはキリストイエスだね。パウロはエホバの証人じゃないからね。」

「それから、ものみの塔の4節に
<イエスは「神が……特別の親愛の情を抱く者」でした。(箴 8:22,30)>
と書いてあるのですが、箴言のこの部分はイエスを指しているのですか?」
「8章22節には“エホバご自身が,その道の初めとして,昔のその偉業の最初[として]わたしを産み出された。”とあるけど、ここで言う“わたし”は“知恵”のことだよ。箴言8章は知恵が人格化されて、知恵自ら知恵について語るという構成になっている。これはエジプトの影響を受けたものという説があるね。エジプトの女神イシスのスピーチとよく似た一節があるんだ。箴言とか伝道の書といった知恵文学はエジプトの影響が強いからね。とにかく、箴言の8章の“わたし”がイエス様を指しているなんて、お笑いものだね。」

「ものみの塔のこじつけということはわかりました。6節に、
<聖霊の慰め」を与えてくださいます。(使徒 9:31)>
とあるのですが、聖霊がどうやって慰めるのですか、聖霊ってうつ病の薬みたいに脳の神経伝達物質に働きかけるものなんですか?」
「引用されている聖句に“聖霊の慰め”とあるね。新共同訳でも同じ。しかし、口語訳と新改訳では、“聖霊に励まされて”とある。原語はparaklēsei。慰められてなのか励まされてなのか、どちらが良いと思う?」
「僕は、励まされてのほうが聖霊の働きとしてはよいと思います。聖霊って、エネルギー源みたいなものという理解でしょう。」
「使徒言行録はルカの福音書の続きだけれど、ルカにとって聖霊は人間に活力を与えるものだね。ある人が急に元気になったりすると聖霊の力だと古代人は解釈したわけだよ。励まされてと訳すほうが良いと思うね。」
「ものみの塔では、またしても無関係な聖句を引用しているわけですね。」
「paraklēseiを慰めると理解したおかげで変な訳になっているところがあるんだ。使徒4:36に、
<こうしてヨセフ,それは使徒たちからバルナバというまたの名を与えられた者で,それは,訳すと,“慰めの子”という意味であったが,>
とあるけど、
paraklēseiを慰めるという意味として、バルナバはギリシャ語では“慰めの子”という意味だよと、ヘブライ語を知らない読者に説明している部分だけど、バルナバってそんな意味はないの。バルナバは文字通りでは“預言の子”という意味で、預言者のように非常に説得力のある話をする人であることを表している。“慰めの子”は誤訳でしょう。」
「paraklēseiを、慰めるではなく励ますという意味と理解すればいいのですね。」
「日本語の聖書は皆“慰めの子”となっているけど、New International Versionでは、“son of encouragement”と励ましの子と訳している。こちらのほうが正しいでしょう。」

「ものみの塔は聖書の誤訳をもとに記事を書いているということですね。」
「今回のものみの塔の記事の中で一番おかしいのはラザロの記事だよ。11節になんて書いてあるかというと、
<ラザロが亡くなった時にイエスが深い悲しみを表わしたという記述を読むと,本当に心温まる思いがします。>」
「どこがおかしいのですか?」
「ヨハネ11:5,6をみてみよう。こうあるよ。
<さて,イエスはマルタとその姉妹およびラザロを愛しておられた。 しかしながら,彼が病気だと聞いても,実際には,その後なお二日,自分のいた所にとどまっておられた。>」
「イエスはラザロが病気と聞いて、何もせず2日間じっとしていたというわけですね。なぜですか?」
「なぜだろうね。ラザロが死んでから、イエス様はこういう。
<ラザロは死んだのです。  そしてわたしは,あなた方のために,すなわちあなた方が信じるために,自分がそこにいなかったことを歓びます。しかし,彼のところに行きましょう>ヨハネ11:14,15」
「イエスはラザロが死ぬのを待っていたという意味ですか。しかも死んで喜んでいる。」
「そのとおり。イエス様は、ほかのものにイエス様が何者かをわからせるために、死人を復活させようとした。そのためにはまず死ななくてはならない。それでラザロが死ぬのを待っていたという意味だ。心温まる話ではないでしょう。」

「でも、イエスはラザロのために涙を流していますよね。」
「涙を流すイエス様というのは、ヨハネの中の偉そうなイエス像と一致しないので、問題なんだけど、いろいろな資料を寄せ集めてヨハネの福音書は書かれているから、一貫しないところが出てくるんだね。」
「今週のものみの塔の記事はひどい出来ということですね。それはそれとして、これからはエホバの証人のお葬式でも、泣くようにします。」

#653 2017年09月19日 17:09:29

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

近所に住むJWの少年が、歌を歌いながらやってきた。
「今週のものみの塔の記事は、歌と関係したものなの?」
「ヤハを賛美せよというもので、詩篇147編をネタにした、とてもいい記事でしたね。」
「詩篇147は、詩篇の最後を飾る5つのハレルヤ詩篇集の2番目だね。これは儀式のときに使われたと考えられているね。神道で言えば祝詞みたいなものだ。たいしたものではないよ。」
「失礼な。」

「記事を見せてよ。・・・・。この、ものみの塔の記事を見て、笑ってしまうのは、」
「わかりますよ。12節でしょう。
<神の憎まれるものを憎む必要があります。(詩 97:10)例えば,性的不道徳を憎むべきです。ポルノなど,性的不道徳を犯すきっかけになりかねないものを一切避けなければなりません。(詩 119:37。マタ 5:28)大変な闘いが求められるかもしれませんが,努力する価値があります。>
すごい飛躍ですね。恥ずかしくなりますが、ポルノがやたらに出てくるのが、ものみの塔です。」
「それだけ組織内の性犯罪が深刻ということじゃないの。その後の13節の部分がへんなんだ。詩篇147:10を引用しているけど、まったく見当はずれだ。
<この闘いに勝つには,自分ではなくエホバに頼る必要があります。エホバに喜ばれたいなら,「馬の力強さ」に助けを求めるべきではありません。自分や他の人の力で何とかしようとして,「人間の脚」に頼ってもなりません。(詩 147:10)>」
「僕も、ポルノに勝つのに馬とか人間の脚をどうして結びつけるのかわかりませんでしたね。」
「詩篇147:10は、<[神]は馬の力強さを喜びとされるのではなく,人間の脚を楽しみとされるのでもない。>とあるけど、どんな意味?」
「エホバは競馬とか女性の脚線美に関心はないという意味でしょう。」
「これは軍事力のことを言っているの。古代の軍隊は、馬が引く戦車と歩兵の組み合わせからなる。強力な軍事力を持つことを神は喜びとしない、軍隊に頼るなという意味。それをポルノとの戦いに結びつけるのだから、笑ってしまうよね。」
「ユーモアのつもりなんですよ。」

「東日本大震災のことが出ているけど、陸奥夫なんて本当にいるの?」
「いるんじゃないですか。エホバに助けられたといういい話ですよね。」
「じっくり読んでみると、とんでもない話だよ。」
「どこがですか?」
「英語版と日本語版を比べてみよう。
(不適切な訳と思われる部分は*で囲みました。)

In the morning, they looked for some *spiritual* encouragement.
翌朝,聖書や出版物を探しました。*力を*得たいと思ったのです。 {コメント:spiritualを訳していない。なぜ?}

The only *book* they could find was the 2006 Yearbook of Jehovah’s Witnesses.
見つかったのは「2006 エホバの証人の年鑑」だけでした。{コメント:bookを訳していない。なぜ?}

*Immediately*, the heading “The Deadliest Tsunamis Ever Recorded” caught Mutsuo’s eye.
*本を開くと*,「史上最悪の津波」という見出しが目に留まりました。 {コメント:Immediatelyはすぐに。本を開かないと見えないと思ったから?}

*It was about an earthquake in Sumatra that in 2004 triggered the most devastating tsunamis in recorded history.*
*2004年のスマトラ島沖地震で生じた,史上最も破壊的な津波について書かれていました。* {コメント:地震と津波が逆。津波を生じさせた地震について書かれていたの。it is ~ that~という構文を理解していない。}

Mutsuo and his wife *wept* as they read through the experiences.
2人はそれを読み,*声を上げて*泣きました。 {コメント:weptは涙を流した。}

They felt God’s *warm, loving* care in providing the right *spiritual* encouragement just when they needed it.
まさにその時に必要としていた*励まし*でした。神の*愛と優しさ*を感じました。{コメント:spiritualを訳していない。なぜ? warm, lovingが愛と優しさになるのはへんだよ。}

Jehovah *also lovingly* provided for them materially. Through their spiritual *brothers*, they received relief supplies.
エホバは兄弟*姉妹*を通して救援物資も与えてくださいました。 {コメント:also lovinglyを訳していない。姉妹にあたる語はないよ。付け加えたのはなぜ?}

*But* what strengthened them *most* were the visits made to the congregation by the representatives of God’s organization
*特に力になったのは*,神の組織の代表者たちが会衆を訪問してくれたことです。 {コメント:Butを訳さないのは、なぜ? mostを訳さないのは、なぜ?}

いやー、驚いた。これだけの短い文なのにおかしな訳がこんなにあるなんて。神の代理人、統治体様が承認した文章をいい加減に翻訳するなんて。」
「英語の勉強には使えませんね。」
「不思議なのは霊的なという意味のspiritualという単語を訳さないこと。宗教なのにへんだね。そのため文の構成が崩れてしまった。まず霊的に励まし、次に物質的に励ましてくれたという構成なのに、霊的を無視したので、“物質的にもまた”の部分を無視せざるを得なくなっている。
引用した最後の文の訳は特に問題。ものみの塔が言いたいことは、エホバの助けも役に立ったけど、しかし(But)、最も(most)力になったのは、組織の幹部の皆さんの訪問ですということね。北朝鮮のキム○○の現地訪問を思い出す。すごい組織崇拝。
Butもmostも訳さなかったのは、訳すとエホバよりも組織のほうが偉いという主張が露骨に出すぎるため、翻訳者が独自に判断したのかな。それともいい加減な仕事ぶりのせい?」
「ものみの塔は英語で読んだほうが、その主張のぶっ飛びぐあいがよくわかっていいですね。」

#654 2017年09月19日 23:02:50

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さんいつも興味深い書き込みありがとうございます

♯726 の主権の論争について ちょっと最近読み直した ものみの塔の源流 中沢牧師 236ページあたりに

以下のような記述がありました あんまり関係ないかもしれませんが

ラッセルは、「黄金時代」という言葉をしばしば使っている今の時代、パラダイスは失われてしまったが、そのパラダイスはやがて回復する。その回復する時を、ラッセルは、「黄金時代」と名づけている。この「黄金時代」という言葉は、聖書には出てこない。それはフリーメイソンが、古代エジプトの異教宗教から借用してきたものである古代エジプトにおいては、この黄金時代が失われたのは、最高神「ラ」が、より低い神にこの世界を与えたときに生じた ところで、ものみの塔には、主権論争という一種独特の歴史哲学がある。人間は、サタンの誘惑を受けて、サタンの支配下に置かれてしまった。神は、そのサタンに、人間をうまく治めることができるかどうかを試させるために一定の期間を定めた。それは、神がこの世界をサタンに与え、サタンがこの世界をうまく治めることができないことを証明するための期間である。この期間が終わると、黄金時代が来る、とラッセルは説いている。このような歴史哲学は、主権論争といわれ、ものみの塔独特のものである。ところで、このものみの塔の主権論争と、エジプトの「ラ」の神の話とは、よく類似している。ラッセルの主権論争、黄金時代というのは、エジプトの宗教に起源があったのである。ラッセルは、この歴史哲学を、フリーメイソン経由で知った可能性が高い。

編集者 てつてつ (2017年09月20日 05:43:41)

オフライン

#655 2017年09月20日 02:10:08

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

*Immediately*, the heading “The Deadliest Tsunamis Ever Recorded” caught Mutsuo’s eye.
*本を開くと*,「史上最悪の津波」という見出しが目に留まりました。 {コメント:Immediatelyはすぐに。本を開かないと見えないと思ったから?}

*It was about an earthquake in Sumatra that in 2004 triggered the most devastating tsunamis in recorded history.*
*2004年のスマトラ島沖地震で生じた,史上最も破壊的な津波について書かれていました。* {コメント:地震と津波が逆。津波を生じさせた地震について書かれていたの。it is ~ that~という構文を理解していない。}

このItはthat以下の節を指すの(It is〜that〜構文)ではなく、前文のthe heading(に続く記事)を指しており、that以下の節はan earthquakeを修飾している(that = an earthquake)と読めます。
つまり、訳としては聖書についての質問さんの御指摘どおり地震と津波が逆で、「それ(見出し:つまり記事)は、2004年に史上最も破壊的な津波を引き起こした、スマトラでの地震についてのものだった。」となりますね。

編集者 iris (2017年09月20日 02:21:10)

オフライン

#656 2017年09月20日 10:01:48

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

本当の義とは私利私欲とは無関係なものではないかという問題ね。こんな高級な思想は、旧約聖書にはあまりないので、ギリシャ哲学の影響だよ。


も塔は、このヨブ記に「地は無の上にかかっている」(大地を空虚の上につるされた:新共同訳)と書いてあるから神様の書物だとおめでたいことを言いますが、そこだけ引っ張り出しても、それっぽく聞こえなくもないくらいで、何をどう具体的にイメージしたのか分かりません。

ギリシャ哲学でもレウキッポスとデモクリトスが、万物は空虚と原子で成り立つとしています。

アトモスはそれ以上分割できない微小な粒子で、万物は「空虚の中で」運動するアトモスの結合によって作られ、その性質は結合の形や位置の変化による、と言っています。


現在の物性科学の知見と比べて、イメージとしてはかなり近いことを表現する点ではこっちの方がよほど具体的です。

#657 2017年09月25日 17:08:08

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

近所のJWの少年がまたやってきた。
「何か用なの。」
「再訪問ですよ。」
「それって何なの?」

「まあ、気にしないで下さい。今週のものみの塔は“エホバがあなたの計画を成功させてくださいますように”という若者向けのすばらしい記事でした。知っていましたか?」
「知らないよ。興味ないし。でも見てようか。今週の記事は切迫感がないね。得意の“終わりが近い”じゃなくて、将来に備えようだからね。終末論で信者を脅かすのは少しお休みかな。全時間奉仕ってあるけど、ひと月何時間働くの?」
「70時間じゃないですか。」
「ひと月70時間?週に20時間にもならないじゃないか。それじゃパートタイムだろう。その程度で全時間奉仕とはインチキだ。元の英語はfull-time service だから全時間と訳すのは変なんだけど。」
「full-timeに対する適切な日本語がないからですよ。」
「伝道活動以外に、建設奉仕なんかもあるのね。建設奉仕の元の英語はTheocratic construction workなんだね。神権建設作業とでも訳せばかっこいいのに。伝道活動も建設業も同列に扱う非論理的なところがいいね。イエス様が大工だったからか?」

「ところで質問なのですが、ものみの塔の3節に
<聖書には「受けるより与えるほうが幸福である」と書かれています。あなたは「本当にそうだな」と感じたことがありますか。(使徒 20:35)>
とありまして、引用されている使徒20:35には、<主イエスご自身の言われた,『受けるより与えるほうが幸福である』>とあるのですが、聖書のどこにもイエスはそんなこと言っていませんよね。」
「そのとおり。聖書の中には、イエス様が「受けるより与えるほうが幸福である」なんていった場面はない。これは豆知識ね。」

「そうですよね。ものみの塔にもどりますけど、16節に結婚生活の話が出てくるのですが、どうもよくわからないのです。」
「ものみの塔16節は、
<エホバはあなたに幸せな将来を「しっかりとらえ」てほしいと願っておられます。(テモテ第一 6:18,19を読む。)>
で始まって、その後結婚の話が続くわけね。まず引用されている聖句はまったく不適切。引用されている聖句の前の節になんて書いてあるかというと、
<今の事物の体制で富んでいる人たちに命じなさい。>6:17
つまり、将来をしっかり捉えてほしいのは、お金持ちの人たちなの。だから18節で<惜しみなく施し,進んで分け合い>という表現が出てくる。それを若者の向けの文章に使うんだから、おかしいね。」
「不適切な引用はものみの塔の得意としているところですけど、悪意はないと思いますよ。」
「その後の文を、英語版と日本語版で比べてみよう。
Full-time service brings you into contact with fellow full-time servants and helps you to mature as a Christian.
全時間奉仕を行なうと,他の全時間奉仕者と一緒に働く機会も増えます。 それはクリスチャンとして成長する助けになるでしょう。
{コメント:contact with は一緒に働くというよりはより親密になるとか交際するという意味でしょう。matureは成長するよりも成熟する、つまり大人になるという意味でしょう。そのほうが後の文とつながりがよくなる。言いたいことは、全時間奉仕をすれば異性の全時間奉仕者と親しくなれるし、クリスチャンとしてふさわしい大人、要するによい結婚相手になれるよ、全時間奉仕は将来のよい結婚につながるよということ。}

Many have found that serving Jehovah fully during youth also helped them to have a more successful marriage.
若い時にエホバに一生懸命奉仕した経験が結婚生活にも役立っている,と言う人も少なくありません。
{コメント:今までの流れからだと、serving Jehovah fullyは一生懸命奉仕ではなく、全時間奉仕のことでしょう。直訳すると、若い時にエホバに全時間奉仕をすることは、またより良い結婚の助けになることを多くの人が見出してします。つまり、全時間奉仕は幸せな将来をしっかりつかむことになるんだよ、さっさと始めろと言いたい。}

Often, those who pioneered before marriage have been able to continue in that service together as a married couple.
結婚後,夫婦で開拓奉仕を続けている人も大勢います。
{コメント:まじめに訳そうという姿勢がないね。直訳すると、しばしば、結婚前に開拓者をしていた人たちは〔結婚後も〕夫婦として一緒に開拓奉仕を続けられています。つまり、開拓者同士結婚して、お互い少しずつ働くようにすれば、貧乏ながらも開拓者として暮らしていける、すばらしいね、ということ。}」

「なんとなくわかりました。日本語訳がへんなのですね。結婚を餌に、人の嫌がる開拓者になんとかならせようと、適当なことを言っているのが16節なのですね。」

#658 2017年09月25日 18:56:47

aaa
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ねえ、みんな、詩篇20編読んでみて。
章の全体から文脈を読み取ろう。

#659 2017年09月26日 06:43:10

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん いつも興味深い書き込みありがとうございます
使徒20.35はなんだか当時の格言みたいですね

オフライン

#660 2017年10月02日 17:08:31

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

近所のJWの少年が、夕方ごろ、またやってきた。
「今週のものみの塔は“あなたは辛抱強く待ちますか”という励まされる内容でした。」
「ものみの塔によくある記事でしょう。終わりは近いと言いながら、来ることのない終わりの日を辛抱強く待とうという記事を載せる。こんなこと、あと何年続けるのかね。」

「終わりが来るまでじゃないですか。ところで、ものみの塔の3節に
<イエスの異父兄弟ヤコブはこう述べています。「兄弟たち,主の臨在の時まで辛抱しなさい」。(ヤコ 5:7)わたしたちは皆,辛抱する必要があり ます。>
とあるのですが、どう思いますか?」
「ものみの塔の教えでは、イエス様は1914年に見えない形で天で臨在したんじゃなかった?この教義があるため、エルサレム陥落607年というインチキ歴史学も変えられないのだろう?」
「そういえば、数年前に神の王国創立100年とか言っていましたね。何のプレゼントもありませんでしたけど。イエスが臨在しているわけですからヤコブ5:7の聖句は今の時代には適用されないということでしょうか。」
「主の臨在の時まで辛抱しなさいなんだから、エホバの証人は1914年以来辛抱しなくていいんだよ。でも辛抱しなさいというのは教義上の矛盾でしょう。」

「エホバの証人はそんな細かなことは気にしませんよ。それより、ヤコブ書はイエスの異父兄弟のヤコブが書いたんですか?どこにもそんなことは書いていませんよね。」
「1:1には<神および主イエス・キリストの奴隷ヤコブ>とあるだけで、それ以上の情報はないね。ヤコブ書には、イエス様の引用は一度もないし、イエスという名前は1:1を含めて2回しか出てこない。内容もキリスト教的というよりはユダヤ教的だね。イエス様の引用はないのに旧約聖書からの引用は数多い。主の兄弟のヤコブが書いたとは思えない。主の兄弟ヤコブは学校に行ったこともないだろう。ギリシア語で知識人風の文章なんてかけるわけないよ。」
「なぜ、ものみの塔では自信たっぷりにイエスの異父兄弟のヤコブなんて書いているのですか?」
「昔からの言い伝えを真理と誤解しているだけだろう。イエス様の兄弟が本当に本を書いていたら、具体的なイエス様が描かれているはずで、歴史的価値は計り知れないのだけど。」

「ものみの塔6節に
<今日の状況は,預言者ミカの時代の状況と似ています。当時は悪い王アハズが支配しており,犯罪や不正が広く見られました。「[人々]の手は悪事の上にある。それをうまく行なおうとする」とあるとおりです。(ミカ 7:1‐3を読む。)>
とあるのですが、どう思いますか?」
「引用されている7章の部分がアハズ王の時代のことだという証拠はないよね。旧約聖書の多くの書は、オリジナルに書き加えられたり、編集されたりして今の形になっている。ミカ書はミカの予言といえるのは1から3章までで、4から7章は誰かによってバビロン捕囚以降に書き加えられたものとみるのが普通だよ。」
「そうなんですか。納得いかないですけど。」
「例えば、4:10<シオンの娘よ,苦痛にうめけ,張り裂けよ。子を産む女のように。今,あなたは町から出て,野に宿ることになるからである。そしてあなたはバビロンまで来ることになる。そこであなたは救い出される。そこでエホバはあなたを敵の手から買い戻す。>は、前半はミカの予言かもしれないけれど、後半のバビロンが出てくる以降は、バビロンから戻ってきた時代に、歴史に合うように追加されたものと見るのが普通だね。」
「それじゃ、予言でもなんでもないじゃないですか。」
「事後予言というんだ。聖書の予言というのはたいていこういうもの。ある出来事が起きてから、昔の預言者がそのことを予言したみたいに書き加える。」

「ミカの予言といえば、一番有名なのは、5:2の
<ベツレヘム・エフラタ,ユダの幾千の中に入るには小さすぎる者よ,イスラエルにおいて支配者となる者があなたの中からわたしのために出る。>
ですよね?これは実現したんじゃないですか?」
「そうといえるかもね。この予言のため、ルカやマタイはとても苦労している。」
「どういうことですか?」

「イエス様は当時“ナザレのイエス”として知られていた。そのイエス様をメシアとするためにはナザレではなく、ベツレヘムで生まれたことにしなくてはならない。当時のユダヤ人はミカの聖句を知っていたからね。」
「なるほど。それで、ルカは、ローマ皇帝から先祖の地で住民登録せよという命令が出されたことにして、ヨセフとマリアをナザレからベツレヘムに向かわせて、たまたま、その地の馬小屋でイエスが誕生したという話を作ったわけですね。メルヘンですね。ナザレのイエスなのにベツレヘム生まれにするためだったんですか。」
「でも、その話はかなり無理があるよね。住民登録を1000年以上昔の祖先が居た所でしなくてはいけないなんて、ばかばかしすぎる。ローマ帝国じゅう大混乱になるよ。お話を作るのが上手なルカにしてはいただけないな。」
「僕も大昔の祖先のいたところで住民登録せよといわれても、どこに行けばいいのかわからないですよ。」
「一方、マタイでは、ヨセフとマリアはベツレヘムに住んでいたことにしている。東方から来た占星術の先生たちは二人の“家の中”に入って(2:11)、贈り物をしているね。その後、ヘロデ王の幼児虐殺などいろいろあってナザレに移り住んだということにしている。」

「歴史的には、ローマ帝国での登録とかヘロデ王の幼児虐殺はないですよね?」
「作り話だね。こんな話を作らなくてはいけなくなったのはミカの予言のせいだ。でも聖書の中では予言は成就したことになったね。めでたし、めでたし。」
「ミカの予言がベツレヘムではなく、ナザレだったらこんなお話はいらなかったわけですか。そうしたらクリスマスの行事が楽しくなくなっちゃう。僕には関係ないですけど。」

#661 2017年10月10日 17:01:13

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

近所のJW少年がまたやってきて話を始めた。
「今週のものみの塔は”一切の考えに勝る神の平和”でした。」
「フィリッピ書からの引用ね。」

「そうなんです。フィリッピ4:6,7が引用されていまして、とてもいい聖句なのですが、こうです。
<何事も思い煩ってはなりません。ただ,事ごとに祈りと祈願をし,感謝をささげつつあなた方の請願を神に知っていただくようにしなさい。 そうすれば,一切の考えに勝る神の平和が,あなた方の心と知力を,キリスト・イエスによって守ってくださるのです。> 」
「ちょっと待ってよ。神の平和が守ってくれるという“知力”って何?知的能力のこと?英語はmental powersとなっている。それを知力と訳するのは誤訳だろう。もとのギリシア語はnoēmata。考えとか目的という意味。新共同訳では“考え”と訳しているね。」

「いきなりクレームがついちゃった。だめですね。それでは、ものみの塔7節では、
<「神の平和」が「一切の考えに勝る」という表現に注目してください。これはどういう意味でしょうか。この表現は「わたしたちのあらゆる夢より素晴らしい」とか,「人間のあらゆる計画より優れた」とも訳されています。>
とありますが、どう思います?」
「引用元がないね。インチキじゃない。英語の聖書では多くはall understanding だね。まれにall comprehension。夢とか計画と訳しているのは知らないね。パウロは神の平和とは理性を超えたものといいたいのさ。」

「ものみの塔8節では、
<パウロとシラスは不公正な扱いを受けましたが,その出来事は結果的に「良いたよりを擁護して法的に確立する」ことにつながりました。(フィリ 1:7)行政官たちは,フィリピに設立されたクリスチャン会衆に対して下手に手出しはできないと思ったことでしょう。>
とあるのですが、“法的に確立する”という表現は奇妙だなと思うのですが、どうでしょう。」
「新共同約では、“福音を弁明し立証する”としているね。こちらのほうが正しい。パウロは裁判官でも政治家でもないから、何かを“法的に確立する”ことなんか、できるわけはないでしょう。ものみの塔は何か誤解をしているようだね。」

「そうですか。ものみの塔9節では、<パウロはフィリピの兄弟たちに手紙を書いた時にも,ローマで軟禁されていました。>とあるのですが、本当にローマにいたのでしょうか?」
「1:7には
<わたしはあなた方を心に抱いており,あなた方すべては,わたしが[獄に]つながれていることに関しても,>
とあり、牢獄にいたことは確かだね。パウロは3ヵ所で拘禁されているけど、どこか知っている?」
「知ってますよ。エフェソス、カエサリア、ローマです。」
「ローマとされてきた理由は、1:13に
<わたしのなわめがキリストに関連して親衛隊の全員とほかのすべての人たちの間で公に知られるようになりました。>
という表現があり、ローマ皇帝の親衛隊と解釈されたことと、4:22に
<カエサルの家の人たちが,あなた方にあいさつを送っています。>
とあり、カエサルの家の人たちというのが、皇帝に近い人たちのこと、と解釈されたからじゃないかな。」
「なるほど。ローマにいるのですね。納得しました。」

「すぐ納得するのはよくないな。1:13は新共同訳では、
<わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、>
とあり、親衛隊じゃなくて兵営となっている。」
「となると、当然、無知なエホバの証人が訳した新世界訳の方が間違っているということでしょうか?」
「元のギリシア語は多様な意味があるけれど、基本的には場所を表す言葉だね。宮殿palaceと訳している聖書もあるけど、兵営でしょう。それから、カエサルの家の人たちというのも多様な意味があって、皇帝に近い人とは限らないんだ。皇帝所有の奴隷に対しても使われる。」
「つまりローマ説の根拠は疑わしいということですね。」
「ローマ15:23には、
<スペインに赴く際にはあなた方のもとに行きたいと幾年も切望してきましたので>
とある。つまり、パウロはローマに行った後、スペインに行く予定だったことがわかる。ところが、フィリピ2:24には、
<実際わたしは,自分自身もまもなく行けるものと,主にあって確信しています。>
とあり、パウロは監禁が解けたらフィリピに行くつもりだったことがわかる。」
「ということは、ローマで監禁されているわけじゃないと考えるのが合理的なのですね。」
「フィリピの信者と監禁中のパウロは行ったりきたりしているようなので、距離的にちかいエフェソスで書いたというのが妥当な推論じゃないかな。」

「ものみの塔の記事は、細かいところも、いい加減なのですね。そういえば、12節で、ヒゼキヤ王の時代に
<エホバがひとりのみ使いを送り,一夜のうちにアッシリア人の兵士18万5000人を討ち倒させたのです。ヒゼキヤが予想もしなかった結末でした。(王二 19:35)>
とありまして、エホバは思いもよらないことをしてくださる例としているのですが、核兵器でも使ったんですか?」
「今週のテーマは神の平和じゃなかったの?伝説では伝染病。朝起きていたら死んでいたということなので、サリンのような化学兵器の可能性が高いかもね。無差別殺人をほめたたえるなんて、ものみの塔は旧約聖書の精神を忠実に受け継いでいる危ない組織なんじゃないの。」
「そういえば、今週のものみの塔17節では<人類は間もなく史上最大の患難に遭います。>と、力強く宣言していました。ものみの塔らしさをいつまでも失って欲しくないです。」

#662 2017年10月10日 18:57:38

マタイ7:7
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

あなたの、説得の仕方、大好きです。どうやって論証していくの?おしえて。すぐに。

#663 2017年10月11日 19:22:48

プー太郎
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん、いつもありがとうございます。
今後もよろしくお願いします。

#664 2017年10月16日 17:12:12

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

近所のJW少年がまたやってきて、いきなりコートを脱ぎ捨てた。
「今週のものみの塔のテーマは“古い人格を脱ぎ捨て,二度と身に着けない”という、とてもいい内容でした。」
「コロサイ書の引用だろうけど、新世界訳では“人格”と訳しているんだね。しっくり来ないな。」
「そうですか。長く着たコートのようにしっくりきますけど。」

「“人格”というのは近代的な概念。聖書時代にそのような概念はないんじゃないかな。新共同訳では、コロサイ3:9、10は、
<古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、 >
となっているけど、元のギリシア語はanthrōpon(人、人類)だから、こちらの方が原文に忠実だね。」
「人格と同じ意味じゃないですか。」
「同じかもしれないし、違うかも。古い人=アダム、新しい人=イエスという解釈もある。例えば、コリント1の15:45では、こうある。
<最初の人アダムは生きた魂になった」。最後のアダムは命を与える霊になったのです。>
イエス様のことを最後のアダムと呼んでいる。アダムとイエスの対比はよくある表現だから、古い人、新しい人という対比はそのことをほのめかしていると解釈可能だろう。この場合、アダム的なものと関係を断ち、イエス様と関係を築こうという意味となる。新世界訳はできるだけ字義どおり訳していると称しているのに、所々にものみの塔の側で解釈した訳語をつけるんだよね。」
「逐語的な訳といっていまけどね。たいした意味の違いはないと思いますけど。」

「違いがある場合もあるよ。同じコロサイから例を挙げるとね、1:16,17。新共同訳では、
<天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。  >
とある。コロサイ特有のキリスト論なんだ。ここでは、キリストは万物の創造者つまり神と見なしてよい存在ということになる。イエス様の神性を否定するものみの塔としては不都合な聖句なので、新世界訳では、こうしている。
<なぜなら,[他の]すべてのものは,天においても地においても,見えるものも見えないものも,王座であれ主権であれ政府であれ権威であれ,彼によって創造されたからです。[他の]すべてのものは彼を通して,また彼のために創造されているのです。また,彼は[他の]すべてのものより前からあり,[他の]すべてのものは彼によって存在するようになりました。>」
「要するに、[他の]という言葉を勝手に付け加えたのですね。」
「そのとおり。それによって、コロサイのキリスト論を根本から変えた。キリストが創造したのはキリスト以外のもので、キリストは神によって創造された被造物ということになってしまう。コロサイでは、キリストはすべてのものを創造したわけで、キリストは造られた訳ではない。新共同訳の1:15では、
<御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。 >
とあり、キリストは造られたのではなく、生まれた存在としている。」
「よくわかりませんね。ものみの塔では、エホバがすべてを造ったことになっていて、イエスも造られたことになっています。その教義にあわせるために、さりげなく言葉を付け加えたのですね。こういうことに頭使っているんですね。」
「聖書の中のキリスト論は複雑で、相互に矛盾していて、理解困難なの。それをなんとかしようとして、でてきたのが三位一体というますます訳のわからない概念なんだ。」

「ところで、ものみの塔7節に“さくら”の体験談がでていますけど、どう思いますか?」
「君はどう思うの?」
「質問に質問で返すのはずるいな。さくらって渋谷とか新宿によくいる馬鹿な非行少女でしょう。その挙句、カルトに入信して、開拓者というどん底生活をしているんだから笑ってしまいます。不幸な人がカルトにはまるんだなって思うだけですね。僕は両親があれなんで仕方なくこれしていますけど。」
「君は、学校で、意地悪な女子からいじめられているんだろう。さくらさんに厳しすぎるよ。こんな人でも、ものみの塔を学べば立派な人になりますと言いたいんだろうけど、駅前でカートの横に立っている人が立派な人には見えないけどね。関わりたくないな、と思うだけだろう。」

「ものみの塔8節には、
<聖書で言う「汚れ」には広い意味があり,性的な罪以外も含まれます。たばこを吸うことや卑わいな冗談を言うことも含まれます。(コリ二 7:1。エフェ 5:3,4)>
とあるのですが、どう思われます?」
「広い意味があるというのはそのとおりでしょう。でも、ものみの塔では、タバコを除くと性的な意味に解釈しすぎているよ。もっと広い意味じゃないかな。例えば、物質的な欲望。高価な貴金属で身を飾るのはどうだろう。汚れにはいるかも。ぜいたくを嫌い、貧しい人に救いの手を差し伸べるのがキリスト教精神だからね。このことは触れないね。統治体が贅沢暮らしをしているからじゃないの。いつもポルノの話にもっていくね。」

「ものみの塔は慈善活動をしませんからね。貧しい人を救え、みたいな話は関心ないですよ。ところで、宗教的な人って、本当はポルノ好きってことはありませんか?宗教関係者の性犯罪はあちこちで問題になっていますけど。」
「関係ないでしょう。ただ宗教的な人ほど、実態とは無関係に、自分はポルノ中毒だと考えやすいとする研究はある。宗教の役割のひとつは、自分は罪深い人間だと思わせることのようだね。」
「宗教によって罪びととされ、救いを得るためには宗教を頼る。その宗教はさらに罪悪感をあおる。ますます宗教を頼る。こんな感じですか?僕は、罪悪感なんかないですし、私は罪びとだなんて深刻ぶった顔でいう人は偽善者でしょう。」
「若者は他人に厳しすぎるね。」

#665 2017年10月18日 06:57:20

万年研究生
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん

いつも読ませていただいております。
毎回感心させられます。

キリストの歴史的実在性について投稿をお願いします。

#666 2017年10月18日 22:13:36

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

万年研究生さんこんにちは 聖書についての質問さんでなくてすみません

たぶん ヨセフスの古代史

さてこのころ、イェースースという賢人 実際に、彼を人と呼ぶことが許されるならばが あらわれた。彼は奇跡を行う者であり、また、喜んで真理をうけいれる人たちの教師でもあった。そして、多くのユダヤ人と少なからざるギリシア人とを帰依させた。彼〔こそ〕はクリストスだったのである。

という記述だけではないかと思います

ただ これも 後代の加筆ではないかといわれています

脚注e
実際に、彼を人と呼ぶことが許されるならば...この一節は後代のキリスト教徒による加筆であろう。加筆者がイエスの神性を前提としていることは明白である。


あと 田川建三さんも イエスという男 という本の中で イエスの話した教えというのは本当はこんな意味だよということをかいていますが

一例 122ページ
右の頬をなぐられたら、左の頬もむけてなぐらせるがよい、という有名なせりふがある...
この言葉もまた、キリスト教的愛の精神の表現としてのみ解釈されて来た...
これは実はそのようなとりすました愛の倫理などというものではない。
吉本隆明がこの言葉を評して、もしここに寛容を読み取ろうとするならば 原始キリスト教について何も理解していないのと同じだ これは寛容ではなく底意地の悪い忍従の表情である

それで 自分は イエスという人間は実在したと思いますが 教えたことが曲解されたり美化されたり また多くの奇跡をおこなったということは盛られたり創作されたりしたものではないかと思います cry

たぶん 聖書についての質問さんからもっと詳しい情報が得られるかと思います

編集者 てつてつ (2017年10月18日 22:40:58)

オフライン

#667 2017年10月18日 23:46:25

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

「宗教の役割のひとつは、自分は罪深い人間だと思わせることのようだね。」

私は中学生のときに三浦綾子の作品をたくさん読んでいました。三浦綾子はプロテスタントの作家で、クリスチャンの立場を前面に出した作品を数多く残しています。

三浦綾子を知ったきっかけは、小学校のころ国語の問題集に作品が採用されていたことでした。ほかにキリスト教作家を知りませんでしたので、彼女の作品ばかり読み、たいへん勉強にはなりましたが、結局のところあまり好きにはなれませんでした。

おそらく彼女の教会がそうだったのだと思いますが、彼女の作品からは、人間は自分の罪深さを強烈に意識すべきだと考えていることが伝わってくるのです。人間は罪深いからキリストの贖いが必要なのだという理屈です。
その理屈は間違ってはいません。間違ってはいませんが、イエスが罪人に向けた眼差しはもっと温かいものだったと私は思っています。

ヨハネによる福音書8章で、姦通の現場で捕まった女に、イエスは「わたしもあなたを罪に定めない」と言っています。私たちは、いつでも自分のように隣人を愛して生きるなどということはできない弱さを持っています。その弱さが罪につながるのは事実だとしても、神は罪人である私たちをこそ愛しておられるのだというのがイエスの教えでしょう。

必要以上に罪深さを意識させることは、救いには繋がりません。もっとも、ものみの塔が生まれたアメリカには、そのくらい責められないと内省できない人がたくさんいるのかもしれませんが。いずれにしても人間の罪深さを強調することは、一般的な日本人には向かない教え方だと思います。

オフライン

#668 2017年10月19日 00:03:01

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

てつてつ さんの発言:

それで 自分は イエスという人間は実在したと思いますが 教えたことが曲解されたり美化されたり また多くの奇跡をおこなったということは盛られたり創作されたりしたものではないかと思います cry

私もそのとおりだと思います。
イエスを信じた人々の理想が、現代にまで伝えられているわけですから、すべてが歴史的事実でないとしてもそれは決して嘘ではなく、信じる人にとっては真実であると思います。

日本にもいろいろな伝説になっている歴史上の人物はたくさんいますね。陰陽師の安倍晴明とか、菅原道真とか、源義経とか。伝説のすべてが実際の出来事であるとは考えられませんが、その伝説はその人物の素晴らしさを伝えたいと願った人々が知らず知らずのうちに「盛った」物語であって、歴史的事実でないから嘘だと決めつけるのは野暮というものです。

オフライン

#669 2017年10月19日 07:01:24

万年研究生
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

iris さんの発言:
てつてつ さんの発言:

それで 自分は イエスという人間は実在したと思いますが 教えたことが曲解されたり美化されたり また多くの奇跡をおこなったということは盛られたり創作されたりしたものではないかと思います cry

私もそのとおりだと思います。
イエスを信じた人々の理想が、現代にまで伝えられているわけですから、すべてが歴史的事実でないとしてもそれは決して嘘ではなく、信じる人にとっては真実であると思います。

日本にもいろいろな伝説になっている歴史上の人物はたくさんいますね。陰陽師の安倍晴明とか、菅原道真とか、源義経とか。伝説のすべてが実際の出来事であるとは考えられませんが、その伝説はその人物の素晴らしさを伝えたいと願った人々が知らず知らずのうちに「盛った」物語であって、歴史的事実でないから嘘だと決めつけるのは野暮というものです。

てつてつさん、irisさん

回答してくださってありがとうございます。

キリストの実在は自分としては信仰の根幹部分だと思っていますので詳しく知りたいと切望しております。

ただ気分を悪くなさっては申し訳ありませんが「信じる人にとっては真実であると思います」というのは
JWにとってもその通りで解釈が違えどキリストを信じております。(組織等も信じてるように思えます)
ゆえに別スレのように宗教がいる、いらないと続いているわけで
私としては本当に実在したのか、本当に発言したのか、本当にやったのかを知りたいと願っています。
ご気分を害されたらすみません。
謝罪いたします。

#670 2017年10月19日 09:07:27

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

万年研究生さん こんにちは 書き込みありがとうございます

キリストの実在は自分としては信仰の根幹部分だと思っています

自分もそうだとおもいます

ご気分を害されたらすみません 謝罪いたします

全然大丈夫ですよー お互いに色んな意見や情報を交換していくうちにより真実が明らかになっていければなあーと思っていますので これからもよろしくお願いします kiss

オフライン

#671 2017年10月19日 10:26:29

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

万年研究生さん、こんにちは。

本当のことを知りたいというお気持ちは素晴らしいと思います。

ものみの塔は聖書の記述や自分たちの教えのすべてが歴史的事実あるいは科学的事実として正しいと主張し、証人たちにそのように信じるように強制します。
しかし、カトリック教会は自分たちの教えのすべてが歴史的事実あるいは科学的事実であるとは教えません。カトリック信者は、信じている事柄の多くが事実を超えたものであることを直感的に知っています。ですから、信じていない人に対して論証によって信じさせようとはしません。信仰は恵みであり、「本人がその気になるまで信じることはできないものだ」と知っているからです。

万年研究生さんはキリストを信じていらっしゃるのでしょうか?
それとも信じたいと思っておられるのでしょうか?
キリストを信じるためにはどのような根拠が必要だとお考えなのでしょうか?

オフライン

#672 2017年10月19日 19:36:06

万年研究生
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

irisさん

このスレで話すこととは逸脱してきていますが
イエスが神(神の子)であって人類を祝福しに再臨するということであれば
人類にとってこんな幸福なことはありません。
(JWの挿絵のように文化や政府を破壊にくるとは考えていません)
様々な解釈が世に広がっている状態ですから
私としては実在した記録や証拠を知りたいわけです。
聖書以外のイエスの記録が記された粘土板などあればまさに宝だと思います。

私はイエスを信じたいですし信じるための証拠やきっかけを切望しています。
それはJWの書籍をどれほど勉強しようと得るものではないと最近気が付きました。
*三位一体や再臨の教義など細かいことは抜きにして自分のこうありたいという見解から
述べさせていただきました。

#673 2017年10月19日 20:19:24

さやか666
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

iris さんの発言:

万年研究生さん、こんにちは。

本当のことを知りたいというお気持ちは素晴らしいと思います。

ものみの塔は聖書の記述や自分たちの教えのすべてが歴史的事実あるいは科学的事実として正しいと主張し、証人たちにそのように信じるように強制します。
しかし、カトリック教会は自分たちの教えのすべてが歴史的事実あるいは科学的事実であるとは教えません。カトリック信者は、信じている事柄の多くが事実を超えたものであることを直感的に知っています。ですから、信じていない人に対して論証によって信じさせようとはしません。信仰は恵みであり、「本人がその気になるまで信じることはできないものだ」と知っているからです。

万年研究生さんはキリストを信じていらっしゃるのでしょうか?
それとも信じたいと思っておられるのでしょうか?
キリストを信じるためにはどのような根拠が必要だとお考えなのでしょうか?



個人的には高貴な信仰者のテイストがどうも苦手なので

できるだけシンプルにいきたいです

事実を超えた≒事実でない


事実を超えた=目の付け所が違う(達観)

どちらの意味で使われてますか?

#674 2017年10月19日 21:11:52

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

万年研究生さん こんにちは書き込みありがとうございます

>キリストの実在は自分としては信仰の根幹部分だと思っていますので詳しく知りたいと切望しております。

>私としては本当に実在したのか、本当に発言したのか、本当にやったのかを知りたいと願っています。

>様々な解釈が世に広がっている状態ですから
私としては実在した記録や証拠を知りたいわけです。
聖書以外のイエスの記録が記された粘土板などあればまさに宝だと思います

お気持ちは大変すばらしいと思います

この点で ユダヤ戦記などを翻訳された 秦 剛平「はた ごうへい」さんは
乗っ取られた聖書なども書いておられますが 一度お読みになられることをオススメします アマゾンで100円と送料で手に入ります kiss

少し引用してみると

11ページ
みなさん方の中には、聖書が「神の言葉」であると信じて、それは古来から誤りなく伝えられてきたものだとお考えになる方がおられると思いますが、本書を読み終わったあとで、聖書の歴史はこんなにも複雑だったのかと、天を仰いで嘆息していただければ、本書の目的は達成されたことになります。


第6章は、イエスの登場からはじめます。「歴史のイエス」と「信仰のキリスト」はまったく異なるものです。異次元のものです。歴史のイエスの探求はすでにして一八世紀の西欧の学問世界で起こったものですが、新約学者の大変な努力が結実して、福音書の中から、福音書記者が利用したイエスの語録が取り出されました。この語録は福音書と区別するために「語録福音書」と呼ばれ、そのためそれとの区別から後者が「物語福音書」と呼ばれたりいたします。この語録福音書から歴史のイエスが直ちに分かるかといえば、わたしなどは「オー・ノー」と言わざるを得ないのですが、それでもそれがイエスの言葉に近いものであれば、歴史のイエスを考えるときのひとつの大きな手がかりになるのは言うまでもありません。語録福音書からの引用は、わたしが翻訳したバートン.L・マック著『失われた福音書』(青土社)からのものです。
イエスの死後、イエスはイエス・キリストに格上げされます。この過程で、ユダヤ人たちが使用していたギリシア語訳聖書が盛んに利用されます。聖書(旧約)はイエスがキリストとして到来することを予告していたと申し立てるのです。お手元に聖書があれば、新約聖書を開いてみてください。そこには旧約からの引用が至るところに見出されますが、それらのほとんどすべてがギリシア語訳からのものなのです。ユダヤ人がつくりだしたギリシア語訳が、キリスト教徒たちにより、論証テクストとして利用されたのです。ギリシア語訳聖書を研究する者が頭を抱えてしまうのは、・ハウロや、福音書記者、あるいは最初の数世紀のキリスト教側の物書きたちが使用したギリシア語訳を特定できないことですが、もうその頃までにはさまざまなギリシア語訳が出回っていたと想定する方が自然です。

自分もそうでしたが 万年研究生さんも (テモテ第二 3:16) 聖書全体は神の霊感を受けたもの… ということで聖書はエホバ神が人間に霊感 ほとんどテレパシーみたいな感じ で人間に最初から完璧なもので書かせたと思っておられるのではないでしょうか ものみの塔ではそのように教えていたと思います が 現実は様々な人や思想や思惑や経緯があって今日に至っているというのが真実のようです

というわけで 結局は...何々だったのだろうという くらいで真相はわからない というしかないと思うので 万年研究生さんの 願いは残念ながら永久にかなわないのではないかと思います  cry

編集者 てつてつ (2017年10月19日 21:38:17)

オフライン

#675 2017年10月19日 22:57:37

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

万年研究生さん、お返事ありがとうございます。

万年研究生 さんの発言:

イエスが神(神の子)であって人類を祝福しに再臨するということであれば
人類にとってこんな幸福なことはありません。
(中略)
私はイエスを信じたいですし信じるための証拠やきっかけを切望しています。

「イエスが神(神の子)であって人類を祝福しに再臨する」ということを信じたいので、イエスが実在したという証拠になる記録があってほしいのですね。

イエスという人物が実在したことは歴史的事実でしょう。ただ、彼が復活したとか、神あるいは神の子であったとか、再臨するとかいうことに関しては、誰もが納得するような証拠はないと思います。
現代に生きながらキリストと出会い、キリストを信じるには、個人的な体験として自分なりの証拠を見つけるしかありません。

客観的な証拠がなくても信じることを、イエスは求めていることになっていますよ。
「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネによる福音書20章29節)

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