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#26 2017年04月04日 03:42:49

Sora
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

そうですね。
人に問題があるのだとおもいます。

結局は人は自分で選択するんです。自由意志です。
エホバの証人になったから、絶対に善人になるわけではない。でも基本的にはエホバの証人の教理は良いものですよ。
聖書は
高い道徳
親切

を教えるものですよね。
普通に学べば良いもののはずです。

良い点を述べらていますね。
絶対的な真理ではない。
そうですよ。
絶対的ではないです。不完全な人間がやってるんですから。
ただ現状で聖書をもっともよく理解し、神に用いられていると十分信じれらるグループだと思います。
組織を絶対視するとおかしくなります。
いくらか間違ったところはあってもこれ以外には無い、というところじゃないですか。
だって完璧なものは今の不完全な世の中で存在できないでしょ。

少しのの誤差は許されてるんです。


エホバの証人の否定できない現実の良い面にはここでは言及されませんね。
絶対に信者に寄付を強制しません。
多くの信者が良心的兵役拒否をしています。
聖書が宣教するよう言ってるのでそうします。
道徳基準を守ります。

これだけでも大した宗教じゃないですか?

#27 2017年04月04日 06:49:33

箱船
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

Sora さんの発言:

そうですね。
人に問題があるのだとおもいます。

結局は人は自分で選択するんです。自由意志です。
エホバの証人になったから、絶対に善人になるわけではない。でも基本的にはエホバの証人の教理は良いものですよ。
聖書は
高い道徳
親切

を教えるものですよね。
普通に学べば良いもののはずです。

良い点を述べらていますね。
絶対的な真理ではない。
そうですよ。
絶対的ではないです。不完全な人間がやってるんですから。
ただ現状で聖書をもっともよく理解し、神に用いられていると十分信じれらるグループだと思います。
組織を絶対視するとおかしくなります。
いくらか間違ったところはあってもこれ以外には無い、というところじゃないですか。
だって完璧なものは今の不完全な世の中で存在できないでしょ。

少しのの誤差は許されてるんです。


エホバの証人の否定できない現実の良い面にはここでは言及されませんね。
絶対に信者に寄付を強制しません。
多くの信者が良心的兵役拒否をしています。
聖書が宣教するよう言ってるのでそうします。
道徳基準を守ります。

これだけでも大した宗教じゃないですか?

まず、寄付の強制はほとんどの教会でもありません。また、 なにも宗教に限らずボランティアで働いている人はたくさんいます。
そして、宣教については聖書は全ての人が伝道者になるようには教えていません。エホバの証人は強制しています。
道徳基準が高いからといってその教えが正しくなるわけではありません。モルモン教徒やその他の人々も道徳的なのです。

#28 2017年04月04日 07:46:59

run
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

クリスチャンのりんごさん、初めまして。

クリスチャンのりんご さんの発言:

エホバの証人は誕生日を祝いません。

いつも、このような話題を拝見する度に(誕生日に限らず、クリスマス禁止、復活祭禁止等々)
JWって、つくづく律法主義だなぁ…と思わされます。

#29 2017年04月04日 10:17:28

Sora
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

>まず、寄付の強制はほとんどの教会でもありません。

そうでしょうか? 私は複数の国に住み、他の教会も見て来ましたが、
どれだけ寄付をしたかが周りにわかるシステムですし、多額の寄付者の発表、
寄付盆が回されるなどほとんどの宗教にありましたよ。
特定の目標金額が挙げられることもよくあります。

エホバの証人の場合、何十年と一切寄付しなくてもそのことが人に知られることすらありません。


>宣教については聖書は全ての人が伝道者になるようには教えていません。エホバの証人は強制しています。
強制されてはいません。全く伝道しなくても破門などされることはありません。あなたの言う強制がどれだけ奉仕に参加したことを報告することを根拠とするなら、他の教会の寄付などもやはり強制されているケースが多くなってしまいます。
宣教の参加の報告も一部の監督が知るだけで周りは知ることはありません。人前で寄付するシステムとは違います。

ダブルスタンダードで話されると論理的な話ができなくなりますね。
エホバの証人について話される時の基準で他の団体も話してください。
寄付について話された基準で宣教についても話してください。

それと、私は荊軻さんへの私の質問への返事の中で
「ただ現状で聖書をもっともよく理解し、神に用いられていると十分信じれらるグループだと思います。」思います、とはっきり述べて 自分が個人としてエホバの証人を信じていると述べました。

他の宗教についての批判は私の発言に一切無いはずです。
もしエホバの証人を否定されるならば、きちんとした証拠に基づいてそうしてください。
自分の信条について述べる場合はまだしも、他を否定するときはきちんとした証拠を出すのは
最低限のルールですよね。


>多くの信者が良心的兵役拒否をしています。
この部分に言及されていませんでしたね。
例えば韓国ではこれまで1万9000人以上のエホバの証人が兵役拒否のゆえに投獄されて来ました。
他の団体の人がいなかったとは言いませんでしたが非常に少数で数えるほどです。
聖書は明確に戦いや殺人を否定しています。
ですが一般の教会は兵役を容認しています。韓国でカトリック、プロテスタント信者は実際に兵役についています。
エホバの証人のみが明確にこの聖書の原則に従っていますが、
これは明確な差とは思われないのですか?

都合の良いとところだけ切り取らずに、全体を見ていただけますか?

#30 2017年04月04日 10:40:32

カレブ
Administrator

Re: 聖書と誕生日について

Sora さんの発言:

そんな宣教の仕方絶対にしませんよ。
一部の狂信的な人はするかもしれませんが。

わたしは平均的なエホバの証人が以下のようなパンフレットを
家々に配っていたと認識していますが、違うのですか?

1491269363_ituwari.jpg

”一部の狂信的な人”がしちゃってるんですかね。

あなたがエホバの証人の信条や習慣に対して
否定的なメッセージを発信することを
”人が自分の意思で信じていることに立ち入って”と批判的に述べていますが
自分たちエホバの証人には同じ原則を当てはめていません。

オフライン

#31 2017年04月04日 11:11:56

ネガティブさんへ
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

あなた(admin)は正しい
あなたがそう思っているならだれも否定できない。
ただ、あなたがやってることは、あまり生産的でも、褒められることでもない。
ネガティブだと感じます。所詮あなたがやってることは、日本の一部の野党がやっていることと同じ。「ここは問題だ」「ここは間違っている」「被害にあった責任とれ」
あなたが本当に人を幸福にしたいんなら、JWよりも幸福にする教理を考え、人を導き、人に自尊心を与える宗教やサークルを開くべきではないですか?
批判は誰にでもできる。正しい道を作り出すことこそ大切なことだと感じます。
JWをやって幸せに感じている人もいるわけですし、尊厳を持っている人もいるわけですから、それはそれは良かったですね。でいいじゃないですか?
JWは間違っている!危険だ!と感情出すより、ご自分や周りの方をもっと人を幸せにする時間の過ごし方をされたほうがいいと思いますよ。
批判的なメッセージを出したというJWに批判的なコメントを書くadminさん(笑)

#32 2017年04月04日 11:55:39

荊軻
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

Sora さんの発言:

絶対的ではないです。不完全な人間がやってるんですから。
ただ現状で聖書をもっともよく理解し、神に用いられていると十分信じれらるグループだと思います。
組織を絶対視するとおかしくなります。

Soraさんのスタンス少しわかりましたが、わからないこともあります。

SoraさんはJWの「組織」は絶対ではないけれど、JWの「教義」は絶対だと思ってらっしゃるということですか?それとも「教義」も(現時点では)絶対ではなく、少しずつ「絶対」に近づいていると思われているということでしょうか?

おっしゃるように、組織を絶対視するとおかしくなります。同意します。
私が問題だと思うのは、エホバの証人の組織(統治体およびそれを含めた現在の組織・運営構造全体)が、組織そのものや組織の打ち出す聖書の解釈を絶対視するよう信者を励ましているということです。また、組織やその教義に疑問を抱く者を徹底的に排除しようとします。これについてはSoraさんはどう考えていらっしゃいますか?(純粋に興味があるだけで、議論したいわけではありません)

もちろん組織の中にいる以上は(居たいのなら)、その組織のルール(教義を含む)は絶対的だと思います。でも、外に出ることは自由ですから、そうするともうその組織のルールは絶対性を失う。そういう意味では絶対ではない。相対的な絶対性とでも言えばいいのかな。ただ、純粋に組織やその教義を信じていて、それに人生を捧げている人達にとっては、組織や教義が絶対のものでないと割に合わない気がするのです。生き方を変えるように励ますからです。

前の方でSoraさんがカレブさんに言ってたように、やめたければやめればいいだけですよね。そういう風に割り切れる人にとって、組織やそのルールは本当の意味で「絶対」ではないのだと思います。でもSoraさんみたいに、納得いかなくなったらいつでも辞めてしまえると言い切れるJWはあまり多くない気がします。(周りの兄弟姉妹たちにインタビューしたわけではないので証拠があるわけではありません)主な理由として、排斥・忌避というリスクがあるからです。

それで、百歩譲って、表立っては「組織やその教義は絶対!」と言ってないとしても(または言っていないと主張しても)、組織を出て組織や教義の絶対性から逃れようかと考えるけれども家族や友人を失うことが余りにも恐ろしいと感じるJWたちにとっては、組織の絶対性を受け入れ続けるしかないという意味において、組織やそのルールが絶対化してしまうのではないかと思います。

長くなってスミマセン。

#33 2017年04月04日 14:42:52

Sora
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

荊軻さん
あなたの建設的な意見交換のスタイルを尊敬します。ありがとうございます。


教義は絶対的か? についてはこれも絶対的でない、とお答えします。
「神について学ぶことに終わりはない」漸進的な進歩を聖書そのものが述べています。
徐々に改善、進歩していくと理解するのが道理にかなっています。
現時点で間違った教えも含まれているでしょう。
ただ幾らか間違った教えが含まれていても、許容範囲内かどうか、と言う問題です。
エホバの証人の雑誌自体が、「間違っていると思うことがあるかもしれない。時間とともに解決されるのでどうしてもおかしいと思うところは改善されるまで待ってください」と言う趣旨のことを度々述べていると思います。ほんのわずかな間違いゆえに大部分の良いところを捨てるのは道理にかなわないと私は思います。

不完全な人間で構成される組織が、一点の間違いもないことはあり得ません。逆におかしいです。
全体として信じるに足りると判断するかどうか、だと思います。



絶対性を強制しているように感じられる理由として、破門(排斥)について述べておられますね。
ここも誤解が多いのですが、排斥されるのは浸礼を受けた人のみです。そしてJWは決して幼児洗礼しません。自分で意思決定できる能力があって初めて浸礼(信者)となるからです。

1自分で勉強して、教義やルールを学ぶ
2それの通りに信者になりたいと思う人だけが浸礼(信者)になり、ルールに従う意思を宣誓する。
3その後ルールを破り、しかも注意されても故意に破り続ける人や反省しない人は、破門される。
4破門されても、またルールに従うよう努力する人は復帰できる。

こう言うステップって、他の団体でも似たような順序であるんではないですか?
結婚の宣誓、いろんな契約書、思想団体、政治団体、別にJWだけが特別だと思いませんが。


問題となるとすれば、一部の狂信的な人が
きちんと上記のステップ1や2を踏んでいないのに無理やり子供を信者にするからではないでしょうか?
そしてそのやり方は聖書では否定されています。崇拝は「理性が伴うこと」が条件です。幼児洗礼と一緒になってしまいます。


排斥が恐ければそもそも信者にならなければいいのでは?
信者の家族、友人としていつでも集会などに参加できますよ。
家族関係、友好関係に影響ありませんよ。
自分からルールを守る宣誓をして、それを破って破門されて、組織に居続けたいと文句を言うのでしょうか?

#34 2017年04月04日 15:06:29

Sora
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

adminさん

あなたが批判的な意見を持ったり、それを発信すること自体は否定しません。
話の流れを見ていただきたいのですが、

>わたしは一般の人に対してエホバの証人について書くことはほとんどありません。
ということは、あなたはエホバの証人に対してこのサイトや記事を書いているんですね。
エホバの証人は良心を制限していると言いながら
人が自分の意思で信じていることに立ち入って、間違っているとメッセージを送り続けるんですね。

あなたが「エホバの証人は良心を制限している」と言ったのでそれに反論しているんです。
と言うのはJWにとって神から与えられた、絶対に大切に扱わなければいけないものがあります。
良心、自由意志、与えられた贖い、です。
良心や自由意志を否定することは、私たちにとっては侮辱なのです。
きちんとした根拠もなく「良心を制限している」と不当な主張を受けたので上記のように返事しました。

あなたが教義に反論をお持ちなら別に構いません。
不当な侮辱は反論します。


さて、あなたは10年以上前のパンフレットをアップして、
ご自身の述べた「あなたは自分の意思で信じている”大いなるバビロン”の人のところに言って
「あなたの宗教は偽りの宗教です。なぜなら・・・」と」
言う発言を証明しようとしました。

平均的なJWがこう言ったものを配布する場合に、
「あなたは偽りの宗教です。」なんて発言は絶対にしません。

私たちのスタンスは、
「聖書に基づくとこう言う真理がある。その情報をお分かちしている。
ご自身でご覧になって判断して見てください」
と言うものです。
これが神から与えられた、良心と自由意志を尊敬すると言うことです。
「親切、塩で味付けた言葉、自分にしてほしいことを人にもする」これらの他の聖書のアドバイスと
バランスをとって宣教をするんですよ。

私が宣教でモルモンの人に会った時に「モルモン教は間違っています」なんて絶対に言いません。
自分が偽りと考える他の宗教は嫌いでも、人には敬意があるからです。
情報を読んだうえで自分で判断してもらいたいと思っています。
JWの出版物も偽りの宗教を全体として非難するものがほとんど無いはずです。

でもあなたは絶えず「エホバの証人」だけを名指しで非難の対象としていますね?

ご自身がおっしゃっています。一般の人には言わない、エホバの証人に対して言っていると。
エホバの証人に向けて、エホバの証人は間違っていると発信し続けるのがあなたの目的なんですね。


世の中には、いろんな政治団体、政党、企業倫理、スポーツチーム、ボランティア、などの組織があります。自分たちのやっていることが一番いい、正しいはずだと思って行動し、推し進めることは異常なことですか?当たり前なんじゃないですか?
そうやって自分が信じる、一番正しいと思う事のために建設的に何かを積み上げていくんですよ。

「このやり方が一番いいはずだ。皆さんも、この方がいいと思うよ。賛同する方は是非参加してください」
これって正常なのでは?

あなたのやっているのは
「エホバの証人だけはおかしい。たくさん宗教があるけど、エホバの証人だけはおかしい。この人たちを論破しなければいけない」
と言って一つのグループだけを非難し続けることにエネルギーを使っていますよね。

あなたの基準からすると非難しなければいけない団体は他にもいっぱいあるのでは?
なぜエホバの証人にそんなにもこだわるんですか?
現役JWですらもう持ってないような10年以上前の資料を丁寧にスキャンして、現在のJWを非難し攻撃するのに使うそのモチベーションは何ですか?

あなたはどんな貢献を世の中にもたらしたいんですか?
どんなポジティブなものをこの世に残したいんですか?

#35 2017年04月04日 15:10:31

Sora
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

すいません。

「JWの出版物も偽りの宗教を全体として非難するものがほとんど無いはずです」

この文は以下のように訂正させていただきます。

JWの出版物も偽りの宗教を全体として非難するものがほとんどで、特定の団体名、個人名を否定することはあまりしません。特定の出来事やニュースがあった場合は別です。またローマ法王などはキリスト教全体の代表なので度々言及します。

#36 2017年04月04日 15:22:18

1,000時間奉仕者
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

たった一日で30以上もの投稿を集めているトピックなので「???」と思って読み返してみたのですが……

えーと、(誰がどのコメントを言ったか分からなくなってしまった)、

「個人の良心の自由を制限していない。エホバの証人をやめたければやめればいい。そして自分の良心にそってやりたいことやれば」

↑ それはJWの良心とはいわない、と思います。そもそもそういう良心 ―― 誕生日祝いを何とも思わない人は「エホバの証人」にならないはず。そしてそういう振舞をする人or したい人はJWでいつづけることはできないはず。

誕生日を祝い続けながら、神権学校入ったり(今は神権学校って呼ばないが)、伝道者になったり、バプテスマ受けたり……といった関所をクリアすることは理論上ありえません(こそこそ隠れて行事しているのはこの限りではありませんが)

>やめたければやめればいい

↑ これは正しいです。ヤクザやマフィアじゃないから、やめたいという信者(元信者)を引き留めることも組織から抜けたら殺すこともありません。そのかわり、それまで親しくしていた友人や場合によっては肉親とものすごく気まずい関係になります。

見方を変えれば、これまでの仲間たちと縁を切りたくて仕方がない元JWにとっては「あ~せいせいした~」という爽快な気分で生きていくことになりますね。会いたくもない相手が自主的に自分と距離を置いてくれるようになるのですから。

私自身は自らの誕生日を祝ってもらいたかったことも、家族の誕生日を祝ってやりたかったこともありませんが、毎年の誕生日を祝うことと、正規のJWであり続けることが両立できるとはどうしても思えません。
(JWがナゼここまで執拗に誕生日を毛嫌いするのか、他の似たような行事ごととの明確な違いは何なのか、といったようなことは今回おいときます)

#37 2017年04月04日 15:36:30

Sora
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

1,000時間奉仕者 さんの発言:

「個人の良心の自由を制限していない。エホバの証人をやめたければやめればいい。そして自分の良心にそってやりたいことやれば」

↑ それはJWの良心とはいわない、と思います。そもそもそういう良心 ―― 誕生日祝いを何とも思わない人は「エホバの証人」にならないはず。そしてそういう振舞をする人or したい人はJWでいつづけることはできないはず。

誕生日を祝い続けながら、神権学校入ったり(今は神権学校って呼ばないが)、伝道者になったり、バプテスマ受けたり……といった関所をクリアすることは理論上ありえません(こそこそ隠れて行事しているのはこの限りではありませんが)

これまでのレスを確認していただきたいのですが、

人の誕生(生まれたこと)を祝う、生命を慈しむのかと言うことと、
行事イベントとしての誕生日を分けて私は回答してきました。

行事としての誕生日を言わないものの、
生まれた日に、そのことをどう感じ、命を慈しむかは個人の良心の自由です。
母親に、「10年前のこの日に僕を生んでくれてありがとう」何にもJWの教義に抵触しません。

そう言う次元での話ですよ。

#38 2017年04月04日 16:27:52

荊軻
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

Sora さんの発言:

不完全な人間で構成される組織が、一点の間違いもないことはあり得ません。逆におかしいです。
全体として信じるに足りると判断するかどうか、だと思います。

なるほどそのようにお考えなんですね。よくわかりました。

Sora さんの発言:

1自分で勉強して、教義やルールを学ぶ
2それの通りに信者になりたいと思う人だけが浸礼(信者)になり、ルールに従う意思を宣誓する。
3その後ルールを破り、しかも注意されても故意に破り続ける人や反省しない人は、破門される。
4破門されても、またルールに従うよう努力する人は復帰できる。

おっしゃるとおり、(弱さゆえに)排斥に相当することを行ってしまった人たちの多くは後悔し、また組織に戻りたいと思うことでしょう。真の悔い改めを示せば復帰できるので、排斥とそれに付随するルールを尊重することでしょう。というよりそれが組織に戻る唯一の手段なのでそうします。こういった方々の場合は、「絶対性の間接的強要」の問題は生じないんだと思います。

問題は、Soraさんが示してくれた3の部分が、「ルールを破る(破ってしまう)」という行為というよりは「ルールからの決別」の意思表示をしたい場合、排斥・忌避のシステムが、そのような意思表示をすることを間接的に禁止してしまう働きがあるということではないでしょうか。

エホバの証人はその人の意思一つでいつでも辞めることはできる。組織も、その人が辞めることを何か強制的に止めるようなルールを設けているわけではないし、そんなことできない。けれど、2の段階では納得して浸礼を受けた人でも、(当初知らなかった情報を知るに至ったりして)自由意志や思考力を駆使した結果「やっぱり違う」という考えに変わった場合、その自由意志の行使を事実上困難にしてしまっている、というのが問題なのだと思うのです。

組織から出たい、でも、組織内の家族や友人の信じることは尊重するから、別に「断絶」するつもりもなく、何だったら時々気分転換に集会に行って話を聞いてもいい、くらいのポジションになりたい人がそうできない。

これについてはどう思われますか?

#39 2017年04月04日 16:30:08

yangmask
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

興味深い討議なので、参加させてください。

まず、誕生日の禁止というのは、今、会衆の集会で研究している書籍でも明言されている通り、(JW観点で)腐敗しているキリスト教世界から明確に離れて、神とキリストのみに仕え、聖なる状態を保つための措置であったと見てよいと思います。ご存知のように、クリスマスや誕生日、また、タバコやその他の慣行などは、初期の聖書研究者もしていたことですが、彼らはそれを主に仕えるのに妨げになるという結論を下しました。

http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1102 … 7%A5&p=par

_

ですから、個人の娯楽とか、楽しみ事という観点で、「誕生日禁止」を語るのは、全くお門違いであると言わざるを得ません。彼らは、そういう観点ではなく、主に一心に仕え、是認されるにはどうすればいいのか?という敬虔な観点で思考しており、たとえそれが自分にとって制約に課すことになったとしても、そのような禁止事項をあえて実行するだけの気概と覚悟をもって臨んでいるのです。

soraさんが指摘している通り、JW以外の組織でも、自分たちの目標を達成するために、あえて禁止事項や誓約を課すことが、普通にあるものです。この点で、JWの「誕生日禁止」はおかしいと言う人は、(そう思い、言うことは自由なんですが)、そもそも、JW組織が、どういう目標をもって設立されているのか、その根本的なところを振り返ってみるとよいと思います。

つまり、JWは、普通に、安楽に生活することを目標とはしていません。そうではなく、たとえ、自分に誓約を課し、試練となる出来事が臨んだとしても、神の是認を求めて、自分を義のうちに律することを目指しているのであり、そのような目標は、中途半端な覚悟では達成できるものではないのです。ですから、イエスは、「狭き門」と言われました。

#40 2017年04月04日 16:32:15

yangmask
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

soraさんも指摘していますが、主の教えが正しくとも、それを受け取る信者各自の反応は様々です。例えば、イエスの愛弟子でも、ペテロやヨハネのように大成した者もいれば、ユダ・イスカリオテのように残念な結果になった者もいました。では、ユダ・イスカリオテを見る時に、イエスの教えはろくでもないと言われるべきでしょうか。

それは、今日でも同様です。たとえJWの教えがたとえ正しくても、それから外れ落ちる者はやはりいます。神から教えられた者であるサタンもやはり、そのようにして外れ落ちました。また、モーセが紅海を真っ二つに分けても、愚かな者はすぐに子牛崇拝を始めました。そのように、神やキリストから直接教えを受けても、モーセが目の前で奇跡を示しても、やはり外れ落ちる者はいるのであり、そうであるなら、現在JW組織から外れ落ちる者がいるとしても、ごくごく当然のことです。

なぜそういうことが起きるのでしょうか。ここで「誕生日禁止」の論争が起きること自体、その原因を証ししているようにも思えます。エジプトを出た民もそうでしたが、エホバ神に仕えるという当初の目標をそっちのけにして、自分の安楽な生活を追及するようになると、人は、神の義の道が窮屈で束縛的なものに感じるようになり、そのようにして、容易につまずくようになります。その点を、イエスは、「いばらで芽をふさがれる者がいる」と言われました。

_

ですから、「神に仕えることで、試練が臨んでも、自分に誓約を課しても、それでも構わない。私は神の是認を一心に求めます!」と断言できる人のみが、JW組織に残ればよいのだと、私は思います。一方、そうできない中途半端な覚悟の人は、早々に組織を去った方がよいでしょう。まさに、「狭き門」です。覚悟のない者はそこにいるべきではないのです。

とても厳しい言い方かもしれませんが、一旦、JWになると宣誓し、それから離脱した人というのは、上記のような覚悟をくじかれ、挫折したからだと、私は思います。「霊的な破船」です。そして、JWを悪く言うのは、そういう挫折した自分を正当化し、自分を慰めるためなのだろうとも思います。これは、カインと同じ精神です。彼は、自分の間違いを指摘され、憤り、自分の兄弟を打ち殺しました。JWを激しく攻撃する人も同様です。

#41 2017年04月04日 16:33:32

yangmask
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

JW問題に限ったことではありませんが、私はいつも「人のせいにしてはダメだ」と言ってきました。人のせいにする人は、自己反省をしません。自己反省をしないので、その人は成長も進歩もしません。成長をしないので、いつまでも同じところをぐるぐると堂々巡りです。そして、そういう自分が悲しくて仕方がなくて、愚痴や不満を言います。そして、そのような愚かな状態をますます人のせいにするようになり、「私は被害者だー!」とわめくようになるのです。そして、当り散らして、攻撃的にさえなるでしょう。これが、人のせいにする人の典型的な顛末です。全く愚かです。

JWでつまずいた人は、上記の点を思いに留めるべきだと思います。いつまでもJWのせいにしていても仕方がないでしょう。だって、自分の人生なんですから。JWを非難して何になりますか? それよりも、自分自身を省み、何をどう反省すべきかを真剣に考え、こうして、人間としてレベルアップしていくことこそが、最優先にすべきことであるはずです。上記で述べたように、人のせいにしていては、成長も進歩もありません。よければ、その点で以下の資料もご参照ください。

https://sites.google.com/site/jwbibleprophesy/hitonosei
https://sites.google.com/site/jwbibleprophesy/tumazuki
https://sites.google.com/site/jwbibleprophesy/iyasi

_

多分、この投稿に対して、予想できる返答としては、ふ~ん、激しい反論もあるかもしれません。しかし、もし、そういうふうに、私に文句を言いたいと思うのであれば、まさに、自分がカインのようになってはいないかをよくよく自己吟味すべきです。なぜ、攻撃的になる必要がありますか。

痛いところをほじくられる感覚はあるかもしれません。しかし、その痛みこそが、自分自身の成長に資するものです。人は痛みを克服して初めて、成長するからです。それを退けてはなりません。その点で、私は皆さんを応援する者です。私もJW組織の腐敗は認識していますし、その被害者の一人でもあります。しかし、それだからといって、何でもかんでもJWのせいにして、自己反省から目をそらすという愚を犯すべきではないですよね。JWの悪い点は悪い点とし、良い点は良い点とし、是々非々で評価しましょう。

#42 2017年04月04日 17:09:46

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

家でのんびりしていたら、JWが、ありがたい教えを伝えにやってきた。さっそく誕生祝いについて質問してみた。

私 :「なんで誕生祝いはいけないの?」
JW:「聖書によると、○▽×■□○×△○▽×■□○***で、△○▽×■です。」
私 :「聖書の中に出てくる誕生パーティは2回で、ふたつとも人が死んでいる、しかも悪いやつが誕生祝いをしている。それが誕生祝いをしていけない理由なの? 納得いかないな。」
JW「ものみの塔では□○×△○▽×■□○*と書いています。」
私 :「神様がこれらのことを詳細に記録させたのは、後の人の教訓とするためなの?それでエホバの証人は、聖書では誕生日のお祝いについて好ましくないことを記していることに留意し、これらのことを避けているのね。」
JW「そのほかにも伝道の書7章で、*+%###○▽×です。」
私 「“死ぬ日は生まれる日に勝る”って、どういうこと?」
JW「○▽×■□○×△$$##、**+*+*□○×△です。」
私 「誕生日を祝っていけない理由にはならないよ。だってその後に、“嘆きの家に行くことは,宴会の家に行くことに勝る”ってあるけど、これは宴会を禁止しているわけじゃないでしょう。それから、誕生祝いが個人を過度に高める傾向があり、それが望ましくないという意見には反対だね。自己評価の低すぎる人がたくさんいるよ。自己評価が低すぎることはいいことじゃないから、誕生祝いを通じで自己評価を高めてあげるって愛ある行いでしょう。その理屈なら、結婚式も禁止しなくちゃいけなくなるよ。結婚式って、不自然なほど新郎新婦を褒め上げるじゃない。結婚式はよくて誕生祝いはダメなんて一貫性がないね。」
JW「しかし**+*+*□、○×△$$#なわけです。」
私 「確かに、イエスも使徒も誕生祝いをしてないけど、それはその当時のユダヤ社会に誕生日を祝う習慣がなかっただけで、誕生祝いを敵視しているからじゃないよ。ユダヤ人は誕生祝いをしなかったかもしれないけど、様々なお祝いや贈り物をしている。異教が起源だって?そんなこと言ったら、あなたが締めているネクタイや結婚指輪だって異教が起源なんじゃないの?」

そこに我が家の猫の「ネコ吉」がやってきた。太りすぎで性格の悪いネコである。
私 「ところで、JWは猫を飼ってもよいの?」
JW「―沈黙―――――」
私 「もちろんダメなんじゃないの。猫を飼ってはいけない理由はたくさんあるよ。まず、イエスや使徒が猫を飼っていたという記述は聖書にはありません。キリストに倣う、よいクリスチャンが猫を飼うべきでしょうか?また、古代のエジプトではネコは神様として崇拝していました。そんな猫を飼うことをエホバは喜ばれるでしょうか。猫を飼うことが偶像崇拝につながらないと誰が言えるでしょうか。
聖書の中では、ダニエルがライオンの穴に入れられるという話があります。ライオンはねこ科の動物です。これはねこ科の動物が危険で好ましくないという教訓を私たちに伝えようとするエホバの意思ではないでしょうか。この話に留意して、猫を避けるよう、聖書に訓練された良心を働かせるべきではないでしょうか。
ネコには、食べ物を盗む、不適切な身体部位を舐める、あちこちに尿を振りまくなど好ましくない特徴が数多くあります。若い人たちの模範となりません。パウロも穢れたものたちとの交わりを避けるように言っています。猫を飼うことによって失われる時間とお金を、エホバに献身的なクリスチャンは、開拓奉仕と寄付に使うようにすべきではないでしょうか。」
JW「あの・・・、犬はどうでしょうか?」
私 「もちろん飼うべきではありません。理由は (JWの理屈にあわせて、少なくとも4つは挙げられると思いますが省略)です。」
*******************************************
ネコの話はJW.FILESというサイトにあった「"Is it appropriate for a Christian to own a cat in light of their past pagan religions affiliation and the new medical information that is now coming to light?"」を参考にさせていただきました。JWの理屈なら何でも禁止できるという話です。JWは、信者が信者以外の人と楽しい接触をするのを妨害したいのだと思いますね。信者を囲い込め!外部との接触は最小に!というカルトの原則に忠実に従っているわけです。

#43 2017年04月04日 17:29:37

カレブ
Administrator

Re: 聖書と誕生日について

聖書についての質問さん
ネコの起源の例え面白いですね。

そういえばWT本にも ネコ出てると思ったら
人が殺されてますね。 こうした絵がたまたま出ていることには意味があるというのが
WTの主張でしたね。
1491294150_head.jpg
https://www.jw.org/en/publications/book … day-party/

オフライン

#44 2017年04月04日 17:38:02

Sora
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

荊軻 さんの発言:

問題は、Soraさんが示してくれた3の部分が、「ルールを破る(破ってしまう)」という行為というよりは「ルールからの決別」の意思表示をしたい場合、排斥・忌避のシステムが、そのような意思表示をすることを間接的に禁止してしまう働きがあるということではないでしょうか。2の段階では納得して浸礼を受けた人でも、(当初知らなかった情報を知るに至ったりして)自由意志や思考力を駆使した結果「やっぱり違う」という考えに変わった場合、その自由意志の行使を事実上困難にしてしまっている、というのが問題なのだと思うのです。

私の理解力不足で、完全に理解できなかったのですが、
端的に言うと、3の段階まで行ったのにやっぱり取り消したい、と言うことでしょうか。

これについては2の段階をどれくらい重いものと見るか、が関係すると思います。
JWにとって浸礼は、最も重要な誓約です。結婚の誓いと同じ、もしくはより重いものです。
実在する(と信じる)神様に約束するのですから。

荊軻さんのおっしゃることからすると
結婚を誓ったけれど、後になって やっぱりこの人ではなかった。あるいは、
結婚した時はこんな悪いところがあるなんて知らなかった。だから離婚したい。
でも引き続き、たまにあって食事したり、月1回くらいはセックスさせてほしい、って言うところでしょうか?
こんな話が通りますか?

普通は、
基本的には結婚する前によく考えましょう。
相手のことをしっかり知ってから決めましょう。
決めた後は添い遂げる覚悟で。
ですよね。

もしかするとこう言うことを言われるかもしれません。
結婚した後で 詐欺にあったことがわかった。

エホバの証人の場合、詐欺にあったと感じるような人は離れるのでしょうが、
ほとんどの人は続けています。明確に詐欺と言い切れるほどの契約の瑕疵は見当たらないはずです。
事前に本当に信じれる組織かどうか十分考えられるんですから。
個人の主観で詐欺にあったと感じているだけのことであればJWに責任はないですよね。


>組織から出たい、でも、組織内の家族や友人の信じることは尊重するから、別に「断絶」するつもり>もなく、何だったら時々気分転換に集会に行って話を聞いてもいい、くらいのポジションになりたい>人がそうできない。

これは可能ですよ。実際、以前は活発だったけど今はたまにくるだけ、という人いますでしょ。それも自由です。
ただ「悪行」を明らかに続けながら、参加するのは無理ですよね。

お答えになっていれば幸いです。

#45 2017年04月04日 18:23:47

1,000時間奉仕者
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

あー、だんだん分かってきました。

言い方が良くないかもしれませんが、「生年月日」(例えば 2017/4/4の一日しかない)は記憶にとどめて大事にするけど、「誕生日」(毎年繰り返し来る)にケーキ囲んでキャンドル吹き消したりはしない……みたいな感じですか?

自分をこの世に送り出してくれたことについて親に感謝する気持ちは忘れないようにするけど、それを記念する祝い方(バースデーケーキ、プレゼント、サプライズ・イベント)は異教くさい匂いがプンプンするので大っぴらにはやらない。やっていることが外部(家族外)に漏れると審理の対象になってヤバいから “慎重である” ことによって辞めることなく良心の自由も保たれてOK、みたいな?

ごめんなさい、内容が高度過ぎてついていけてません……

#46 2017年04月04日 18:56:09

1,000時間奉仕者
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

以前にどこかのトピックで「乾杯」と「結婚指輪」についての「読者からの質問」での答え方に恣意的なモノを感じる、という話題が扱われたのを思い出します。

*** 塔2007/2/15 p.30 読者からの質問 ***
また,結婚指輪にもかつては宗教的な意味合いがありました。しかし今日,ほとんどの人はそのことを知らず,結婚指輪をするのは結婚していることのしるしである,とみなされているにすぎません。

*** 同 p.31***
今日,乾杯をする多くの人は,自分が神々の仲介や祝福を願い求めているとは思わないかもしれません。それでも,酒の入った杯をなぜ天に向けて持ち上げるのか,納得のいく説明をすることはできません。このような点を踏まえると,人々が乾杯について深く考えていないとしても,真のクリスチャンがあえてそのしぐさをまねる理由はないでしょう。

よく知られていることですが,エホバの証人は他の事柄においても,大抵の人が行なう特定のしぐさや動作を避けています。次の例があります。一般の人の多くは国家の象徴である国旗に敬礼しますが,その人たちはそれを崇拝行為とはみなしていません。真のクリスチャンは他の人のするしぐさを妨げるようなことはしないものの,自分自身はそれに加わることはありません。国旗に関連した儀式はいつ行なわれるのか事前に分かることが多いので,他の人の感情を害さないように思慮深く行動できる場合が少なくありません。いずれにせよ,エホバの証人は聖書と相いれない愛国的なしぐさを避けるという決意を抱いています。

***

恣意的かどうかは別として、純粋に一人の読者として読んだ時、「もうすでに実質的な意味を失っている同等の二つのこと―― 結婚指輪と乾杯 ―― を同じ記事の中に同時に書いて読者を混乱させて、どういうつもりだ?」と不思議でなりませんでした。乾杯を “禁じる” 指示を出す記事としてはあまりに根拠薄弱だろ?と。

#47 2017年04月04日 21:23:18

モトシモベ
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

soraさん

こんばんは。
一点だけ疑問に感じることがあり、横レスにてお尋ねさせてください。

しょっぱなから私事で恐縮ではありますが。
わたしが誕生日に実家へ帰る用事があると、必ず「今日は誕生日だからケーキ買っといてヨ」と現役バリバリのJW母に伝えます。当の母は二つ返事で了承。
そして口々に「こんなこと(会衆の)みんなには言えないね〜w」だの「美味しいからいいじゃないの〜www」だの「良心、良心w」だの言いながら、家族みんなで美味しくケーキをいただきます。
さらに誕生日にケーキを食べることは、ここ数年の話ではなく何回もやっています。
※賛否は別として実際にそんな家族がいる実例として引き合いに出しています

そんな我が家でも「こんなこと(会衆の)みんなには言えないね〜w」と言うところが鍵です。

soraさんは現役のJWとお見受けしますが
① (資格ある立場の)兄弟であれば演台から、または(模範的な立場の)姉妹であれば割り当てや奉仕の会話に、この掲示板で展開されているような持論を公言されるのでしょうか?
② もしそうであれば、それに対する会衆の成員の反応はどういった類いのものなのでしょうか?

わたし自身は型にはまらないsoraさんの原則思考な考え方、枠に囚われない自由な発想には強い好感を感じています。
興味本位の質問で恐縮ではありますが、そこをふまえた上でご回答いただければ幸いです。

#48 2017年04月04日 21:25:20

Sora
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

>もうすでに実質的な意味を失っている同等の二つのこと

同じではなくて次のような意図だと思います。

結婚指輪: 以前は宗教的 → 今は単に結婚している印
乾杯:以前は神々の仲介など → 今は???みんなも目的がわからない。明確な意味がない行為

だから不明確なこと、縁起担ぎの要素が抜けきれてないので、あえてしないほうがいいですよね、という意図で書かれた記事だと思います。

完全にどこの国でも、乾杯のときグラスを高く上げたりするようなことが、単純に相手への敬意や挨拶と完全に言い切れるようになったら、この理解は変わることもあり得るでしょうね。
当然、時代とともに変わる部分もあります。


何度か述べさせていただきましたが、
人間で構成される組織が全てのことに常にパーフェクトな説明を提供しているわけではありません。
でも組織が全体として、信じるに足りるかどうか、ということです。
とかく粗探しをする人は細かな点にのみ注目して他の大部分の良い面はシカトですから。

私も乾杯についての説明は、そんなにうまくできていると思っておらず、状況によっては乾杯します。
でもこれは「ずるい」とは違います。
これも述べましたが、聖書の原則と個人のエホバへの忠節は、人間の組織の上位にあるのです。「人間より神に従わなければなりません」
自分が立派に神に言い開きができると思えば、その通りに行動すればいいんです。


自尊心がこのスレで何度か上がりましたね。
自尊心はとても大切です。
誕生日のことで非難する人は、JWであった間に本当に自尊心に基づいて、何かを行い、あるいは行わない決定をしたのでしょうか?
もしくは、長老が言うから、排斥されるかもしれないから、周りがうるさいから。。。で決定していたのではありませんか?
これはエホバが喜ぶ方法ではないんです。個人が自尊心に基づき、自由意志で行動するときに神を喜ばせると言うのが大原則です。
他に流されて決定した人は、後になって周りや組織を恨むんだと思います。

私は自分の理性と自尊心で上のように考え決定しています。自分の自由意志です。
どんな結果になっても、自分がそうしたい、あるいは自分がそうしたくないから その決定と行動をしたんです。元JWの皆さん、この気持ちが皆さんにありましたか???

誕生日を祝うか祝わないかも、そのように個人で自分がやりたいことをどうぞやってください。


誤解があるようなので、説明しますが、
JWが教義としてルールにしていることは 一律に同じ禁忌事項で全て排斥になるわけではないんですよ。
道理にかなった現実的な裁量があります。

一般に法律違反と言っても、駐車違反、強盗、殺人と全然 罪の重さが違うのと同じです。

・できるならやりましょう
・例外的な状況でない限りやってください。(もしくはやらないでください)
・続けてやると審理処置です。
・一回でもやると審理処置です。

と違いがあります。
誕生日は2番と3番の間くらいかな(何を実際にしたかによる。ここは私個人の理解です)

誕生日パーティーに出たから排斥になった ていう人を本当に知っていますか?
おそらくいないと思います。

明確な聖書に基づく禁止事項は
「偽りの宗教に基づく祝祭日」でしかないからです。


ご参考にしていただければ幸いです。

#49 2017年04月04日 21:39:06

Sora
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

モトシモベ さんの発言:

soraさん
soraさんは現役のJWとお見受けしますが
① (資格ある立場の)兄弟であれば演台から、または(模範的な立場の)姉妹であれば割り当てや奉仕の会話に、この掲示板で展開されているような持論を公言されるのでしょうか?
② もしそうであれば、それに対する会衆の成員の反応はどういった類いのものなのでしょうか?

ご丁寧な仕方で質問いただいてありがとうございます。


誕生日祝っても問題なし、とは言いません。有害な面も認められることをわざわざ肯定して
会衆を混乱させることに益はありませんから。
でも、自分の意思で、自分で考えて、聖書に基づいて決定してください、というのは頻繁に話します。統治体が間違いをすることも話します。

もう少し親しい仲間との間ではこれくらいの話は日常茶飯事です。でもみんな心からJW信じていますよ。



科学や技術が進歩することについては認めるのに、
神についての理解や聖書についての理解が進歩することにはなぜ懐疑的なのでしょうか?
JWの人々も日々進歩していると思いますよ。止まっていません。

聖書に書いてあるように、日々神についてより深く知っていくんです。
過去に間違ってても、漸進して今より正しく改善された仕方で知っていくんです。

過去から今もずっと同じレベルの理解でないといけないと思うのはどうしてなんでしょうね?
人間は進歩するものでしょ。
過去の誤った記事を持ち出して、今現在の組織を論破するのが楽なのかな。



お母さんのような方は本物のJWだと私は思いますよ。

#50 2017年04月04日 22:07:44

つぶやきシロー
ゲストユーザー

Re: 聖書と誕生日について

jwって
「現状で聖書をもっともよく理解し、神に用いられていると十分信じれらるグループ」
なのかな?

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