ログインしていません。

#126 2017年02月02日 23:05:47

KAO
ゲストユーザー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

ほんとだー、同じような感想をレビューしてる人いますね。
これだけ露骨に人選が偏っていたら、当然見抜く人はいるでしょう。
今度はストロベルさんに、私が製作した「取材対象者リスト」でもってインタビューしてみてほしいと思います。
あっ、「いのちのことば社」の企画通んないか(笑)

#127 2017年02月03日 06:14:38

てつてつ
メンバー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

今度はストロベルさんに、私が製作した「取材対象者リスト」でもってインタビューしてみてほしいと思います。

どんな本になるか楽しみですねー kiss

オフライン

#128 2017年02月03日 08:53:04

ラハム
メンバー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

わたしも先月初めから「神の子か」を半分まで読みました。
どの本も軽く400ページを超えることが多いですね。
途中まで読んでいるところで、てつてつさんから
「発掘された聖書」を先に読んだほうがいい、
というアドバイスをいただき、
切り替えてから、半分まで来ました。
もう少し時間が必要ですね。「神の子か」も中途ですが、
読んでいて、なんだか変だなあと思っていました。
聖書にとって都合の良い解説者ばかり登場していましたから…。
KAOさんの説明を読みその理由がわかりました。
わたしとしては一つの勉強として、
そのような説明もあるんだということで
読破しておこうとは思っています…。

オフライン

#129 2017年02月03日 09:11:24

てつてつ
メンバー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

ラハムさんこんにちは作者の経験などはあまり重要ではないので本当に大切な部分はわずかですのでそこだけ読めば数時間でいいですよー

オフライン

#130 2017年02月03日 23:11:25

痛風
ゲストユーザー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

元証人が自分の信じたいものを信じるということが、これで分かったな。

#131 2017年02月05日 01:31:32

てつてつ
メンバー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

みなさんこんにちは 全然このトピとは関係ないのですが マイケルムーアのアホでマヌケな大統領選  dvdみてみました「ほぼ全部だれかユーチュブに上げてありました」 モルモン教徒の多いユタ州の大学にムーアがこの地域では支持者の少ないほうのケリーの応援演説にくるというものでしたが  自分はムーアを正当化するつもりはありませんが以下のアマゾンの評価にあるように  背筋か凍るような気がしました


ユタ州の一部の人たちを映した映画でしかないのですが、なんとも"異常な"人たちがが映っており衝撃を受けました。
もっと異常なのは、異常なひとたちが圧倒的多数を占め、街全体が異常なことになっていることです。
異常が正常になっているという異常さが強烈でした。

私は別に保守を攻撃したいわけではないのですが、彼らの狭すぎる視野、議論さえ拒否する姿勢は、隔離された異常な宗教団体そのものです。
私は自分の考えが正しくて、彼らの主張が異常であるといいたいわけではありません。
そうではなく、彼らの言論に対する姿勢です。

言論を徹底的に拒否する彼らの姿は"共和教"の狂信者にしか見えません。
やはり多様性というものの大切さを改めて感じました。

最も大切なのは、敵対する思想を排除することではなく、それをも受け入れる懐の深さなのではないでしょうか。
同じ考えの人たちがより集まって、ほかの世界と隔離するとこうなるんですね。

ちょっとマイナーなdvdですので 普通のレンタル屋さんにはないかもしれません 自分もいって聞いたのですがありませんでした ゲオのネットレンタルにありました 1ヶ月お試し無料期間がありますのでその期間中に見ちゃってやめちゃうなんてウラワザもあるかも ゴメンネーゲオさんまた店舗でたくさん借りるから許してねー kiss

編集者 てつてつ (2017年02月05日 16:25:53)

オフライン

#132 2017年02月17日 09:29:59

ヤマ
メンバー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

初めまして。
KAOさんやてつてつさん、ラハムさんたちの論議を楽しく拝見しております。

田川先生のマルコ福音書の著者に関する見解が、現在では異なっています。どなたかが訂正して下さるものと思い、静観しておりましたが、いまだ、その投稿がないようですので紹介させていただきます。

KAOさんが、マルコ福音書上巻の記事を紹介して下さっており、マルコ福音書のマルコとは、使徒12:12等に出てくるヨハネ・マルコとは別人物であり、記号的名称であるとの見解を紹介して下さいました。

以下引用。
まず第一に我々の手元には「マルコによる福音書」が存在します。これは歴史的な固有名詞です。それに対し「この福音書はいったい誰が書いたのか?」という聖書学上の著者問題というものがございます。この第二福音書がマルコの名と結びつけられたのは、「教会史」で知られるエウセビオス(260-339)が、ヒエラポリスの司教パピアスの伝える伝承によるもので、そこで「マルコ」はペテロに同行した通訳として言及されています。しかしそれがⅠペテロ5章13節の人物を指しているかどうか、単なる通訳ではなく「わたしの子」と表現されており、それにⅠペテロそのものが偽書とされていることを勘案すると、根拠は乏しいようです。他にも新約の中にはパウロの同行者としてのマルコ(ヨハネ・マルコ)も存在しますが、その場合でもイエスの同時代人とはなりません。

要するに聖書学の分野では、マルコ福音書の著者は「無名人」であり、著者としての「マルコ」とは、便宜上の記号にすぎないということです。田川先生は、もはやマルコの専門家という狭い範囲の研究者ではありませんが、学位論文はマルコ研究だし、いまだ上巻だけとはいえ、『マルコ福音書』注解も出しており(新教出版社:1972年)、その序説の部分で著者問題に言及し、「著者がどういう人物であったかはわからない。新約聖書で何度か言及されているマルコなる人物(使徒行伝12:12,25,13:5,13,15:36以下 ピレモン24,第一ペテロ5:13)とは、おそらく無関係であろう。」(P6)と明確に書いていらっしゃいます。
引用終わり。


現在、田川先生はこの見解を撤回しており、「新約聖書訳と註」の第一巻、マルコ福音書の解説P853~以下のようにあります。

以下引用。
・・・このマルコがこの福音書の著者であるという指摘は、現存の文献では最も古くさかのぼっても二世紀初めまでしかさかのぼれないが、しかし、二世紀には広く広まっており、その点ではまったく異論もなかったのだから、すでに一世紀後半にはそのことは十分に広く知られていたものであろう。そして現に、この人物がこの福音書の著者であることを否定する積極的な理由は何一つない。それにもかかわらず比較的最近の聖書学では、これを否定する傾向が強い。(私も若いころは学会の主流に抵抗する勇気がなかったから、その意見にくみしていた。どうもすみません)。しかしこのマルコがこの福音書を書いたということに反対すべき根拠は、本当に、何一つないと言ってよい。むしろ、この人物ならばいかにもこの本を書いただろうな、と思えるふしは多い。・・・
引用終わり。


マタイとヨハネに関しては、記号的名称でしかないが、マルコとルカに関しては、聖書中に登場する実在の人物である、と考えておられるようです。

詳しくは、新約聖書訳と註でご確認ください。


「書物としての新約聖書」P335-6にかけても、
・・・キリスト教の長い伝統では、この人物は使徒行伝12:12などに出てくるヨハネと呼ばれるマルコと同一人物であろう、と信じられてきた。とすれば、エルサレム在住の、キリスト教の発足時にはまだおそらく若かった人物で、その母親マリアは最初期のエルサレムのキリスト教会のかなり有力な人物であったらしい。おそらくはバルナバが彼をヘレニズム世界に向かう宣教活動にひっぱりだした(12:25,13:5)。しかし、第一回伝道旅行でおそらくパウロと衝突して、途中からひきかえしてしまう(13:13)。それが原因で、バルナバ自身も第二回伝道旅行の時にはパウロと判れ、マルコと共に別の伝道旅行に出発する(15:36以下)。もしもこの人物がマルコ福音書の著者であったならば、そのギリシャ語のくせも大いに理解できるというものである。・・・

ここでも、はっきりとヨハネ・マルコがマルコ福音書の著者であると断定はしていないが、その可能性が非常に高いことを示唆しています。

ご参考になれば、幸いです。

オフライン

#133 2017年02月17日 10:24:30

Chimera証人
ゲストユーザー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

ヤマさん、アーメンです。

KAOさんなどは、新約聖書の本文研究からもメツガー博士の言葉を都合のいい部分だけ抜き出しており、呆れるばかりです。

よって、もはや反論する気にもなれず、滅びへ引き渡して放置しています。

都合のいい引用や曲解は、カレブ、ささらほーさらなどの人物にも時に見られます。(敬称略)
欺かれないように注意が必要です。

#134 2017年02月17日 10:26:32

てつてつ
メンバー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

ヤマさん興味深い書き込みありがとうございました

オフライン

#135 2017年02月17日 17:45:08

ラハム
メンバー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

「ナザレのイエスは神の子か」はきょう読み終わりました。
「発掘された聖書」は1月15日から2月12日までかかりました。
「岩はうそをつかない」はこれから読書開始です。

「神の子」はジャーナリストが世の中の権威者から
聞き取り調査をした結果を伝えています。
それらの権威者たちが抱く聖書やキリストに対する信仰と
確信で満たされている資料でした。
それらの確信や信仰が正当かどうかは判断しません。
わたしとしては、JWと30年近く付き合うことを通じて
聖書の神や他の宗教の神々について信仰を失いました。
だから、それら権威者たちのような
純粋な信仰を持てることをうらやましく思いました。
そのような信仰を抱き続けることによって
幸福で満ち足りた人生を送れるのであれば
ほんとうによいことです。
論理的な立場から、学問的な立場から
特に新約聖書に描かれているキリストの人生の
信憑性を説明し、立証していたと思います。

さて「発掘された聖書」は考古学的立場から、
特に旧約聖書に記述されている歴史を
どこまで証明できるかを検証していたと思います。
その結果として、シルバーマンという人が
調査した結果は、考古学と一致している部分もあるが、
一致していない部分も多数あるということでした。
彼の調査した段階では、聖書に記録されているほど
イスラエル民族は古くありませんでした。
聖書の記録通りであれば都市や村が実在し、
民族の繁栄が発掘される時代においても
そのような考古学上の遺跡はありませんでした。

わたしとしては、これら考古学者が物理的に
発掘した段階では証拠を見出せなかったとしておきます。
過去においてさまざまな段階で否定されていたものを
肯定する証拠を見出す事例もあるからです。
いくら掘り出して証拠を見出そうとしても、
実際存在しなかったとすれば、
見つけることは不可能だということも認めます。
でも、あるかもしれません。

これら二冊の本は異なる立場から聖書の信憑性の
立証を試みたものだと思います。
だから「神の子」に記載されている論理を用いて、
「発掘された」の説明を覆すことは無理だと思います。
また、その逆も意味があるように思われません。

現在のわたしにとって聖書の存在が自分の人生において、
どのような意味があったのか、これからどのような意味を
持つことになるのか考察しようと思っています。
聖書を肯定する説明も、否定する説明も合わせて考慮し、
世界のベストセラーとして多くの人が受け入れているのは
なぜかということも考えてゆきたいです。
意味や意義のない書物が世界のベストセラーであり、
これまで大勢の人々が研究の対象として
命がけで守り続けようとするはずがありません。

400ページを超える書籍を読むことはほんとうに
努力が求められましたが、「発掘された聖書」の
エピローグを読んだとき、真によかったと思いました。

以下、抜粋です…。p380-381

へプライ語聖書が共同体の生活におけるその力強い働きから切り離され、詳細に分析、研究され始めたときになって初めて、神学者や聖書研究者はそれに何か別のことを要求し始めた。一八世紀から、まったく正確で、実証できる歴史への啓蒙主義的な探求において、聖書の歴史的事実性が、現在もそうであるように、激しい論争となった。研究者たちは、七日間の創造と自然発生的な奇跡は科学と理性によって納得いくように説明されることができないということをはっきり理解し、彼らが聖書において「歴史的」であると認めるものとそうでないものを選別し始めた。聖書のテクストに含まれている異なる資料についていろいろな理論が現れ、考古学者たちは、聖書における特定の部分の歴史的信頼性を証明あるいは反証する証拠について論じた。

けれども、聖書の全体性と、実際にその歴史性は、紅海の分離、エリコの壁を倒した角笛の音、ダビデによる石投げ紐の一投でのゴリアト殺害のような何らかの特定の出来事あるいは人物の忠実な歴史的「証明」に依るものではない。聖書のサガの力は、それが、人々の解放、抑圧への継続的な抵抗、社会的平等への探求という時代を超えた主題についての、人を動かさずにはおかない、一貫した物語的表現であることに由来する。それは、あらゆる人間の共同体が存続するために必要とする、共有する起源、経験、運命についての深く根ざした感覚を雄弁に表現している。

特定の歴史的観点から見て、私たちは今、聖書の叙事詩的サガは最初、滅亡の前数十年における小さなユダ王国の人々や捕囚後の時代にエルサレムにあったより小さな神殿共同体が直面した圧力、困難、難題、希望への応答として現れたことを知っている。実際、私たちの聖書理解にとって考古学の最も大きな貢献は、王国時代末期のユダや捕囚後のイェフドのような小さく、比較的貧しく、周辺的な社会が、そうした短い期間にこの不朽の叙事詩の主要な輪郭を生み出すことができたという認識なのかもしれない。こうした認識はひじょうに重要である。というのは、聖書に述べられている考え、イメージ、出来事がいつ、そして何のために巧みにまとめあげられるようになったのかを私たちが認識する時だけ、私たちは人間の歴史においてまさに最も影響力のあるこの文学的、精神的創造物の真の特徴と存続し続ける力を最終的に正しく理解することができるからである。

オフライン

#136 2017年02月17日 18:13:17

てつてつ
メンバー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

ラハムさん お疲れ様でした

オフライン

#137 2019年06月06日 05:35:15

仰天
ゲストユーザー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

ヤマ さんの発言:

初めまして。
KAOさんやてつてつさん、ラハムさんたちの論議を楽しく拝見しております。

田川先生のマルコ福音書の著者に関する見解が、現在では異なっています。どなたかが訂正して下さるものと思い、静観しておりましたが、いまだ、その投稿がないようですので紹介させていただきます。

KAOさんが、マルコ福音書上巻の記事を紹介して下さっており、マルコ福音書のマルコとは、使徒12:12等に出てくるヨハネ・マルコとは別人物であり、記号的名称であるとの見解を紹介して下さいました。

以下引用。
まず第一に我々の手元には「マルコによる福音書」が存在します。これは歴史的な固有名詞です。それに対し「この福音書はいったい誰が書いたのか?」という聖書学上の著者問題というものがございます。この第二福音書がマルコの名と結びつけられたのは、「教会史」で知られるエウセビオス(260-339)が、ヒエラポリスの司教パピアスの伝える伝承によるもので、そこで「マルコ」はペテロに同行した通訳として言及されています。しかしそれがⅠペテロ5章13節の人物を指しているかどうか、単なる通訳ではなく「わたしの子」と表現されており、それにⅠペテロそのものが偽書とされていることを勘案すると、根拠は乏しいようです。他にも新約の中にはパウロの同行者としてのマルコ(ヨハネ・マルコ)も存在しますが、その場合でもイエスの同時代人とはなりません。

要するに聖書学の分野では、マルコ福音書の著者は「無名人」であり、著者としての「マルコ」とは、便宜上の記号にすぎないということです。田川先生は、もはやマルコの専門家という狭い範囲の研究者ではありませんが、学位論文はマルコ研究だし、いまだ上巻だけとはいえ、『マルコ福音書』注解も出しており(新教出版社:1972年)、その序説の部分で著者問題に言及し、「著者がどういう人物であったかはわからない。新約聖書で何度か言及されているマルコなる人物(使徒行伝12:12,25,13:5,13,15:36以下 ピレモン24,第一ペテロ5:13)とは、おそらく無関係であろう。」(P6)と明確に書いていらっしゃいます。
引用終わり。


現在、田川先生はこの見解を撤回しており、「新約聖書訳と註」の第一巻、マルコ福音書の解説P853~以下のようにあります。

以下引用。
・・・このマルコがこの福音書の著者であるという指摘は、現存の文献では最も古くさかのぼっても二世紀初めまでしかさかのぼれないが、しかし、二世紀には広く広まっており、その点ではまったく異論もなかったのだから、すでに一世紀後半にはそのことは十分に広く知られていたものであろう。そして現に、この人物がこの福音書の著者であることを否定する積極的な理由は何一つない。それにもかかわらず比較的最近の聖書学では、これを否定する傾向が強い。(私も若いころは学会の主流に抵抗する勇気がなかったから、その意見にくみしていた。どうもすみません)。しかしこのマルコがこの福音書を書いたということに反対すべき根拠は、本当に、何一つないと言ってよい。むしろ、この人物ならばいかにもこの本を書いただろうな、と思えるふしは多い。・・・
引用終わり。


マタイとヨハネに関しては、記号的名称でしかないが、マルコとルカに関しては、聖書中に登場する実在の人物である、と考えておられるようです。

詳しくは、新約聖書訳と註でご確認ください。


「書物としての新約聖書」P335-6にかけても、
・・・キリスト教の長い伝統では、この人物は使徒行伝12:12などに出てくるヨハネと呼ばれるマルコと同一人物であろう、と信じられてきた。とすれば、エルサレム在住の、キリスト教の発足時にはまだおそらく若かった人物で、その母親マリアは最初期のエルサレムのキリスト教会のかなり有力な人物であったらしい。おそらくはバルナバが彼をヘレニズム世界に向かう宣教活動にひっぱりだした(12:25,13:5)。しかし、第一回伝道旅行でおそらくパウロと衝突して、途中からひきかえしてしまう(13:13)。それが原因で、バルナバ自身も第二回伝道旅行の時にはパウロと判れ、マルコと共に別の伝道旅行に出発する(15:36以下)。もしもこの人物がマルコ福音書の著者であったならば、そのギリシャ語のくせも大いに理解できるというものである。・・・

ここでも、はっきりとヨハネ・マルコがマルコ福音書の著者であると断定はしていないが、その可能性が非常に高いことを示唆しています。

ご参考になれば、幸いです。

色々とトピックを見て思う事ですが、他の学者の見解をそのまま信じていると、その後その人の見解が変わったらコロコロと自分も見解を変えないといけません。

重要なのは人の見解や仮説や推測ではなく、神の言葉聖書ではないでしょうか。(あくまでも個人の意見ですが。)

結局は聖書を信じるか信じないかだと思います。

贔屓の神学者がいても、その人の説が正しい保証はありません。

この書き込みで間違いを指摘された後に書き込みをされていないようですね。

#138 2019年06月06日 12:43:03

ほい
ゲストユーザー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

最近、仰天さんへのコメントばかりですみません汗

仰天 さんの発言:

色々とトピックを見て思う事ですが、他の学者の見解をそのまま信じていると、その後その人の見解が変わったらコロコロと自分も見解を変えないといけません。

重要なのは人の見解や仮説や推測ではなく、神の言葉聖書ではないでしょうか。(あくまでも個人の意見ですが。)

結局は聖書を信じるか信じないかだと思います。

贔屓の神学者がいても、その人の説が正しい保証はありません。

私はこの意見には一部賛同できません。

人の意見を鵜呑みにしないというのは当たり前なのですが、新たな発見や考察を柔軟に受け入れる姿勢の方が健全だと思います。

真理だから信じるというのは順序が逆で、十分な検証により確証されたからこそ真理(確認された事実)になるわけです。
とはいえ、新たな発見などにより検証の段階が見直されることもあるので、そうであれば結論も見直されるべきで、そうしない方がおかしいからです。

エホバの証人の問題の一つはまさにこれで、多くの教義の根拠がその後の発見で覆されているにもかかわらず頑なにその事実を受け入れようとしません。
それらの教義が考え出された当時は情報が不足していたのですから間違った結論を出してしまったこと自体はある意味仕方ないと思いますが、新たな情報を頑なに拒む姿勢は評価しがたいものです。


ちなみに、私からも一応確認しておきたいのですが、仰天さんは、元証人さんやキメラさんとは別人ということで間違いないでしょうか?
また、別人であったとして、過去の元証人さんやキメラさんの書き込みについてどう思われますか?
賛同されますか?それとも異なる意見でしょうか?

#139 2019年06月06日 19:30:40

akame
ゲストユーザー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

>信じてもいない神がなぜ憎いのですか?

.....

#140 2019年06月07日 07:42:59

モトシモベ
ゲストユーザー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

>>ほいさん

ご無沙汰しております。
お元気そうでなによりでございます。

ほい さんの発言:

ちなみに、私からも一応確認しておきたいのですが、仰天さんは、元証人さんやキメラさんとは別人ということで間違いないでしょうか?
また、別人であったとして、過去の元証人さんやキメラさんの書き込みについてどう思われますか?
賛同されますか?それとも異なる意見でしょうか?

沈黙も、また答えでしょうか。
仮にそうだとしても、カレブさんが沈黙している分には、わたしも静観する所存です。
元証人さんの宗教観には魅力の欠片も感じませんでしたし、ぶっちゃけ興味がないので。

もうひとつ。
元証人さんとバトルした経歴を持つ者として、対元証人さんには究極の切り札を保持しています(あまり気が進まないので使う気はありませんが。笑)

わたしの目が黒いうちは、たぶん安泰です。

#141 2019年06月07日 08:02:16

仰天
ゲストユーザー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

ほい さんの発言:

私はこの意見には一部賛同できません。

人の意見を鵜呑みにしないというのは当たり前なのですが、新たな発見や考察を柔軟に受け入れる姿勢の方が健全だと思います。

真理だから信じるというのは順序が逆で、十分な検証により確証されたからこそ真理(確認された事実)になるわけです。

新たな発見や考察を柔軟に受け入れるというのはいいとは思いますが、私があげた例は、田川建三さんの見解をまるで真理であるかのように述べている人です。これは、他のバート・D・アーマンやその他の学者の説にも当てはまります。
文書資料説やその他の説もそうです。

それらの解釈を鵜呑みにしている人への問題提起です。田川さんの意見を鵜呑みにしていた人は、それを撤回した田川さんに倣って考えを改めたでしょうか。
その疑われた福音書の著者の問題も、古くからの伝承通りにその著者が書いたという事に戻ってきているわけです。
考察途中のものを確証されたものと見る事の問題点を指摘しています。

また、疑ってかかる事が真実の追求に役立つ点もあるとは思いますが、私が他のトピックであげたように、否定派はなぜ、キリストの復活の信仰が形成されたのか説明できません。

もちろん、復活があったという科学的な証明はできませんが、私は復活があったと考えるほうが自然だと考えるという事です。

ほいさんとの議論ですが、結局は信仰の問題であり、神がテロリストであるとかカルトだという考えも、神が裁き主であられ、最善に物事を扱われるという事への信仰の欠如からきているとしか言いようがありません。

全ての人間は生まれた時から罪人であり、いつでも裁かれても仕方のない存在(赤子も含め)だというのがキリスト教の考えなのですから、それを受け入れられないのなら信仰を棄てるなり、他の宗教に行くなり、無神論を信じる者となるしかないでしょう。

ソロモンの栄華も神殿の丘に立つ岩のドームの故に発掘ができませんので現段階では全否定もできません。
証拠が出ていないという事は、その事実がなかった事の証明にはなりません。もちろん、あった証拠にもなりませんので、私達は、それぞれの見解で信じる事しかできないのです。

仏教トピックでも最初から書いてきましたが、この世には証明された宗教というものは何もありません。

各自がそれぞれ信じたいものを選んで信じているのです。
ですから、信じない人々と議論してもいつまでも平行線であると思います。

私はもう、ほいさんとは十分に話したと思いますので、これ以上、特に何か話す必要もないと思います。

ほい さんの発言:

とはいえ、新たな発見などにより検証の段階が見直されることもあるので、そうであれば結論も見直されるべきで、そうしない方がおかしいからです。

エホバの証人の問題の一つはまさにこれで、多くの教義の根拠がその後の発見で覆されているにもかかわらず頑なにその事実を受け入れようとしません。
それらの教義が考え出された当時は情報が不足していたのですから間違った結論を出してしまったこと自体はある意味仕方ないと思いますが、新たな情報を頑なに拒む姿勢は評価しがたいものです。

新たな発見というものの後に、さらに新たな発見が出てそれまで信じられていたものが覆る事があります。それはどの分野でも同じで、科学者の見解もそうだと思います。

その科学的な発見、事実とされているものも全てが絶対的なものではないと考えます。

科学は素晴らしいものですが、全てを盲信して科学信奉者になろうとは思いません。
その姿勢は評価できません。

多くの否定された教義とは具体的に何でしょうか?
もちろん、エホバの証人の統治体という考えや輸血問題、エホバ発音問題等は十分に覆されていると思います。
おそらく、ノアの洪水や出エジプトの事だろうとは思いますが、それらも神を信じる者か違うかで過去を見る点での視点や解釈が異なるわけですから、これ以上話し合っても不毛だと思います。

進化論や創造論について扱っている書籍やDVDはいくらでもありますので自分で調べる事ができますし、どちらを信じるかも選べばいいと思います。


ほい さんの発言:

ちなみに、私からも一応確認しておきたいのですが、仰天さんは、元証人さんやキメラさんとは別人ということで間違いないでしょうか?
また、別人であったとして、過去の元証人さんやキメラさんの書き込みについてどう思われますか?
賛同されますか?それとも異なる意見でしょうか?

匿名の掲示板において、あなたは◯◯さん? という事はあまり意味のない事のように思います。私も他の掲示板で同じような文章を書く人がいて、同一人物かと思っていましたが、後に全くの別人だという事が分かった事があります。結論から言うと別人です。
元証人さんという人はいろんな投稿をしておられるようですから全ては読んでいませんので、簡単に賛同かどうかは言えませんし、私は特定の誰かに全て賛同というような事はありません。

しかし、同じ本から引用されており、その信仰の点では同意する部分はあります。

福音をストレートに説く人は毛嫌いされるようですね。その点で言いたい事を書きます。

まず、他人の軒先や庭を借りているのだから発言を慎めという意見は筋が通っておらず反対です。

ファンタジーだと思っている聖書を何年にも渡って残酷だ、残酷だと批判している人物は女々しい人間であると思います。(ほいさんではありません。)いつまでカルト問題を引きずっているんだ、もっとほかに有益な事は世界にいっぱいあるだろうと。(もちろん、ある程度の期間、カルトの後遺症で苦しまれる方もいらっしゃる事は理解しています。)

もっと他の素晴らしい事に目を向けて人生を充実したものにされたらどうでしょうか。

安易に否定と肯定に分けられないと言っておきながら、ここは否定系の掲示板なのだと言うのも矛盾しているでしょう。
中間の意見もあるとは思いますが、大きく分けると否定と肯定なわけですから。


エホバの証人批判も聖書批判もあって当然で自由ですが、批判するからには正当なものでなければならず、当然、エホバの証人側からも他の聖書を信じる人々からも反論があるでしょうし、また、それを受け入れなければ、批判のための批判、一方的な批判になりかねません。

ですから、ここは批判のためのサイトであるから肯定する者は出て行けというのはおかしいでしょう。

論題とは関係ない事を述べて排除しようとするのは、ストローマン論法とかディベート上の事を述べておきながら、人格攻撃その他で排除しようとする事は、それは筋の通らないものだと思います。

批判するからには正当な批判であるべきですし、不正確な批判でもなんでも許され、反論は一切許さない掲示板だと言うのなら別ですが。(もちろん、全員が不正確な批判だとは言ってはいません。)

もちろん、反論も歓迎しますというのが表向きの姿勢でしょうから、反論するにしても空気を読んでくださいという意味だとは思います。

私もこの掲示板に最初に書いたのは、単に世界仰天ニュースでエホバの証人の二世が扱われている事を知らせたのが最初でしたから、長居するつもりもありませんのでそのうち去ろうとは思っています。

#142 2019年06月07日 11:11:06

さやか666
ゲストユーザー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

やはうえ痛快劇場  テロリストなぞなぞ


「食べようとするものから食べものが出て、強いものから甘いものが出た。
それは、な~んだ?」

#143 2019年06月07日 16:08:16

モトシモベ
ゲストユーザー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

>>仰天さん

議論するつもりは毛頭ありませんが、ちょっとだけ指摘させてください。

仰天 さんの発言:

まず、他人の軒先や庭を借りているのだから発言を慎めという意見は筋が通っておらず反対です。

この書き方では「(すべての)発言を慎め」という意味へと、翻意的にすり替えているように見えます。

わたしの名誉のために書いておきますが、わたしの原文は以下のとおりです。

モトシモベ さんの発言:

わたしは、ネットでよく言われる「イヤなら見るな」は、この掲示板には当てはまらないと考えています。
他人様の庭(カレブさんの掲示板ですからね)を不当に占拠するのはマナー違反です。
最低限のルールやマナーを守れないなら、管理者判断でご退場いただくことになるでしょう。

引用元: https://www.jwstudy.com/bbs/viewtopic.p … 656#p32656

この原文のどこが「筋が通っていない」のか、わたしには理解できません。

たとえばYouTubeでは、自分のチャンネル内であれば、投稿者は自由にコンテンツを投稿できます。
もちろん「イヤなら(チャンネルを)見るな」と言うこともできます。
しかし投稿先であるYouTubeのガイドラインに沿わない動画を投稿すれば、その動画は削除され、改善が見られなければチャンネルは凍結されます。
別チャンネルへのコメントに対しても、一定のガイドラインが存在します。
わたしの原文に言葉足らずな部分はありますが、この掲示板においても考え方は同じでしょう。

わたしは仰天さんのことを、もう少しご自分を客観的に評価できる、賢明な方だと思っているのですよ。
らしくない投稿で、あまりガッカリしたくはありません。

今の仰天さんは、かつてのシュウイチさんと同じような空気をまといつつあるように見受けられます(返信は不要です)

#144 2019年06月07日 16:30:29

さやか666
ゲストユーザー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

さやか666 さんの発言:

やはうえ痛快劇場  テロリストなぞなぞ


「食べようとするものから食べものが出て、強いものから甘いものが出た。
それは、な~んだ?」


誰か知恵のあるものは名乗り出よ

さやか666さんの下着30枚の褒美があるぞよ

#145 2019年06月07日 16:42:15

めぐママ
メンバー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

さやかさんの  なぞなぞは 発想が奇想天外 だから 到底 その境地には到りませぬ。

普通の ばあばからのなぞなぞ です。

定期的に お掃除しているのに 定期的に発生する カビ  はたして  それの目的は なあ〜んだ⁉️

以前の家で 夏に長期留守した時   床下収納スペースに 潜んでいて それ以来 ヒョッコリ 顔出してきます。

オフライン

#146 2019年06月07日 16:59:47

仰天
ゲストユーザー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

モトシモベ さんの発言:

>>山のアザミさん

信条や思想は人の数だけあって当たり前。
だけど信仰の押し売りは断固NO!
お互いを尊重できない人も断固NO!
それでいいのですよ。

JWという悪質カルトの呪縛から解き放たれた我々なんですから、もうじゅうぶんではありませんか。
さらに縛られたいマゾっ子は、ひとり勝手に、どこへなりと行けばよろしい。
声を大にして「てめーの独り善がりに他人様を巻き込むな!」と言い放ってやりましょう。

そこにつけ込む不埒な輩には、毒をもってNO!の刃を突き刺すまでです。
再起不能のインポになるまで思う存分、突き刺してやりましょう。
卑怯な痴漢撃退に安全ピンを使って何が悪い!(▼皿▼メ)ノ

もうひとつ。
わたしは、ネットでよく言われる「イヤなら見るな」は、この掲示板には当てはまらないと考えています。
他人様の庭(カレブさんの掲示板ですからね)を不当に占拠するのはマナー違反です。
最低限のルールやマナーを守れないなら、管理者判断でご退場いただくことになるでしょう。
管理者のカレブさん、その辺りのバランス感覚に優れている方です。

てなわけで。
この掲示板は全世界に公開されているチラ裏ではありますが、臆することなくJWに対する思いの丈をぶちまけましょう。
そのような真摯な投稿が、まだ見ぬ潜在的な投稿者さん(今の読者さん)の心に届きますことを、心から切に願っています。


【お断り】
この投稿は、昨今取り上げられたような「一人で死ね」論や痴漢撃退に安全ピンの使用を推奨するものではありません。笑

返事は不要との事でしたが、補足の説明です。


ここで、モトシモベさんが書いておられる「イヤなら見るな」という事が当てはまらないという意見が、ゆりさんの意見である、聖書を嫌いな人は私の投稿を見なければいいのではないでしょうかという事の否定のような印象を受けました。


また、モトシモベさんの意見が、Aさんの意見とかぶっているように思えたものですから。

その方は、ある特定のご自分のトピックでは書かないで下さいとの事で、この掲示板自体も否定系のものだとして、輪廻や他の様々な信条については語るのはいいけれども聖書批判の人へのおかしいと思える点の指摘さえ許さない感じでしたので、モトシモベさんもその方と同意見なのかなと思いまして。

違ったという事であればすみません。

私は、聖書に関して突っ込みを入れる事をウリにしている人が逆に突っ込まれたらダメだろうと思いまして、批判するにしてもその質を高めてもらいたいわけです。


>信条や思想は人の数だけあって当たり前。
だけど信仰の押し売りは断固NO!
お互いを尊重できない人も断固NO!
それでいいのですよ。

信じる事はそれぞれあってよいけれども、押し売りはよくないという事ですよね。

私を含めて誰も押し売りなんてしていないと思いますが、絶対的な仏法、日蓮正宗の方と同じように感じられる部分もあるとの事。

聖書のほうが仏教よりは個人的に信憑性があるとは思いますが、それも見方は人それぞれですので。
私は押し売りはしていませんので悪しからず。

とりあえず、モトシモベさんのお考えは分かりました。

ありがとうございます。

#147 2019年06月07日 17:20:46

さやか666
ゲストユーザー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

めぐママ さんの発言:

さやかさんの  なぞなぞは 発想が奇想天外 だから 到底 その境地には到りませぬ。

普通の ばあばからのなぞなぞ です。

定期的に お掃除しているのに 定期的に発生する カビ  はたして  それの目的は なあ〜んだ⁉️

以前の家で 夏に長期留守した時   床下収納スペースに 潜んでいて それ以来 ヒョッコリ 顔出してきます。


目的があるのかないのか

あるとして達成されているのかいないのか

もしくは達成されていたのかされてなかったのか


ない、とするなら目的もないのにやたらと増殖に精を出してますよね


健気ですよね

#148 2019年06月07日 17:45:08

めぐママ
メンバー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

実家の庭は純和風で苔のむすエリアがあります。 とても趣のある その一画 で 霧島躑躅 石楠花を 鑑賞するのが好きでした。
父は 庭師さんの定期的な 管理の合間にも 苔の上に生えた 小さな草を取っていたものです。何処からか 草のタネは飛んでくるのです。ピンセットで取ってると  母や姉は 呆れていたけど 良い運動になると言う人もいました。  晩年  もっと厄介な やつが侵略してきました。


ゼニ苔です。  コレが 苔の上に増殖しだすと もうダメでした。
苔類は  菌で増殖するので  根絶するのは難しいとの事です。 取り除いても  別の場所に  ゾンビのごとく  顔を出す。 杉苔や ステキな苔類は消えて 庭の価値は 台無しになりました。 兄が  別棟を建てて  庭のリノベーションして   スッキリしたのですが まだ  潜んでいるのです。

菌類  キノコとか 森の中にいる分には  いい仕事しています。
倒木に取り憑いて  いや付いて 木を分解して腐葉土にしてくれます。森のお掃除をする。 ハイエナ ジャッカル  スカラベ も いい仕事してます。

オフライン

#149 2019年06月07日 20:31:57

iris
メンバー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

さやか666さんはサムソンだったんですか

下着30枚はどこから調達するのですか

オフライン

#150 2019年06月07日 20:54:24

さやか666
ゲストユーザー

Re: ナザレのイエスは神の子か の本について

iris さんの発言:

さやか666さんはサムソンだったんですか

下着30枚はどこから調達するのですか

チクショー、うまくいかねえな

しかたないか

まあ、テロリストといえばサムソンですね

さすがです

ちなみに正解者がいたら

「蜂蜜だと?なに正解してんだよ!ぶっ殺すぞてめえ」と言うつもりでした

クィック投稿

メッセージを書いて送信してください。

Board footer