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#1 2014年12月01日 18:11:56

オーシャンQ
ゲストユーザー

新世界訳聖書の翻訳 【主=エホバ】 の問題について

初投稿です。インターネットでエホバの証人関する記事を検索していたところ、コリント第二の3章に記された聖句の訳文が『主=イエスキリストなのかエホバなのか?』異なるのを発見し、驚きと真偽の思いが交差することになりました。
聖霊で満たされた神のことば“聖書”であれば正解の日本語訳はどちらになるのでしょうか? 聖書に通じている皆さん!! 教えてください。よろしくお願いします。

特にskさん。skの投稿記事から教えられることが多く、聖書を広く深く理解されていることもあり、(残された聖書関係文献なども含めて)その内容を教えてください。

コリント第二 3章16節~18節の聖句記述について
ものみの塔聖書冊子協会の発行されている聖書(1985年 日本語版やインターネットのオンライン聖書の現状の掲載内容)新世界訳聖書では、
「16 しかし,転じてエホバに向かうとき,ベールは取り除かれるのです。17 さて,エホバは霊です。そしてエホバの霊のある所には自由があります。18 そして,わたしたちすべては,ベールをしていない顔で,エホバの栄光を鏡のように反映させながら,霊なるエホバのなさるそのとおりに,栄光から栄光へと,同じ像に造り変えられてゆくのです。 」(新世界訳)

(財)日本聖書協会 新約聖書 「コリント人へ第二の手紙」口語訳では
「16しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。 17主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。 18わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」

さらにコリント人への第二の手紙4章 4節には
「彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。」(口語訳)
と記されていることから、3章の聖句に関わる何かの意図するものがあるのか、と思いを巡らします。

#2 2014年12月01日 20:26:02

もんもん
メンバー

Re: 新世界訳聖書の翻訳 【主=エホバ】 の問題について

オーシャンQさん

率直にいってしまうと、ギリシャ語聖書の部分でエホバとなっている部分は、原文では、すべて「主」となっています。また、パウロが、ヘブライ語聖書からの引用以外で、主という言葉を使うときは、ほとんどの場合、イエス・キリストを指していると考えてよいと思います。

オフライン

#3 2014年12月01日 21:30:54

オーシャンQ
ゲストユーザー

Re: 新世界訳聖書の翻訳 【主=エホバ】 の問題について

もんもんさん 早々のご指導ありがとうございました。
パウロが霊的イエスに導かれイエス信仰の大御所となっていることから基本的にそのような考え方の結果は、当然理解します。
しかし、公に宣教する日本のエホバの証人が、聖書を基本的に理解し深めることが求められるのに、日本語訳が混乱させる状況。 ましてやパウロの期待するイエスの教えと神の御親切を考えると、イエスとエホバを混同させ、聖書の理解を混乱させ歪な実に成長するのを「良し」とするような表記をしたままにしておくのでしょうか?・・・・・疑問となります。
それがものみの塔聖書冊子協会の編集した新世界訳聖書。公に広め、理解できますとした内容となるのですかネ?

#4 2014年12月01日 23:14:03

もんもん
メンバー

Re: 新世界訳聖書の翻訳 【主=エホバ】 の問題について

個人的な見解を書かせていただくと、当時、「主」という言葉は「唯一の神」をさす場合もあれば、「目上の人」を指す場合もあったのだと思います。(たとえば日本語の「おかみ」という言葉と「かみ」という言葉を考えて抱けるとイメージしやすいかと。)

つまり、だれかが混同させたわけではなくって、二重の用法が、当時の慣用としてあったということです。ですから、イエスが悪いわけでもなく、パウロが悪いわけでもなく、当時のクリスチャンが悪いわけでもないと思います。そういう事情があったのでイエスは、「父」と「主」という言葉を使い分け、パウロも「父なる神」と「主」とをあえて使い分けたのではないかと考えています。ややこしいので、区別するために、引用以外では、「唯一の神」を「父」と呼び、イエスを「主」と呼んだのではないかと。

僕の見解ですけれども。

オフライン

#5 2014年12月02日 02:16:00

カレブ
Administrator

Re: 新世界訳聖書の翻訳 【主=エホバ】 の問題について

オーシャンQさん トピックを分割しました。

現役エホバの証人の人も この翻訳の問題点については
考える良い機会だと思います。

この部分のギリシャ語写本のどれを見ても「キュリオス(主)」となっているのですから
それは そのまま「主」と訳すべきだと思います。

推測に基づき「エホバ」と置き換える行為は やってはならない行為です。

エホバの証人は一般キリスト教会が 旧約聖書中のYHWHを主と訳出していることを
非難していますが、 主流教会と ものみの塔 のどちらが問題ありかと言えば
断然 ものみの塔のやっていることのほうが問題です。

オフライン

#6 2014年12月02日 04:04:25

possible
ゲストユーザー

Re: 新世界訳聖書の翻訳 【主=エホバ】 の問題について

私は、昔から申しております。
もし、この点で、エホバの証人(新世界訳)を批判するのであれば、
日本聖書協会も加盟している「聖書協会世界連盟」(UBS)も、同時に批判すればよろしい、と。
なぜなら、新世界訳がそのように訳す「根拠」は、そこにあるからです。

UBSの翻訳(ヘブライ語版新約聖書)は、今ではネット上でも確認できます。
問題の箇所をご覧になってみてください。
そこには、「テトラグラマトン」(YHWH)が何度も出てきますよ。
http://www.kirjasilta.net/hadash/2Qor.3.html

うちのサイトでは、この種の翻訳の「実例」を、たくさんあげていて、
もし望むなら、「ご自分の目で」ちゃんと確認できるようにしています。
最近はメンテナンスを全くしてないので、リンク切れを起こしてる部分もあるかもですが・・・。
http://godpresencewithin.web.fc2.com/pa … ink05.html
http://godpresencewithin.web.fc2.com/pa … ink03.html


私は、この点で、エホバの証人の翻訳を批判するのも大いに結構だと思ってます。
しかし、その批判は必ず、「聖書協会世界連盟」にも向けなければなりません。
エホバの証人“だけ”を批判するのは、単なる差別(偏見)であり、愚かな行為です。(と私は考える。)

昔、UBSの翻訳(ヘブライ語版新約聖書)は、日本聖書協会のサイトから注文できました。
記号で「M262」と表現されてるものです。
ただし、ネット上では、今でも買えるところもあるようですが・・・。
http://shop.biblesociety.org.lb/old-new … -m262.html
もし海外のアマゾンでも買えるようなら、そちらのほうが「安全」だと個人的には思いますけども。

なお、私個人は、自分の翻訳(possible訳)で、
ギリシャ語の「キュリオス」を「エホバ」とは訳してはいませんが、
その「キュリオス」が、ヘブライ語では(あるいは、「ユダヤ人の頭の中では」)
「テトラグラマトン」で表現され得ることを否定はしません。
ただし、どの場合でも、そのヘブライ語の“発音”は「アドナーイ」(「主」の意)です。
それはヘブライ語の文法で「永遠のケレー」と呼ばれています。

#7 2014年12月02日 06:19:52

sk
メンバー

Re: 新世界訳聖書の翻訳 【主=エホバ】 の問題について

おはようございます、オーシャンQさん、



主(Lord)を誰とみなすかの問題ですね。

コリント第二3:16-17では、主(Lord)が用いられています。
テトラグラマトンではありませんので、エホバと訳すと、それが文脈に沿っていたとしても意訳となります。

旧約聖書のなかで神は主(Lord)と呼ばれいました。
それで、ユダヤ人にとってヘブライ語聖書の主(Lord)を神と識別することは難しくなかったと思います。

クリスチャンにとって主(Lord)はイエスキリストであり、ギリシャ語聖書の筆者たちはイエスキリストを指して主(Lord)ということばを用いました。

神と主イエスが識別しやすい文章もあれば、どちらなのか判断しにくい文章もあります。
そこで、どちらにとっても意味が通じるなら、そのように読み取ればよいと思います。

なぜなら、イエスは神の厳密な像と呼ばれているように神もイエスも特質をいわば共有しているからです。
そして普遍の真理は、全ての源は神であるということです。
イエスもその存在や特質を神に負っています。

コリント第一 8:6
6 わたしたちには父なるただひとりの神がおられ,この方からすべてのものが出ており,わたしたちはこの方のためにあるのです。また,ひとりの主,イエス・キリストがおられ,この方を通してすべてのものがあり,わたしたちもこの方を通してあるのです。


ヘブライ 1:3
3 彼は[神の]栄光の反映,またその存在そのものの厳密な描出であり,

ヨハネ 14:9-10
9 イエスは彼に言われた,「わたしはこれほど長い間あなた方と過ごしてきたのに,フィリポ,あなたはまだわたしを知らないのですか。わたしを見た者は,父を[も]見たのです。どうしてあなたは,『わたしたちに父を示してください』と言うのですか。10 わたしが父と結びついており,父がわたしと結びついておられることを,あなたは信じていないのですか。わたしがあなた方に言う事柄は,独自の考えで話しているのではありません。わたしとずっと結びついておられる父が,ご自分の業を行なっておられるのです。

ヨハネ 5:19
19 それゆえ,それに答えてイエスは彼らにさらにこう言われた。「きわめて真実にあなた方に言いますが,子は,自分からは何一つ行なうことができず,ただ父がしておられて,自分が目にする事柄を[行なえる]にすぎません。



神を崇拝する人(神に思いを向ける人)はキリストを意識せずに(あるいは意に介せずに)神を崇拝することはできないでしょう。

ヨハネ 14:6
6 イエスは彼に言われた,「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません



主(Lord)が容易に神を指すことが分かる聖句の例

ローマ 11:33-36
33 ああ,神の富と知恵と知識の深さよ。その裁きは何と探りがたく,その道は[何と]たどりがたいものなのでしょう。34 「だれが主(Lord)の思いを知るようになり,だれがその助言者となったであろうか」,35 また,「だれがまず[神]に与えてその者に報いがされなければならないようにしただろうか」とあるのです。36 すべてのものは[神]から,また[神]により,そして[神]のためにあるからです。[神]に栄光が永久にありますように。アーメン。

新世界訳は34節の主(Lord)をエホバとしています。


新世界訳と同じように文脈からそれが神を指すことが明白な場合、主(Lord)をエホバと訳している聖書はたくさんあります。それは意訳となりますが、脚注で主(Lord)が用いられていることを示しています。
聖書を読むときにエチオピアの宦官がしたように、「これは誰を表しているのだろうか」と考えるのは良いことで自然なことです。





上記のことを念頭にコリント第二 3章の文脈を考えてみましょう。

コリント第二 3:12-4:6

chap3
12 それゆえ,このような希望があるので,わたしたちは大いにはばかりのない言い方をしています。13 そして,除き去られることになっていたものの終わりをイスラエルの子らがじっと見つめることのないようにと,モーセが自分の顔にベールを掛けたときのようなことはしていません。14 彼らの知力は鈍っていました。同じベールが今日まで,古い契約の朗読の際に取られずに残っているのです。というのは,それはキリストによって除き去られるものだからです。15 実際,今日に至るまで,モーセが読まれるときにはいつも,彼らの心の上にベールが掛けられています。16 しかし,転じて主(Lord)に向かうとき,ベールは取り除かれるのです。17 さて,主(Lord)は霊です。そして主(Lord)の霊のある所には自由があります。18 そして,わたしたちすべては,ベールをしていない顔で,主(Lord)の栄光を鏡のように反映させながら,霊なる主(Lord)のなさるそのとおりに,栄光から栄光へと,同じ像に造り変えられてゆくのです。

chap4
1 そのようなわけで,わたしたちはこの奉仕の務めを自分たちに示された憐れみにしたがって持っているのですから,あきらめるようなことはしません。2 むしろ,わたしたちは恥ずべき隠れた事柄を捨て去ってしまい,こうかつに歩むことなく,また神の言葉を不純にすることもありません。かえって,真理を明らかにすることにより,神のみ前で自分をすべての人間の良心に推薦するのです。3 そこで,もしわたしたちの宣明する良いたよりに事実上ベールが掛けられているとすれば,それは滅びゆく人たちの間でベールが掛けられているのであり,4 その人たちの間にあって,この事物の体制の神が不信者の思いをくらまし,神の像であるキリストについての栄光ある良いたよりの光明が輝きわたらないようにしているのです。5 わたしたちは,自分自身ではなく,キリスト・イエスを主として,また自分自身をイエスのためのあなた方の奴隷として宣べ伝えているからです。6 神は,「光が闇の中から輝き出よ」と言われた方であり,キリストの顔により,神の栄光ある知識をもって明るくするため,わたしたちの心を照らしてくださったのです。



では、順序良く考えて行きましょう。

律法の終わりをみることができないとは何でしょうか。

律法は影であり、その実体はなんでしたか。
それはキリストでした。
影は栄光の点で実体に劣ります。

イスラエル人は律法の目的を見るあるいは悟ることができませんでした。
それはあたかも栄光を隠すベールが掛けられているかのようでした。
それで、イスラエル人のように律法を重視する者は栄光を見る(悟る)ことができません。

しかし、転じて実体であるキリストに目を向ける、あるいは注目するならベールが除かれると述べています。

では、キリストに注目するとはどういうことでしょうか。
キリストは神の像であり、その栄光は神の栄光の反映です。
ですからキリストについて学びその栄光を反映することは、結果的に神の像の反映を意味します。

栄光から栄光へと、同じ像に作り変えられていくとは、神の子供たちの自然な成長に他なりません。

不完全なアダムの子たちにとってキリストは手本、あるいは模範であり、神の子たちの究極の目的である神を見習うものとなる補助であると言えます。


ヨハネ 13:15
15 わたしはあなた方のために模範を示しました。あなた方も,わたしがあなた方にしたと同じようにするためです。

エフェソス 5:1
1 それゆえ,愛される子供として,神を見倣う者となりなさい。2 そして,キリストがあなた方を愛し,芳しい香りとなる神への捧げ物また犠牲としてご自身をあなた方のために引き渡されたように,あなた方も愛のうちに歩んでゆきなさい。

マタイ 5:43-48
43 「『あなたは隣人を愛し,敵を憎まなければならない』と言われたのをあなた方は聞きました。44 しかし,わたしはあなた方に言いますが,あなた方の敵を愛しつづけ,あなた方を迫害している者たちのために祈りつづけなさい。45 それは,あなた方が天におられるあなた方の父の子であることを示すためです。[父]は邪悪な者の上にも善良な者の上にもご自分の太陽を昇らせ,義なる者の上にも不義なる者の上にも雨を降らせてくださるのです。46 というのは,自分を愛してくれる者を愛したからといって,あなた方に何の報いがあるでしょうか。収税人たちも同じことをしているではありませんか。47 また,自分の兄弟たちにだけあいさつしたからといって,どんな格別なことをしているでしょうか。諸国の人々も同じことをしているではありませんか。48 ですから,あなた方は,あなた方の天の父が完全であられるように完全でなければなりません


神の像であるキリストに目を向ける人は幸いです。
それが神を見倣うための必要条件だからです。


ヨハネ 6:68
68 シモン・ペテロが彼に答えた,「主よ,わたしたちはだれのところに行けばよいというのでしょう。あなたこそ永遠の命のことばを持っておられます。

「だれ」のところに行くべきですか。
イエスキリストです。
ものみの塔協会、その他の組織宗教ではありません。


もし、あなたがものみの塔協会、あるいはその他の組織宗教に救いを求めるなら、それは影に過ぎない律法に依り頼んだユダヤ人のようです。


組織宗教の教理ではなく、聖書からキリストの教えを吸収する人は幸いです。
その人は本当に神を知ることができるでしょう。


キリストの弟子である王国の子たちはそうあるべきです。

キリストの霊、神の霊のあるところには自由があります。

王国の子たち、キリスト、神はひとつとなります。

ヨハネ 17:20-26
20 「わたしは,これらの者だけでなく,彼らの言葉によってわたしに信仰を持つ者たちについてもお願いいたします。21 それは,彼らがみな一つになり,父よ,あなたがわたしと結びついておられ,わたしがあなたと結びついているように,彼らもまたわたしたちと結びついていて,あなたがわたしをお遣わしになったことを世が信じるためです。22 またわたしは,わたしに与えてくださった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように,彼らも一つになるためです。23 わたしは彼らと結びついており,あなたはわたしと結びついておられます。それは,彼らが完全にされて一つになり,あなたがわたしを遣わされたこと,そして,わたしを愛してくださったと同じように彼らを愛されたことを世が知るためです。24 父よ,わたしに与えてくださったものについては,わたしのいる所に彼らも共にいて,わたしに与えてくださった栄光を見るようにと願います。あなたは世の基の置かれる前にわたしを愛してくださったからです。25 義なる父よ,確かに世はあなたを知っていませんが,わたしはあなたを知っており,これらの者たちも,あなたがわたしをお遣わしになったことを知っております。26 そしてわたしはみ名を彼らに知らせました。また[これからも]知らせます。それは,わたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり,わたしが彼らと結びついているためです」。



イスラエル人がしたように聖書を学ぶならイスラエル人のように神の過分のご親切からハズレ落ちるでしょう。

神に視点をあてて神を喜ばせるものになるために聖書を学ぶ人は幸いです。
その延長線上にわたし達の主(Lord)であるイエス・キリストがいます。

ですから、クリスチャンはキリストと神を常に意識しています。
それは、神を見倣うものとなるためです。

オフライン

#8 2014年12月02日 07:20:45

オーシャンQ
ゲストユーザー

Re: 新世界訳聖書の翻訳 【主=エホバ】 の問題について

sspossibleさん 深夜にもかかわらずご親切な指導ありがとうございました。
ケレブさん、項目分けありがとうございました。投稿掲載場所のルールを十分理解せず指導していただき、助かります。それに聖書の理解の基本原則を教えていただきありがとうございました。
更にskさんの理解しやすい説明、誠にありがとうございました。十分に理解します。
さて、聖書の理解度を増すためには、日本語訳のほか「ギリシャ語やヘブライ語の聖書を見ればと」の指摘は十分理解します。
今回、1つの聖句の表記だけでなく、その章の意味することが理解できないと文脈が混乱するとの思いで投稿しました。
神とイエスの関係を十分に認識すると「イエスが、人と神とが和解できるようにしている(新しい契約)。コリント会衆の信徒にイエスキリストの力をパウロが説明している。」ことを踏まえて、聖書に記されたパウロの説明したかったことが理解できないと神のおしえの土台がおかしくなるのではないでしょうか?
(神エホバ⇔イエスキリスト⇔人)これが一体となれる。
コリント第二 3章の意味合い及び3章14節後段に記された
「・・・それはキリストによって除き去られるものだからです。」(新世界訳)を基本にすると3章16節~18節にエホバとした場合には、3章全体とが文脈になじまないし、ギリシャ語聖書におけるパウロの得た・理解したイエスキリストの役割が説明できないようにしてしまうのではないでしょうか?(イエスキリストが救世主と理解すればとの思い)
「主(イエスキリスト)によりベールは取り除かれる」と。

「イエスを見た者は神をも見ている。イエスは神と一体だから」の理解からエホバでもイエスでもどちらでも可とすると個人の判断や思いで聖書を理解することもありと思います。最終的に 神と個人の在り方 でしょうが・・・・。
皆様に聖書の知識不足を補っていただき、ありがとうございます。
skさん、早朝からの御指導ありがとうございました。
神と主イエスキリストから過分な親切と愛を受けて、聖書の理解を助けていただきました。感謝します。皆様にも神の聖霊がとどまりますように!

#9 2014年12月02日 11:09:24

カレブ
Administrator

Re: 新世界訳聖書の翻訳 【主=エホバ】 の問題について

新約聖書のヘブライ語版を作る際に キュリオスをYHWH(ユダヤ人はアドナイと発音)と訳出するのは間違っています。

新世界訳であれ、他のヘブライ語訳であれ 問題は同じです。

ただ ものみの塔と 他の訳者の目的は同じものではないように思います。
ヘブライ語訳の訳者は三位一体の考えを基にしてユダヤ人福音宣教に有利になると
考えた人もいるのではないかと思います。

YHWHと訳した翻訳者の中で パウロがその著作の中で神の名前としてのYHWHを
実際に記述したと本気で信じている人がどれだけいるのか疑問です。

オフライン

#10 2014年12月03日 01:48:08

u-chan
ゲストユーザー

Re: 新世界訳聖書の翻訳 【主=エホバ】 の問題について

翻訳者(個人であれ団体であれ)の見解を訳文の中に表すことは、原典に対する冒涜だと思います。

田川建三さんの新約聖書には、岩波書店訳、新改訳、口語訳等の日本語訳に対して、「そんな無茶な訳があるか!」と、手厳しく批判されています。
田川さんは、ルターの偉業には敬意を払いつつ、その訳の不正確な部分を正されていらっしゃるので、宗教家であればこそ言語学者の訳とは異なる解釈によって訳語を選択しがちであることを指摘されています。

小説の日本語訳では、直訳では本来の作品からかけ離れてしまう(と訳者が感じる)場合に、違う言葉を選択することもあるでしょう。
しかし、その場合でも原作者の了解のもとで、なされるべきでしょう。

しかし、もはや執筆者に意見を聞くこともかなわぬ聖書に対して、また正確に伝えることを願って書かれた聖書の言葉に対して、見解を訳に紛れ込ませることは、冒涜と批判されても仕方ないでしょう。

私には、田川さんの訳が正しいかの判断はできませんが、その姿勢は見習うべきだと思います。

#11 2014年12月03日 02:08:55

u-chan
ゲストユーザー

Re: 新世界訳聖書の翻訳 【主=エホバ】 の問題について

書き込んだあとでなんですが。

このスレッドって、訳の是非に対するものでしたっけ?

それとも、コリントの該当箇所の「主」が、どちらの解釈であるか、でしたっけ?

possibleさんのものみのだけが批判されるべきではないという意見について。
理解はできますが洗脳という実態と強く結び付きかつ、盲信という有害さに導く点を考慮すれば、ものみの塔のみが批判されても仕方ないと思います。

#12 2014年12月03日 03:15:46

possible
ゲストユーザー

Re: 新世界訳聖書の翻訳 【主=エホバ】 の問題について

u-chan さんの発言:

理解はできますが洗脳という実態と強く結び付きかつ、盲信という有害さに導く点を考慮すれば、ものみの塔のみが批判されても仕方ないと思います。

ええ。
ですから、私は、そのような行為(態度)を、「単なる差別(偏見)であり、愚かな行為です。(と私は考える。)」と申し上げました。

私は時に、「統治体」やJWの教義を痛烈に批判したりしますが(特に最近のレッシュの「ウソ」など)、
エホバの証人の教えや、かつては兄弟姉妹(仲間)だった人たちの「すべてが悪い」とは思いません。
すべてを否定して、私自身、「元」JWになったのでもありません。
実際には、エホバの証人にも「良い部分」もあり、そして、「悪い部分」もあるというのが真実です。
ただし、この宗教の場合、悪い部分が「多すぎる」のですが・・・。(笑)
u-chanさんの批判も、たぶん、そういうところからでしょう。

しかし、「新世界訳」という翻訳そのものを純粋に判断したいと考える時、
そういう考えだけに凝り固まってしまうと、新世界訳の「良い部分」も、すべて無視する結果になるかと思います。
もちろん、それがただの「翻訳」である以上、田川訳も含め、どの聖書翻訳も
完璧なものなんてあるわけがないですし、当然、どの翻訳にも、「欠陥」と言える部分もあります。

#13 2014年12月03日 04:01:10

possible
ゲストユーザー

Re: 新世界訳聖書の翻訳 【主=エホバ】 の問題について

カレブ さんの発言:

新約聖書のヘブライ語版を作る際に キュリオスをYHWH(ユダヤ人はアドナイと発音)と訳出するのは間違っています。

まあ、いろんな意見はあるでしょうが、私個人は、
聖書(新約聖書)は、「ユダヤ人の思考」(あるいはヘブライ語)を(ある程度)知らないと、正しく訳せないと思ってます。

たとえば、possible訳。
私は、ギリシャ語を「そのまま訳してはいない部分」があります。
簡単にいうと、新約聖書を、一部分、ギリシャ語からではなく、「ヘブライ語から」訳してます。
ギリシャ語から訳しても、心を動かされないからです。(これは私の意見です)

実例として、ギリシャ語の「カリス」。
新世界訳は、エフェソス6章24節のこの言葉を「過分のご親切」と訳しています。
他の翻訳では、「恵み」などと訳されています。
しかし、私は、このギリシャ語に対応するヘブライ語の「ヘセド」から、「変わらぬ愛」と訳しています。
http://godpresencewithin.web.fc2.com/pa … ans06.html


また、ギリシャ語で、普通に「平和」と訳されてる言葉も、
私は、「シャローム(平安)」と訳しています。(たとえば、エフェソス6:23)
「シャローム」とは、ユダヤ人にとっての「挨拶の言葉」(朝でも夜でも使える)であり、
また、昔から争いの絶えないあの地域で、この言葉は特別の意味を持ちます。
また、単なる外面的な平和(戦争がない状態)だけでなく、「心の平安」も意味します。
それは、「自分は神から愛されている」との自覚から来る、心の平安です。
http://godpresencewithin.blog86.fc2.com … ry-79.html


だいぶ話題がそれてしまいましたが、
要するに、これで私が何が言いたいのかと言いますと、
ギリシャ語からそのまま、そして、ユダヤ人の思考を全く無視して、
単なるその意味を訳しただけでは、聖書は正確に訳せないし、冷たい翻訳になるということです。

「キュリオスをYHWHと訳すのは間違いだ」という考えは、一見、ものすごく正確に見えますが、
私個人は、ユダヤ人の思考を無視しては、到底、正確には訳せないと考えます。
ユダヤ人にとっての「キュリオス」とは、当然、「神」(YHWH)のことです。
「アドナーイ」と発音してるからといっても、
その時、「彼らの頭の中では」(聖書を書いた人はほとんどがユダヤ人)
ヘブライ語の「テトラグラマトン」がイメージされてるはずです。
もちろん、それをギリシャ語で他人に伝えようとすれば、「キュリオス」となるわけですが・・・。
しかし、それを、そのまま主と訳すのが絶対正しいと言われましても、それでは、
その著者の頭の中でイメージされてるものは、人には正確に伝わらないですよね。

ま、聖書の「翻訳」は難しいということですね。
しかも、我々にっては外人の、しかも、何千年も前の昔の人の言葉ですから。
だって、日本人が、平安時代の日本人の言葉を理解するのだって難しいでしょう?

#14 2014年12月03日 04:16:13

possible
ゲストユーザー

Re: 新世界訳聖書の翻訳 【主=エホバ】 の問題について

カレブ さんの発言:

YHWHと訳した翻訳者の中で パウロがその著作の中で神の名前としてのYHWHを
実際に記述したと本気で信じている人がどれだけいるのか疑問です。

これは、考えそのものが間違ってます。
パウロは、ギリシャ語でキュリオスと書きました。
当然、その写本であれ、原本であれ(それは失われている)、
そこに記されているのは、「キュリオス」というギリシャ語です。

テトラグラマトンを「実際に記述した」という考えは、
あくまでも、ものみの塔の考えに影響されたものですね。

私個人は、たとえ「原本」が見つかったとしても、そこにテトラグラマトンはないと考えます。

さらに言えば、テトラグラマトンの発音は「アドナーイ」です。
イエスも、ユダヤ人のクリスチャンも、皆、そう“発音”したはずです。
そして、それをギリシャ語で表現すれば、「キュリオス」です。
しかし、ユダヤ人の「頭の中では」、テトラグラマトンで表現される神のことです。

まず、そこまでを正確に理解していただかないと、この問題を正しく論じることはできないでしょう。
誰も、「パウロがテトラグラマトンを書いた」などと述べてはいないですよ。

#15 2014年12月03日 06:44:17

sk
メンバー

Re: 新世界訳聖書の翻訳 【主=エホバ】 の問題について

おはようございます、possibleさん


わたしも、possilbeさんと同じように聖書やものみの塔協会の作品を見ています。

また意味の理解についても、分かりやすさを目指すのが最善と思います。
イエスは簡単なことば、単純な文章をもちい直感的で誰にでも分かる例えで教えました。

その精神で聖書を翻訳していただくと助けになると思います。
原文(無数の写本)は保存すれば、だれでも意訳と原文(無数の写本)とを比較できますので有益だと思います。


コリント第一 14::8-11
8 また,ラッパの出す音が不明りょうであれば,いったいだれが戦闘の用意をするでしょうか。9 これと同じように,あなた方も,舌で,容易に理解できることばを出さないなら,何を話しているのかどうして[人に]分かるでしょうか。あなた方は,実際には空気に話していることになるのです。10 世界には非常に多くの種類の音声があることでしょう。それでも,意味を持たないものはありません。11 そこで,もしわたしが音声の真意を理解していないなら,[それを]話している人にとってわたしは異国人であり,話している人もわたしにとっては異国人であることになります。

それで、ヘブライ語、ギリシャ語から日本語に訳すときに本意を失わない範囲で日本語の流れに沿った訳の方が日本人のためになると思います。

possible訳の聖書を読みました。
単語の意味はpossibleさんの研究と洞察が反映されていてすばらしいと思いました。
語順については、日本語の流れる文章にして頂くとなお一層読みやすく分かりやすくなると思いました。


わたしは、言語学者、翻訳者、写本研究家の皆さんの努力に感謝しています。

聖書翻訳は沢山ありますので、比較して読むことができますね。
また聖書の背景についても多くの解説書がありますので、それらの情報も助けになりますね。

ネットを活用すればそれらの無数の宝を見つけることができます。

皆さんも、pcの中身を抜き取るjw.orgに行くより、ご自分で宝探しをして下さい。

編集者 sk (2014年12月03日 06:46:37)

オフライン

#16 2014年12月07日 02:39:13

possible
ゲストユーザー

Re: 新世界訳聖書の翻訳 【主=エホバ】 の問題について

skさん。こんばんは。
いつも、お世話になっております。


sk さんの発言:

possible訳の聖書を読みました。
単語の意味はpossibleさんの研究と洞察が反映されていてすばらしいと思いました。
語順については、日本語の流れる文章にして頂くとなお一層読みやすく分かりやすくなると思いました。

難しい問題ですね。簡単に論じることは出来ません。

possible訳の「翻訳方針」を、私はまったく記してないので、
伝わらないかと思うのですが、実は、possible訳では「語順」を大切にしています。

実は、ギリシャ語には「語順」というものがありません。
http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/MYB … 8%EC%BD%E7

その分、著者が大切に思ってる事柄(伝えたいこと)を「最初」に持ってきたり、「最後」に持ってきたりします。
その重要度としては、1番重要なのが「最初」、二番目に重要なのが「最後」です。
(しかし、基本的に「語順がない」ため、厳密な決まりはありません。ここで言ってるのは、主な目安です。)

私が、possible訳のエフェソス6章24節で、文の流れを中断するような形で、
「朽ちない[愛]の中で」という言葉を「最後」に持ってきてるのは、
それがそのギリシャ語(原文)の文章(しかも、エフェソス書の)の「最後」に出てくる言葉だからです。
私としては、それが「大切な言葉」(著者が大切だと思ってること)と判断したので、「最後」に持ってきてるわけです。
http://godpresencewithin.web.fc2.com/pa … ans06.html


このように、possible訳では、その「語順」に(ものすごく)こだわってるため、
それをくずして訳す(つまり、流ちょうな日本語になおす)ためには、
「翻訳方針」をまったく変えなければなりません。

「語順にこだわらない」翻訳は、たぶん、私は、skさんや他の人におまかせしたいと思います。

#17 2014年12月07日 07:20:40

sk
メンバー

Re: 新世界訳聖書の翻訳 【主=エホバ】 の問題について

おはようございます。


possibleさん、

へ~、驚きました。
ギリシャ語には語順が無いんですね。

リンクも読みました。

すごいですね。
ギリシャ語やヘブライ語の流れに慣れる必要がありますね。


ギリシャ語に関しては、教えていただいたギリシャ語の特徴、つまり「著者が大切に思ってる事柄(伝えたいこと)を「最初」に持ってきたり、「最後」に持ってきたりする。」を意識して意味をつかむようにしたいと思います。

ことばについての興味深い解説ありがとうございました。

オフライン

#18 2014年12月07日 19:39:56

possible
ゲストユーザー

Re: 新世界訳聖書の翻訳 【主=エホバ】 の問題について

skさん>
こんばんは。
お世話になっております。


sk さんの発言:

ギリシャ語に関しては、教えていただいたギリシャ語の特徴、つまり「著者が大切に思ってる事柄(伝えたいこと)を「最初」に持ってきたり、「最後」に持ってきたりする。」を意識して意味をつかむようにしたいと思います。

そうですね。

しかし、もちろん、私はそれを「決まり」(ルール)として述べたわけではなく、単なる「目安」として述べています。
一番大切なのは、「著者が一番強調したかったのは、どの部分なのだろう」と”考える”ことですよね。

一例として、何度も述べてきた「エフェソス6章24節」を考慮してみれば、
著者は"最初"に、ギリシャ語の「カリス」(ヘブライ語の「ヘセド」)を用いています。
possible訳はそれを「変わらぬ愛」と訳しました。
そして、著者は、"最後"に「朽ちない」という言葉を持ってきました。
どちらも、共通の意味があります。すなわち、「ずっと変わらない愛」「永遠の愛」「不変の愛」ということです。
http://godpresencewithin.web.fc2.com/pa … ans06.html

この「カリス」は、エフェソス1章2節では、語順の”最初”に出てきます。
エフェソス人への手紙を記した著者が、「読者に一番何を伝えたかった」のかが何となく分かりますよね。
すなわち、私たちは、神様からそのように(「永遠の愛」によって)愛されている。
だから、私たちも同じように(「変わらぬ愛」によって)、神様を愛し、イエスを愛し、
また、「自分自身」を愛し、「妻」を愛し”続ける”ことが出来る、と。(エフェソス5:28,29参照)
http://godpresencewithin.web.fc2.com/pa … ans05.html

#19 2014年12月07日 22:05:33

もんもん
メンバー

Re: 新世界訳聖書の翻訳 【主=エホバ】 の問題について

心にしみる、よい訳ですね。

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