ログインしていません。

#451 2016年12月30日 18:59:02

鬼太郎
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

ラハムさん 一度試したくなりますね。
現役で脱会予定の兄弟達にもお勧めしたいです。
会衆に支部からの警告の手紙が届くまでの期間だけでも、試す価値はありそうですから。

オフライン

#452 2016年12月31日 09:09:21

moon
ゲストユーザー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

実は私も、血液分画について個人研究していて
組織の教えに疑問を抱くことになりました。

協会の出版物では、
2006年8月「目ざめよ!」 、同11月「王国宣教折込」、
「神の愛」の付録に
「(際どい)決定は全て自己責任で」。と書いてありました。


最近になって、臓器移植までが個人の良心に委ねられて
いたことを知りました・・・。

#453 2016年12月31日 09:57:53

てつてつ
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

moonさんこんにちは

「(際どい)決定は全て自己責任で」。と書いてありました。

協会の本音は 信者さんの行動は全部信者さんが自分で聖書を調べて自分で決定して行動しているんですよーと ちょっとだけ書いておいて対外的にアリバイをつくりアピールしているだけだとおもいます

証人の方で 協会に教えられなくて自分で聖書を読んでああ神様は輸血をしてはならないんだと教えておられるんだと理解した方がいましたら教えてほしいです

しかし対外的にはそうでも長老マニュアルには輸血をしたものは自ら断絶したものと見なす「以前は排斥するだったがそう書くと宗教法人の資格を失い一番大切な税金の免除がうけられなくなるので書き換えただけのようです」と書かれているようです 実質的には 排斥も断絶も現在は現役信者さんの受ける被害は同じですのでこれが恐怖の感情となって協会に従っている人も多いのではないかと思います またこの書き方一つで訴訟をまぬがれているようですので 協会の悪賢さの表れかとも思います

エホバの証人の個人研究ノートさんの書き込み

自分の書き込み

長老マニュアルの輸血したものは排斥から断絶したとみなすに書き換えられた理由を説明している動画もユーチューブにあったようなきがしたので 探してみたのですがちょっと見当たりませんでした
これだったかもしれません

編集者 てつてつ (2016年12月31日 10:16:04)

オフライン

#454 2016年12月31日 10:44:06

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

てつてつ さんの発言:

moonさんこんにちは

「(際どい)決定は全て自己責任で」。と書いてありました。

長老マニュアルの輸血したものは排斥から断絶したとみなすに書き換えられた理由を説明している動画もユーチューブにあったようなきがしたので 探してみたのですがちょっと見当たりませんでした
これだったかもしれません

てつてつさん、それであっています。
JW組織は輸血の罪を排斥から断絶扱いに変更しました。
政府との衝突や訴訟を避けるためです。
ずる賢い方策ですね…。

オフライン

#455 2016年12月31日 10:46:02

てつてつ
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

ラハムさんありがとうございます

オフライン

#456 2016年12月31日 12:31:54

moon
ゲストユーザー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

ありがとうございました。

本当に協会は悪質だと思います。

色んな誤魔化しや裏事情を今まで知らなかった、
いえ、気付けなかったし、
ここまで非道だとは思いもよらないことでした。

個人研究って大事ですね。

#457 2016年12月31日 21:45:28

鬼太郎
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

WT組織の巧妙なやり方の一つは、、、、
一般的な出版物では、公式見解として良心的な問題は信者が決めることとし、年鑑や雑誌の体験談では立派な良心の例を取り上げます。

例えば柔道や剣道は良心的な問題です。
ただし、立派な良心的な判断と決定例として武道の授業を拒否した体験談を掲載します。
さらに、、長老達向けには 開拓者や奉仕の僕、長老になる資格として立派な行状を基準とすること、
さらに監督は家の者を立派に治めていることを強調します。
当然の帰結として、、、
長老や僕、さらに長老や僕を目指すならば、自身も子供達も武道や武道の授業を拒否するのは当然のこと
となります。
もしも、会衆の成員が武道を趣味としているならば、長老達は巡回監督から助言・叱責ものです。
JW組織は本音と建て前の使い分けが実に見事です。

結果として成員は奴隷状態にいながらも、やせ我慢でも『特権です 喜びです』と言い続けるしかない
ものです。

オフライン

#458 2017年01月01日 17:57:09

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

鬼太郎さん
いつも的確な書き込みをありがとうございます。
ことしもフォローをよろしくお願いします。

JWの良心に関して
中野っちさんのブログに以下のような記述がありました。
http://ameblo.jp/nakanokatsuhiro/entry-12232641136.html
的確なお話だと思います。

組織の言う良心とは
ものみの塔に言いなりに従う良心のことで、
決してJW個人の心の声ではないからです。
聖書そのものでなく、
ものみの塔の聖書解釈に無条件で従う良心です。
-以下、ブログからの引用です。


「聖書で訓練された良心? JWは良心が全くない、
統治体のロボットじゃないか。笑わせるな!」
という投稿です。
抄訳;

jwは 自分の良心が聖書で訓練されていると信じている。
しかし、彼らはwtのロボットだ。長老や協会に
尋ねなければ、小用を足すことさえできない。

理容師をしている長老は、
会衆の成員の髪を刈っていた時、
ある髪型がJW的にふさわしいかどうか判断できなくて、
支部に電話して問い合わせていた。

つまり、JWが 聖書で
訓練された良心を持っているなんて、大嘘。
長老や協会にいちいち尋ねなければ、
小さなことも行動できないということだ。
ただのロボットなのだ。

○jwは個人の良心というものを持っていない。
統治体が作った人工的な良心を
心に埋め込まれているだけなんだ。

○統治体の教えがまともじゃないから、教えを
受けた人間もまともにならない。
出来上がったJW成員たちを見れば一目瞭然。

不完全な人間は罪深いから自分で考えないように、
と教えられているし。
集会や大会は、
信者のロボット化計画だと思います。

オフライン

#459 2017年01月01日 22:59:50

鬼太郎
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

ラハムさん今年もよろしく、、、
ところで、少し、横道にそれますが、、、
中野っちのブログでも指摘していましたが、2017年の年鑑がまだでないのが気になりますね。
昔は12月初旬には入手できたはずです。
よほどの事情 (発表できないような)があるのかもしれませんね。

オフライン

#460 2017年01月03日 19:02:43

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

2017年の年鑑発行は気になりますが、
脱塔組のわたしは様子見したいと思います。
時間の経過とともに事情は明らかになると思います。

オフライン

#461 2017年01月04日 12:56:19

KAO
ゲストユーザー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

研究生の私も毎年、年鑑とトイレ用カレンダーを注文していたのですが・・・

#462 2017年01月04日 17:10:13

鬼太郎
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

KAOさん
昔は年鑑の最後に日々の聖句があったため、必然的に12月中には各末端の会衆に製本された
年鑑が配送されていたものでしたよね。
ネットでのダウンロードなら、いわば原稿だけですから、とっくにオンラインで公開されていてもよいはず、、、。
やはり公開できないような統計数字となったのか、、、逆に興味深いです。

オフライン

#463 2017年01月04日 19:53:39

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

きのう、アーマンの著作
「キリスト教の創造 容認された偽造文書」を
読み終えることができました。
協会の出版物からでも、
偽典や外典のあることは知らされていましたが、
詳述されているほど多いと思っていませんでしたから
そのおびただしさを知って驚いています。

いわゆる聖典文書とされている中にも
本来なかったであろう文言が挿入されている可能性や、
筆者名として現在印刷されている著作者が、
まったく別人である可能性も知りました。

わたしは日本語訳聖書しか理解できませんが、
それら根拠となる聖句を思い出して、
黙想することはできます。
黙想した結果アーマン氏が述べることの正当性を
認める以外ないような気がしました。
現在「ナザレのイエスは神の子か」を読書中です。
わたしの読書した部分からは
アーマン氏の主張を覆す証拠が乏しいような気がします。

興味あるところは外典や偽典、手紙などは
その時代のキリスト教徒がその時代に必要とした、
イエスや真正の弟子たちの教えを擁護しようとして、
聖書に登場する権威ある人物の名を騙って
作成したことがあったということでしょう。

これはものみの塔協会もしていることです。
組織の聖書解釈が聖書時代の
解釈に近づけているというのですから…。
1,000年とか2,000年後には協会が発行している
印刷物に記載された聖書解釈も、
外典、偽典、その他の手紙などの
仲間入りさせてもらえるかもしれないと思いました。

A.D.40世紀前後のクリスチャンたちは比較的新しい
外典・偽典としてものみの塔を研究するかもしれません。
その価値のあるものを残してくれればいいのですが…。
現状からするとちょっと難しそうですね…。

編集者 ラハム (2017年01月04日 19:54:45)

オフライン

#464 2017年01月07日 08:38:19

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

あす、大野教会で予定されている、
JWサロンに出席するつもりです。
ただ、移動を計画している時間帯から雨天の予報で、
ちょっと気になっています。
そういえば、12月のJWTCも行きは雨だったです。
どういう人たちに会えるか楽しみです…。

オフライン

#465 2017年01月07日 20:01:48

てつてつ
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

ラハムさんこんにちは

あす、大野教会で予定されている JWサロンに出席するつもりです

よかったですね 楽しんできてください

すいません 自分は今日は一日 家内と 長野県の栂池「つがいけ」高原スキー場にいって遊んでいました  1483785925_img_20170107_100808.jpg


真っ青な空と真っ白な山々で最高でした


ちなみに滑っている人はてつてつさんではありません 自分は小学生がそのままおじいさんになったみたいと 家内に言われています cry


ありゃりゃ? 元証人さん復活されたんですね
元証人さんも悪い言葉さえなければ 参考になることもたくさんありますので ルール守ってがんばってくださいね

ごめんなさい ラハムさん とりあえず書き込み用のところは かなつ さん 深刻な相談してましたので
ラハムさんのところに適当に書き込みさせていただきました
またよろしくお願いします

編集者 てつてつ (2017年01月07日 20:10:44)

オフライン

#466 2017年01月08日 09:28:42

ラハム
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

てつてつさんの書き込みは楽しいから歓迎です…。
栂池ってとても美しいところですね。
奥さんと楽しめてよかったですね。

オフライン

#467 2017年01月08日 09:35:10

てつてつ
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

ラハムさん ありがとうございます 気をつけてお出かけください

オフライン

#468 2017年01月17日 08:58:44

海外奉仕
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

みなさん、お元気ですか?
忙しくてなかなか書き込みできません・・。お返事できてない方もいらっしゃいます。申し訳ありません。のちほどお返事したいと思います。

さて、私ですが、あれから脱塔の方法をいろいろ考えていますが、なかなか難しいですね・・。今は、JW外のコミ二ティを増やしている段階です。みなさんにアドバイスいただけたら幸いです。現段階では、ガリレオさんのような手紙を送ることを考えています。このスレの最初のほうにあります内容です。あのような手紙を送りつつ、ある程度の理由を伝え、かつ話し合いを詳細にすることを避け、自然消滅に持っていくことは可能でしょうか。断絶という線もありますが(聖書では、神が偽宗教とかかわりあいを避けるように明示しているので、そこに信仰を持つならばということです)、自然消滅の線もまだありますね・・。親の精神状態が心配というのがありますね。
いろいろな方の体験談聞かせていただければ幸いです。

オフライン

#469 2017年01月17日 10:11:48

てつてつ
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

海外奉仕さん こんにちは いろいろもだえ苦しんでおられるようですね 自分には良い方法思いつかないですけど cry  みなさん援助してあげてくださいねー

編集者 てつてつ (2017年01月17日 10:12:06)

オフライン

#470 2017年01月17日 23:49:55

海外奉仕
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

てつてつさん

気遣いありがとうございます。いろいろ考えることがあり、まだまだ整理できてない状況です。
JWの組織崇拝がいけないことはわかりました。ではJWが行っている野外奉仕はいけないことでしょうか。いけないことですよね・・・。神とキリストの救いを得るためには一つのグループに属さないといけない。これは聖書的に間違いなはずですし、良く考えてみるとおかしいですね。そして終末論を教えている・・これは間違いなはずです。なぜなら、「神以外は誰も知らないはず」だから。
では本来あるべき野外奉仕とはどのようなものでしょうか。キリストは神のご意志を伝えるようにクリスチャンに指示しました。したがって、私たちは聖書の希望に関して伝えそしてキリストの贖いと神の思いについて伝えるべきなんですよね。そして、ハルマゲドンが間近という情報は伝えてはいけない・・なぜならばその日はいつ来るかわからないからです。それを伝えようとするならば、聖書の教えを超えることになり偽預言者と同義になってしまうのです。
まとめると、どこのグループに属すべきということではなく、単純に聖書の教えを伝え、神のご意志と希望を教え、神とキリストとの関係を培うよう促すことにより人々を救うことが本来の奉仕のあるべき姿ということでしょうか。

海外にいるため、なかなかクリスチャンとしての次のステップが見つけづらいというのもあります。私自身、JWから脱塔したときに、クリスチャンとして退化したくないという思いがあるため、このような整理が必要なんですね・・。みなさんはどのように考えられていますか?

オフライン

#471 2017年01月20日 14:26:43

iris
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

海外奉仕さん

クリスチャンとして退化したくないとお考えのようですが、
クリスチャンとはどのような人間だと思われますか?

マザー・テレサの言葉にこんなものがあります。
「福音について話すところは集会所なんかではありません。
ほうきを持ってどなたかの家のお掃除をしなさい。
お話はそれで十分なのです」

身近な人に対し、心を込めて親切に接すること。
それがキリストの命令であり、御自身と隣人の救いとなるのではないでしょうか。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、
皆が知るようになる。」ヨハネによる福音書13章34~35節

編集者 iris (2017年01月20日 17:57:46)

オフライン

#472 2017年01月21日 00:45:37

1,000時間奉仕者
ゲストユーザー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

>JWから脱塔したときに、クリスチャンとして退化したくない(by 海外奉仕さん #475)

いや、何か分かりますよ、そういう発想。今すぐには良い説明が思い浮かばないんですが、私が三流JWとしてでもいいから会衆内にそれなりに残りたい、というのと「退化したくない」とこだわりたいところは多分、根っこのところは同じです。

うまい説明をひねり出しますので、しばらくお待ちください。

#473 2017年01月22日 22:46:51

てつてつ
メンバー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

海外奉仕さん こんにちは

では本来あるべき野外奉仕とはどのようなものでしょうか。キリストは神のご意志を伝えるようにクリスチャンに指示しました。したがって、私たちは聖書の希望に関して伝えそしてキリストの贖いと神の思いについて伝えるべきなんですよね。

元統治体のレイモンドフランズさんは 2冊目の クリスチャンの自由の7章で エホバの証人が家から家へ伝道して回るのは聖書の教えではないと述べています ので あんまり気負わなくてもいいとおもいます海外奉仕さんの肩に世界中の人の命がかかっているわけではないですから 口コミ程度でいいかもしれません


7章

エホバの証人の指導者による家から家への証についての教えは、主に使徒行伝5:42と20:20のような文に基づいている。ものみの塔聖書冊子協会の新世界訳では、 『そして毎日、寺院で、そして家から家へと、彼らはイエス・キリストついての良い知らせを宣言し伝え続けた。

私(聖パウロ)は、利益を上げたり、公的に家から家への宣教をしたりすることを、あなたに伝えることを控えたりはしなかった。

その推論は、家から家への活動、つまり隣り合った家のドアか次のドアへと連続して行き 、事前の招待なしで一般的には深く知り合うことなく人を訪れることを示す。その推論は聖書的な活動となるのか?



新世界訳が最初に出版されたとき、 ものみの塔協会は、「家から家へ」の語源となったギリシャ語のフレーズ『カトイコン』(kat'oikon)に特に注目した。前置詞kata(文字通り意味は「〜に従って」)は、ここでは分配的な意味で使われていることが強調された。 その理由から、「家から家へ」の言葉は、ドアからドアまでと同じ感覚を持っていると言われている。つまり、通りに沿ってあるドアから隣のドアに向かうという意味である。

この主張は、さらなる考察と熟考の上で成立しない。まず、分配は連続と同意ではない。医師が往診で家から家へ行くことができるように、ある地域の家から別の地域の家に行くことでひとつの家からもう一方の家に行くことができる。それは明らかに、連続した戸別訪問を必要としない。

前置詞 kataを配分的な意味で正確に用いられるためには「家から家へ」と訳す必要があるとする主張自体、事実上新世界訳聖書自体によって打破される。


新世界訳の聖書、使徒行伝5:42にある「家から家に」に翻訳されたものと同じ単語(kat'oikon)が2:42にも引用されていることに気づいている証人は多くない。下記は、ものみの塔協会の王国行間逐語訳の聖書に見られるこれらの節で、右の欄には新世界訳聖書が綴られている。



左の欄の逐語訳が示す通り、 kata が同様の配分的な意味を持って両方の文に現れる。それでも言行録2:46の中では「家から家へ」ではなく「個人の家々で」と訳されている。それはなぜか。

使徒たちが通り沿いに建つ家から次の家へと渡り歩いて食事を取っていると考えることは非論理的である。ものみの塔協会は「家から家へ」(ここでいう戸別活動)という訳が疑問を呼ぶことをおそれた。先に述べたように、そういった翻訳のすり替えがあることや、もみの塔協会がその点に着目されること、もしくは公にすることを恐れていることを、多くの証人たちは気づいていない。


使徒行伝20:20では、「家」または「家庭」の言葉が複数形「kat'oikous」という形になって再び登場します。また同様に、ギリシア語がどのように訳されるかは、翻訳者の意思次第ということになる。新世界訳、フレッド・フランズの主な翻訳者がこれを認識したことは、新世界翻訳の大家族版に見られるように、この節にある次のような脚注に示されている。「 『家から家へ』のカトイコン(または複数形のkat'oikous)の翻訳は間違っているわけではない。それは完全に適切な翻訳であり 、使徒行伝2:46を含む他の多くの訳においてでさえも見つけられる。

これらの節の中で「家から家へ」という訳、または「個人の家々で」の訳のどちらが用いられるかは、一翻訳者の意思でしかない。問題は、それを正しい意にしようとすることだ。使徒たち、すなわち初期のキリスト教徒たちが他人の家を訪問したのは明らかであるが、現在のエホバの証人が行っているような戸別の活動に取り組んでいたかは明白にされてはいない。そのように主張されたこともあった可能性はあるが、決定的な証拠はないことが事実である。

注釈しておきたいのは、ものみの塔がそういった聖句を使うのは、真のキリスト教徒とイエス・キリストが取った方法として神の知識を広め、戸別活動だったと示すためだけではない。彼らの主張に用いられた聖句は別にマタイ10:9から14にある。その節でイエスは、教えを説く為に使徒を送り出す際、つぎのような指示を出している。

去るまでは、そこに留まりなさい。家に入るときは、家のものに挨拶をしなさい。そしてその家がふさわしいなら、その家にあなたの願う平和を訪れさせるのです。その家がふさわしくないとする時には、その平和をあなたのもとへ返させなさい。あなたを迎え入れず、あなたの言葉を聞き入れないときには、その家またはその街を去る時にあなたの足の塵を振り払うのです。

ものみの塔の出版物の中では、「そこ(街や村)でふさわしい人を探し出し」の表現が絶えず強調される。これは、良い知らせを受け入れられる人を見つけるために戸別に歩くことを象徴した。「去るまでそこに留まりなさい」(11節)という文脈に見られれる言葉には注目されない。ものみの塔出版物でこうした文節が論じられることがほとんどないのは、イエスがここで語っていたのが戸別の証しについてでなく、宿を手に入れることについてであることを明白にしているからである。

こうした議論の多くは、少なくとも一度は統治体の会議に取り上げられていた。その背景にある事象は次の通りである。
1972年に「王国伝道と使徒育成のための組織」という新しいマニュアルが計画された際、私は「あなたの神への奉仕」と題された章を含む三分の一のマニュアル準備を命じられた。エホバの証人としての人生を通して、統治体にいた間も、1980年に辞任した後も、私は戸別訪問活動を積極的に行い続けた。文字通り、その間数万軒を訪れ、活発な交わりのあった43年間、毎週活発に参加するように努めた。そうした活動をしなかった例外的な月は非常に少なかった。


1972年までにはその活動に真摯に取り組み続けたが、ドアから次のドアに歩くことが良い知らせを宣明するキリスト教徒独自の方法であるとする見解を聖書が立証しているという確信を、もはや持てなくなってしまった。キリスト教徒たちは、他者と良い知らせを共有する責任があり、それは明白で否めない事実だ。割り当てられたマニュアルの文章の中で、私は誰もが読んでわかるような形で明瞭にその責任を提示した。しかし私は、それを行うための特定の方法を記す聖句を見出すことができなかった。

以下は原文です

The teaching of the leadership of Jehova’s Witnesses about house-to-house witnessing is based largely on such texts as Acts 5:42, and 20:20. In the Watch Tower Society’s New World Translation these read:
And every day in the temple and from house to house they continued without letup teaching and declaring the good news about the Christ, Jesus.

While I [Paul] did not hold back from telling you any of the things that were profitable nor from teaching you publicly and from house to house.

The deduction is made that from house to house indicates door-to-door activity, going consecutively from one door to the next, one door after the other, visiting people without previous invitation and generally without previous acquaintance. Does that deduction necessarily follow?

When the New World Translation was first published, the
Watch Tower Society focused considerable attention on the original Greek phrase (kat'oikon) from which the rendering from house to house comes. It was emphasized that the preposition kata (literally meaning according to) is here used in a distributive sense.
So, it was claimed that the phrase from house to house has the same sense as from door to door, that is, of going from one door to the next door along a street.

The claim does not hold up under examination and thought. In the first place, distributive is not the same as consecutive. A person can go from house to house by going from a home in one area to a home in another area, just as a doctor making house calls might go from home to home. It does not at all require the idea of consecutive door-to-door visitation.

Any claim that the use of the preposition kata in the distributive sense requires the rendering from house to house in order to be correct and accurate, is, in fact, exploded by the New World Translation itself.

Few Witnesses realize that the identical phrase (kat'oikon) translated from house to house in the New World Translation rendering of Acts, chapter five, verse 42, also occurs in chapter two, verse 46. Below are presentations of these verses as found in the Watch Tower Society Kingdom Interlinear Translation, which contains the New World Translation in its right-hand column:

As the left-hand interlinear portion shows, the same phrase, with the same distributive sense of kata appears in both texts. Yet in Acts 2:46, the rendering is not from house to house but in private homes. Why?

Because it is illogical to think that the disciples taking meals was done by going from one house to the next on down the street, and since the Watch Tower Society wishes that particular sense to attach to the phrase from house to house (in support of its door-to-door activity), it does not want to raise probable questions by using the rendering house to house here. As stated, most Witnesses do not realize this switching of renderings and the Watch Tower Society prefers not to call attention to it or address it openly.

In Acts 20:20, the phrase appears again, although the word for house or homes is here in the plural (kat'oikous): Again it is simply a translator’s decision how this Greek phrase will be rendered. That the principal translator of the New World Translation, Fred Franz, recognized this is shown by the footnote to this verse as found in a large family style edition of the New World Translation. The footnote reads:It is not that translating katoikon (or kat'oikous) as from house to house is wrong. It is a perfectly proper translation and is found in many other translations, even at Acts 2:46.

Whether the rendering from house to house or in private homes is used in either of these texts is nothing more than a translator’s choice. What is wrong is to try to make the phrase convey a meaning that is not actually there. That the apostles and other early Christians visited people in their private homes is clear. That they engaged in door-to-door activity as done by Jehovah’s Witnesses today is definitely not clear. It may be claimed, but it is a claim with absolutely no supporting proof.


Not that the Watch Tower Society uses only these texts in its effort to present door-to-door witnessing as the truly Christian and Christ-like way to spread knowledge of Gods Word. Another Scripture portion often employed in their arguments is Matthew 10:9-14, in which Jesus gave these instructions on sending out his apostles to preach:



and stay there until you leave. When you are entering into the house, greet the household; and if the house is deserving, let the peace you wish it come upon it; but if it is not deserving, let the peace from you return upon you. Wherever anyone does not take you in or listen to your words, on going out of that house or that city shake the dust off your feet.



In Watch Tower publications, emphasis is consistently placed on the expression Search out who in it [the city or village] is deserving. This is then portrayed as signifying going from door to door to find persons receptive to the good news. Attention is not directed to the words found in the context which say (verse 11): Stay there until you
leave. These words are almost never discussed in Watch Tower publications because they make evident that Jesus was here talking, not about door-to-door witnessing, but about obtaining lodging.

Many of these issues came up for discussion by the Governing Body on more than one occasion. The background for this was as follows:
In 1972, when a new organizational manual titled Organization for Kingdom-Preaching and Disciple-Making was developed, I was assigned to prepare one-third of the manual, including the chapter titled Your Service to God. Throughout my life as one of Jehovah’s Witnesses I had been active in door-to-door visitation and I continued to be while on the Governing Body and after my resignation in 1980. I endeavored to share in that activity every month of my forty-three years of active association, visiting literally tens of thousands of homes in that time. Any month that I did not engage in that work was a rare exception.

But by 1972, although continuing active in that work, I was no longer convinced that the Scriptures supported the view I had long held, namely, that going from door to door was the distinctively Christian way of declaring the good news. That Christians had a responsibility to share the good news with others was clearly evident, undeniable. And in writing the assigned chapter of the manual I presented that responsibility clearly, as anyone can see by reading the chapter. But I could see nothing in Scripture that ordained a certain method for doing this.

編集者 てつてつ (2017年01月23日 09:30:55)

オフライン

#474 2017年01月22日 23:21:19

KAO
ゲストユーザー

Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

ここの#58も参考になさってください。「家から家へと渡り歩くな」という命令もありますので・・・

#475 2017年01月22日 23:26:57

てつてつ
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Re: 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~

・・・で、コンコルダンスをどんな風に使うかというと、用語統計をとるだけでも書物ごとの思想傾向が分かって面白いですが、例えばエホバの証人が大好きな使徒5:42「家から家へとたゆみなく教え」(新共同訳では「家々で絶えず教え」)ですが、コンコルダンスで「家」あるいは「家々」を含むテキストを順に当たっていくと、ルカ10章7節に「家から家へと渡り歩くな」(新共同訳)(新世界訳では「家から家へと移って行ってはなりません」)に当たります。この段落は、新共同訳で「七十二人を派遣する」というタイトルが付してあるように、なんと宣教活動に出るにあたっての注意事項として述べられている箇所です。
こういった例に見られるように、組織は極々限られた聖句にのみフォーカスすることで、他の箇所に目を向けることはありません。こうやってエホバの証人が「耳タコ」なほど使う用語を別な文脈で当たっていくと、色々と面白い発見があるのではないでしょうか。

KAOさん ありがとうございます 完全に忘れてました cry

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