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#76 2013年06月07日 22:10:53

鬼太郎
ゲストユーザー

Re: 司会者を変更することについて

審理問題に関してですが、、、。
会衆の独身の開拓者A姉妹が別の会衆の奉仕の僕B兄弟と交際していましたが、、、
二人は、ペッティングをしました。
告白を受けて別途に審理委員会で裁かれました。
結果は、、、、、
A姉妹は開拓者を降ろされて注解の特権も一年以上も失いました。
相手のB兄弟は、、叱責だけでそのまま奉仕の僕として奉仕、、。

A姉妹は一世です。相手のB兄弟は不明ですが、ともかく不公平が当たり前なのが、審理問題です。

#77 2013年06月07日 22:43:02

rulu
ゲストユーザー

Re: 司会者を変更することについて

さて、私の会衆に巡回監督が来られました。
駅前のブラカード奉仕中の兄弟姉妹を一人一人写真を撮り、ボードをに貼って、
調整者(主催監督)は巡回監督に”私の会衆がこれだれ地元で熱心に活発に奉仕している”、とアピールしました。

巡回監督は「ええ、活発ですね」と長老や会衆の成員に褒め言葉でしたが、私は異様な異和感を感じました。

企業なら、朝・夕のプラカード奉仕で報告書を提出させ、半年で統計を出して
①何人、一般人を興味もさせたか、
②会社に問い合わせきたか、契約を結んだかを評価します。

なぜ、駅前で朝・夕立っていて、
①実際、何人、導いたのか
② この駅のプラカード奉仕で一般人が集会に来られたのか?
③駅のプラカードで聖書研究に何人応じたのか?

巡回監督はそれがとても大切なことなのに、①~③を確認していません。

クラブ活動のような駅前のプラカード奉仕姿、何人成員が参加したかしか、眼中にないとは---
巡回監督も間抜けです→会衆の長老もこのようなアピールしかで自分達を評価できないのです。

普通は、その活動後、何人、導いたか!です。
それを巡回監督は見ないで、食事招待や再訪問や研究参加でや会衆の維持管理のチェックに来られるだけです
一般人をどれだけ、増やしたかを---巡回監督は、長老や成員に”ハッパ”かけて評価しないといけないのに。
一般社会なら活動写真より何人研究したか集会参加させたか確認します。それが現の宗教の姿です。

#78 2013年06月07日 23:13:30

rulu
ゲストユーザー

Re: 司会者を変更することについて

排斥問題。
1世と2世、たしかに、2世の兄弟や姉妹は、叱責”軽く”制裁されます。
復帰するためには悔い改めエホバを神と認めるだけでは不十分です。
組織そのものに“ひれ伏さないと”赦してもらえません
姉妹は排斥、奉仕のしもべの兄弟はお咎めなしです。
長老の目にかなっていなければ、なにかキッカケを与えてしまえばすぐ排斥です。
会衆の成員を生かすも殺すも長老のさい配で決められるようなシステムになっているからです。

長老の虎の巻には、すぐに復帰させると周りの人たちが罪を軽く見るようになるので、見せしめに、時間をかけてから
復帰させるように書かれています。
日本の排斥から復帰期間と海外の排斥期間から復帰期間にも差があり、不公平な組織

しかし復帰の為の裁判を扱うかどうかの決定は、長老たちのさじ加減です。矛盾してますよね。
神は悔い改めて戻ろうとする人を快く許してくださると教えているのにです
1世の研究生と2世の研究生の扱いも、排斥や復帰もすべて長老のさじ加減。
巡回監督が、写真にプラカードで奉仕している成員の姿しかほめなく、実際の何人、一般に興味を持たせ、研究や集会に来させたか?
本質の問題を失っているのは、すべてそこからです。

これがエホバのやり方なら、愛のないことです。あきらかに人間的なものです。

霊的な会衆、地域大会で話しする長老、1世の研究生と2世の研究生を区別しています。
正規開拓者や補助開拓者は多い会衆ですが、がんじがらめです。
駅での一般の方を誘いのプラカード、入っても、続くと思いません。

#79 2013年06月07日 23:39:47

T.D.L
メンバー

Re: 司会者を変更することについて

skさん

海外サイトの翻訳や聖書からの裏付けに基づく明確な意見、とても参考になっております。これからもよろしくお願い致します。

私は元エホバの証人2世で組織を離れた人間です。このトピックでは比較的優遇されていた人間になるのでしょうか。それはさておき、聖書を学ぼうとするとき個人で学ぼうとするとどこから手を付けて良いかすら分かりません。また一般的な社会人は毎日体力ぎりぎりまで忙しくしている方が殆どですので、聖書を勉強する時間を自分で取り分けることが難しく、逆に時間を決められて多少無理する方が効率よく勉強できると思います。

私の父や伯父のようにもともとは漢字すらまともに読めない学の無い人間もいます。また、今の時代でもインターネットを上手く活用できない人もいらっしゃるのではないかと思います。そんな人たちにとっては「教え手」となる人間がどうしても必要となります。父や伯父は未だ熱心な信者ですが、その「教え手」として今も活動しています。

勉強していけば分かることですが、真理は単純明快でそんなに難しいものではありません。歪曲した教えが存在するから難しく見えるだけで、極論を言えば独自で探求してもその思いが純粋であれば真理に辿り付けるでしょう。ただし聖書に精通するための入口を必要としている人達は数多くいらっしゃいます。

このトピックに参加されている1世の方々はskさんと同じく、エホバの証人を入口として聖書を学びたいと思った人達です。

聖書を学ぶために「教え手」を必要としいる人達、またエホバの証人の組織自体に改善が訪れることを願っている人達に対して、skさんはどのような考えをお持ちですか?是非ご意見をお聞かせください。

オフライン

#80 2013年06月08日 21:02:46

sk
メンバー

Re: 司会者を変更することについて

こんばんは、


T.D.L さん



真理の「教え手」を必要としている人たちについて

仰るとおり、真理は明快であり人を引き付けますね。

戦時中教育を受けずに大人になった方々(漢字を読めない方が多い)でも、結婚し子供たちを育て社会で生活を営んでおられますね。

学問を習い損ねたことは、その分野における知識がないだけで、理解、洞察力、知恵に欠けることを意味しません。

ですから神の像に造られている人間として、精神障害でなければ、どんな人でも物事を正しく判断する能力を持っていて、何が人として正しいか間違いか、言っていることが本当か嘘かを判断できます。

聖書の真理は、国語、数学、理科、社会のような決め事の学習ではなく、神と人間関係の真実の物語であり、誰にとっても分かるものです。

主な登場人物は、4人です。
神、サタン、イエス、人類

内容は、サタンの嘘により人類が害を被ったために、神はイエスを通して救いを備えたというものです。

このストーリーの本筋を捕らえ損ねる人はいないでしょう。
しかし、それを受け入れるか、つまり信じるかどうかは別問題です。

ある人たちはこのストーリーが書かれている聖書を疑うでしょう。
また、聖書に書かれていない、または聖書と調和しない偽りを好む人たちもいるでしょう。

それで聖書の理解には信仰が関係しており、そして信仰は神からのものです。
私たちがまず神を求めたというよりは、神がご自分の真の崇拝者になる人々を求めたことが始まりです。

もちろん神はご自分を求めていない者たちに対しても親切で恵みの雨や収穫の季節を差し控えることをなさいません。最終的に不信仰なアダムの子孫全てを救出する備えを神は準備しました。その全ての人を救出するための神の備えはキリストの王国と呼ばれています。

このキリストの王国の成員になる人々を神は人類の中から選ばれます。それらの人々は王国の子、アブラハムの胤、王国の相続人と呼ばれています。この神が捜し求めている王国の子たちに神は信仰を与え、彼らは霊と真理により神を崇拝します。

それ以外の人々に神は霊と真理による崇拝を要求なさっていません。
王国の子以外の人々は、信仰を持たなくても、神の像に従って良心的な生活を送ることができ、隣人に憐れみ深い人たちは、裁きのときに憐れみを受けることになっています。

神から与えられた信仰により霊と真理により神を崇拝する人々は、王国の子たちであり、全人類の大半の人々は王国の子たちではありません。王国の子たちは、アブラハムの胤として全人類に祝福をもたらすキリストの王国にあずかります。

それで、まず次の2つのグループを識別してください。

1 王国の子たち(アブラハムの胤)
2 全人類(アブラハムの胤をとおして自らを祝福する人たち)




まず最初に、王国の子たちについて

キリストはこの王国の子たちを集める業を西暦1世紀に開始し、ご自分の帰還のときまでその業が続きます。そしてキリストの帰還はまだ起きていません。それで今なおその王国の子たちを集める業が進行中です。(ものみの塔協会は、勝手にキリストは1914年に帰還し、1935年に王国の子たちを集める業が終了したと偽りを教え、700万人のエホバの証人たちがその嘘を自分で調査することもなく鵜呑みにしています。)


その王国の子たちについて聖書が述べていることは、

ヨハネ 1:12-13
12 しかし,彼(キリスト)を迎えた者,そうした者たちすべてに対しては,神の子供となる権限を与えたのである。その者たちが,彼の名に信仰を働かせていたからである。13 彼らは,血から,肉的な意志から,また人の意志から生まれたのではなく,神から[生まれた]のである。

コリント第一 1:26-28
26 兄弟たち,あなた方が自分たちに対する[神の]召しについて見ていることですが,肉的に賢い者は多くなく,強力な者も多くなく,高貴な生まれの者が多く召されたのでもありません。27 むしろ,神は世の愚かなものを選んで,賢い人々が恥を被るようにされました。また,神は世の弱いものを選んで,強いものが恥を被るようにされました。28 また神は,世の卑しいものや見下げられたもの,無いものを選んで,有るものが無になるようにされました。

ヤコブ 2:5
5 わたしの愛する兄弟たち,よく聴きなさい。神は,世に関しては貧しい者を選んで信仰に富ませ,ご自分を愛する者たちに約束された王国の相続者とされたのではありませんか。

ヨハネ 4:23-24
23 とはいえ,真の崇拝者が霊と真理をもって父を崇拝する時が来ようとしています。それは今なのです。実際,父は,ご自分をそのように崇拝する者たちを求めておられる (looking for) のです。24 神は霊であられるので,[神]を崇拝する者も霊と真理をもって崇拝しなければなりません」。

ヨハネ 6:37, 44, 65
37 父がわたしにお与えになるものは皆わたしのもとに来ます。そして,わたしのもとに来る者を,わたしは決して追いやったりはしません。
44 わたしを遣わした方である父が引き寄せてくださらない限り,だれもわたしのもとに来ることはできません。
65 それでさらにこう言われた。「このゆえにわたしは,父にそれを許していただいたのでない限り,だれもわたしのもとに来ることはできない,とあなた方に言ったのです」。

ヨハネ 15:16
16 あなた方がわたしを選んだのではありません。わたしがあなた方を選び,あなた方が進んで行って実を結びつづけ,しかもその実が残るようにと,わたしがあなた方を任命したのです。

ヨハネ第一 4:10, 19
10 愛はこの点,わたしたちが神を愛してきたというよりは,[神]がわたしたちを愛し,ご自分のみ子をわたしたちの罪のためのなだめの犠牲として遣わしてくださった,ということです。
19 わたしたちは,彼がまずわたしたちを愛してくださったので愛するのです。


これら信仰のあるアブラハムの胤、王国の子らは、「天にあるもの」であり、裁きの権威を持ったキリストの帰還のときまでその収穫が続きます。

エフェソス 1:10
10 定められた時の満了したときにおける管理のためにご自身のうちに意図された意向によるものであり,すなわちそれは,すべてのもの,天にあるもの地にあるものを,キリストにおいて再び集めることです。




次に、アブラハムの胤により自らを祝福する全人類にについて

これらの神へのアブラハムのような信仰のない人々は、「地にあるもの」であり、聖書の他の表現では、地を受け継ぐ羊(マタイ25:34-40)、大艱難から出てくる大群衆(啓示 7:9, 14)、創造物(ローマ 8:19-21)、剣をすきの刃に打ちかえる諸国民(イザヤ 2:1-4, ミカ 4:1-4)と呼ばれています。

これらの地を受け継ぐアダムの子孫について聖書が述べていることは、

箴言2:21-22
21 廉直な者たちが地に住み,とがめのない者たちが[地]に残されるからである。22 邪悪な者たちは地から断ち滅ぼされ,不実な者たちは[地]から引き抜かれるのである。

マタイ 5:5, 7
5 「温和な気質の人たちは幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
7 「憐れみ深い人たちは幸いです。その人たちは憐れみを受けるからです。

そのような地の柔和な、自分の命の与え主であるエホバ神を知らない、信じない人々は、救われて、その後に自分の救い主について学ぶでしょう。
アダムの日からこれまで生きてきた大勢の人々の大半は、まず地上に復活して、その後自分を死から救った神について学ぶでしょう。これから起きるキリストの裁きの時も同じで、今生きる羊のような肉なる義なる者たちの大群衆は、大艱難から救われて、その後自らの救い主について学ぶでしょう。

その時は、真の神エホバの崇拝が他の偽りの神々の崇拝の上に高められ、大艱難生存者の諸国民は、エホバの崇拝について学ぶでしょう。

ミカ 4:1-4
1 そして,末の日に,エホバの家の山はもろもろの山の頂より上に堅く据えられ,もろもろの丘より上に必ず高められる。もろもろの民は必ず流れのようにそこに向かう。2 そして,多くの国の民が必ず行って,こう言う。「来なさい。エホバの山に,ヤコブの神の家に上ろう。[神]はご自分の道についてわたしたちに教え諭してくださる。わたしたちはその道筋を歩もう」。律法はシオンから,エホバの言葉はエルサレムから出るのである。3 そして,[神]は多くの民の間で必ず裁きを行ない,遠く離れた強大な国々に関して事を正される。それで彼らはその剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない。4 そして彼らはまさに,各々自分のぶどうの木の下,自分のいちじくの木の下に座り,[これを]おののかせる者はだれもいない。万軍のエホバの口が[これを]語ったのである。



ですから、神を知らない、または信じようとしない者たちについて王国の子たちが心配する必要はありません。その人が憐れみぶかい義なる人であるなら必ず救われるからです。人々の救いは、クリスチャンの伝道活動に依存しません。

クリスチャンの宣教は、証しの業であり、その結果王国の子たちが神によって選ばれます。
証の業は、神、イエス、救い、裁きについての証しであり、全世界の改宗などではありません。
また、王国の子たちは選ぶのは、人ではなく神ご自身ですから、その点で私たちに責任や義務などありません。

王国の子たちは、証の業をキリストの再来のときまで喜んで行い続けるでしょう。
それによって、神から信仰を与えられ王国の子となる人は、自らも証の業に加わるでしょう。

人類の一般は、そのキリスト教の証の業により、神、イエス、救い、裁きについて学ぶでしょう。
そして、宗教心のある人、無神論者、その他あらゆる種類の憐れみ深い人、義なる人、良心的に行動する人が裁きの日に救われることを知るでしょう。人類一般に対するキリスト教の音信は理解しがたいものではなく、誰もが同意できる極めて当たり前の音信です。

ガラテア 6:7
7 . . . 何であれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです。

ヘブライ 4:13
13 そして,[神]のみ前に明らかでない創造物は一つもなく,すべてのものはその目に裸で,あらわにされており,この方に対してわたしたちは言い開きをしなければなりません

ローマ 2:6-
6 そして,[神]は各々にその業に応じて報います。7 良い業における忍耐によって栄光と誉れと不朽性とを求めている者には永遠の命です。8 一方,争いを好み,真理に従わないで不義に従う者に対しては,憤りと怒り,9 患難と苦難があります。それは,有害な事柄を行なうすべての人の魂に,ユダヤ人を初めとしてギリシャ人にも臨みます。10 しかし,栄光と誉れと平和が,良い事柄を行なうすべての人に,ユダヤ人を初めとしてギリシャ人にもあるのです。11 神に不公平はないからです。

聖書を知らない、信じない人々も上記の聖句にある程度同意できると思います。
しかし、彼らはアブラハムの胤、王国の子たちへの招待を感謝して受け入れ、信じることも、それに希望をおくこともないでしょう、なぜなら彼らはアブラハムの胤ではないからです。

この王国の子についての信仰は神からの賜物であり、全ての人が持つわけではありません。(テサロニケ第二 3:2)


とはいえ、神を知らない全人類もまたキリストの購いの益を享受します。

ヨハネ第一 2:2
2 そして彼はわたしたちの罪のためのなだめの犠牲です。ただし,わたしたちの[罪]のためだけではなく,全世界の[罪]のためでもあります

アブラハムの胤、王国の子たちは、将来い神の王国の成員として購われた全人類のために奉仕します。
そして諸国民はアブラハムの胤、王国の子たちの奉仕によって最終的に自らを祝福することになるでしょう。

バプテスマを受けてクリスチャンになる人は全て王国の子たちになる見込みがあります。
しかし選ばれる方は神ご自身です。

クリスチャン以外の人々は、王国の子たちになる見込みはありません。
彼らは明らかに「地にあるものたち」です。

この「地にあるものたち」を集めることは、クリスチャンの宣教の中心ではありません。
王国の子たちによってなされる証の業により、信仰を持つ王国の子たちを神が選び、それ以外の人々は、王国の子たちにより自らを祝福する可能性のもつ「地にあるものたち」となります。

創世記 22:18
18 そして,あなたの胤(王国の子たち)によって地のすべての国の民は必ず自らを祝福するであろう。あなたがわたしの声に聴き従ったからである』。


ですから、クリスチャンは、「人はバプテスマを受けたクリスチャンにならなければ救われない」という色メガネをかけて人を見ることではありません。

それはエホバの証人がかけている色メガネであり、その間違った見方のためにエホバの証人たちは、「バプテスマを受けたエホバの証人にならなければ救われない」という間違った信念を持っています。


話を元に戻して、
それで、エホバの証人特有の「何が何でも聖書の真理を全ての人に教えなければならない」調の見方は、「徹底的な証し」の意味することではありません。

徹底的な証しは、その内容に主眼が置かれており、聖書の真理の徹底的な聖句からの論証です。
王国の子たちは聖書の主題を十分理解し、その内容に精通しており自分の理解と信仰を聖句により徹底的に裏付けます。
使徒たちやパウロがした徹底的な証しはそのようなものでした。

使途 2:40, 17:2
40 そして彼は他の多くの言葉で徹底的な証しをし,しきりに説き勧めて彼らに言った,「この曲がった世代から救われなさい」。

17:2 それで,パウロは自分の習慣どおり彼らのところに入り,三つの安息日にわたって彼らと聖書から論じ,3キリストが苦しみを受け,そして死人の中からよみがえることが必要であったことを説明したり,関連した事柄を挙げて証明したりして,「わたしがあなた方に広めているこのイエス,この方がキリストです」と[言った]。


エホバの証人は「徹底的な証し」をセールスマンのように、しらみつぶしに家々を一軒一軒回り、または家の人に会えるまで留守宅訪問を徹底して行う根拠として良く用います。そのような自分たちの都合に合わせた適用は聖書の裏づけを欠きます。彼らは自ら信じていることを聖句から徹底的に論じることができません。(たとえば、1914年のキリストの即位、1935年の王国の子たちの収穫の終了など)


話を再び元に戻して、
全ての人々に聖書の真理を教える義務はありません。人々の救いは、クリスチャンの証の業に依存しません。

マタイ 28:19
19 それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,わたしの名において彼らにバプテスマを施し,20 わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。

使徒 1:8
8 しかし,聖霊があなた方の上に到来するときにあなた方は力を受け,エルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう」。

マタイ 24:14
14 そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです。


注目すべき表現
「すべての国の人々」(すべての国のすべての人々ではない)
「地の最も遠い所まで」(すべての人々ではない)
「あらゆる国民」(あらゆる国民のすべての人々ではない)


既に、王国の良いたより(聖書の音信)は、すべての国、地の最も遠い所、あらゆる国民が聞くところとなっています。
王国の子たちは世界中に存在して、この証しの業に預かっています。

それで、すべての人々に対してではなく、すべての国民の中で王国の子たちを含めクリスチャンと称する人々によるキリスト教の証しが、既になされています。

心の謙遜な誰かが聖書に興味を持ちそれを購入して読み始めるなら、それだけで良い影響がその人に及ぶでしょう。その人は憐れみ深い人になり、裁きの日に憐れみを受けます。それは喜ぶべきことではないでしょうか。そのようにして救いが神からもたらされます。

わたしたちが遮二無二その人を教えなければならない理由がありますか。
わたしは、その必要はないと思います。憐れみ深い神の裁きに結果を委ねればよいだけのことです。

70億もの人々を、ものみの塔のように組織的に伝道し再訪問し聖書研究級をし救いに導くというアイディアこそ達成不能な妄想です。
誰かが指摘しているように、世界人口は、エホバの証人の増加率に勝って増えています。
つまりエホバの証人の努力は、人類の救いの拡大に貢献していません。
彼らの考え方からすると、滅びる人の増加率は年ごとに増すことになり、ハルマゲドンが長引けば長引くほどエホバ神はそれだけ余計に人々を滅ぼさざる得なくなります。


バプテスを受けたクリスチャン以外はすべて滅びるという、現実を無視したとてつもない偽りは、憐れみの神を誤り伝える中傷です。
その偽りは、神を殺戮を好む理解できない存在にしています。。

ご自分を誤り伝える神の名を用いた偽り者を神は裁かれるでしょう。

神は不公平な方ではありません。
すべての人は、自分の良心によって裁かれるでしょう。
信仰があってもなくても同じ基準です。

ローマ 2:13-16
13 律法を聞く者が神のみ前で義なる者なのではなく,律法を行なう者が義なる者と宣せられるからです。14 律法を持たない諸国民の者たちが生まれながらに律法にある事柄を行なう場合,その人たちは律法を持ってはいなくても,自分自身が律法なのです。15 彼らこそ,律法の内容がその心に書かれていることを証明する者であり,その良心が彼らと共に証しをし,自らの考えの間で,あるいはとがめられ,あるいは釈明されさえしているのです。16 わたしが宣明する良いたよりにしたがえば,神がキリスト・イエスを通して人類の隠れた事柄を裁く日に,このことはなされます



もし、あなたに自分が王国の子であるという確信があるなら、クリスチャンとして自分のできる範囲で隣人を愛し、良いたよりを伝え、憐れみの施しを実践できるでしょう。神とキリストはわたしたちの境遇、能力以上のことを求められません。それで自分にできないことで思い煩う必要は何もありません。隣人を愛することは苦痛ではないでしょう。誰でも自分の限界の中で他の人に良いことをすることを楽しめると思います。

マタイ 11:29-30
29 わたしのくびきを負って,わたしから学びなさい。わたしは気質が温和で,心のへりくだった者だからです。あなた方は自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう。30 わたしのくびきは心地よく,わたしの荷は軽いのです」。


重荷を負わすものは、パリサイ人であり、神やキリストではありません。

マタイ 23:4-5
4 重い荷をくくって人の肩に載せますが,自分ではそれを指で動かそうともしません。5 すべてその行なう業は人に見せようとしてするのです。


ものみの塔の重荷

すべての人を救いのために教えなければならない。(人々の救いが、伝道に依存しているという偽りの教え)
他の人の救いのために自己犠牲的に働かなければ自分の救いは保障されない。
バプテスマを受けたエホバの証人にならなければ大艱難を通過できない。
家から家の伝道、留守宅訪問を徹底的にやりなさい。
これらの重荷は、ものみの塔の都合のいい教えであり聖書の裏づけがありません。


エホバの証人、モルモン教、日本聖書協会、カトリック教会、その他のキリスト教教会、ユダヤ教、イスラム教などの活動のおかげで人々は聖書に接する機会を持ちます。

わたしは、聖書の内容そのものの価値とそれを通して働く神の霊の働きを認めています。
ですから、信仰にとって、その経路(伝道者、その他)は重要ではないと思います。(コリント第一 3:7)

聖書は神のことばであり、すべての人は神のことばを読む権利があります。
そのすべて人々のこの必要は、現在神の配慮により十分満たされる状況が整っています。
聖書の印刷、出版、配布、伝道をする人々は神を信じている人たちが多いでしょう。
彼らは聖書を広めることの一端を担ったことを喜んでいるでしょう。
色々な方法で神のことばが広まり、それに接触する機会が人々に提供されることは神のご意思です。

フィリピ 1:18
18 ではどうなるでしょうか。見せかけであっても真実であっても,あらゆる方法でキリストが言い広められている,ということにほかなりません。そのことをわたしは歓んでいます。そうです,これからも歓んでゆくのです。


わたしの場合は、エホバの証人により聖書の真理を学ぶ機会を得てエホバの証人になりました。
しかし、それですべてが終わったわけではありません。
聖書に精通するにつれて、ものみの塔協会の実態が聖書的でないことに気づくようなりました。
それは、子供が成長して大人になり、自分の親の弱さや誤りが良く見えるようになることに似ていました。
当然の帰結として、自分が理解した真理に従うか、偽りと誤りの中に留まるかの選択があり、確信の下に真理に従う道を選びました。

つまり、人が聖書の真理を選ぶかどうかの選択は、その人が生きている間続いているということです。

聖書を読み始めると誰でも神のことばの健全な影響を受けます。
良い人になる強い動機付けや正しい思考の型が得られるでしょう。
それだけでも、それは救いといえます。その人にとって毎日の生活で物事が良く運ぶようになるでしょう。
憐れみ深い人となり、裁きの日に憐れみを示されるでしょう。

さらに進んで聖書の提供する救いの希望を理解する人は王国の子の招待を信仰のうちに受け入れるでしょう。
そして、自分の希望の理由を聖書から徹底的に証しすることができるようになるでしょう。
そのような人は、王国の子たちとして将来、購われた人類を助ける業に預かるでしょう。

私は、自分と同じ信仰を持たない人を、ハルマゲドンで滅ぼされる人などとは見ません。
すべての人は、自分も含め同じ弱さを持つアダムの子孫であり、キリストの購いの恩恵にあずかる権利と機会を持っていると信じています。
それを実現する神の取り決めと力、知恵、方法に信仰を持っていますので、他人を説得して納得させる義務など感じていません。


わたしにできることは、自分の限界の範囲で喜んで自分の希望の理由を聖書から説明することと、他の人に憐れみ深く行動することです。

ヤコブ 1:27
27 わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです。

ヘブライ 13:15-16
15 この方を通して常に賛美の犠牲を神にささげましょう。すなわち,そのみ名を公に宣明する唇の実です。16 さらに,善を行なうこと,そして,他の人と分かち合うことを忘れてはなりません。神はそのような犠牲を大いに喜ばれるのです。



それで、この掲示板を通して聖書に接する機会を得た皆さん。
聖書を読んでその益を受けてください。


ものみの塔協会の改善を望む皆さん(研究生、現役JW、その他)
改善すべき点があまりにも多く深刻ですから、そのバビロンから出てください。
それは滅ぼされるでしょう。


ものみの塔協会が改善すべき点

1914年を中心としたインチキ予言
聖書的権限のない統治体の除去
国際宗教企業本部支部方式の解体
協会の長老、奉仕の僕の任命権の廃止
聖書に基づかない巡回監督、開拓者、その他の肩書きの撤廃

人生経験、聖書の理解の乏しい20-30代の長老に会衆を監督させることの廃止
ものみの塔協会は王国宣教学校を通して即席の頭でっかちの独身の長老を養成し各会衆に派遣していますが、これほど危険で会衆に問題をつくる愚かな取り決めはないと思います。そのようなインスタント長老たちは何も分かっていません。サタンの容易な餌食となるでしょう。(多分この取り決めによる問題と苦情は多いと思います。)

どうですか、これらを改善したらものみの塔協会は存在しなくなるでしょう。

編集者 sk (2015年01月21日 21:29:19)

オフライン

#81 2013年06月10日 14:41:25

T.D.L
メンバー

Re: 司会者を変更することについて

skさん

いつも丁寧なお返事ありがとうございます。

組織の中に居続ける危険性と組織を離れたからといって真理を求めることを放棄したことにはならないということ、私も声高く伝えたいと思う事柄です。

少しだけskさんの主張に対する意見を述べさせてください。skさんの主張は正しい論理と聖書からの裏付けで構成されています。それはskさんのスタイルと言われればそれまでですが、トピックの内容によっては冷たく感じる時があります。

悩んだり苦しんだりして傷付き疲弊している人達にとってまず必要なことは、正しい道を指し示すことよりもその人の悩み苦しみを理解して共有し、癒すまではいかなくても元気付けてあげることだと思います。悩み苦しみを抱えている人は自分の間違いや弱さを薄々認識しているものです。そこを指摘することはその人をさらに傷付け、その人が心を閉ざすことに繋がります。その間違いや弱さを含めて悩みや苦しみを理解し同じ目線で話をし、その人が歩き出すのに手を添えてあげることが元気付けになり癒しに繋がると思います。

伝道の書3:1~9
上記の聖句は私自身よく思い出す聖句ですが、何事にも適切な時間あります。エホバの証人に出会い、今まで出会わなかった感じの人々から心の癒しを受け、組織の理不尽さに触れ、思い悩み、別の道を模索していく。それぞれに適切な時間があり、適切なアドバイスがあると思います。

その人が何に魅力を感じ何につまづき何を思い悩んでいるのか。そこを理解しアドバイスしてあげることが最も有効であると思います。そしてそれは同じことを経験している人だからこそ出来ることだと思います。

skさんの投稿からの引用
「わたしの場合は、エホバの証人により聖書の真理を学ぶ機会を得てエホバの証人になりました。
しかし、それですべてが終わったわけではありません。
聖書に精通するにつれて、ものみの塔協会の実態が聖書的でないことに気づくようなりました。
それは、子供が成長して大人になり、自分の親の弱さや誤りが良く見えるようになることに似ていました。
当然の帰結として、自分が理解した真理に従うか、偽りと誤りの中に留まるかの選択があり、確信の下に真理に従う道を選びました。」

少しだけ、skさんの経験に触れることができました。このトピックにいらっしゃっている人達は、この部分をもっと詳しく知りたいと思っていると思います。

skさんが何に魅力を感じエホバの証人の研究を受けるようになったのか、現在の研究のやり方とその当時の研究のやり方はどのように違うのか、その違いについてskさん自身はどう感じて、もし同じ立場だったらどんな行動を取るのか、聖書研究を始めたころの気持ちはどんなものでその気持ちの状態で研究を止めることを考えられたかどうかなどそんなことがアドバイスになると思います。

いろんな時期の人がいるでしょう。エホバの証人の人柄を見て良いと思っただけの人、聖書研究を始めたばかりの人、集会に参加し始めた人、神権宣教学校に入ったばかりの人、伝道者になかなかなれない人(このトピックの人)、伝道者になったばかりの人、バプテスマを受けて「兄弟姉妹」と呼ばれるようになった人、仕事をしながら補助開拓を始めた人、仕事を辞めて正規開拓を始めた人、奉仕の僕になった人、長老になった人、主宰監督になった人など。エホバの証人が人間的組織であることに気付き、別の道を模索しているまさに過渡期の人(skさんのスタイルが最も有効と思われる人)も居ると思います。

私は元2世なので経験に基づく適切なアドバイスは残念ながらできません。skさんは1世としての貴重な経験をお持ちになっているので是非経験に基づく適切なアドバイスを聞かせてください。

オフライン

#82 2013年06月10日 21:52:55

sk
メンバー

Re: 司会者を変更することについて

こんばんは、皆さん

T.D.L さん

丁寧な助言ありがとうございます。
気をつけます。

さて、わたしが何に魅力を感じてエホバの証人になったかからお話しましょう。
わたしの父は戦争で人々が大砲に吹き飛ばされる様子やその他の非人道的な現実を経験し、聖書を読み神を求めるようになりました。それでわたしの家には幼い時から聖書があり、神を意識して育ちました。わたしの尊敬する父は、わたしが小学校5年生のときに亡くなりました。

それで、人は死んだらどうなるのだろうか、父に再び会う機会があるのだろうか、会うためにどうしたらよいのだろうかなど考えるようになりました。

一般的には霊界があると言われており、死者はそこで生きているとされていました。また幽霊や怪談に象徴されるように人々は一般に死者を恐れていました。わたしは、そこに矛盾を感じていました。自分の愛する父が、霊界で生きているとすれば、その霊を恐れる理由は無いと思っていました。

中学生のころに父の聖書を読むようになり、多分イエスの山上の垂訓だと思いますが、極めてさわやかな感動を感じたことを覚えています。それから聖書を時々読むようになりました。その時は聖書の主題など把握することもなく、単に書かれている物語や助言から益を受けていました。

このような背景で、高校生のころクラスメイトのエホバの証人から「とこしえの命に導く真理」と題する本を借りて帰り、一晩で読みきり、聖書の主要なストリーラインを理解し真理の響きを確信し、将来の救いの希望にさわやかさを感じました。

その後エホバの証人のクラスメイトとの聖書研究が始まりますが、わたしは既に真理の本を読み通し本筋を確信していましたので、教義問答のような質問と答えのスタイルに、その妥当性を感じず、「もう分かっているから、こんな無駄なことはしたくない」とJWのクラスメイトに伝えました。すると彼は集会に来ることを条件に研究を辞めることに同意しましたので、一人で集会に出席するようになりました。

個人的にはわたしは、聖書研究は必要ないと思います。
聖書のアウトラインは誰でも読めば分かります。
もし人がそれを理解し信じてキリストの弟子になりたいなら、既に弟子になっている人がその人にバプテスマを施せばよいだけのことだと思っています。
聖書のどこにも、ものみの塔流の組織入会のための研究の先例などありません。

バプテスマのヨハネがヨルダン川で悔改めの象徴のバプテスマを施したとき、研究してバプテスマを受けに来た人など一人もいません。
イエスの弟子たちが述べ伝えたときも同じでした。
エチオピアの宦官も聖句の説明を多分1時間ほどうけてバプテスマを受けました。
パウロとスラスの牢番と彼の家族も研究などせずにバプテスマを受けています。

キリストを識別し信じた人(子供ではない)がバプテスマを受けました。
それに聖書研究など必要ありません。
自分で聴いて、読んで、調べて信じてキリストへのバプテスマを受けます。
手引き、あるいは教え手が必要な場合もあるでしょうが、それは、JWが行っているような何年も続く聖書研究と本質が違います。

JWの聖書研究は、組織の一員とするための条件付けの聖書研究であり、信じるも者のバプテスマのためではありません。
ですから、聖書研究生は、キリストの弟子になるように助けられているのではなく、ものみの塔バビロンの一員になるために教育されているに過ぎません。

ところで、「真理の本」は聖書の本筋がダイジェスト版としてよくまとめられています。
バーバラ・アンダーソン姉妹によると、その本はべテルの執筆部門兄弟(ハーバード卒)により、聖書の主題のダイジェスト版として書かれたとされています。それまでそのような出版物を協会は備えていませんでした。この企画は大成功し、わたしも含めてその本を読んだ多くの人たちがエホバの証人になりました。このように聖書の主題を良くまとめれば、誰でも読んですぐに理解できます。では、理解して信じている人にさらに何を要求するつもりなのでしょうか。ものみの塔が目指しているものは、ものみの塔協会の方針への絶対的な服従のための教育です。ですからそのような馬鹿げた聖書研究は無駄であり続ける妥当性はありません。自分で読めば分かる情報ばかりであり、ものみの塔協会への絶対的な服従など間違っています。


ここで話を戻して、

その当時(1968年)は日本のエホバの証人の人口はまだ少なく、ピラミッド構造も今ほどあからさまではなく、いわば兄弟関係の自由や気遣いを見出せました。それで研究はせずに、集会に出席していました。そのうち協会の方針に従って、いわゆる導かれるままに当時会衆にいた特別開拓者の兄弟と研究しバプテスマを受けエホバの証人の社会の常識に従って画一路線を歩み始めました。

当時のわたしにとって、聖書の主要なストーリラインの理解と把握以外はいわば知らないことで、ものみの塔協会が教えるままに導かれ、その指導を疑う根拠も妥当性もありませんでしたので、ものみの塔協会の都合のいい身勝手な教えのインチキを見抜くことができませんでした。(たとえば1914年のキリストの再臨、1935年の大群衆の収穫の開始、統治体、ものみの当協会の法人組織の実態、任命権のあり方、家から家の伝道、年3回の大会、巡回訪問、開拓者、その他の組織上の取り決めなど)

これらのものみの塔協会のインチキ教理や取り決めの聖書的裏づけを自分で吟味することも無く、自ら理解し信じている聖書の基本的な真理(神、サタン、イエス、救い、裁き)を語ることに満足と喜びを見出していました。

そのうち、自らがものみの塔協会のピラミッド構造の一部に組み込まれるにつれ、人間性の組織の実態を知るようになりました。
それで内心の疑問の答えを求めてネットを活用して調査を開始しました。
レイモンド・フランズ (Ray Franz)、エド・ダンロップ (Ed Dunlap)、リチャード・ラーウィ (Richard Rawe)、リック・ファーロン (Rick Fearon)、バーバラ・アンダーソン (Barbara Anderson)、ランディ・ワッター (Randy Watters)、ロバート・キング (Robert King)、北海道広島会衆の事件、その他の組織から排斥された兄弟・姉妹たちの証言を読み、ものみの塔協会の正体にについて明快な答えを得ました。

それで、2011年3月に日本支部に内部告発状を送り、バビロンを去りました。


この経験が、どなたかの参考になると良いですが、慰めという雰囲気ではないかもしれませんね。
わたしも努力はしますが、慰めの上手な方から皆さんが必要な慰めを得られますように。
特に皆さんが、聖書の救いの希望により喜び、慰められますように。

聖書を利用した宗教詐欺のものみの塔と、またその協会の任命により自らが特別な存在にでもなったかのように錯覚している監督たちをエホバ神が叱責されますように。そして関係者の全てが偶像にではなく、真の神に心を向けますように。

編集者 sk (2013年06月15日 17:52:11)

オフライン

#83 2013年06月10日 22:21:33

パピヨン
ゲストユーザー

Re: 司会者を変更することについて

skさん

参考となる話しをありがとうございます。1968年から2011年と長い間エホバの証人であられたこと、skさんは元巡回監督や長老だったのでしょうか。

さて、skさんは、2011年3月に内部告発状を送られバビロンを去られたとのことですが自ら断絶届を提出されたのでしょうか。
不活発になり自然消滅でしょうか。

そして、奥様やお子さんはいらしたならエホバの証人だった場合は、納得されたのでしょうか。

skさんのお答えできる範囲でお願い致します。

#84 2013年06月11日 21:33:36

鬼太郎
ゲストユーザー

Re: 司会者を変更することについて

僕もskさんのJW歴に関心があります。
というのは、僕が初めてJW集会に出席は1977年 研究開始は1978年だっためです。
つまりskさんは10以上も昔のJWをご存知だったことになります。
僕が知っているJWは、1975年の余韻が残っていて、『ハルマゲドンまであと五年か十年か?』とか
『正規開拓者になるのが当然 さらに独身の若い兄弟は僕~長老さらにべテル奉仕や特別開拓・巡回監督を目標にする』
そんなプレッシャーの中でバプテスマを受けたためです。
※真理の本は『青い爆弾』と呼ばれたほど、JWに改宗させる点で強力な武器でしたね。

#85 2013年06月12日 18:51:44

sk
メンバー

Re: 司会者を変更することについて

こんばんは、皆さん

パピヨンさん、鬼太郎さん
コメントありがとうございます。


わたしは長老を経験しています。
長老削除のいきさつは、おおよそ北海道広島会衆の例にあるように協会の先入観によるものです。

協会から会衆に派遣されていたMST卒業生の長老のパートナーの個性の摩擦(互いの相手の気持ちの理解不足)があるなか、一方の兄弟がパートナーの兄弟(主催監督をしていた)との生活の不満について協会に手紙を出しました。協会は巡回監督に所見を求めました。巡回監督は、会衆の開拓者の姉妹たちの口車に乗って調査もせずに協会に主催監督の変更を依頼しました。それで代わりの兄弟が会衆に長老として派遣されました。わたしたち会衆の長老団は、協会の性急な反応をひとまず横において、主催監督の変更の必要性は無いと判断していました。それで数回にわたり手紙による協会とのやり取りをしました。会衆の長老団は主催監督の兄弟の長老としての資格に問題は無いことを書き送りました。会衆の長老団の手紙に加えて、わたしは問題に関する自分の所見を書き送りました。その中で問題の経緯を示し、問題の本質が当事者間で解決可能の事例であることを述べ協会の早とちりを指摘しました。

その後、協会は、いつものパターンで、全く会衆の事情を知らない近くにいる地域監督、巡回監督によるお馴染みの聴聞会(事情聴取)を計画しました。広島会衆と同じで、答えは既に決められていました。

その聴聞会で、会衆の長老団は、協会の意向に従うか、自分たちの判断に固執するかの選択を迫られました。わたしを除く他の全員はエホバの証人の処世術に従って協会の見解に従うことに同意しました。このとき、わたしは仲間の長たちの洗脳の姿をまのあたりに見ました。

問題の主催監督は長老を解任され会衆から追放され(排斥ではなくJWとして他の会衆に移転)、わたしは長老の職から解任され、会衆に留まることを許されました。

それから5年以上会衆において、いわば蚊帳の外に置かれ、ものみの塔協会の本性、エホバの証人の口先の兄弟愛の妄想について考えることになりました。

それで、インターネットを用いて、ものみの塔協会の歴史の調査を始めました。
その調査によって見出した事実から、2011年に、いわゆる断絶通知書を日本支部と地元の会衆に送りバビロンを出ました。
その内容はこの掲示板に書いてあるようなことです。

わたしの妻も理解し、わたしと一緒にバビロンを出ました。
同じころわたしの妹の家族も、彼ら自身の調査に基づいてものみの塔バビロンを出ました。


バビロンを出た直後、会衆の長老団から面会を求める電話がありました。
「皆さんが友として会うのなら会いますが、会衆の権威として裁くために会うのなら、既にわたしが提出している協会の実態告発書がわたし所見であるのでその必要はない」と伝えました。

彼らは真の友ではありませんでした。
組織の中に真の友のいるエホバの証人は多分少ないでしょう。
彼らの関係は、彼らがキリストの権威とみなしている協会経由であるために、その協会(一度も会ったこも話したことも無い人)の指示で、何年も一緒に働いた仲間の判断を拒絶、あるいは疑うことをします。
これが真の友の姿だろうか。

その後、事情を知らない兄弟、姉妹から電話がありました。わたしがエホバの証人を辞めたことを伝えると、ほとんど理由も聞かずに、あわてて電話を切ってしまいます。わたしはそれらの以前の友人たちが、ものみの塔協会に関する事実を知ってほしいと思っています。しかし、自分から彼らに電話かけたりイーメールや手紙を送ることはできません。ものみの塔協会の教え(聖書の教えではない)によりコントロールされているので、そのようなことをすれば余計に拒絶されることが分かるからです。

それで、JW研究の掲示板を利用して、、ものみの塔バビロンの崩壊のために、つまりJWの兄弟、姉妹たちの解放を希望してJW覚醒情報を提供しています。

経済的に(信者の減少、裁判費用の増加)、また教理面で(1914年の予言、忠実で思慮深い奴隷、排斥、その他)ものみの塔協会は行き詰っており、やがていわゆる平信徒のコントロールを失うでしょう。



いろいろな事情でバビロンを離れた兄弟、姉妹たち、
聖書を読み返し今と将来に備えてください。
神とキリストの手は短くありません。




組織上の人事異動

役所、企業、などの大きな組織には、それらに特徴的な2つの制度があります。
それは、人事評価と人事異動です。

それは何のためでしょうか。
コントロールのためです。

この制度により労働者の団結意識(横のつながり)を弱めることができます。
また体制寄りの人の登用で組織の権威を強化できます。
それらの制度はピラミッド支配に貢献をしています。

では、ものみの塔協会はどうでしょうか。
同じです。

JWも人事評価を受け、いわゆる昇進(特権)があり、また人事異動が協会(キリスト)による任命でなされます。
そして、突然、これまで会ったこも話したこともない兄弟が会衆に現れ、「協会の任命により来ました」と自己紹介が始まります。このようにして協会の権威による人々のコントロールがなされます。

ですから、ものみの塔協会は、クリスチャンのあるべき兄弟関係を育む目的で存在していません。
彼らの目指すところは、組織の拡大であり、それに伴う資産の増加です。
そのために強力なコントロールが必要であり、この世と同じ手法を用いているというわけです。
ですから、協会の任命はキリストからのものではなく、協会の管理組織からの世俗的なものです。
そのような世俗的な任命に宗教的な意義を付与してJWのコントロールがなされています。


だまされているJWたちは、突然派遣された見ず知らずの長老の権威によりクリスチャンの生活が振り回されることのおかしさに気づきません。ですから、JWたちの権威に対する敬意は、協会から要求(強要)されたもので、年月をかけてその人を良く知って培われたものではありません。

ものみの塔協会は、インスタント・ラーメン(長老)製造、販売株式会社です。
(うどんもそばもあるるよ!)

インスタント・ラーメンばかり食べていると体をこわすよ!!  wink

編集者 sk (2013年06月12日 20:55:06)

オフライン

#86 2013年06月12日 20:51:22

パピヨン
ゲストユーザー

Re: 司会者を変更することについて

skさん

貴重な経験、つらい思い出を述べて下さりありがとうございます。

確かに私の会衆でもMTS卒業の長老、
必要で来られた兄弟姉妹が来られ活発に見られる一方、熱心なJWが中心、そうでないJWと差が見られるようになりました。
そして、このトピックは研究生が見られているので一例を述べますと、例えば私の会衆の私の知っている姉妹の自宅に独身で働いている研究生が勉強に来られていました。MTS卒の長老が研究参加したときは豪華なお菓子や出され、その研究生が自宅訪問時は半年間、お茶と飴のみ、その研究生は「研究に司会者の自宅に伺っているとはいえ、その家族の人とお茶する機会を作ってくれなかった、特権を持った方が来られると研究参加に呼び、司会者がMTS卒の長老に媚びて自分をよく見せようとする。ついていく気がしなくなった。」と言っていました。

そして、ものみの塔の見解が違ってもエホバの証人の世界から抜けられない方がいます。コミュニティ化しており、特に主婦の姉妹、女性です。そして、若くからエホバの証人になられ50代近くの男性、仕事も非正規社員、奉仕の僕ですが熱心でありませんがJWのコミュニティから捨てられない

行き場がなく、世の人とどう付き合っていいか分からず…そして慣れ親しんだJWの人と離れるつらさ、組織が間違っていても、離れにくい理由がそこにあると思います。
私の会衆に新しい人が来られても励ますことをしなく会衆のJWの位置を保とうとする長老や開拓者ばかりです。

昔の会衆より、生気がなくなっています。なんとなくJWのコミュニティにいて安心しているというか…
skさんは家族とともに思い切ってバビロンから出られ、生活も一変され立ち直れられるまで相当大変だったと存じます。今もエホバの証人の聖書を読んでいるのでしょうか。
エホバの証人の聖書から一般の聖書を信じられて読まれているのでしょうか

エホバの証人から離れた方を一般の教会は迎えて正しい聖書理解をすすめていますが、私は神は唯一、神と子と聖霊が一つという三位一体が受け入れられなく、組織に疑問もありますが、神は唯一であることは信じていますのでとどまっている理由でもあります。
もちろん、私は活発な信者ではありません。
まとまりのない文章で申し訳ありません。

#87 2013年06月13日 18:28:13

sk
メンバー

Re: 司会者を変更することについて

こんばんは、パピヨンさん


わたしは今でもJWが用いている新世界訳聖書を用いています。
加えて他の聖書翻訳も用いています。
英語版には多くの聖書翻訳があり、それらを活用しています。

以下のサイトは良く利用しています。

http://www.2001translation.com/

http://www.blueletterbible.org/


日本語は、新共同訳と口語訳と新世界訳のweb版を用いています。



三位一体について

この教えは、神、キリスト、罪、購いの犠牲の真理をゆがめる偽りです。
普通の人は、常軌を逸した複雑な説明が無い限り、すなおにその教えを理解できないでしょう。

「神とキリストと聖霊が一人の神の中の別々の異なる神である」みたいなことを、すなおに理解できる人などいません。
そのような考えは、3人の異なる自分をもつ精神分裂病患者(多重人格者)の思いの中のようです。

ところが、その教えは、古代バビロン、エジプト、ギリシャにおいて宗教哲学として存在し、背教したキリスト教へ取り込まれました。
ですから、聖書により三位一体は裏付けられません。
それは、神からの救いの教えを混乱させる、あやまって知識あるいは奥義と呼ばれているサタンの偽りです。

大半のキリスト教教会は、その教えの犠牲となっています。

編集者 sk (2013年06月15日 18:09:22)

オフライン

#88 2013年06月15日 17:25:59

鬼太郎
ゲストユーザー

Re: 司会者を変更することについて

SKさん 経験談のカキコに感謝します。
MTS卒業生に関する優遇・特権に関しては現役時代も疑問がありました。
八週間もの時間を費やせること自体が、JW以外には何もない、具体的にはJWの会社でバイトしている二世の兄弟を
主に対象とした制度と思いました。
  ストレートに表現すれば、、無能なイエスマンJWが会衆の主催監督に就くことになりますから、、、。
やはり弊害ありでしたね。

#89 2013年06月15日 18:27:36

sk
メンバー

Re: 司会者を変更することについて

こんばんは、鬼太郎さん


わたしも、そう思います。

この世は、称号の世界で序列を明確にし序列意識によるコントロールがなされます。
部長、次長、課長、センター長、責任者、チーフ、チームリーダー、その他の肩書きが付与され、それに応じた対応が求められます。

JWの社会では、建前上、肩書き不要の世界ですので、その代わりとなるものは、長老、奉仕の僕、MTS卒業生、特別開拓者、正規開拓者、RBC自発奉仕者、HLCメンバー、などでしょうか。

まぁ~、どちらも同じものですね。

それらは、サタンの作品で不要なものですね。
やがてなくなります。
それらは管理社会のピラミッド構造物の名称です。
本来管理職など不必要なのでしょう。なぜなら人はすべて神の像に造られていますので、そのようなものは不要でしょう。

神は自由な方です。

コリント第二 3:17
17 さて,エホバは霊です。そしてエホバの霊のある所には自由があります。

編集者 sk (2013年06月15日 20:55:19)

オフライン

#90 2013年06月16日 04:25:07

iris
ゲストユーザー

Re: 司会者を変更することについて

skさん、御自身の経験をshareしていただきありがとうございます。大変興味深く拝読しました。
いつもの聖書から論じる投稿と同等かそれ以上の価値があるものと思います。
skさんの聖書解釈の基本はエホバの証人の「とこしえの命に導く真理」によるものと理解しました。
「とこしえの命に導く真理」の内容は今も変わらず信じているけれど、その後の組織内での経験から
ものみの塔の組織は否定するようになったということですね。


ここからはskさんに宛てたコメントではなく私の感想です。

聖書はその成立の事情から、全体をひとつながりの文書として読むとかなりの無理が生じます。
「聖書全体は神の霊感を受けたもので、神からのメッセージである」というのは私もその通りだと思いますが、
各文書の成立の背景を無視して何が何でも「調和していて正確」であるという先入観のもとに読むと、
無理な解釈をせざるを得なくなります。聖書解釈が実にさまざまであるのもこのためです。

skさんも、最初に出会った手引書がエホバの証人の書籍でなかったら、聖書の読み方がまったく違っていたのではないかと思います。
skさんの聖書解釈は、エホバの証人の解釈を基本としながら、キリスト教の本質に関わる部分だけは伝統的なキリスト教の解釈に
みごとに置き換わっており、skさんが非常に熱心に聖書を研究されたことがよくわかります。
私はエホバの証人の教えはキリスト教の教えを欠いているのでキリスト教ではないと思っていますが、skさんの信仰はキリスト教の
信仰であると思います。三位一体を認めるかどうかをキリスト教であるかどうかの基準であるかのように考えている人も多いですが、
三位一体はいわば方便でありキリスト教の本質ではありませんし、それを信じようと信じまいと救いには関係ありません。

#91 2013年06月18日 21:49:40

qoute
ゲストユーザー

Re: 司会者を変更することについて

irisさん、ありがとうございます。三位一体を認めるかどうかをキリスト教である基準であるかを考えている人も多いですが、三位一体は方便でありキリスト教の本質ではなく、それを信じようと信じまいと救いには関係ありません→この部分ですが私はプロテスタント教会に行ったとき、十字架が掲げてられており偶像崇拝と思い牧師に尋ねました。牧師は十字架は掲げているだけで偶像崇拝でないと言われましたが三位一体と同じく疑問に思ってしまいました。
そして、イエスのあとに続いて弟子を作り述べ伝えていくこと、エホバの証人はこの点は他の教会と比べて聖書に忠実だと思います。ものみの塔教会が正規開拓者、補助開拓者と独身の制度を作り上げて愛のない組織となっています。エホバの証人は奉仕時間を入れれば特権化するという、間違った序列化を作り上げ、本来なら何人導いたかを評価されるべきなのですが…私の会衆も引っ越ししてこられた研究生を調整者が自分の妻を司会者にさせました。主宰長老妻は集会で研究生を持っていると我が物顔です、自分が開拓した研究生ではありません。研究生もしんどそうです。それに比して、伝道者が自分で導いた研究生は笑顔があり自然です。
数十年前まで会衆では研究生を何よりも大切にしてきましたが今は自分は研究生を連れてきているという他成員と違う会衆で自分の存在となっている。このトピック主もこのような支配的な司会者に当たったのもいい例を示しています。開拓者が研究時間の長さを長老から指摘され、聞いて見ると研究終わってお茶の時間も霊的な時間に含まれると研究時間に入れられており長老から一回の研究時間を2時間以内にするようにと注意を与えていました。研究生は悪く言えば奉仕時間の時間に利用され、イエスの特質をもって弟子を教えるという本質を失っています。それも全てものみの塔が作り上げた階級制度です。これが愛のない居心地のない各会衆を作り上げています。プロテスタント教会にはこのような制度がないですが崇拝途中でお鉢が回って寄付を要求されるのが合点いきませんでした、しかしエホバの証人ほど、長時間奉仕は霊的な人と評価されるのには考えさせられます。僅かな伝道でもその人の奉仕でエホバは見て下さっていると教えていますが実際は違うのが統治体の考え方であり長老の人を判断するのが時間や数なのです。
研究生のバブテスマまでの時間が長く、このような弊害は、エホバの証人の何とも言えない実情です。

#92 2013年06月29日 13:05:04

rulu
ゲストユーザー

Re: 司会者を変更することについて

長老は長老団の推薦を受けて巡回監督が任命しますが、長老団や巡回監督に気に入られなければ、長老になれない。
長老にふさわしいかどうか、会衆内に無記名式のアンケート用紙を置くなどして会衆で意見を求め集計をして
巡回監督に会衆の意見として長老団の意見として巡回監督に伺いを立てる。
あらゆるネットでJWの長老の独裁化、横暴とみられる接し方が目立つ。
このトビの主催長老は巡回監督に気に入られていますがとんでもない権威主義者。
地域大会で講演するなど力をもっているため、会衆でその長老のことを言いたくてもなかなか意見を言えない。
長老も人間なので不完全なので従えである。
神権学校でエレミヤの書物 11章で長老には愛と謙遜が必要と学びましたが、長老は会衆をまとめる牧者なら、
長老が集会で、一人一人の研究生を注解後お礼に言ったり、挨拶したり、励まししたりしているのか。
久しぶりに来た成員に冷たい視線でなく暖かく接しているかどうか、成員のアンケートがあればその会衆の実態が反映される。
長老を立候補制にして無記名で会衆内でふさわしいかどうかアンケートをとらせその上、長老団で会衆の意見をまとめて巡回監督に伺う。
今のままでは改善されない。惰性となる会衆組織となってしまう。

以上は希望で理想は実現しないとわかっていますが。

開拓者制度も時間でなく、何人、研究生を野外で導いたか。無償の奉仕なので時間でしかはかることができず
奉仕は特権化されてしまう。

6月17日の王国宣教の記事に、研究生を伝道者に導くにはと長老が演壇から話しをした。
「バプテスマを受けていいと思うくらいに研究生を育ててから、司会者が長老団に伝道者に推薦しなさい」という内容でした。

司会者一人の推薦なら司会者の良心の善悪がすべてとなる。複数の司会者と研究するなど、講じないと司会者の独断になってしまう。

組織の本に新しい伝道者は、研究司会者の承認があって長老ら申し込むとある。
つまり、その研究司会者の考え次第でバプテスマを受けない伝道者にもなれない。
司会者が研究生にとって絶対の存在になり、司会者の良心が善悪の基準になってしまい、司会者が厳しすぎればなかなかなれない。

司会者の独断と偏見になってしまう。

研究生が伝道者にふさわしいかどうかは一人の司会者が判断するのでなく、
何人かの人が何回は聖書研究に参加してもらう、交わりに参加する機会を増やす。
一人の司会者の基準で長老にふさわしいかどうかは司会者一人の判断にゆだねられるのはよくないし、やがて挫折し止めてしまう。
会衆にとっても。会衆で全体で育てていく。伝道者にふさわしいかどうかも、会衆の中の何人かの兄弟姉妹で聞く。

そうしないと司会者も私は研究生を連れてきているという特権意識を持ち、会衆の中で司会者の許可がないとお茶も飲めない。
このトビの方は、司会者との家族ともお茶したことがない位、研究生に冷たい態度をとり続け、主催監督もそれが正しいと言い、
愛ある接し方で研究生を育てていくようにと、司会者に注意しなかった。

私は司会者を変えて、次の司会者と相性がよく、伝道者に導き、バプテスマまで導いた人を知っています。
その司会者は、研究生と夕食の交わりを家族で参加させ、なじませようとしていました。

研究生は世の人なので、研究生とお茶はとんでもないというエホバの証人の方は多いのですが
その司会者は研究後、研究生と一緒に食事をしたり、会衆の友人や家族のJWとお茶をさせたりしていました。
「研究生は会衆の宝」として止めることなく続けてほしいからと辛抱強く、接していました。

バプテスマを多く受けた会衆に行くとやはり雰囲気もよく研究生の笑顔がみられます。
何年いる研究生でも長老や成員が話しかけていました。

私の会衆でも一人一人の成員に声をかける、挨拶に行く長老が少なくなっています。
長老の更新について、無理かもしれませんが、このような弊害が起こり、研究生の言い分もよく聞かないまま、
司会者の言う意見だけ聞いて「従順でない。司会者の言うことをきかない」と会衆内に伝達します。
一人の司会者だけでなく、何人かの司会者で援助する。司会者も長老と同じく研究生に対して支配的になっています。

特別大会で引っ越しはいけないとモリス氏が述べておられましたが、長老の更新制度とかない限り、
長老は長年していると会衆に対して惰性的になります。長老転勤制度がない限り、このような弊害はなくならない。
話しはずれましたが、このような弊害が司会者も研究生を愛をもって育てるというより
長老にならって支配的な態度をとる司会者がいることに残念に思います。

#93 2013年06月29日 17:02:56

iris
ゲストユーザー

Re: 司会者を変更することについて

qouteさん

コメントありがとうございます。
私もプロテスタントの教会に行ったことがありますが、礼拝中の寄付は任意のところが多いですよ。
自分は入れないで次の人に回せばいいのです。


ruluさん & みなさん

どんな集団でも、新しい人をみんなで受け入れる雰囲気がないところは、
新しい人にとって居心地のいい場にはなりません。

最近は、一般社会でも赤ちゃんを邪魔扱いすることが多くなりましたね。
大人に余裕がなくなっているのでしょうか。

#94 2013年06月29日 18:54:14

sk
メンバー

Re: 司会者を変更することについて

こんばんは、rulu さん


JWの皆さんは善良そうな方が多いですよね。
正しいことを行いたいと願っているのでしょうね。

だから、その会衆を良くしたいという気持ちが起きるのでしょうね。

とはいえ、
研究生の数、バプテスマに導いた人の数、奉仕の時間で、クリスチャンの奉仕者が、自己推薦をしたり、あるいは他の人の推薦を得るのはどこかおかしいのではありませんか。

その考え方は聖書的でしょうか。

そのようには思えません。
聖書中にそのような記録はありません。


伝道者、開拓者などの取り決めは、ものみの塔印刷会社の取り決めです。
奉仕報告も聖書的ではなく、ものみの塔印刷会社の世俗的な要求です。
どこの会社もセールスの売り上げ成績を張り出して競争をあおります。これと同じで、クリスチャンのものではありません。

そのような人間の手法、あるいは努力により救いは達成されません。
むしろ、それは過分のご親切による救いを否定し、自らを義とする業による救いの獲得を奨励する欺きです。

ピラミッド構造のランク付けとなるバビロン的な取決めは、ものみの塔印刷会社のインチキ権威を強めはしますが、神の是認やクリスチャン人格の成長と全く関係ありません。そのようなクリスチャン的でない無価値なものに縛られているJWは、やはり社会のみんなと同じいわゆる会社人間たちです。

この世のビジネススクールで教えられているあらゆる手法(人事、財政、法律、販売促進、その他)を、他の国際企業と同じように、ものみの塔国際印刷会社は活用しています。

宗教の名の下にもっともらしい理由を付けて取決めをつくりJWに、印刷会社の取決めを支持することを要求します。
宗教心のあるJWたちは、それが神の取決めでもあるかのように従うことがエホバの証人の常識となっています。


ものみの塔国際印刷会社の取決め(旅行する監督などの協会の代表者、長老などの協会の任命権、伝道者、開拓者などの様々な奉仕の立場、年3回の大会、その他)は聖書の権威をかたったインチキです。恐れる必要も従う必要もありません。それは救いと全く関係ありません。それは洗脳されたJWたちだけの無駄なしきたりです。事実、それらはJW以外の人にとって何の価値も意味もないでしょう。もちろんエホバ神ご自身にとっても何の価値も意味もありません。そして、それらの無意味なしきたりに盲従するJWだけが救われるのではありません。

編集者 sk (2014年11月03日 14:47:45)

オフライン

#95 2013年07月05日 00:53:39

pomily
ゲストユーザー

Re: 司会者を変更することについて

Skさん、もんもんさんが提起して下った宗教組織のあり方そのものを社会問題として提起する
改善を求める団体を紹介してくれました。感謝します。

以下のサイトです。
宛先:ものみの塔聖書冊子協会日本支部
ものみの塔聖書冊子協会日本支部: 間違いを認め、信者への謝罪と再発防止のための改革をしてほしい。

https://www.change.org/ja/%E3%82%AD%E3% … 7%E3%81%84

skさんの記事より引用します。
この団体は日本中からの改善を求める声と署名を集めて、ものみの塔印刷会社に伝えてくれます。
排斥、輸血、などの問題で日本全国のものみの塔協会による被害者たちからの賛同がすぐに得られると思います。
ものみの塔協会の株主や資産のの開示、また宗教の持つ免税特権、信者のただ働き、未信者の配偶者たちからの苦情などについても含めると良いでしょう。
改善を求めてものみの塔印刷会社の日本支部と交渉をするのはchange.org.jpが行います。
今のJWの改善を求めるのは、日本の新聞社やメディアしかありません。

先日、ニュージーランドで盗撮犯が捕まった男性がエホバの証人であり長老だった。
米国で長老よる幼児性虐待が起きており、一審では被害者への賠償金を700万ドル、
組織としての懲罰的賠償金として2100万ドルの罰金を言い渡されて、上訴している状態です。
排斥に関しては、事故に遭ったときでも、家族でも無視。

駅のプラカード奉仕も、警察当局は、このような宗教であるかを調べずに、公共の駅前のプラカード奉仕を許可している。
メディアやマスコミの力で、組織の間違いをものみの塔協会へ提言しないと、解決しません。

上記サイトへ無理な場合、ライトな掲示板で、排斥と自然消滅の記事に、上記サイト先があります。

夏の地域大会のビラ、キャンペーンで各会衆は新しい人を連れてくるよう、地域で奉仕しています。
うそを宣伝しているのと同じです。間違った教えを広めていて排斥者の扱いは人道的・人権的を超えています。

しかし、エホバの証人の組織のトップは裁判中を引き起こし、排斥など愛の取り決めどころか、交通事故にあった排斥した家族を
助けてはならない。人道的でない宗教、排斥者の人道問題、長老、巡回監督、横暴さ、各ネットやブログでエホバの証人の
行きすぎた行為の書き込みが目立つのはエホバの証人の組織の間違いをインターネットで広がりを見せても限界です。

ものみの塔協会へ組織へ、日本の支部へ提言や進言しないからです。

今のJWの改善を求めるのは、インターネットだけでは限界があり、このようなマスコミや日本の新聞社やメディアしかありません。

※上記サイトにいかない場合、同じ掲示板で排斥と自然消滅の記事でもんもんさんやskさんがサイト先をリンクしてくれています。

#96 2015年01月17日 13:20:23

1,000時間奉仕者
ゲストユーザー

Re: 司会者を変更することについて

あの~、皆さんのおっしゃる内容は
間違ってはいないと思うんですが…

「脱塔」したとして、
じゃ、それから後、
どこで何をするべきなのでしょうか?

出て、他の(世俗の)教会のどれかに
逃げ込むべきなのか、
それとも、個人個人で信仰生活を
送って行くべきなのかが
どうしても思い描けないんですよね…

単独で神の(エホバの)ご意志を続けるとして、
「集まり合うことをやめたりしない」
(Heb 10:25)ためには、
どこに ”集い合えば” いいんですかね?

なんか、協会の出版物的な問いかけですが…

#97 2015年01月17日 18:06:24

もんもん
メンバー

Re: 司会者を変更することについて

集まりあう場所を作ることを、真剣に考えないといけないと思います。

オフライン

#98 2015年01月17日 21:45:21

1,000時間奉仕者
ゲストユーザー

Re: 司会者を変更することについて

いま現在は、どこに逃げ込めばいいですか?

#99 2015年01月18日 16:01:41

カレブ
Administrator

Re: 司会者を変更することについて

> いま現在は、どこに逃げ込めばいいですか?

それぞれ最善と思う行動でいいと思いますが
いろんな人の意見を聞きたいということですかね。

もし「「集まり合うことをやめたりしない」という言葉に違反するのではないかと
思って エホバの証人の集会に行くことをやめられないということであれば

しばらくは集会に行きながら ものみの塔以外の聖書解釈などを
体系的に学んでみたらいかがでしょうか?

「「集まり合うことをやめたりしない」という言葉を
宗教法人が主催する集会という解釈で考える必要はないですよね。

むかしは本もインターネットもなく 一人では見識を増やす手段は
なかったわけですが

今は いろんな選択肢があります。

ご自分で ものみの塔以外の聖書解釈を勉強することとか
されてきましたか?

もしまだなら そこから始めるのが良いと思います。

オフライン

#100 2015年01月21日 07:10:03

sk
メンバー

Re: 司会者を変更することについて

おはようございます。


1000時間奉仕者さん


エホバの証人の生活は条件付けができてしまっていますから、バイアスなしに絵を描けないみたいですね。

その点、カレブさんのような部外者の方はそのような不要なバイアスがありませんから発想と気持ちが自由ですね。


弟子たちは、「どこへ行けばいいでしょうか」と尋ねていません。

だれのところへ」と尋ねています。

ヨハネ 6:68
68 シモン・ペテロが彼に答えた,「主よ,わたしたちはだれのところに行けばよいというのでしょう。あなたこそ永遠の命のことばを持っておられます。


だれのところへ行けばよいですか。
イエスのとこです。

マタイ 11:28-30
28 すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう。29 わたしのくびきを負って,わたしから学びなさい。わたしは気質が温和で,心のへりくだった者だからです。あなた方は自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう。30 わたしのくびきは心地よく,わたしの荷は軽いのです」。


そのようにするクリスチャンは同類をすぐに見つけることができるでしょうし、他の人も同じようにするように励ませるでしょう。
そしてやがて自由に集まってクリスチャンの交友を楽しめるでしょう。
集まる人の数は問題ではありません。
一人でも、二人でも、互いの都合に合わせて集まれます。

組織宗教の決めた集会をイメージすること自体、強いバイアスを物語っています。

クリスチャンとしての生き方についても同じで、ものみの塔でしていた活動しか思いに描けないなら、聖書を良く学んで思いを作り変える必要があります。


元気でね

編集者 sk (2015年01月21日 17:17:08)

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