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#26 2013年04月28日 02:49:47

Tetu
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

それなら、そもそもエデンでなぜ死に至る可能性に満ちた知識の実を置いたのですか?

それを食べなければ死ななかった訳ですよね?アダムを無条件に生かし愛せばよかったのに。
人間の親でもそんな危険なもの置かないでしょうし、そこまでして愛などを試す必死もなかったと思いますね。

#27 2013年04月28日 03:05:37

Tetu
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

ライトでなく済みません。

因みに幼少時代は山や川で毎回遊び、完璧ではありませんが、芸術に親しむ親から愛され幸せでした。

#28 2013年04月28日 14:40:22

ray
メンバー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

imaさま


このトピックに初めて投稿させていただきます。

>私は、ものみの塔の解釈は、最近のものは特に好きではないです。家に1980年代のものみの塔があり少し読んでいたのですが、私は昔のものみの塔の方が、物言いははっきりしているけれどあたたかみがあって好きでした。最近のものみの塔を読むと、聖書はもっと豊かで深いものではないか?と不思議に感じます・・・。

わたしは1995年に発行された「知識」の本を見た時、とても残念な印象をもちました。それまでに家庭聖書研究用に用いられていた「楽園」の本と比べて、無駄な情報が削られ、必要最小限の情報になっていたからです。

つまり、最小限の情報をさっさと研究して、信者をどんどん増やすという意図を感じました。その結果は逆になりました。それまでの日本のjwの勢いはすっかりなくなってしまったのです。

その原因は、「知識」の本も含めて最近の出版物が、imaさんのおっしゃるとおり、聖書の豊かさ、深さ、あたたかみを全く伝えていないからです。

まあそのおかげで、組織の冷たさが読者に伝わり、jwの人数がたくさん減ってくれればいいことですね!

オフライン

#29 2013年04月28日 19:49:52

Tetu
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

結局人は自分が信じたいものを信じる、都合よく解釈する生き物でしょう。

聖書には嘘が書かれてあるので深いとかあたたかいの前に白けますね。

#30 2013年04月29日 05:30:54

iris
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

私は事実と真実とは別のものと考えています。

聖書には必ずしも事実だけが書かれているわけではありませんが、真実が含まれているからこそ
キリスト教の聖典としてだけでなく、古典の傑作として世界中で読まれているのです。

聖書を過剰に神聖視する人々は、事実である必要のない部分も文字通りの事実であると
考えることによって、聖書の豊かさを損ねている面があると思います。

また1世紀までのイスラエルと21世紀の日本とでは事情が全く違います。
時代の違いも地域の違いも越えて真実である部分と、イスラエル固有の事情を述べただけの部分とは
区別して理解されるべきです。

#31 2013年04月29日 06:58:31

Tetu
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

なるほど、神さまには正確さは重要ではないと

でも聖書に感動したなんて10人に1人もいないな。
たとえばヨブ記のどこに感動します?

#32 2013年04月29日 07:10:53

Tetu
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

因みに不正確なところの例

創世記2:5-9. 事実と違いすぎて神聖がふっとびます。

#33 2013年04月29日 07:31:10

Tetu
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

それと、エデンでの疑問に答えておられませんが、パスですか?

#34 2013年04月29日 07:47:15

iris
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

創世記1章・2章には2つの創造物語が続けて書かれています。
同じ出来事を違う見方でみた2つの物語が、並べて書かれているのです。

創世記1章の創造記事は、祭司派によるものです。
神が順番に作業を進め、最後に人間を作ったことになっています。
神が7日目に休んだから、私たちも休まなければならないという発想もここからきています。

創世記2章の創造記事は1章の考え方より古く、ヤーウェ派によるものです。
神が苦労して人間を作り、人間のために他のものを作ったことになっています。

私は初めて聖書というものを手にしてから20年以上、異なる物語が並んでいることに
気づきませんでした。上に書いたことは最近の勉強会で学んだことの受け売りです。
よく読むと、確かに1章と2章とでは創造の順番が違います。
聖書がすべて正確だと考えようとすると、創世記2章ですでに矛盾することになります。

新しい方の祭司派の考え方が主流となり、ヤーウェ派の記事より前に置かれるように
なったのでしょうか。(そのためか1章の順番を前提に2章も読んでしまいます)
ヤーウェ派の記事もきちんと残り、後の思想に大きく影響している点が興味深いところです。

#35 2013年04月29日 07:51:14

iris
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

Tetu さんの発言:

それと、エデンでの疑問に答えておられませんが、パスですか?

これは誰に宛てた質問でしょうね?

#36 2013年04月29日 08:05:28

Tetu
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

特定していません。どなたでも良いのですが、流れからirisさんお願いします。

#37 2013年04月29日 08:32:32

Tetu
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

Irisさんは正直なかたですね。
エホバの証人の多くは、無理やり説明して余計迷路になり、知らん顔です。

#38 2013年04月30日 06:13:03

ima
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

rayさま、ありがとうございます。

>つまり、最小限の情報をさっさと研究して、信者をどんどん増やすという意図を感じました。
そうですね・・・私もそう感じます。「終わりが近いから」ということなのでしょうか?

子ども向けに作られたというトイ・ストーリー?風のDVDを見ても、今の流行りに合わせようとしていいところを失ってしまっているように感じます。
昔の「聖書物語の本」、あれは好きでした。あれで十分だと思うんですけど・・・。
なんだか、考えると嫌な気持ちになってきますね。

#39 2013年04月30日 07:28:41

Tetu
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

独り言

そう言えば、私の妹が昔

聖書物語のノア洪水の絵中に赤子を抱いて
化肉を解いた御使いと別れるのを見て司会者の
姉妹に赤ちゃんも死んだの?と悲しそうに尋ねていたが
その感性で途中やめたので本当に良かった。

色々苦労したけど人間らしく生きられ、今では
愛らしい子供たちに囲まれ幸せを掴んだ。

本当に良かったよ。

#40 2013年04月30日 07:47:32

Tetu
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

組織宗教の洗脳システムは組織を離れても、人間の弱点を突いているから
影響が残ると尽々思う。

最後はその人の感性だな、おかしいことをおかしいと感じる。
真のやさしさ人間らしさを大切にして、自分から逃げないことだな。

#41 2013年04月30日 07:59:20

iris
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

Tetu さんの発言:

それなら、そもそもエデンでなぜ死に至る可能性に満ちた知識の実を置いたのですか?

それを食べなければ死ななかった訳ですよね?アダムを無条件に生かし愛せばよかったのに。
人間の親でもそんな危険なもの置かないでしょうし、そこまでして愛などを試す必死もなかったと思いますね。

神には人間の愛を試すつもりはなかったと私は思います。

親の忠告を無視して子どもがイタズラした結果、失敗してどうにもならなくなること、ありますよね?
うちの娘はよくやりました。
親としては失敗の予測はつくからこそ忠告するのですが、100%防いでやることはできないし、
それによる不利益をカバーしてやることもできないということがあるんですよ。

神も、人間を嵌めるために善悪の知識の木を生やしたわけでもないし、本当に心配して食べないように
忠告したんだと思います。

この場面の解釈は人それぞれだと思うのですが、私がこのように解釈するのは
「神さまは私たちを愛してくださっている」という先入観をもって読むからだと思います。

私は聖書を誰にも教わらずに読み始めました。
教会に通う前に、すでに神さまに対して自分なりのイメージが確立していて、そのイメージに合う教会として
カトリックを選んでいるのです。ですから私の解釈はカトリックに共通のものとは限りません。
人それぞれの感じ方を包み込む懐の深さがカトリックの魅力です。

#42 2013年04月30日 08:15:54

Tetu
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

irisさん、試す云々は蛇足でした。
それ以外の部分、が疑問の要点です。

#43 2013年04月30日 08:26:08

tetu
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

人間の親がカバーしきれないのは限界があるからですよね?
それと、なぜサタンの行動を阻止しなかったのですか?
人間の親が全能なら最初に危険の根を断ち子供を守ると思いますが?

#44 2013年04月30日 08:54:21

ケロケロ
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

私は、善悪の知識の木は試みるためではなくいずれ与えるために備えられたものだと思っています。
奇跡的な何かをもたらすための木と言うよりは象徴であり、これが象徴しているものは「善悪を自ら判断する許可」だと思うのです。
それ故この木の実を食べても、善悪を自ら“決定”できるようにはなりませんでした。これは、人が神と同じ様な価値基準と思考の型を身につけたと見なされたときに許されるものだったのでしょう。御子にはそれは許されていましたから。
したがって、目指すべき目標と言うか、ご褒美?修了証?として置かれたものだと私は思っています。子が親の期待に応え損ねたという感じでしょうか。

#45 2013年04月30日 09:55:19

Tetu
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

⬆修了証、期待に答えそこねた?

の軽さと結果の重さのギャップ

まあ、それこそこの話の非史実性になる訳だが

#46 2013年04月30日 11:19:02

Tetu
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

それで、無条件の愛は未だ見えませんが、はるか彼方でしょうか?

#47 2013年04月30日 14:46:39

ケロケロ
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

個人的には,これをギャップと感じるかどうかが肝だと思っています。

以前より,従わないものに絶滅をもたらす神の価値基準に疑問を感じていました。
そこで(神の実在証明は置いておいて)創造者としての全能者にとってもっとも価値のあるものは何かという視点を出発点にして考えてみました。
あらゆる"もの"は創造者にとっては必要であれば作り出せるものであってさほどの価値はありません。実際現在の天と地が始めての創造物であるかどうか(これまでに滅ぼし絶やしてやり直したことがないかどうか)は,それこそ神のみぞ知ることです。
また,もし命に普遍的な価値があるとみなしているならば,異なる思想を持ち変更しないという理由で躊躇なく滅ぼし絶やすというのは道理にかなわないと思えます。
であるならば,神にとって価値があるのは自らの能力だけでは手に入れることのできないもの,すなわち,自分と同様な倫理的自由な行為者からの自発的崇敬に他ならないと思います。
神を崇拝せざるを得ないように創造されたものからの崇拝には意味がありませんから,この点でその存在に偶然性を内包する人間からの崇拝はとりわけ価値のあるものでしょう。(なにせこの創造物は理知ある自由な行為者であるにもかかわらず自己増殖するという点で特異な創造物ですから。この理由で性道徳に関する厳しい倫理観を求められるのでしょう)

この,自分に対する崇拝行為こそ唯一価値のあるものだという価値基準で考えると聖書中の神の行動や裁きは理解しやすいものに思えます。
ちなみにこの,価値基準すなわち善悪を決める権利(いわゆる宇宙主権)こそが神の最終兵器でこの権利は誰にも許していません。(もし,善悪を知る木の実がこの権利を象徴していたのならば神からの離反を善と自ら決定した時点で,そのことを他者から裁かれることはないはずです。)この権利さえあれば,対抗する他のものはすべて悪であると裁くことができます。これは,たとえばキリストが失敗して理知ある被造物すべてを,すべての物質的創造物とともに滅ぼし絶やしたとしてもそのことが正義であったと断罪できる権利です。

このような考え方は非常に衝撃的なものでしたが,この視点で考えると聖書の宗教はわかりやすいものと思えます。しかし現在の人間社会の価値基準からは極めて受け入れにくいものでしょう。これはすなわち,無条件の愛と献身を"求める"宗教であるということ,それ以外のものを排除するのを善とする価値観を受け入れることが神と同じ見方をするということを意味しているからです。
すべての人がそのような価値基準を受け入れ,同様の思考の型を持つ社会は確かに一致したいわゆる楽園となるのでしょうが,自分には受け入れにくく感じます。これは自分が滅びに定められているか,あるいは出発点そのものが誤っているかでしょう。

で,はじめに戻ると,この神への全幅の献身と崇敬こそが唯一最高の価値あるもので,それこそが被造物の存在理由だという思考からすれば,それを受け入れなかった被造物に価値はありません。期待に応え損ねることは自らの存在価値を否定することになるのです。無条件の愛は示すもの,求められているものであって神への献身以外に無条件のものは何もないのです。
私は現在個人的にそう理解しています。

#48 2013年04月30日 15:25:37

Tetu
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

その神は正にエゴの塊で、誰かの指摘のように無条件の愛とは
ほど遠い、神になりそこねた存在でしょう。

しかし真の神は違います。他の幸せを考えて行動したら
不思議に思いが通じ叶います。先祖の力添えもあります。

でも元子供サタンをも救い

見事に汝の敵を愛せの手本、力量を示し、権利など放棄して真の神に加わるやもと
考えるこの春です。

#49 2013年04月30日 18:17:57

ケロケロ
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

>その神は正にエゴの塊で、誰かの指摘のように無条件の愛とは
>ほど遠い、神になりそこねた存在でしょう。

確かに私もそう感じます。
しかし、その感覚こそは人のエゴかとも思うのです。

これは、”自分の”善悪の感覚に従って、自分にとって神とはこうあるべきだという定義、評価をしているわけで、いわば神を裁いているわけです。
これこそまさに善悪の知識の木の効力ではないかと思います。神はどんな方かを定めることができるのは神ご自身にほかなりません。聖書的に言えば、その示される神の像が自分の善悪の基準に合わなかったからと言って、被造物には受け入れるか拒否して裁きを受けるかの選択しかないのではないかと思うのです。聖書の神は忠節なものにとっては愛の神であることはもちろんですが、偉大な裁き主でもあるからです。聖書は確かに”あなたの”敵を愛せとは述べていますが、”わたしの”敵を愛せとは述べていません。

結局これはいかにして神を知ることができると考えるのかという、手法論に集約されるのではないでしょうか。原理主義的に聖書の文言を通して神を知ることができると考えるのか、字義、字句にこだわるのでなく手引きとして用いつつ経験から神を知ることができる(引き寄せてくださる)と考えるのか、あるいは他に道があると考えるのか、個々個人の信仰によるのでしょう。

#50 2013年04月30日 18:59:52

Tetu
ゲストユーザー

Re: エホバの証人にうちこんだ生活のその後

⬆からは客観的に正しさが検証されていない、いや検証され得ない
聖書の神に対する宗教的ドグマの縛りを感じます。

私が個人的な体験からの信仰とは大きく異なっています。

お互いの道を歩みましょう。

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