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#1076 2019年06月05日 10:04:12

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

アザミさんこんにちは書き込みありがとうございます ここは掲示版ですので基本的に何を書くのも自由だと思います まして自分で立てたトピックならブログのように宣伝で使うのも自由だと思います 嫌ならスルーすればいいだけだと思います

めぐママさんヒットマンのご心配ありがとうございます 幸い誰にも襲われず今日も元気に仕事しています 休憩のお饅頭とジュースが美味しいです kiss

編集者 てつてつ (2019年06月05日 10:10:21)

オフライン

#1077 2019年06月05日 12:31:21

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

私用の方が忙しいので書き込みは止めようかなと思ったのですが・・・私の事ですか?
でも「メールした事ないし。そもそもアドレス知らないし」・・?????
違うかな?少なくとも難解な言葉ではないし・・・???知識があるでなし・・・
仮に私の事でしたら・・聖書の歴史をじっくり見て行こうと思います。楽しいですからね。
だって、イエスを信じない者は滅ぼされると思いながら生きて行くだけじゃ苦しいです
から。アブラハムはなぜ神の友と呼ばれたのかなとか、神の友人て凄い事ですし。奴隷関係
だけでなく、友と呼ばれる・・・ここにどんな変化があったのか調べるのは楽しいです。
調べる事を咎める神学者も最近はいないと思うのです。西洋の科学者にカトリックが多いのも
皮肉な話です。

誰からも相手されなくても閲覧者がいるという事は、一応見てくれてる人もいるので書いてます。
閲覧者0ならさすがに遠慮します。私のように聖書を調べるのが楽しい人もいると思うのですが。
私も以前、「聖書を私への手紙のように感じる」とかほざいていましたが、それでいいんだと
思います。聖書は読ませるために書いてあるので。それだけ筆者の筆力があるという事だと思います。

それと全く関係ない話ですが、年金ついに破綻しそうですね。

#1078 2019年06月05日 14:28:09

めぐママ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

てつてつさん    お仕事 現役でいいですね。 職人さんは忙しい時に稼いで オフの日は スキー 山登りして バランス良く生きられますね。
もうすぐ梅雨入りなので カビ対策して 冬物の整頓したら疲れました。よく働いて よく眠る。 
ご紹介くださった 翻訳 読んでいます。ありがとうございます。


シセイさん  気になさらず 続けてくださいね。
アブラハムが シモベ  から いきなり 友 に昇進した経緯  わたくしも興味シンシンです。

洗脳から 解かれつつあるかたには 大切な点でしょうね。

しばらくは  忙しくなりますが 読んでます。

編集者 めぐママ (2019年06月05日 14:32:06)

オフライン

#1079 2019年06月07日 14:31:47

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“あなたは奉仕を十分に行なっていますか”で、もっと奉仕活動をせよ、とJWの尻を叩く内容です。」
「たいていのJWは、“またこの話か”と思って、聞き流すだけでしょう。」

「1節では、奉仕活動のことを“他のどんな仕事よりも重要で,価値があり,緊急なものです。できる限り多くの時間を費やしたいと思います。”とあります。しかし、そこまで思っている人は統治体の中にもいないでしょう。義務と思って仕方なくやっている人がほとんどですよ。」
「この部分は建前だよ。3節に、“エホバは,わたしたちがベストを尽くして奉仕するなら,心から喜んでくださいます。”とあるように、できる範囲で頑張ってね、ということじゃないの。」
「それならいいのですが、JWでは建前が建前として理解されず、それが唯一の正しい意見とされ、それ以外の意見は問題視されるのですよ。例えば、6節に、“あなたは限られた時間しか伝道できないかもしれません。でも,それがあなたのいちばんしたいことです。”と書いています。ということは、そうでない人も、それ以外の意見は許されないということです。」
「英文では、“that is what you love to do.”で、“いちばんしたいこと”とは書いていない。せいぜい“それがあなたの大好きなことです。”という意味だろう。いつものように翻訳者が勝手に、より極端な主張にしているだけだよ。」

「4節の、“クリスチャンとしての奉仕”の脚注に、“宣教,神権的な施設の建設やメンテナンス,災害時の救援活動などが含まれます。(コリ二 5:18,19; 8:4)”とありますが、引照聖句に、施設を建設しろ、なんてありません。」
「JWとしての奉仕には、王国会館を建設し、それをできるだけ高値で売却するということが含まれているということでしょう。不動産ビジネスに聖書的根拠なんかあるわけはない。」
「引照聖句のコリ二8:4には、“聖なる人たちのための救援奉仕に加わる”とありますが、これは災害時の救援活動を指しているわけではないですよね。」
「古い訳では、“聖なる者たちへの奉仕”で、救援なんて言葉はない。他の訳も、単なる奉仕で、救援なんていう言葉はない。新しい訳では、教義に合わせて聖書を改ざんしているということだろう。」

「7,8節はイエスに倣おうという内容です。でも、8節では、“エホバは無理なことを要求されません。”とあり、やる気のないJWにも配慮していますね。9節は、パウロに倣おうという内容です。」
「そういうなら、統治体こそ、初期クリスチャンを倣ってほしい。ガリラヤ1:18、19でパウロは、“3年後,私はケファを訪ねるためエルサレムに上り,彼の所に15日間滞在しました。しかし,ほかの使徒たちには会いませんでした。主の弟であるヤコブに会っただけです。”と書いている。エルサレムにいた使徒はケファ(ペテロ)だけ。後の使徒はどこで何をしていたと思う?」
「宣教活動のために遠くに出かけていたんじゃないですか。」
「それが一番自然な推論だよね。パウロはそれから14年後にまたエルサレムに行く。ガラテア2:9に、“柱と見なされていたヤコブとケファとヨハネが,私とバルナバと握手を交わし,こうして私たちは異国の人々の所へ,彼らは割礼を受けた人たちの所へ行くことになりました。”とあり、この時もエルサレムで会ったのは3人の柱と言われた人だけ。他の使徒はエルサレムにいないようだ。」
「ペテロも“使徒たちの活動”によれば、あちらこちらに旅をしています。」
「使徒たちは、エルサレムでふんぞり返って、ほかの信者を偉そうに指導していたわけじゃない。使徒たちは、各地に福音を伝えるために散って行ったんだよ。」
「JWは、1世紀にエルサレムに統治体があったと言いますけれど、それは今の運動不足で太りすぎの統治体を正当化するための作り話ですよね。」
「統治体は、使徒たちを見倣って、世界各地に命がけで宣教の旅に出るべき。死んでも天で復活するというのがJWの教義でしょう。」

「パウロが天幕づくりをしていたとあります。英語ではtentmakerですが、そんな職業って本当にあったんですか?」
「天幕づくりと訳されたギリシャ語は、使われることがほとんどない単語で、意味が不明。そのため、古代の翻訳では、ベッドクッション製造者、皮ひも製造者、靴づくりなどとしているものがある。現在では、皮細工という説が有力。当時テントは皮で作られていたし、パウロの出身地キリキアは皮細工で有名だった。」
「パウロは子ども時代、父親からその技術をならったのでしょうか?」
「それが一番自然。皮細工は、皮を切断する、皮を縫製するという工程が重要で、この2つの工程とも、持ち運び可能な工具一式で行えた。パウロはこの工具を持って旅をしたのだろうね。」
「テントの主な買い手はローマ軍というのは本当ですか?」
「そうだろう。ローマ軍はかなりの数のテントを必要としたはず。もしパウロの家族が、テントづくりを主な仕事とし、その製品がローマ軍から高い評価を得ていたとしたら、パウロがユダヤ人なのにローマ市民権を獲得できた理由となる。」
「今だと、アメリカ軍のために優れた製品を作ったユダヤ人が、その功績によってアメリカ市民権を得るようなものですね。でも、これってJWにとって不都合な話ですね。」
「聖書には、軍人を差別したり、嫌ったりする部分はない。軍隊を嫌うのは聖書とは無関係な平和主義思想。」

「テサロニケ一2:9で、“誰にも経済的な負担を掛けないよう,私たちは昼も夜も働きました。”とパウロは言っていますが、一日中働いていたのですか?」
「“昼も夜も”ではなく、“夜も昼も”が正しい訳。9節に、パウロは“安息日ごとに伝道しました。”とあるから、JWとしては一日中働いていたと解釈し、伝道は安息日にしたのだろうと推測しているようだ。」
「パウロはそんなことは言っていませんけど。」
「当時の勤務時間は、日の出から日の入りまで。“夜昼”というのは、恐らく日の出前の暗い時間から働き始め、日の入りまで働いたことを指している。日の出前から働いたのは早く1日の仕事を終えて、奉仕活動をするためだったかもしれない。」

「10,11節は、病気のJWに向けての指示です。11節では、“健康上の問題を抱えていても,奉仕を十分に行なうことは可能です。”とあります。ここでもパウロが模範例として取り上げられています。」
「病気や高齢が、伝道をやめる言い訳にならないと、釘を刺しているんだよ。一般にカルトのリーダーはカルト信者のことを信じない。だから絶えず警戒し、監視し、締め付け、脅す。」
「11節で、病人でも“医師や看護師やヘルパーなどに話すことができます。”とありますが、迷惑行為ですね。JWの高齢化が進んでいるせいか、この種の指示が増えています。」
「まず、仕事中の勧誘行為は仕事の妨害だ。それに、医療関係者の多くはJWというと狂信的カルトと思っているから、JWの話に耳を傾ける人はいないよ。迷惑でも伝道したという実績を作ることが優先なんだ。」

「12から14節は、生活をもっとシンプルにして、伝道時間を増やせという内容です。」
「ここは軽く聞き流す部分だね。個人の生活に干渉しすぎだろう。」
「12節に、マタイ6:22が引用されていて、“体のともしびは目です。それで,もし目が純一であれば,あなたの体全体は明るいでしょう。”とあります。そして“純一”を“シンプルな生活を送る,つまり1つの目標や目的に焦点を合わせ,気を散らされたりそらされたりしない,という意味です。”と説明していますが、これはへんですよね。“純一”とは混じりけのない、という意味ですよ。」
「英文では、“If, then, your eye is focused [or “simple,” ftn.]”となっていて、focusedと訳しているけれど、字義的にはsimpleと説明してある。それで、マタイ6:22はシンプルな生活をおくりましょう、という意味と解説している。“純一”なんて元の英文にはないよ。」
「でもfocusedと訳している英文の聖書は見たことないです。JW独自訳ですね。目がhealthyとかclearが多いですよ。マタイ6:22の本当の意味なんでしょうか?」
「よくわからない。目と体の関係を言っていて、単純化すると、目がよいと体が明るいが、目が悪いと体が暗いと言っている。目は心の比喩とすると、よい心を持っていれば正しく生きられる。悪い心だと暗くて道に迷ってしまう。その程度の意味じゃないの。」
「マタイ6:19から24までが一つのまとまりで、その要点は、24にある、“だれも二人の主人に奴隷として仕えることはできません。”であるという説はどうですか?」
「そういう読み方も可能。目が“よい”の“よい”にあたる言葉のもとの意味はsimpleではなくてsingleだからね。目を心の比喩ととらえると、心が二つに分かれていない、一つだという意味になる。いずれにしても、シンプルな生活を送りましょうという意味ではない。」

「15,16節では、伝道が上手になる方法が出ています。四角で囲まれた部分には、6つ書かれています。」
「企業の社員研修の方が、体系的で優れていると思うね。」
「企業は社員に給与を払うわけなので、しっかり成果を出してもらう必要がありますが、JWは無給のセールスマンなので、それほど期待されていないのです。」
「伝道がうまくいくためには、JW自身が魅力的でなくてはならない。多くの人はメッセージそのものよりも、そのメッセージを伝えている人に関心を寄せるからだ。」
「昔のJWには素敵な姉妹がいて、その姉妹にあこがれて研究生になる人がいたそうですよ。その点、今のJWは統治体をはじめとして魅力は乏しい人ばかりです。」
「それから、メッセージそのものに問題がある場合、メッセージの伝え方をいくら工夫しても効果はない。」
「JWのメッセージは、まもなく終わりの日が来て、楽園だ、早くJWにならないと死ぬよ、というものです。これを100年以上続ければ、誰も聞く気にはならないですよね。」
「売っている商品がダメなら、セールスの方法を変えてもダメなの。」

#1080 2019年06月07日 17:55:30

山のアザミ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

昨日の夏日から、今日は気温が10℃近く下がりました。

   私は日本のほぼ中心に在住で、
   少し標高高く、肌寒いから今ストーブ炊いてます。(可笑しいですよね)(*´艸`)

   昨今、夏と冬が行き来してるようです。

  皆様のお住いの方は如何でしょうか?

   日本は南北に細長く小さい島国ですけど、
   北から南…気候、暮らし、 結構、変化に富んでるようですね。

  私、多くの場所への旅行はしてないから
  いつか、日本中を巡る旅もしたいです。

  この投稿欄でお目にかかる皆様は、
  今、何処で、何されているのかしら?なんて
  思いを馳せたりしております。

   ところで、こんな、田舎都市に、暑いプラジルからやって来た、
   アパートのお隣に住む、男性は
   私と親子程歳離れていて、
   私は日本のお母さんというところかな?

   彼には兄がいて、既に20年前この町に住み、
   ちょっとした会社立ち上げて、弟の彼は社員です。

   彼、40代だというのに、一見、少年の様な可愛さがあるんです。

   真面目、働き者、清潔好き、頻繁に洗濯機回してる音……先日は

   仕事として、50キロ北にある、私の、今は住んでない実家のガラクタの片付けに
   軽トラに共に乗って行ってもらいました。

   日本語ほとんど分からないから、会話は大変!

  私は今のアパートに月一度はやって来るあのエホバの輩から
  彼を守りたくて
「エホバのヒト、聖書広げて、入るように言うけど聴いてはダメよ」
と、懸命に説明しました。

  でも、サッパリ、エホバって知らないみたいでした。

   「神の名はなんていうの?
    ヤファウェ?」

  「ソウ、ヤファウェ!ワタシ カトリック…」

   まあ、何とかこんな会話です。

   町のカトリック教会などに通っている風でもなく

   でも、真面目に規律正しく生きているんです。

   日本のダラけた男達が、頻繁に通う、スナック、キャバクラに関しては

  「ワタシ、ソウイウノダメ、キライ」
   らしいです。

   酒場でダラダラと管をまく、日本の一部の男達よりも、
   シャイで、純粋な彼。

   これって、カトリック信者だから?

    それとも、大国ブラジルで育ったから?

   お爺さんの時代、ブラジルへ渡り、父は日本来たこと無かったとか。
   兄妹は8人ですって!

   ずんぐりむっくりだけど、全く外人の彼。
   苗字は平凡な日本名、下の名前はエジソン。

   よし、私が日本語の先生になったろか!

    LINEメールを送ると、ポルトガル語に変換してから、

   日本語のお返事くれます。「ん?」も結構あり……

   田舎町暮しの それでもチョッピリ国際色豊かな最近の私の生活でした。

       ♡☆(´▽`)☆♡

#1081 2019年06月14日 14:43:54

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“イエスに倣い,穏やかな思いを保つ”で、穏やかな思いを保つ3つのことを学ぶというものです。それは、祈り、伝道、友、だそうです。」
「伝道をすると穏やかな思いになるの?伝道では、無視され、冷笑され、時には、“児童の性的虐待についてどう思うのか?”とか、“世代の解釈が変わったけれど、あなたは何十年も嘘を言ってきたのか?”とか、“近くの王国会館や大会ホールが売りに出ているけれどどうして?“とか、質問されたりして、心穏やかにはいられないでしょう。」
「そんな質問する人はいないですよ。」
「伝道とは、誰もいない家のチャイムを鳴らすこと、とだれか言っていたけれど、それなら心穏やかでいられるね。」

「4から7節が祈りについてです。頻繁に祈ること、絶えず祈ることを強調しています。」
「数字が大好きなJWだから、そのうち、祈った回数を報告せよという命令が組織から来るかも。祈った後、何をするのかが大事じゃないの。」
「祈りの内容ですが、6節に、“「さらに信仰をお与えください」とエホバに祈ることができます。”とあります。」
「祈りについて、ヨハネ15:16には、“あなたたちが私の名によって父に何を求めても,父が与えてくださるのです。”とある。ローマ1:8では、“初めに,皆さんについて,イエス・キリストを通して神に感謝します。”とある。」
「つまり、イエスの名によって、あるいはイエスを通して祈るというのが新約におけるやり方というわけですね。」
「そうだね。でも、JWはそのようにはしない。JWは、人間を2つの階級に分けて、イエスは大多数の人間の仲介者ではなく、油注がれた144000人だけの仲介者というのがJWの教義だから。」

「同じ6節で、“イエスに従う人は皆,サタンから攻撃されるので,信仰を必要としています。(ルカ 22:31)”とルカ22:31を参照していますが、文脈無視でおかしいです。」
「そこは、“シモン,シモン! サタンはあなたたちを渡すよう要求しました。小麦をふるいにかけるように試すためです。”だけど、ここは、最後の晩餐の後、イエスが弟子たちに説教をする場面で、シモンことペテロに忠告を与えている言葉。」
「その後、ペテロは、“主よ,私はあなたと牢屋に入ることも死ぬことも覚悟しています。”と偉そうなことを言って、イエスから、“今日おんどりが鳴くまでの間に,あなたは3度,私を知っていることを否定します。”と予言されるという展開です。」
「というわけで、ルカ22:31を信者全体に当てはめるのは、文脈無視だよ。」

「7節に、様々な苦労を重ねた80代の長老が、“不安を感じたらすぐに祈るようにしています。何度も熱烈に祈ると,穏やかな思いを取り戻せます。”と言っています。これは本当ですか?」
「祈りにはある種の心理効果があるのは本当だろう。それは祈りという行為が脳にある種の変化をもたらすからだ。例えば、疲れきるまで祈りを何度も繰り返していると、意識レベルが覚醒と睡眠の中間のレベルになる。そういう状態のときに夢のような、幻覚のようなものを脳が生み出す場合がある。信仰者はそれを神からの啓示ととらえ、都合の良いように解釈し、力を得る。」
「オウム真理教の場合は、それに薬物まで与えて信者に神秘体験を味わせていたんですよね。」
「また、祈るということは言語化するということ。カウンセリングの基礎には人間は言語化することによって、ある種の自己理解がえられるというものがある。言葉に出して初めて、自分はこんなことを考えていたのかと知る。そして、その自己理解に基づいて、自分はどうすべきかについてある方針が見えてくることがある。」
「自分の感情や考えを抑圧するのではなく、表現することが重要ということですね。JWは抑圧的な宗教ですから、せめて祈りの中で自分の心にあるものを表現すれば、心が軽くなることはありえそうですね。」

「しかし、この80代の長老の場合は、現実逃避としての祈りだね。熱心に祈ることによって、現実の問題を一時的に忘れ、かりそめの平安を得ようとしているようだ。本当の信仰者は、マタイ26:39のイエスのように、“私が望む通りにではなく,あなたが望まれる通りになりますように。”と祈るものだよ。」
「マタイ6:10に“あなたの望まれることが,天と同じように地上でも行われますように”ですね。」
「神を信頼し、神の予定を受け入れ、世界に起こるべくして起こることをそのまま、これでいいのだと受け入れる。これが本当の信仰者の境地だよ。だから、祈りは私の意志ではなく、神の意志がなされますようにとなる。」
「狂気じみていませんか?」
「宗教はそういうものなの。宗教のパワーは狂気じみている所から生まれる。」

「8から10節は、伝道によって穏やかな思いを保つというものです。9節には、“ある姉妹は長年,自分には価値がないという気持ちと闘い,落ち込むこともよくありました。”そして、“宣教を一生懸命に行なっていると,気分が落ち着き,幸せな気持ちになります。”とあります。嘘くさい話ですね。」
「まずここは誤訳だね。英文では“A sister who has struggled all her life with depression and deep feelings of worthlessness”で、depressionはうつ病のこと。all her lifeは一生とか生涯という意味。より適切な訳は“ある姉妹はこれまでずっと,うつ病と自分には価値がないという抜き去りがたい気持ちと闘ってきましたが”だよ。幸福なはずのJWの姉妹がうつ病ということを、日本の翻訳者は不都合なことと考えた可能性もあるね。」
「この姉妹は、伝道を一種の心理療法としてとらえているようです。」
「精神面が不調な人は、治療を受けて、休むことが重要。JWから少し離れて、旅行などすればいい。休息が必要な人を、さらに伝道活動へと追い立てる。危険な宗教だ。そういうわけで、ますます精神面で不調な人が増えるし、自殺者も増える。」

「10節の、多発性硬化症で車いす生活の姉妹の“伝道していると,自分のことをくよくよ考えないで済み,会衆の区域の人たちを助けることに注意を向けられます。”という発言はどうですか?」
「英文では、“Witnessing, in fact, takes my attention away from my anxieties.”(証言することは、実際、不安から私の注意をそらしてくれます。)だよ。この記事では悲惨なJWの実態が出てくるので、翻訳者は意図的に誤訳しているのだろう。」
「この人も 現実逃避のための伝道活動ということですね。」
「病気の人は自分の病気のことをあれこれ考えては、気分が落ち込む。自分の病気以外のことに関心を向けるのはいいことだけど、伝道はどうかな。この病気は過労とストレスは避けなくてはいけない。」
「“主に手紙で伝道しています。”とありますから、それ程負担ではないですよ。」
「多発性硬化症のよくある症状としては、運動障害と目の障害がある。そうなると手紙が書けなくなるよ。それでも組織は伝道活動を強要するんだろうね。」

「11から15節は、良い友によって穏やかな思いを保つという内容です。」
「JWの友人関係は条件付きだろう。そういうのをよい友とは言わない。それから聖書の中には、友情というものをほとんどないよ。11節に、“忠実な使徒たちは真の友としてイエスを支えました。”とあるけれど、具体的にどういうこと?」
「12節では、ヨハネ15:15の“わたしはあなた方を友と呼びました。自分の父から聞いた事柄をみなあなた方に知らせたからです。”を引用していますよ。」
「これはインチキ引用。その前の文は、“私はあなたたちをもう奴隷とは呼びません。奴隷は主人が行うことを知らないからです。”だ。そのまま読めば、弟子たちは奴隷で、友じゃなかったということ。11節の記事と矛盾してしまうので、この部分は省略したわけだね。」
「ヨハネ12:26は、“私に仕えようと思う人は,私の後に従いなさい。”とあります。弟子はイエスに仕えるわけで、友達ではないですよ。ヨハネ13:13では、“あなたたちは私を『先生』や『主』と呼びます。それは正しいことです。私はそういう者だからです。”とあります。ここでもイエスは友達ではないですね。」
「というわけで、イエスは仲の良いお友達に囲まれていましたという、ものみの塔の主張はおかしい。」

「13節の、“イエスには,使徒たち以外にも,伝道や生活の面で援助してくれる友がいました。イエスを家に招いてもてなした人もいます。”というのはどうですか?」
「イエスはいろいろな人の家で食事をしている。マルタとマリアの家もその一つ。彼女たちの兄弟のラザロのことを、ヨハネ11:11で、イエスは友と呼んでいる。」
「弟子たちは奴隷で、ラザロは友というのは理解しがたいです。」
「初期のイエスを代表とする集団は、各地を放浪して歩く乞食のような伝道者とそれを経済的に支える地域に根差した信者の2層構造になっていたと推定される。ラザロは後者。後者の人たちは、イエスに直接使えているわけではないので、友と呼ぶのだろう。」

「14節では、“良い友は,エホバに忠実であり続けるよう助けてくれます。”とあり、良い友の基準は組織に服従することを勧めるかどうかのようです。」
「カルトでは、人間の評価は、組織に忠実かどうかで決まるということの実例だね。JWでは、どんなにすばらしい人でも、組織に忠実でなければ、それだけで悪人とされるというわけだね。」
「15節で、“ヨブが自分の試練について話した時,エリフはよく耳を傾けました。同様に,わたしたちが自分の心配事を話す時,良い友は辛抱強く耳を傾けてくれます。(ヨブ 32:4)”とありますが、これって正しくないですよ。」
「引照聖句のヨブ32:4には、“エリフはその人たちが年上だったので,ヨブに話し掛けるのを控えていた。”とある。エリフは自分が年下だったので、遠慮して発言しなかった。良い友達だから耳を傾けたわけじゃない。」
「その後エリフは、先に発言した3人と基本的な同じことを言ってヨブを責めるわけです。よい友ではないですよ。」

「16節に、“神の王国の王イエスは,わたしたちがサタンとサタンの体制からどんな被害を受けるとしても,失ったものをすべて回復させてくれます。”とある。被害を受けることが前提なのが笑えるね。」
「理由は不明ですが、エホバも信者が被害を受けないようにすることはできないようです。」
「エホバって、できないことが多すぎるよ。」

#1082 2019年06月14日 18:09:06

サルガタナス
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

本当の信仰者は、マタイ26:39のイエスのように、“私が望む通りにではなく,あなたが望まれる通りになりますように。”と祈るものだよ。」
「マタイ6:10に“あなたの望まれることが,天と同じように地上でも行われますように”ですね。」
「神を信頼し、神の予定を受け入れ、世界に起こるべくして起こることをそのまま、これでいいのだと受け入れる。これが本当の信仰者の境地だよ。だから、祈りは私の意志ではなく、神の意志がなされますようにとなる。」


質問先生さすがです!
こんなのJWでも誰も教えてくれない
なんでボクも気がつかなかったんだろう
全くおっしゃるとおりですよ、
いや今まで気づけなかったボクも情けないなぁ
これからは
質問先生に教えてもらったとおりに祈ります
教えてくださりありがとうございました!。

#1083 2019年06月14日 22:22:07

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書について質問さん

多分、人一倍「神」について考えられてると思います。深い愛が無ければここまで
調べられるということもないと思います。私は「聖書について質問」さんのように
優れた分析も出来ませんので、私のトピで落ち穂拾い的な考察?をしています。
私は多分私の考察は有害だと思うので自分のトピを管理人さんに拝借して細々とやって
います。箴言については私もそう思います。マタイの考察についてもその通りだと
思います。という事は「聖書について質問」さんは誰よりも愛情深いのだと思います。
だからこそ納得できない聖句を調べて、どれが真実でどれが時の支配者が勝手に
書いたのか調べられたのだと思います。言葉よりも雄弁に語るものが「行動」だと
思います。心にあるものは「行動に現れる」ものですから。

こんなはずじゃないこれは違うと心に響いて来られるのではないでしょうか。
むしろ「聖書について質問」さんは無神論者どころか信仰心篤い人だと思うのですが。
真の無神論者は神の名で商売します。信じていないからこそ商売利用できるのですよ。

それこそアメリカみたいに・・・・・・・・・・

#1084 2019年06月21日 14:37:05

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“死についての真理を支持する”で、死についてのJWの教義の説明と他の宗教の葬式には絶対に行くな、という内容です。」
「後半に力点があるようだね。中南米やアフリカはJWが増えている地域だけれど、伝統的な葬式を盛大にやる地域だ。そういう地域の新しいJW向けの内容だ。」
「1節から、“多くの兄弟姉妹は,家族や知人が亡くなった時,「信仰のために厳しい戦い」をしなければなりません。”と命令しています。」
「JWはつらいね。」

「1から7節にかけて、サタンの陰謀で、多くの人が死について誤った考えを持つようになったと主張しています。それは、4節によると“人は体が死んでも霊の世界で生き続ける,という教えです。”死後に関する伝統的な見方はサタンによって騙されたものだと主張しています。」
「6節で、“死者が何かの形で生きていてだれかに危害を加えることなどない。”とある。伝統的な社会では、死者を丁寧に葬らないと、死者が復讐に来るという思想は強い。JWの冷淡でそっけない葬式で済ますことに対する恐怖や罪悪感を和らげようとしているのだろう。」
「それは伝道9:5の“生きている人は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ人は何も知らない。何かを得ることもない。思い出されず,忘れ去られる。”を根拠にしています。これは聖書の教えと言っていいのですか?」
「死んだらどうなるのかについて、聖書の統一見解はない。聖書は何百年にわたって書かれたものを寄せ集めたものだからだ。伝道の書の見方は、聖書の中の沢山ある見解のひとつに過ぎない。」

「旧約では、死んだらシエオルに行くんですよね?シエオルという単語は60回以上出てきます。」
「その他に様々な単語がシエオルの同義語として使われている。大地,地、 墓穴、穴、地の下,下の地、 滅びなどだ。」
「シエオルは地の下にあると考えてよいのですか?」
「ヨブ26:5は、“死んだ無力な人たちは震える。水や水中にすむ物よりも下にいる。”とある。死者は地下の水の中にいるとされている。つまりシエオルは地下の水の中にあるということ。出エジプト20:4には、“あなたは,天や地や水の中にあるものに似たどんな彫刻像や形も作ってはならない。”とあるけれど、“水の中”がシエオルを指している。」
「シエオルは音のない闇の世界なんですよね。」
「そうだね。その他にもイザヤ38:10に、“人生の半ばで,私は墓(*シエオル)の門を入っていかなければならない。”とあるから、門があることがわかる。ヨブ30:23に、“あなたは私を死へと連れていくのでしょう。生きている人全てがいずれ集まる家へと。”とあり、シエオルをすべての命あるものが集められる「家」としている。伝道3:19,20でも、“人には終わりがあり,動物にも終わりがある。皆,同じ終わりを迎える。動物は死に,人も死ぬ。皆,1つの命を持っている。だから人は動物より優れているわけではない。全てはむなしい。 皆,同じ場所へ行く。”とあり、シエオルには、動物も人間もいる。」
「子どものとき飼っていた雑種のタロウもいるわけですね。」
「いるんじゃないの。まあ、あとは、戻ってこられない、満杯になることはない、神との交わりがない、など旧約聖書にはいろいろと書かれている。」

「死んだ者はシエオルでどうなっているのですか?」
「詩編88:10に“無力な死者が立ち上がってあなたを賛美しますか”とある。“無力な死者”と訳されている言葉、レファーイームは、普通は“死霊”と訳される。死者は、亡霊あるいは死霊として存在し、ヨブ26:5に“死んだ無力な人たち(*死霊)は震える。”とあるように、震えたりする。新共同訳では“のたうち回る”で、ここから死者たちは無感情ではないことがわかる。」
「サムエル一28章では、サムエルの霊を呼び出すことが行われています。呼び出されたサムエルの霊は、“どうして私を呼び出して煩わすのですか。”といいます。ということはシエオルで、サムエルは安らかに過ごしていたわけですね。」
「というわけで、旧約をざっと見ても、JWのいう、死んだ者は意識もなく、眠っているという見解は支持できない。」
「新約では死後の世界はどうなっているんですか?」
「これも統一したものはない。様々だ。聖書は死後の世界に対する関心は乏しい。聖書の神は、生けるものの神なんだ。死後の世界に非常にこだわったエジプト文明の反動かもしれない。」

「8から10節で、死後に関する伝統的見解は、“(1)創造者エホバの評判を傷つけ,(2)キリストの贖いの犠牲など必要ないと思わせ,(3)人々をいっそう苦しめ悲しませています。”と主張しています。」
「8節に、“死者は火の責め苦を受けるという偽りの教えが含まれます。これはエホバの評判を傷つける教えです。”、“エホバはどんな残酷な行ないも憎まれる方なのです。”とある。理解できないね。」
「旧約聖書の神は、残酷極まりないですよ。子どもでも家畜でも皆殺しせよと命令しています。」
「それから、悪いことをした人が死んだら地獄で苦しむという教えがサタンの陰謀という主張もあり得ないよ。サタンだったら、JWのように悪いことをしてもしなくても、みな復活しますと教えて、悪いことをさせるようにするんじゃないの。」
「悪いことをしたら永遠の処罰という思想は、悪を抑制することを意図しています。サタン的ではないです。」
「悪を処罰することによって評判が上がるよ。悪いことをしたらすぐ処罰されるのなら、皆神を信じるよ。現実世界の悪を放置しているから神の存在を疑われる。」

「9節の、人間には永遠の魂があるというと“人間は永遠に生きられることになり,キリストが贖いとして命をなげうつ必要はなかったことになります。”という主張はどうですか?」
「不死の魂とキリストの贖いの必要性は関係ないでしょう。不死の魂と言いう思想は復活という教えから要請される。復活があるとすると、どのように復活するのかという問題が出てくる。肉体があるならまだいいけれど、肉体がない場合はどうなるのかということ。」
「古代エジプトでは肉体は必要と考え、ミイラにして保存していました。」
「肉体以外に、その人の連続性を保証するものがないと復活とは呼べない。そこで永続する魂というものが、肉体の代わりにその人の連続性を保証するものとして、理論上必要になる。」
「そうなるとJWには復活という教義はないことになりますね。JWの教義は、宇宙のどこかに巨大なデータベースがあって、全ての人のデータがそこに保存されていて、時期が来たらそのデータに基づいて、神が再創造するというものです。複製を作るのがJWのいう復活。それで、魂のようなものを想定する必要がない。」
「データベースに保存されるデータがJWにとって不滅の魂だよ。その場合、複製する意味が分からないね。私が死んだあと、私の複製が作られ、それが永遠に生きたとしても、私とは無関係だ。神の冗談か悪ふざけとしか思えないな。」
「JWの楽園はかつて存在した人間の複製が神の定めたルールでプレイしているだけのSF的な世界ですね。SF小説だとすると、楽園の住人が自分たちは昔いた人間の複製に過ぎないといつかは自覚し、自分の住んでいる世界に疑問を持ち、反乱を起こすという展開になると思います。」
「これは人格の唯一性という問題に関係する。要するに、JWの復活や楽園の教義はへんてこなものということ。」

「10節で、死者に関する伝統的な考えによって“いっそう苦しむのではありませんか。”と言っていますが、これはそうとは言い切れませんね。」
「死後もどこかで生き続けていると考えることによって、慰められる人はたくさんいる。死んだ人に何もしてはいけないというのがJWの教えだろう。死んでも、その人に何かしてあげたいというのが自然の情愛。それを禁じられるJWのほうが一層苦しむこともあるでしょう。」

「11節以降は実践編で、具体的な行動指針が示されています。」
「12節で、カリブ海とアフリカの国の話が出ている。死者に対する迷信を信じるな、かかわるなとある。発展途上国の教育水準の低いJWが対象だね。」
「13節で、“長老たちは,どうすべきかを指示するのではなく,この記事で取り上げたような聖書の指針を教えてくれるでしょう。”とあります。形式上は、あくまで自己決定ということにするわけですね。」
「地元でJWが非難されたときは、そのような指示は出していない、個人の問題だと、責任回避するためだね。」
「14節が偽善的でいいです。“わたしたちは人々と言い争うことも,地元の伝統をあざけることもしません。”とあります。この記事で、伝統的な考えをさんざん“サタンのうそ”と非難・中傷してきたのにおかしいですよ。多くの人が大事にしているものを悪魔の所業と呼びながら、“地元の伝統をあざけることもしません。”とよく言えますね。」
「さんざん悪口を言ってから、あなたのことを尊敬していますといっても、憎しみと反感を買うだけだよ。JWは自分たちの宗教以外は悪魔の教えというのが正式教義でしょう。堂々と周りの人を悪魔の手先と呼んでほしいね。」

「15,16節でアフリカのJW夫婦が死者に関する儀式を断った話が出ています。周りの人に自分たちはJWだと知らせておいたので、それ程もめずに済んだらしいです。それでJWであることを周りに伝えておけという指示です。」
「周囲の人の善意と寛大さを期待するということだね。」
「それに対してJWは、偏狭な教えに執着して、決して妥協はしないわけですが。」
「16節で、“家族の縁を切るとか言われました。”とあるけれど、英文では、“the family would no longer visit or help us.”で、単に縁を切るではなく、“助けない”だ。アフリカでは、社会福祉が乏しいので、親戚同士の助け合いで何とか生活できている人たちが相当いる。このJW夫婦はたいして働いていないだろうから、親戚の助けを受けていたんじゃないの。それなのに、アメリカから来たおかしな宗教の言いなりになって、親族としての義務も果たさない。当然嫌われる。このような国ではJWとしてやっていくのは難しいね。」
「先進国とは家族・親族の関係が違います。アメリカを基準にあれこれ指示すると、とんでもない問題を引き起こす可能性があるということですね。」

#1085 2019年06月28日 14:35:52

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバの助けを受け入れ,邪悪な天使たちに抵抗する”で、先週に続いてアフリカや中南米のJW向けで、心霊術にかかわるなという内容ですね。」
「4節に、“中南米とカリブ海沿岸の18か国を対象にした調査によると,およそ3人に1人が魔術や魔法や呪術を信じ,霊との交信は可能だと考えています。また,アフリカの18か国を対象にした調査によると,半数以上の人が魔術を信じています。”とある。この種の心霊術は先進国では、はやらないね。」
「このような悪魔特集をすることにより、悪魔に対する関心を高めようという意図じゃないですか?JWにとって、悪魔は都合の良い存在ですから。」

「アフリカや中南米は、原始宗教がいまだに根強い地域。原始宗教の代表はアニミズム。あらゆるものに霊が宿り、それらの霊が人間に様々な影響を及ぼすという信仰だ。植民地時代に、キリスト教はそのような霊は悪魔だ、サタンだと敵視し、キリスト教の神様だけを神聖なものとする思想を植え付けようとしてきた。その結果、アフリカでもキリスト教徒はかなりいるけれど、原始宗教を捨て去ったわけではない。」
「植民地時代のキリスト教と同じことをJWがしようとしているわけですね。」
「しかし呪術は簡単にはなくならない。宗教は、信者が抱える具体的な個々の問題を解決してくれるわけではない。呪術はその問題を解決できると主張するので、それに頼ろうとする人はなくならない。」
「例えば、普通の宗教は信仰すれば病気が治るとは言いませんが、呪術師はその病気は悪い霊のせいだから、その霊を追い出せば、病気を治すことができると言うわけですね。」
「呪術や魔術が衰退していくには、社会全体が合理的になり、多くの人が世界を動かしているのは善や悪の様々な霊的な力ではなく、自然科学的法則だと認識するようになることが必要だ。」
「病気になるのは自然科学的な因果関係のせいで、超自然的な霊のせいではないと多くの人が思うようになれば、呪術師のまじないで病気を治してもらおうという人は減りますよね。」
「マックス・ウェーバーは、近代化を“魔術からの解放”と呼んだ。世界の多くは、まだ魔術から解放されていないということだ。再魔術化の動きさえある。」
「JWは、サタンや悪霊の働きを信じ、良くないことはサタンのせいだ、などといいますが、基本的には前近代人の思考ですね。」

「タイトルにある“邪悪な天使”の元の英語は、“Wicked Spirits”(悪霊)だ。なぜ悪霊と訳さないのか不思議だね。聖書を読む限り、悪霊が邪悪な天使とは決まっていない。」
「悪霊は、旧約にはまず出てこないです。新約でも出てくるのは福音書です、それ以外はほとんど言及されません。」
「旧約は霊がどうのこうのといった神秘主義的傾向はあまり見られない。悪霊とか聖霊が活躍するのは新約だね。ギリシャ・ローマ文化の影響だろう。」
「新約を見る限り、悪霊はたいしたことはしていません。病気を引き起こすのが主な働きで、悪霊が追い出されると、病気が治り、イエスに感謝するというのが基本的なストーリです。」
「現代なら、身体表現性障害とされる症状だ。身体表現性障害は、心理社会的要因が引き金となって、身体疾患のような症状が出現するもの。具体的には、運動麻痺、力が抜けて歩けない、手が挙がらない、物が飲み込めない、声が出ない、触覚・痛覚の消失や聴覚障害、視力障害などで、聖書に出てくる人たちとよく一致する。」

「新約に出てくる悪霊の正体は精神医学的疾患のことにすぎないということでしょうか?」
「そうともいえない。例えば、マタイ4:24では、“さまざまな病気や苦痛を抱える人全て,邪悪な天使に取りつかれた人や,てんかんがある人,体がまひした人などがイエスの所に連れてこられ,イエスはその人たちを治した。”とあり、普通の病気とは違うものとして、“邪悪な天使(悪霊)に取りつかれた”人を区別していたようだ。1世紀の人が、単なる精神疾患を悪霊によると誤認していたというと、単純化しすぎることになる。」

「1節に、“わたしたちの主な敵は,サタンと邪悪な天使たちです。エホバはその敵について警告し,敵に抵抗するために必要なものを与えてくださいます。(エフェソス 6:10‐13を読む。)”とありますが、読むことになっているエフェソスにはサタンという単語は出てこないですよね。」
「サタンではなくdiabolosという単語が使われている。英語のdevilの語源だね。パウロの本物の書簡には一度も使われない非パウロ的な単語。中傷する者といった意味。真の宗教なんだから、細部にこだわってほしいな。」
「サタンって、JWが言うほど危険な存在ですか?聖書にはサタンの悪事はほとんど出ていません。」
「サタンが直接人を殺したのはヨブの子ども10人だけ。それも神様が許可したから。それに対して神様が殺した人の数は無数。その神様は、JWの教義では、間もなく、生まれたばかりの赤ちゃんを含めて人類の99.9%を殺す予定。どっちが危険は明らかだね。」

「7節から、悪霊に対する防御術です。8節には、“聖書を読んで,内容を思い巡らす。”とあります。例えば、“例えば聖書は,死者が生きている人と交信できるというのはうそであることを暴露しています。(詩編 146:4を読む。)”だそうです。」
「サムエル一28章で、サムエルの霊とサウルが会話をしているよ。聖書には相反する矛盾した主張があって、聖書を読めば、すっきりとした答えが見つかるわけじゃないよ。」

「9,10節では、心霊術を行わず、関連した物は捨てるよう指示しています。12節では、“音楽,映画,テレビ番組,ゲームなどについてはどうだろうか。心霊術が関係していないだろうか。吸血鬼,ゾンビ,超常現象が出てこないだろうか。魔術,呪文,呪いを無害で面白いものとして扱っていないだろうか”とあります。」
「12節の脚注(*)には、“長老たちには,エンターテインメントに関する規則を定める権限はありません。”とある。JWは信者の自由を不当に制限する宗教という批判をかわすためのものだね。でも、長老は、娯楽に関する権限はなくても、排斥する権限はあるからね。長老がダメと言ったらダメなんだよね。」
「組織防衛上、自分たちは原則を示すだけで、何も指示はしていませんというのがJWです。輸血問題もそうですけど、そんな姑息な言い分は世の中では通用しないと思います。」
「でも、なぜゾンビものはいけないの?多くのゾンビものは霊的なものと無関係だよ。」
「映画やテレビの中では、ゾンビ化する原因は、化学物質や放射線、謎のウィルスといった疑似科学的なものが多いです。」
「今のゾンビは、ジョージ・ロメロ監督の“Night of the Living Dead(1968)”をもとにしたもの。ゾンビに噛まれた人もゾンビになるというのはロメロ監督のアイデアだ。ゾンビは悪霊とは無関係で、結構面白いよ、と無知無学な長老に教えてあげてよ。」

「13節は、“邪悪な天使たちのことを興味本位に話さない。”という指示です。これって、いかにもJW的な偽善ですね。JWほど、サタン、サタンと選挙カーのように連呼している宗教団体はないんじゃないですか。」
「13節に、“イエスはサタンの広報係ではなく,エホバの証人になりたいと思っていたのです。”には驚いた。聖書のどこに、イエスがエホバの証人になりたいと思っていたと書いてあるの?いい加減なことを書くなよ、と言いたいね。」

「14節は、“邪悪な天使たちを恐れない。”です。“突然,事故に遭ったり,病気になったり,命を失ったりするかもしれません。しかし,それを邪悪な天使の仕業と考えるべきでしょうか。聖書によれば,「時と予見しえない出来事」はだれにでも起きます。(伝 9:11)”とあります。」
「伝道9:11の“時と予見しえない出来事(新訳:思いも寄らないこと)”という訳はへんだね。新共同訳の“時と機会”(time and chance)が普通の訳。“予見しえない出来事”というと、どちらかといえば悪いこと、不幸な出来事を指す。ところが、もとのヘブライ語は中立的な意味で、悪いことも良いことも両方指すと考えられている。実は、この単語は、聖書の中では2回しか使われていない。もう一つは列王記一5:4だ。」
「“悪いことは何も起きていません”の“悪いこと”の“こと”の部分ですね。」
「もとは中立的な意味なので、悪いことを示すのに“悪い”という形容詞をつける必要があると推測できる。出来事という意味もあるけれど、時とペアになっているので“機会”とするほうがよい。新世界訳はなぜ“予期せぬ出来事(思いも寄らないこと)”と変わった訳をしたのか理由を知りたいね。そう訳したほうがJWの教義上都合がよいからだろう。」

「サタンについては、14節で、“間もなく,彼らは底知れぬ深みに投げ込まれ,だれにも害を及ぼすことができないようにされます。(啓 12:9; 20:2,3)”とJWの教義を説明しています。」
「この教義について、JWは疑問を持たないのかな?ハルマゲドンの戦いで、JW以外の人は赤ちゃんも含めて虐殺されるのに、サタンは1000年間監禁されるだけで、しかも、その後釈放される。神様はあまりにも不公平だろう。」
「15節に、“サタンは,できることならわたしたちの活動をすべてやめさせたいと思っていることでしょう。でも,そうすることはできません。”とありますが、どうですか?」
「全くの推測だね。サタンはJWの活動を応援しているんじゃないかな。これほどサタンとか邪悪な天使を宣伝し、過大評価してくれる組織はないでしょう。」

「16,17節にガーナに住むエリカのことが出ています。“呪物崇拝の祭司”の娘なのですが、家族の慣習に従わなかったので、家から追い出され、親族から縁を切られ、持ち物を焼かれたけれど、正規開拓者になりましたという話です。」
「これって、JWが大好きな排斥処分と同じだよ。自分たちが家族の縁を切って、家から追い出すのは正しいことだけど、ほかの人がするといけないんだ。理解できない。」
「JWによく見られる二重基準ですね。」
「ガーナというと、2014年のサッカーワールドカップの時、ポルトガルのロナウド選手が負傷した後、ガーナの呪術師が、あの怪我は自分が呪いをかけたからだとラジオ番組で言って話題になった国だね。呪術が盛んなのは本当だろう。」
「なかなか楽しい国ですね。」
「“呪物崇拝の祭司”はfetish priestの訳。fetish priestがどんなものか知りたければYouTubeでfetish priestで検索すれば、楽しい映像が見られるよ。」

#1086 2019年06月29日 05:58:48

サルガタナス
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

統治体のサンダーソン兄弟がお話しているあいだ、
ずっと気持ち悪く揺れている兄弟の
あご肉を眺めていたら、ふと、
サタンと邪悪な天使たちは
兄弟姉妹たちの不満の矛先が組織にむかないように
助けてくれているんだな、って思いました。

#1087 2019年06月30日 18:41:43

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

旧約では悪霊もサタン以上に出例がなく、ストイックなメッセンジャーまた執行者である子エホバたちがフォールダウンする、という発想もないです。他民族の異形の神々、ヘブライ語のシェディムやセイリム(新世界訳では「やぎの形をした悪霊」改訂版では「ヤギのような邪悪な天使」何だそれ笑)が、離反した子エホバたちの偽装とも書かれていません。


新約福音書の、人や動物に憑いて病気にする、異常行動を取らせるなどの悪さをするプネウマ(霊)はギリシャ由来のダイモーンのようにアニミズム的な性格が強いと思います。

キリスト教の堕天使と悪霊が関連付けれていく訳ですが、神々しい翼をはためかせる清らかな存在が、フォールダウンしたら人に憑いて狂暴化させて悦んじゃうとか、極端すぎて無理があります。

「悪い霊」などいない、すべて邪悪な天使の仕業だ(迷信としてはどっちもどっち)と途上国の信者を教化する、近代以前の植民地化時代にキリスト教がやってたような記事をお勉強させられているんですね。

#1088 2019年07月05日 14:35:37

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“愛と公正 クリスチャン会衆において”で、その次の週の、注目の児童虐待問題の記事を扱う前に、会衆がどうあらねばならないかを確認しておくというものです。」
「JWもやっと児童虐待は背教者の嘘という嘘にしがみつくことをやめて、組織としてのダメージコントロールに取り組むことにしたわけだ。時間がかかったのは、統治体が無能で、リーダーシップをとる人間がいない烏合の衆だからだ。ロシア問題の時と同じように、危機に対して弱いことを示している。」
「公正と訳されている英語はJusticeです。“正義”と訳すべきじゃないですか?」
「その方がいいね。でも翻訳者は正義という言葉が嫌いなんだろう。JWには正義がないと感じているからじゃないかな。」

「3節で、“ガラテア 6:2を読む。クリスチャンは「キリストの律法」を与えられています。”とあります。“キリストの律法”とは何かというと、“生活の指針となる命令や原則を弟子たちに与えました。「キリストの律法」には,そうした事柄すべてが含まれます。”と説明しています。」
「それはへんだね。普通はキリストの律法というと、ヨハネ13:34、“わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それは,あなた方が互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなた方を愛したとおりに,あなた方も互いを愛することです。”をさす。」
「それは13節に出てきますが、たくさんあるものの中のひとつという扱いで、格下げされています。」
「それはそうだね。JWとしては組織に服従する、伝道する、が最優先だけど、キリストの律法が、そのようなことにひと言も触れていないとなれば、JWの教義がインチキとなるからね。」

「この記事は19節までに6つの教訓を並べて、その後20節から、“キリストの律法のもとで責任をゆだねられている人は,他の人にどう接するべきですか。”という話になります。長老たちへの指示が中心です。」
「6つの教訓って、どんなもの?」
「教訓1は、7節で、“この律法を学ぶには,クリスチャン・ギリシャ語聖書を読み,読んだ事柄を思い巡らすことが必要です。”とあります。旧約が大好きなJWなので、まず新約聖書が大事と強調しています。」
「JWは二人の証人ルールは変えないようだけど、これは新約にも出ているからね。新約に出ていないJWルールは将来廃止するつもりなのかな?」

「教訓2は、10節で、“思いやりに動かされて良い知らせを伝え教えるなら,キリストの律法に従っていることになります。”だそうで、やはり伝道に話を持っていきます。」
「伝道にとって、思いやりじゃなくて、本当は時間が大事なんじゃないの?JWという宗教は、建前と本音が全く違う宗教だと理解している信者はいいけれど、そうじゃない人は混乱するね。」
「JWの多くは、早くハルマゲドンが来て、JW以外の人たちが死ねばいいと思っていますよ。思いやりとどう両立するのか疑問ですね。」
「JWを支えているのは、JW以外を悪魔の手先と敵視し、最後は自分たちが勝つという必勝の信念だからね。伝道の最中に、豪邸を見つけると、ハルマゲドン後はここに住みたいなんて、楽しそうにしゃべっているだろう。」

「教訓3は、12節で、“他の人に愛情深く接するなら,キリストの律法に従っていることになります。”で、信者同士で助け合えということです。信者ではない人には無関心ですね。」
「JWのようなカルトでは難しいだろう。カルトは組織に対する忠誠心が評価の対象で、信者同士の横のつながりはむしろ警戒される。仲良くしていると分派活動と見なされる場合もある。でも、イエスが互いに愛しあえと言っているので、JWとしても建前としてそういうことを言わざるを得ないのだろう。」
「JWでは長老や監督に気に入られることが大事で、それ以外の信者からどう思われようと、長老や監督に賄賂まがいの贈り物やゴマすりをしていれば、霊性が高いとされます。」
「統治体の老人たちも、そうやって今の地位を築いたと思うよ。」

「教訓4は、14節で“どうすれば新しいおきてに従えますか。簡単に言うと,兄弟姉妹のために犠牲を払うことによってです。”とあります。13節で、先ほど話題になったヨハネ13:34,35で読むように指示されています。」
「ここで突然自己犠牲を要求する。“自分の命という究極の犠牲を払うつもりでいるわたしたちは,もっと小さな犠牲も喜んで払います。”とある。JWは組織のために死ぬつもりなんだ。危険な宗教ということがわかるね。」
「ところが、小さな犠牲が何かというと、“高齢の兄弟姉妹を集会に送迎したり”することとあります。これって犠牲と呼ぶようなことなんですか?小さな親切と呼ぶべきじゃないですか?」
「殉教者気取りから一転して、小さな親切運動へスケールダウンね。年寄りの相手なんか本当は誰もしたくないんだよ。でも組織がこれを犠牲と認定してくれたわけだから、老人を送り迎えするたびに、これは犠牲だ、これは犠牲だとつぶやいていいということ。」

「教訓5は、17節で、“人々に分け隔てなく接し,相手の宗教や社会的な立場にかかわりなく,聞く耳を持つすべての人に伝道する”、“男性であれば,女性に礼儀正しく接すること”です。次回が性犯罪の記事なので、力点は後者の方でしょうね。」
「これも偽善的だね。女性差別はJWの基本方針だ。女性が性的被害にあった場合でも、男だけで処理し、審理に女性の誰かを加えることさえしない。性犯罪者は、女性を蔑視し、女は痛めつけてもいい、と思っていることが多い。このような性犯罪者にとって、JWはぴったりの組織だ。こんな組織に子どもを連れて行くのは危険だ。」

「教訓6は、19節で、“イエスが教えた原則に従うなら,他の人に対して公正であることができます。サタンの世で不公正な扱いを受けたとしても,エホバが必ず公正が行なわれるようにしてくださる”です。加害者には公正であれ、被害者にはいつか公正が行われるから我慢しろ、ということです。」
「“エホバが必ず公正が行なわれるようにしてくださる”の“必ず”が太字になっているけれど、英文で太字になっているのは“will”で、“Jehovah will cause justice to be done for us.”だよ。“必ず”なんて書いていない。この文は18節の最後の文とほぼ同じことを言っているだけで、そこの訳は、“しかるべき時に公正が行なわれるようにしてくださいます。”と正しく訳しているよ。これだと迫力不足と感じた翻訳者が、勝手に“必ず”にしたんだろうね。」

「20節から、実践編です。家庭編と会衆編の2部構成です。」
「21節が、家庭編で、父親は妻と子どもに愛をあらわせという指示だね。家庭で暴力をふるい、子どもに性的な虐待をするのはたいてい父親だからね。」
「こんな記事でそのようなことをやめさせる効果はないでしょう。」
「英文では、“never abuse them by what he says or does.(子どもを言葉や行動で虐待することは決してしない)”とあるのに、日本語訳は、“子どもを傷つけるような言葉や行動を避けます。”とずいぶん表現を和らげている。abuseを“傷つける”と訳し“虐待する”と訳さないのは、日本のJWに児童性的虐待を隠ぺいしておきたいからだろう。」
「子どもを守るためにも、暴力をふるう男とはさっさと離婚すべきですよ。一緒に暮らす限り、被害はなくならないです。」
「でも、JWでは暴力は離婚理由として認められない。だから、なかには、わざと不倫をして、離婚したけど、排斥されたというJWが出てくる訳だ。JWの教義が家庭内暴力の犠牲を防ぐことを妨害している。」

「22から24節は会衆編です。長老は愛に基づいて行動せよということですが、中心は会衆内の犯罪者をどう扱うかに関する指示です。」
「23節で、長老が考慮するのは、“その悪行がエホバへの崇拝にどう関係するかです。”とある。よく意味が分からない訳だね。英文では、“the elders’ role is to handle the spiritual aspects of the wrongdoing.”(長老の役割は、悪行の霊的な側面を扱うことです。)とあり、“悪行の民事的,刑事的な側面については”扱わないという意味なんだろう。」
「会衆内で犯罪があった場合、警察にゆだねよということですね。警察に通報するな、などと長老が言うべきではないということですね。」
「いままで長老が犯罪を隠ぺいしてきたので、被害者から組織が訴えられて巨額の賠償金を支払わなくてはいけなくなった。しかし、長老は警察に言うなとは言わないけれど、積極的に警察に訴えろとは言っていない。」
「聖職者の守秘義務が関係するからでしょうか?」
「日本でも、刑法134条2項に、“宗教、祈祷若しくは祭祀の職にある者又はこれらの職にあった者が、正当な理由がないのに、その業務上取り扱ったことについて知り得た人の秘密を漏らしたときも、前項と同様とする。”とあり、秘密を洩らしたら、“6カ月以下の懲役又は10万円以下の罰金”となる。アメリカの裁判で、JWは聖職者の守秘義務があるから、長老は警察に言わなかったと主張していたね。」
「裁判所は、それを認めなかったんですよね。」
「JWの長老は聖職者とは認められなかった。裁判では、聖職者の守秘義務を盾に、隠ぺいしたことを正当化しようとしたけれど、見事に失敗し、巨額の賠償金の支払いとなった。しかし、JWとしては、長老は聖職者であり、守秘義務はあるという主張を続けていくつもりなんだろう。」

「子どもを性的に虐待しても、悔い改めれば、JW得意の排斥にはしないようですね。」
「そのようだ。犯罪者は嘘をつくのが上手だ。悔い改めたふりをしているのか、本当に悔い改めたのか、JWの教義しか知らない無知無経験の長老にわかるのだろうか?」
「わかりませんよ。結果として、会衆内に性犯罪者がとどまり、子どもたちが危険にさらされるわけですが、エホバが何とかしてくれるでしょう、で済ませるわけです。」
「性犯罪で排斥になったけれど、長老と関係が良かったために、早期に復帰したという事例もあるし、犯してもいない罪を着せられ、排斥になり、長期間復帰を認められないという事例もある。信者は、自分の属している組織が、愛と公正の欠けた人間が運営している偽善的な組織に過ぎないことを理解すべきだよ。」

#1089 2019年07月12日 14:30:58

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“愛と公正 邪悪な世において”で、子どもを性的虐待から守ろうというものです。」
「3節で、“会衆の一員だと言う人が,ゆがんだ欲望に負けて子どもに性的虐待を加えたこともあります。”と、JWに児童性的虐待の問題があることを認めている。これは否定し続けるより、一部の人間による個人的な悪行とした方がダメージが少ないという計算によるものだろう。」
「3節では、“「邪悪な者とかたりを働く者」が非常に多くなっており,会衆に入り込もうとすることがあるからです。”とあり、組織は清くて正しいけれど、悪者が外部から侵入してきたと言っています。これは事実に反しますよね。」
「児童性的虐待で逮捕されたJWには長老など、長年組織の一員だった人がいるよ。聖霊によって任命された人なんじゃないの?JW3世で、事実上生まれたときからJWだったという人だっていたよ。」

「3節の初めの文は、“児童に対する性的虐待は世界中に広まっており,真のクリスチャンもその影響を受けています。”とあります。何か無責任な書き方ですよ。」
「元の文は、“child sexual abuse is a worldwide plague, and true Christians have been affected by this plague.”で、児童性的虐待を“疫病plague”と呼んでいる。JWもその病気に感染しただけ、病気なんだから仕方がないと、いいたいのだろう。無責任な態度だね。」
「日本語の翻訳者は、さすがに性犯罪を自然現象かのように疫病呼ばわりをするのは、おかしいと思って、疫病とは訳さなかったんでしょう。本部の人間より、多少まとものようです。」
「児童性的虐待を組織的に隠ぺいしてきたことも、病気に感染しただけで、責任はないと思っているんじゃないか。反省はないよね。」
「当然、被害者に対しても謝罪はないですね。」
「責任は病気になった加害者にある、組織にはないという立場だからだろう。ローマ法王のように、統治体は謝罪はしないようだ。どちらがましな組織かな?」

「1節に、“中でも,児童に対する性的虐待は極めて邪悪な行為であり,エホバはそれを強く憎んでおられます。”とありますが、それを証明する聖句はありませんよね。」
「児童を性的に保護することに関する具体的な指示は聖書にないよ。」

「4から9節で、児童虐待は重大な罪だと述べています。児童虐待は、被害者に対して、会衆に対して、上位の権威者に対して、神に対して罪であると書いていますね。」
「虐待の定義がないのが気になるね。ムチでたたく体罰は虐待なの?」
「先週からキリストの律法と言っていますから、旧約は無視するということじゃないですか?」
「昔は、子どもの命がかかっています、むちでひっぱたきましょう、なんて言っていたのに。あれは間違い?」
「JWの教義が変わるなんて当たり前です。それでいいじゃないですか。」

「7節に、“児童虐待をした人が当局による処罰を免れるようかばうことはしません。(ロマ 13:4)罪を犯した人は,自分の行動の責任を問われることになります。(ガラ 6:7)”とあるけれど、排斥にするとは書いていない。児童虐待で有罪でもJWを続けることが可能なんだ。」
「長老マニュアルでもそうなっています。2013年版の“第5章 審理委員会を設けるべきかどうかを判断する”の72ページでは、“クリスチャンは、刑が重くなるのを避けるため、司法取引の一環として、恐らくは弁護士のアドバイスに従って、裁判で有罪の答弁をするとしても、それ自体は、会衆で罪を認めたこととはみなされない。”とあります。」
「司法取引はアメリカでは普通に行われる。有罪を認める代わりに刑を軽くしてもらう。」
「裁判で、児童虐待で有罪でも、審理委員に対しては、あれは刑期を軽くしてもらうために仕方なく認めただけで、本当はそんなことをしていないと主張し、排斥にならないですむことが可能です。」
「その結果、有罪で刑務所に服役したとしても、JWのままで、刑務所内で伝道することが可能だ。そのため、その性犯罪者JWが同じ刑務所にいる別の性犯罪者をJWに引き入れるということがアメリカやイギリスなどで起きている。」
「刑務所内で受刑者が伝道したら、悔い改めているという根拠の一つになるのですよ。奉仕時間もしっかり報告しているはずです。」
「これもJWの性犯罪者が多い理由だね。」

「9節の、“わたしたちの組織は,会衆が児童虐待という罪をどう扱うべきかについて,これからも検討を続けます。”とある。“検討する”と訳されている英語はreviewだ。検討するというより、過去を反省して再調査する、再吟味するという意味だ。“これからも見直していく”と訳すべきだ。」
「英文では多少なりとも過去を反省するというニュアンスがあるわけですが、日本語ではそれがなくなっているわけですね。ただ検討するだけですから。」

「10から18節で、長老たちが児童虐待をどう扱うかについての指示です。頭の悪い長老にもわかるように、13節からQ&A方式の文章になっています。」
「10節によると、“長老たちは,神の神聖なお名前を汚さないようにすることをいちばん気にかけています。”とある。神の名を守るより、子どもを犯罪から守ることの優先順位は低いわけだ。」
「11節に、“悪い欲望に屈して重大な罪を犯すクリスチャンは,ある意味で病気にかかっています。エホバとの良い関係が損なわれているのです。 それで長老たちは,医師のようにその人を助けます。”とあります。性犯罪=病気という思想がまた出てきました。」
「長老は、児童性的虐待の犯罪者に対して、医師のように助ける知識も技術も、必要な心構えもない。」
「JWがそのような長老を育成してきたなんてこともありません。」
「高度に知識化・専門化した社会の中で生じる問題を、高等教育を受けたことのない素人の判断と古代の宗教書で、対処できると思っているのが、恐ろしいね。」

「13節の、“長老たちは,児童虐待に関する訴えや報告を聞いた場合,当局に通報するよう求める法律に従いますか。”の質問に対する答えが、“はい。児童虐待を通報するよう求める法律がある所では,長老たちはそれに従います。”です。」
「法律がないところでは通報しないのか?消極的だね。」
「日本では、通告義務があるのですよね。189(いちはやく)番です。」
「児童福祉法第25条で、要保護児童発見者の通告義務が定められている。児童虐待の防止等に関する法律第6条では、児童虐待を受けたと思われる児童を発見した者は、速やかに通告しなければならない、とある。」
「長老が、児童虐待を受けたと思われる児童を発見した場合、速やかに報告しなくてはならないわけですね。でも罰則はないので、ちゃんと通報しますかね。」
「13節に、長老たちは,児童虐待に関する訴えや報告を聞いたなら,“すぐに支部事務所に指示を求めます。”とあるので、当局に通報する前に、支部の指示を仰ぐわけ。なぜそうするのかわからない。支部は場合によっては通報するなと指示することがあるという意味にしか取れないね。」
「アメリカの児童性的虐待の裁判では、聖職者の守秘義務を主張していましたからね、なるべく通報せず、内々に処理したいのが本音ですよ。」

「15節で、審理委員会を開くには2人の証人が必要だとはっきり書いていますね。」
「子どもに性犯罪を行う場合、一人で行えば、見逃すということだね。そうすれば、JWとしては審理の対象にならない。恐ろしいね。」
「複数で性犯罪をすることってほとんどないですよね。しかも、性犯罪は誰もいないところで行うものです。性犯罪者を会衆から追い出し、子どもでも安全な組織にするという意欲はないようですね。」
「17節に、“長老たちは法の執行に干渉せず,刑事事件の扱いは当局にゆだねます。”とある。でも、アメリカでの事例では、長老たちは、犯罪者であるJWの記録を破棄して、裁判を妨害したことがある。このことについて反省もないようだから、ある種の隠ぺい工作は問題ないのだろう。」

「JWは過去に児童性的虐待を行ったJWのリストを持っているのに公表しませんね。昨年、会衆内のメモや文章の草稿まで破棄するよう、JWの記録管理監督者であるShawn Bartlettが指示しているビデオがリークし、アメリカのフィラデルフィア・インクワイアラー紙が公表しています。」
「おもしろいことに、その中で、Bartlettは、サタンが我々を追いかけている、我々が持っている記録のために過去に困難に遭遇した、とカルトの一員らしい事を言っていたね。組織として、何の反省もない。自分たちが苦しむのは、過去の自分たちの方針のせいではなく、うっかり証拠を残してしまったからだ、というのがJWの幹部の言い分だね。」
「会衆内の子どもを守ることにはあまり関心がないことはよくわかります。」

「18節の、“子どもたちの安全を図って,会衆内の未成年の子どもを持つ親たちに,その人が子どもの近くにいる時には注意するよう個別に伝えることができます。”も納得がいかないね。性犯罪者が会衆内にいる場合、そのことを“伝えることができる”とあるだけ。つまり伝えなくてもいいということ。」
「悔い改めれば、性犯罪者でも排斥にならず、会衆内にとどまり、そのことが子どもやその親に知らされないということがJWではありうるということですね。」
「そして、伝道と称して、子どものいる家にもやってくるということだ。」

「19から22節で、子どもを守る方法が出ています。」
「19節に、“子どもが被害を受けないよう守る責任はだれ にありますか。親です。”とある。問題は、親が虐待をしているということが多いということ。だから、単に親の皆さん、子どもを虐待から守りましょう、というだけでは何の予防にも解決にもならないということね。」
「すべての大人は、子どもを犯罪から守る責任がありますと、なぜ書けないのでしょうか?」
「自分たちに責任が及ぶのが嫌だからだろう。」
「宗教を選ぶなら、自分の子どもの隣に座っている人が、子どもに性的関心を持つような人ではない宗教を選ぶべきですよ。」

#1090 2019年07月19日 14:14:37

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“虐待の被害者を慰める”で、会衆内に性的虐待の被害者がいる場合、なるべく会衆内でなだめて、外部にJWの性的虐待が知られるのを避けよう、という内容です。」
「確かに、被害者に、外部の専門家に相談しましょう、とは言っていない。11節の*では、本人が決める問題といっているだけ。」
「それでいいんですか?」

「JWの児童虐待に関する記事で最も優れているのは、1991年10月8日号の“目ざめよ”の記事だ。この記事は、それより後退している。」
「その号には“児童虐待の無実の犠牲者”、“児童虐待が残す秘められた傷”、“いやす時”の3本の記事が出ていますね。」
「その中で、“ひどく苦しんでいる人たちは,資格のある医師やカウンセラー,さらには精神衛生の専門家に助けを求めることにするかもしれません。”と、専門家の助けを求めることについて触れている。この記事が出た後、児童虐待を訴える何百という電話や手紙が本部に来たそうだ。」
「しかし、この記事は、組織内で不評だったんですよね。」

「この当時、執筆部門にいたBarbara Andersonの「Uncensored(検閲なし)」によれば、この記事を書いたのはHarry Poleyanで、ものみの塔唯一のハーバード大卒のインテリだ。しかし、奉仕部門のトップにいたTed Jaraczが猛烈に反発したそうだ。彼は、“セラピストは悪魔の代理人”と非難し、“痛手から立ち直れ、ものみの塔の出版物を読め”というのが、彼の治療法だったらしい。というわけで、執筆部門と奉仕部門の対立が激化した。」
「どの組織にもあるインテリとたたき上げの対立ですね。知性を重んじないJWではインテリが負けるわけですね。」

「自分たちの立場を擁護するために、執筆部門は、1992年4月8日号“目覚めよ”の“私はうれしくて涙を流しました”という記事を出す。」
「この記事は、1991年10月8日号の“目ざめよ”の記事に対する、読者の感謝が主な内容ですね。」
「そう。その感謝の中には日本からのものもある。“私は児童虐待を扱った10月8日号を受け取るとすぐに読みました。読み終えるのにかなりの時間がかかりました。涙があふれて字がよく見えなくなったからです。私の気持ちや思っていることがその記事の中で書かれていました。だれかが理解してくれているという思いで,今,うれしいです。(略)”とある。」
「児童虐待は当時からJW内にあり、“目ざめよ”の記事も出ていたわけですね。」
「Barbara Andersonによれば、奉仕部門のトップであったTed Jaraczが、この“目ざめよ”の印刷を阻止しようとしたが、失敗したらしい。」
「この後、組織は粛清の嵐が吹きまくり、幹部クラスの何人かが排斥になるわけですね。」
「ちなみに、奉仕部門のトップであったTed Jaraczもその職をやめさせられる。彼には児童性的虐待のうわさがあったからなんだ。その後、結婚することを条件に巡回監督に任命される。本部から出された巡回監督って、たいていはキズモノということだろう。」
「しかし、結局、JWが専門家に相談するということは、好ましくないことになったわけですね。」
「基本方針は、JWの出版物を読んで、克服せよ、というバカバカしいもの。高等教育を嫌い、専門家を遠ざける、反知性主義の宗教だからね。」

「8節に、“性的虐待が広まっていることは,今が終わりの日であることの強力な証拠です。”といい加減なことを書いています。なんでも終わりの日に結び付けるところが終末カルトらしくて、笑えます。」
「性的虐待は昔からあったけれど、これまで隠蔽されてきた。最近それが明るみに出るようになっただけだよ。」
「JW内には性的虐待はないことになっていたのに、今はこうしてものみの塔の記事になっているのは、性的虐待が増えたからではないのですね。」
「JW内の児童性的虐待は1969年から、組織は知っていた。その問題を訴える手紙が頻繁に来ていたからだ。しかし、神の組織を傷つけるという理由で、無視していただけだ。それで、JW内にそのような問題はないことになった。」
「何の対策も取らなかったことが、その種の犯罪を増加させた一因ですよね。」
「そうだけど、組織としてはそれを認めるわけにはいかない。都合の悪いことが起きているのは、“今が終わりの日である”からで済まそうということだね。この無責任な態度に感心する。」

「誰が慰めるかというと、10節では長老、11節では、“エホバを愛する思いやり深いクリスチャン女性”が挙げられています。」
「“Mature Christian sisters”(円熟した姉妹たち)を過剰な意味を込めて、へんな風に訳したんだね。女性蔑視のJWが姉妹たちに長老の仕事の助けを要請するなんて稀だろう。」
「オーストラリア王立委員会(ARC)の勧告の一部を取り入れざるを得なかったんですね。」
「ARCは、審理委員会に、性犯罪を審議するときは、女性も加えろ、男だけで決めるな、と勧告したのだけれど、JWは、それは無視した。でも、慰め役に女性を使うので、許してね、ということだね。」
「これで済むと甘く考えているのですね。」
「性的虐待の被害者に、長老やJWの姉妹が何ができる?。専門的な知識やスキルもなく、ものみの塔の書籍や雑誌に書いてあること以外ほとんど何も知らない人たちじゃないの。有害無益だよ。」
「でも、12から20節にかけて、“どうすれば慰めになれるか”を具体的に指示しています。恐ろしいことにJWにカウンセラーのまねごとをさせるつもりです。」

「15節に、“話をよく聞きましょう。”と勧めている。問題は、専門家とは違って、会衆のJWには守秘義務がないこと。極めて個人的な話を守秘義務のない人に話すのは危険なことだ。知られたくない話を皆が知っていることになりかねない。」
「JWは、カルトの特徴として告げ口が横行し、根も葉もないうわさが飛び交う集団です。守秘義務とか個人情報保護という言葉さえ知らないJWが結構いると思いますよ。」
「だから、ど素人にカウンセラーのまねごとさせるのは危険なんだよ。宗教団体なんだから、神様に一緒に祈りましょう、後は専門家に任せましょう、素人が口出しするとかえって問題を悪化させます、と言えばいいんだよ。」

「JWの立場は、聖書には何でも答えがある、というものです。13節で、“列王第一 19:5‐8を読む。”とあり、それに基づいた教訓話が、15節まで続きます。」
「それはエリヤの話だけれど、的外れじゃないの。」
「エリヤが死を願うほど苦境に立たされた時、天使が菓子と水を差し入れして助けたという話です。児童性的虐待と何も関係ないですね。」
「聖書には、性的虐待の話がちゃんと出ているんだから、それを皆で読んで、コメントしあえばいいんじゃないの?」

「性的虐待と言えば、まず思いつくのは、創世記19章のロトの話ですね。」
「ロトの家族がソドムの町に行き、ある家に泊まる。夜にソドムの町の男たちがやって来て、“今夜おまえの所に来た者たちはどこだ。彼らを渡せ。われわれは彼らと寝るのだ。”と要求するわけだ。」
「すると、ロトは、“私には,男性と関係を持ったことがない娘が2人います。2人を差し出しますから,どうぞいいようにしてください。でも,あの方たちには何もしないでください。”と、自分の娘を犠牲にしようとするわけです。ひどい親ですね。」
「野蛮で吐き気がするような話だ。ソドムの人たちが、それで納得しなかったので、実際に娘は差し出されなかったけれど、娘は親の所有物でしかないという思想がよくわかる。現代のJWでもこのような思想の人はいると思うよ。このようなことは異常で、間違っています、子どもは親の所有物ではありません、と集会で教えたほうがいい。」
「でも、ロトは、ペテロ二2:7で、“義人ロト”と呼ばれています。おかしな評価ですね。」

「ロトの話とよく似たもっと悲惨な話が、裁き人19章にあるレビ人のそばめの話だ。」
「ロトの話とほぼ同じ状況設定ですね。場所はギベアで、襲ってきた男たちに家の人は、“私の処女の娘とあの人のそばめがいる。2人を出すから,どうしてもと言うなら彼女たちを辱めるがよい。しかし,あの人にそのような恥ずべき行いをすることは許されない”と言うわけです。その後、そばめだけが犠牲になって、“男たちはその女性を犯して朝まで夜通し虐待し,夜明けに去らせた。”」
「その結末は、“両手を敷居に掛けたまま家の入り口に倒れていた。「起きなさい。さあ行こう」と言ったが,返事はなかった。”というわけで、そばめは集団で強姦された挙げ句、死亡。さらに、“その人は家に着くと,短刀を取り,そばめの遺体をつかんで12の部分に切り分け,イスラエルの各領地に1つずつ送った。”とある。そばめは悲惨な死を遂げただけでなく、死後も動物のように解体される。」
「このそばめの犠牲によってこのレビ人は救われたわけですが、そばめに対する感謝も同情の言葉もありません。家畜と同じ扱い。」
「この話も会衆で読んで、聖書の中の性道徳や女性の扱いがいかに異常であるかを確認して、このような価値観は捨てなくてはなりません、と教えたらいいんじゃないの。」
「無理ですね。女性差別はJWの基本方針で、変えられません。」
「女性差別のある所には、女性に対する性的虐待はなくならないよ。」

#1091 2019年07月26日 14:36:38

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“「世の知恵」に惑わされないようにしましょう”で、保守的な性道徳を守れ、自分を偉いと思わず過小評価せよ、という内容です。」
「先週まで、性的虐待を扱ってきたけれど、その被害者が専門家に相談することは推奨しなかった。その延長線上の話だね。世の知恵なんか、役に立つものか、捨ててしまえ、という反知性主義の内容だ。」
「反知性主義は、知的権威や政治や経済のエリートに対して懐疑的な立場をとる主義や思想のことですね。」
「ホフスタッターが“アメリカの反知性主義”という本を1963年に書いて、反知性主義という言葉が知られるようになるけれど、ホフスタッターによれば、反知性主義はアメリカ文化の中に昔からあるもの。特にアメリカの宗教は、反知性主義が非常に強い。JWもそのひとつだね。」
「初期のアメリカ移民の間では、“万人祭司”という思想があり、職業的な宗教家を不必要とする傾向があったんですよね。」
「聖書について専門教育を受けた人が聖書について説教をすべきだという思想は乏しかったということ。むしろ、そういう人に対する反感があったんだ。これが反知性主義だね。そういう人よりも、自己流の怪しげな聖書理解だけれど、一般大衆の恐怖、怒り、悲しみ、そして罪の意識といった感情に働きかけ、大衆を熱狂させるような説教をする、自称伝道師が各地でもてはやさされたのが初期のアメリカだ。」
「その自称伝道師のひとりがJWのもとの組織を作った、チャールズ・ラッセルですね。」

「2節に、“世の知恵は人の利己的な欲望に訴えます。”といきなり断定しているけれど、この根拠は何なの?自分たちの主張をもっともらしく見せるために、“世の知恵”という仮想敵を勝手に作り上げて、これを攻撃するのは、いかにもインチキ伝道師の末裔だね。」
「JWが“世の知恵”とか、“世の人”とか実体のない敵を作って攻撃するのは、こういう風にしか自分たちのすばらしさを主張できないからですよ。」
「みじめな人生を送っているJWにあなたたちは幸福だと思わせるには、自分たち以外は悲惨な生活を送っていると思わせるしかないようだね。」

「3節で、“米国では20世紀初めに,性道徳に対する人々の見方が大きく 変化しました。”とあります。その根拠として、4節で、“ある研究者は,「映画,演劇,歌,小説,広告はどれも,セックスをテーマにするようになった」と述べています。”とあります。JW得意の不正引用ですか?」
「出典を明らかにしない点で不正引用なんだけど、この出典は、Shellie Clark の“The Sexual Revolution of The “Roaring Twenties”: Practice or Perception?”(“狂乱の20年代”のセックス革命;現実それとも見かけだけ?)だろうね。」
「著者は20年代にセックス革命が実際に起きたとは言っていないのですね?」
「著者は、“Without much in the way of reliable statistics, it is impossible to prove the concrete effects of the “sexual revolution” of the 1920’s on sexual activity, adultery, prostitution, and declining morality.”と言っている。」
「信頼できる統計が不十分なので、20年代のいわゆる“セックス革命”が性的活動、不倫、売春、死亡率の減少にどのような具体的な影響を与えたかを証明することは不可能だ、と言っているわけですね。」
「JWのように、たいした根拠もなく、この時代はこうだと、学術的な論文では言えないの。」
「“世の人”の方が、何かを論ずる時には、その根拠について厳格なわけで、その点でもJWは時代遅れなわけですね。」
「それから、“狂乱の20年代”はアメリカだけの話だよ。第1次世界大戦後、ヨーロッパは疲弊し、日本はアメリカ同様好景気だったけれど、1923年に関東大震災があり、その影響を受けて、1927年から昭和金融恐慌へと突入し、1929年に世界的な大恐慌を迎える。アフリカやアジアのほとんどの地域はどこかの国の植民地となっていて、まともな生活をしていない。」
「執筆者はアメリカが世界そのものと思っている、典型的な田舎のアメリカ人ということですね。」

「5節は、1960年代のことで、ここでもある専門家の、“社会の性道徳の規準が緩んだ”というのを引用しているけれど、これは短すぎて、出典はわからない。」
「性道徳の基準は緩んだというのは本当ですか?」
「60年代はいろいろな点で大きく変化した年代だ。しかし、長期的にみると、性道徳が緩んだかどうかは何とも言えない。19世紀だと、アメリカの場合、奴隷制度があった。女性の黒人奴隷は所有者にレイプされるのが普通だった。白人所有者と奴隷の黒人女性の間にできた子は奴隷として売られていった。道徳水準が今より高いといえるかな?」
「性道徳ばかりを取り上げるのがJWですけれど、60年代は人種差別撤廃が進んだ時代です。このような好ましい変化は取り上げないですね。」
「JWは人種差別的だったからね。一部の州では、人種別に集会が開かれていた。黒人は白人の集会には行けなかったんだ。その様な差別がなくなったのは70年代になってからだ。」

「7節に、“エホバは結婚という贈り物を与え,ふさわしい仕方で性的欲望を満たせるようにしてくださいました。”とあります。こう書くと、結婚はセックスのためにあるようですね。」
「そう考えているJWは多いと思うよ。アメリカのJWの掲示板を見ると、家を出てセックスするために、19歳で結婚した、といった話がよく出ているよ。アメリカにはJWの出会い系サイトがあるそうだ。」
「その結婚はうまくいかないですよ。」
「確かに。JW2世や3世の中には、JWの親が嫌いで、親の家を出たいと思っている人がいて、その手段として結婚があるようなんだ。それで、早く結婚するJWがいるわけだ。JWの結婚が、愛のない結婚になりがちな理由だ。」

「8節に、“世の知恵とは対照的に,聖書は,性に対する健全な見方を教えています。”とありますが、本当でしょうか?」
「聖書の性道徳は健全とは言えない。まず聖書の性道徳の問題はダブルスタンダードだということ。」
「女にだけやたらと厳しいということですね。」
「結婚する場合、女性には処女性を求めるが、男は売春婦の所に入りびたりでも問題にしないのが、律法の定めるところだ。これは性に対する健全な見方?」
「申命記22章では、結婚した女性が処女でなかったと訴えられた場合、処女でなかったとされると、石打による死刑。処女であったら、偽の訴えをした男に対しては罰金だけです。不公平ですね。」
「古代社会が処女性にこだわるのは、妊娠した場合、父親が誰かを確定する必要があるから。なぜそうする必要があるかというと、財産の相続に関係するから。」
「父親がどこのだれかわからない奴に、自分の財産を継がせたくないということですね。財産が父から息子へ受け継がれていく父系社会を背景にしたものですね。」
「父親を確定するためには、女性を夫以外の男性と接触させなければいいわけで、女性に対しては厳しく行動を制限することになる。それに対して男性は自由で、旧約聖書では複数の妻を持ってもいいし、“めかけ”を持ってもいい。これは性に対する健全な見方?」

「それに対して、新約聖書では禁欲主義的になっていますよね。」
「イエスもパウロも間もなく終わりの日が来ると思っていた。それが性的な禁欲をすすめた大きな理由だ。イエスもパウロも、結婚や家族にたいした価値を置いていない。宗教の創始者は、家族を捨てて私に従いなさい、と言うものさ。」

「8節に、“聖書は,性に対する健全な見方を教えています。セックスが喜びを与えることを認めています。(箴 5:18,19)”とあります。とあります。これって、へんな言い方ですよ。聖書が認めるとか認めないという問題ではないと思いますよ。」
「それより、引照聖句に箴言5:18,19を持ってくる方がへんだ。」
「この部分のポイントは、“あなたは若い時からの妻と喜ぶように”ですよね。」
「そうだね。つまり、セックスは楽しいよということではなく、若い時に結婚した女性と一生添い遂げろ、という教えだよ。」
「若い時の妻ではなくて、若い時からの妻で正しいのですか?その後、“あなたの妻はかわいい雌鹿,優雅な山ヤギである。いつも彼女の乳房から満足を得るようにしなさい。”とありますよ。若い妻じゃないですか?」
「若い時に結婚した妻という意味。マラキ2:15の“若い時からの妻を裏切ってはならない”と同じ。現実は、イザヤ54:6に、“若い時に結婚して後に退けられた妻であるかのように”とあるように、年老いた妻を捨てて若い女に取り換える男は結構いたのだろう。」

「8節に、テサロニケ一4:4,5が引用されています。古い訳と新しい訳ではかなり違います。どちらがいいのでしょうか?」
「4:4だけど、古いのは“自分の器をいかに聖化と誉れのうちに所有すべきかを知り”で、新しいのは“聖なる者として品位を保てるよう,自分の体をどのように制するかを知っているべきです。”古いのは字義訳で、新しいのはJWの解釈が入った意訳。“器”を“自分の体”と解釈し、“所有する”を“制する”と解釈しているけれど、違うだろう。」
「新共同訳では、“おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、”とありますから、“器”を“妻”、“所有する”を“生活する”と解釈しています。こちらのほうが正しい?」
「そうだね。“器”を“体”と解釈することは可能だけれど、“持つ”を“制する”と解釈することは難しいね。」
「自分の妻を大事にするようにという聖句を、JWは、性欲をコントロールするというように解釈したということですね。」

「10節からは、自分に対する見方の変化が取り上げられているのですが、12節はなぜか結婚の話になります。今の世は結婚を軽視している、と憤慨していますね。」
「性道徳に対するこだわりがわかるね。しかし12節で、“聖書は夫と妻に,互いを敬い,結婚の誓いを守るよう教えています。”とあるけれど、引照聖句はない。聖書の夫婦観は、対等の関係ではなく、妻は夫に服従しろ、というものだよ。」
「コロサイ3:18では、“妻の皆さん,夫に従ってください。”、テトス2:5では、“健全な考え方をすること,貞潔であること,家事をこなすこと,善良であること,夫に従うことです”、ペテロ一3:1では、“妻の皆さん,夫に従ってください。”などですね。」
「このような夫婦観が現代でも通用するのは、アフリカやアジアなどの女性の地位がものすごく低い地域だけだろう。JWはそういった地域で宣教活動に力を入れるべきだね。」

「15節で、“世の知恵に従うことと,聖書の知恵に従うことでは,どちらが良い結果を生み出しているでしょうか。”とあります。聖書の知恵に従う方がよいと読者に思わせたいなら、具体的な統計でも示せばいいと思うのですよ。」
「例えば、精神疾患に罹患しているJWの割合なんて出してほしいね。JWの平均寿命なんかも知りたいね。」

#1092 2019年08月01日 16:51:12

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

水曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“充実した研究を行ないましょう(22)”で、集会にはちゃんと予習してこい、でも組織が提供する情報以外は見るなよ、という内容です。」
「日本では聖書研究というのをバイブルレッスンと勝手にいいかえている。日本では研究はやめたんじゃないの?」
「呼び方を変えたのは、司会者が一方的に質問し、聞き手が出版物の中に書いてあることを答えるだけのやりとりを、研究と呼ぶのが恥ずかしいからでしょう。」

「1節で、“一日の終わりにはくたくたになっています。とても勉強する気にはなれないかもしれません。”と、珍しく信者のことを気遣っているので、へんだなと思ったら、3節で、“それで最近,印刷物やウェブサイトで提供する情報を減らすことにしました。”と書いてある。信者のことを気遣っているんじゃなくて、印刷物などが減った言い訳として利用しているだけだね。」
「組織は、終わりが近づいた今、ますます前進していることになっているのです。衰退を示す出来事でも、統治体の思いやりとか効率を高めるためとかいってごまかすわけです。すっかり思考力の低下しているJWでも、その辺は理解していますよ。」

「2節で、“時間を取って聖書と出版物を研究する,それも真剣に研究することはどうしても必要です。エホバとの友情を築けるか,永遠の命を得られるかがかかっているからです。(テモ一 4:15,16)”と、相変わらず信者を脅かしているね。集会の予習に永遠の命がかかっているなんて、引照聖句のどこにも書いていないよ。」
「JWは宗教関係の出版物を売って利益を上げる団体として出発したので、出版物の価値を高めることが必要だったんですよ。そこで組織の出版物を読めば、永遠の命、読まなければ死ぬという、わかりやすい教えが真理とされたんです。出版ビジネスの名残です。」
「引照聖句だけど、英文では、テモテ一4:15だけなんだ。日本語版は4:15,16と、勝手に増やしている。」
「たくさん勉強できるようにという配慮じゃないですか。」
「精神発達遅滞とよばれる、知能が低くて、自立が困難な人は、人口の1から2%はいる。こういう人は神様は見捨てるということ?」
「そうなんじゃないですか。統治体は見捨てています。」

「8節に、“研究するとは,何かを学ぶために集中して読むことです。資料にざっと目を通し,答えに下線を引くだけのことではありません。”とある。JWの研究とは、組織の出版物を“読む”ことなんだね。」
「“下線を引くだけではありません”と言っているだけで、進歩ですよ。アフリカや中南米で、ろくに学校に行ったこともない信者が増えているので、お勉強の仕方を解説しているのですよ。」

「9節の、“「ものみの塔」研究の目的は,聖書を学ぶことにあります。ですから聖句に注目しましょう。”には驚いたね。いつからそうなったの?ものみの塔では、記事のテーマに使えそうな聖句を文脈無視で引用するだけだろう。」
「聖書が書かれた時代や背景が、今とは違いすぎて、文脈無視で引用するしかないんですよ。信者は、それでも聖書を勉強した気になれるんですから、いいじゃないですか。」

「13節で、学校に行っているJWに向かって“あなたは聖書の教えを信じていて,神がすべてのものを創造したことを説明したいと思っています。”とあるけれど、そんな子どもはいるかな?」
「学校で、創造論をクラスメイトに説明するよう圧力をかけていますね。そのためには、“出版物を注意深く調べます。”とあります。調べるのはあくまで組織の出版物で、それ以外は調べてはいけないということです。」
「組織の出版物の受け売りだから、JWは反論されると答えられないことが多いね。」
「“多くの人が進化を信じているのは,単に先生や学者が信じているからにすぎません。”とありますが、JWが創造説を信じているのも、出版物にそう書いてあるからにすぎませんよ。」
「創世記を知っている子どもがいて、太陽ができる前に植物ができたことになっているけれどおかしいよといわれたら、反論できないだろう。その子から、何も考えずに聖書が正しいと信じているんだ、バカじゃないの、と言われるよ。子どもは正直だからね。」
「JWがターゲットにしているのは、無知無学な人たちなので、そのような反論を予想する必要はないのです。」

「14節から、あまりよく知らない聖書中の人物にも興味を持て、とある。でも、調べるのが組織の出版物なので、正確な知識は得られないよ。」
「預言者アモスを例にしていますね。“聖書中の人物に命を吹き込みましょう”という囲み記事では、“貧しい家の出で,「エジプトいちじく」の木の手入れをし,羊を飼育していました。(アモス 1:1; 7:14)”と書いてありますが、これは嘘ですよね。」
「アモス書の中でそう書いてあるけれど、アモス書の著者はかなりの知識人だね。読み書きのできなかった羊飼いであるはずがない。あくまでもそう自称しているだけ。」
「その囲み記事では、アモスは、“奉仕する割り当てを受け入れ”たものの、“伝道をやめるよう命じられました。”と、現代のJWのような存在として描いています。時代錯誤ですが、親しみを持たせるためでしょうね。」

「17節からは、ゼカリヤ12:12で、“メシアが死ぬ時に「ナタンの家の家族」が激しく泣く,と記されています。”とあり、この意味を調べましょうということが書いてある。」
「17節の解説によりますと、ナタンはダビデの息子で、イエスの母マリアの祖先とかいてありますね。」
「泣き叫ぶのは、12:13では、“レビ氏族”と“しムイ氏族”で、12:14で、“残りの全ての氏族も,各氏族が自分たちだけで泣き叫び,女性たちは女性たちだけで泣き叫ぶ。”とあり、結局みんな泣き叫ぶんだよ。」
「それなのに、17節で、“でもダビデには息子が20人以上いました。ゼカリヤはその中からピンポイントでナタンの名前を挙げ,ナタンの氏族がイエスの死を嘆くことを正確に予告していました。これは,すごいことではないでしょうか。”と言っています。すこしもすごくないですね。ナタンだけの名前が出てくるわけじゃないですからね。」
「17節で、ゼカリヤ12:10を、“メシアの死を予告している箇所です。(ゼカ 12:10)”と紹介している。そこには、“彼らは自分たちが刺し通した人を見つめ,独り子について泣き叫ぶかのように泣き叫び”とあるので、これはイエスの死を予言しているという解釈なんだろうけれど、訳に問題がある。新共同訳では、“彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、”となっている。」
「刺されたのは、新共同訳では、語り手である神なのですね。どちらが正しいかというとたいていは解釈困難な方が正しいのですよね。」
「新世界訳は間違い。現代の聖書の多くは刺し貫かれたのは神としている。イエスは神であるという解釈なら問題ないけれど、そうじゃないJWは、この聖句をメシア預言とするわけにはいかない。」

「それから、17節に、“別の参照聖句であるルカ 3章23,31節からは,イエスの母マリアがナタンの直系の子孫であることが分かります。”とあるけれど、そこには、“イエスは活動を開始した時,およそ30歳で,人々の意見では,ヨセフの子であった。ヨセフの父はヘリで,”とあり、マリアのことなんか出ていないよ。」
「JWでは、ルカに出ている系図はマリアの系図としているのです。マタイの系図とルカの系図があまりにも違うことの解決策なんですよ。」
「聖書のどこにもマリアがダビデの子孫だなんてことは書かれていない。ルカにある系図がマリアの系図だというのは、何の根拠もない。ルカ1:27は、“ダビデの子孫のヨセフという男性と婚約していた処女のもとにである。その名前はマリアといった。”とあり、ルカはヨセフがダビデの子孫であることをわざわざ書いて、そのことにこだわっている。それなのに、なぜ3章で、マリアの系図を長々と書くの?おかしいだろう。」
「聖書に不一致があってはいけないというJWの教義上の要請ですよ。不一致はたくさんあるのですが、適当な理由をつけて不一致ではないと、無知な信者に思わせなくてはいけないのです。」
「17節に“イエスがダビデの子孫として生まれる,と預言されていたことは知っています。(マタ 22:42)”とある。引照聖句のマタイ22:42に、“「キリストについてどう考えますか。彼は誰の子ですか」。その人たちは,「ダビデの子です」と言った。”とあるけれど、旧約にはメシアの称号として“ダビデの子”といういい方は一度も出てこない。」
「この記事も、それを示す旧約からは引用はないです。」
「1世紀になって、いつかユダヤ民族を外国の支配から救ってくれるであろう王を指す言葉として、“ダビデの子“といういい方が一般化しただけ。それが旧約聖書で予言されていたというのはおかしいね。」

「18節で、天使ガブリエルがマリアに受胎告知する場面を取り上げて、こう書いています。“ヘロデ王またはその後継者に代わって,イエスがイスラエルを王として支配するようになる,と思ったでしょうか。もしそうなれば,マリアは王の母となり,家族は王宮で暮らすことになります。しかしマリアは,そのような可能性についてガブリエルに尋ねてはいません。”このことをもってマリアをとても謙遜な人としていますが、マリアは単に、自分が王の母として王宮で暮らすなんてことを思いつかなかっただけですよ。いきなり天使が現れて、とんでもないことを言ったら、ただ驚くだけです。」
「マリアはその後、“どうしてそのようなことがあるでしょうか。私は男の人と関係を持ったことがありません。”と答える。これってへんな答えだよ。ルカ1:31で、天使は、将来のこととして“あなたは妊娠して男の子を産みます。イエスと名付けなさい。”と言っただけで、今妊娠しているよ、と言ったわけじゃないからね。」
「やっぱり気が動転していたんですね。天使に向かって,アホなことを言って恥ずかしい。」
「マリアどうしてこのように答えたのかについて、昔からいろいろ論争になっている。JWには関係ないけれどね。」
「JWの出版物などを参考にすると、ろくな聖書研究はできないということですね。」

#1093 2019年08月09日 16:45:11

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“気をつけなさい。……あなた方をえじきとして連れ去る者がいるかもしれません(23)”で、サタンの策略に気をつけろと言って、キリスト教、同性愛者、高等教育に偏見と憎しみをぶちまけたという内容です。」
「これはJWらしい記事だね。なにせ“サタンはわたしたちをエホバに背かせたいと思っています。”で始まる。まるで19世紀のアメリカの伝道師みたいだ。当時は、悪魔が誘惑するとか、悪魔がだまそうとしているとか、やたらと悪魔を強調していた。JWもその時代に始まった宗教だからね。でも地獄の恐怖を語らないだけまだましかも。」

「1、2節で、コロサイ2:8が取り上げられています。そこでは“哲学や,中身のない欺きにより,誰かに捕らわれてしまうことがないよう気を付けてください。”とあるのですが、ここで言う“哲学”は現代人の考える哲学とは違いますよね。」
「哲学と訳されているphilosophiaは、新約ではここにしか使われていない単語で、具体的に何を指しているかははっきりしない。可能性が高いのは、キリスト教のなかにあるユダヤ教的な思想だね。」
「コロサイは旧約からの引用が一つもないのが特徴でした。」
「コロサイの著者は、パウロの名をかたって、キリスト教からユダヤ起源の習慣や規定を一掃したいという意図をもっていたようだ。ユダヤ的伝統から脱して、よりギリシャ-ローマ的な、つまりヘレニズム的なキリスト教を目指している。」

「4節からは、約束の地に入ったイスラエル人の話です。7節からは、“サタンがイスラエル人を捕らえるために使った3つの策略”についてです。最初は、“自然な願いに付け込む”です。」
「それって、具体的にはバアル崇拝のことなのだけれど、バアルの影響は、人の名前からわかる。歴代誌一8:33,34に、“サウルの子は,ヨナタン,マルキ・シュア,アビナダブ,エシュバアル。ヨナタンの子はメリブ・バアル”とある。初代イスラエル王のサウルでさえ、自分の子どもにバアルを含む名前を付けている。」
「エシュバアルは、脚注で“イシ・ボセテとも呼ばれる。”とありますが、バアル崇拝が問題視されるようになった時点で、バアルを含む名前は、改名が行われたのですね。」
「歴代誌一14:7にダビデの子どもの名前が出ていて、“ベエルヤダ”というのがいる。この名前の意味は、“バアルは知った”というもので、ダビデでさえ、自分の子どもにバアル由来の名前を付けている。ダビデが熱心なエホバ(YHWH)崇拝者だなんて嘘だということが系図からわかる。」
「“ベエルヤダ”はサムエル二5:16の“エルヤダ”のことですね。これもバアル由来の部分のベエルを取って、神をあらわすエルに後で変えたわけですね。」
「バアル崇拝は普通に行われていて、王家の人もそれにちなんだ名前を自分の子どもにつけていた。後にYHWH崇拝がイスラエルで勝利し、唯一絶対の正しい宗教となった。その時点で、歴史をさかのぼって改名が行われたけれど、歴代誌には元の名前が保存されているということだね。」
「歴代誌というと、膨大な家系図があって、読む気がしませんが、役に立つこともあるんですね。」

「バアルは、嵐の神で、雨をもたらすとされ、片手に稲光を持ち、もう片手にこん棒のようなものを持った像として、発掘されている。日本で言うカミナリ様だね。」
「イスラエルも多神教だったということですね。」
「古代のイスラエルから、様々な神像が見つかっている。バアルもその一つ。庶民は、いろいろな神様に祈っていたようだ。一神教になるのはバビロン捕囚以後。ちなみに、ローマと戦ったカルタゴの将軍ハンニバル(正しくはハンニ・バアル)は、“バアルは恵み深い”という意味。」

「サタンの策略の2つ目は、8節で、“不道徳な欲望に付け込む”です。“カナン人は神々への崇拝の一部として,非常に不道徳なことを行ないました。神殿には売春を行なう女性や男性がいました。同性愛行為など様々な性的不道徳は容認され,普通のことと見られていました。”とありますが、本当でしょうか?」
「これについては、聖書以外の資料はない。神殿娼婦について、聖書以外の文献で出てくるのは紀元後、新約聖書の時代なんだよね。ヘブライ語でも神殿娼婦・男娼という単語はない。“聖なる”という形容詞の女性形、男性形がでているだけで、それが神殿娼婦・男娼というのは推測だからね。この記事が断言するほど、カナン人がそのような習慣があったかどうかははっきりしない。」

「策略の3つ目は、“エホバがどんな方かを曖昧にする”と9節にあります。」
「そこに、“イスラエル人はエホバの名を使うのをやめ,「所有者」とか「主人」を意味するバアルという名を使うようになったと思われます。”とある。しかし、これがどの程度そうだったのかは不明だ。この節の主旨は、神の名前を使わないキリスト教はサタンの罠に落ちている、さっさと滅びろ、ということだろう。」
「JWはエホバという中世ヨーロッパで作られたインチキな神の名前を使うことを、なぜか真の宗教の根拠の一つにしていますから。」
「笑えるね。JWだけ、神の名としてエホバを使っているけれど、JW自身だってエホバは正しい呼び方じゃないと認めているよ。1984年に出版された“神のみ名は永久に存続する”で、“多くの人はエホバという発音のほうを好みます。なぜでしょうか。それが広く用いられており,なじみがあるのに対し,ヤハウェのほうはそうでないからです。それでも,もともとの発音に近いと思われる形を用いるほうが良いのではありませんか。実際にはそうではありません。”とある。」
「ヤハウェの方が正しいけれど、エホバの方がなじみがあるから、エホバでいいんだという理屈ですね。本当はエホバの証人という名称を今更変えられないからですね。」
「普通の人なら、こんな宗教の信者であることが恥ずかしく感じるよ。」

「YHWHの神聖4字は、モーセの十戒の第3戒に神の名をみだりに唱えてはいけないとあることから、発音しなくなり、主(アドナイ)とか御名(シェム)と読み替えるようになり、その習慣はキリスト教にも取り入れられたというのが、普通の歴史書が説明していることですよね。」
「JWは歴史の専門家なんて一人もいないくせに、それを否定して、神の名前が使われなくなったのは、背教者の陰謀と言っているわけだ。自分たちに不都合なことは誰かの陰謀だなんて、典型的なカルトの思考だよ。」

「10節からは、“サタンが今,使っている策略”で、話が現代になります。12節は、“サタンは不道徳な欲望に付け込む。”ですが、その上の写真が、“同性愛を容認する,教会の宣伝。”というもので、要するに同性愛を攻撃しています。」
「JWは、どうやら女性差別、同性愛者差別は止められないようだね。となると、これからJWになる人は、アメリカだとトランプ大統領を支持しているような保守的な宗教右派しかいなくなるね。」
「もし同性愛差別が法律で禁止されるようになったら、どうするのでしょうか?」
「そのような差別的な団体には税金の免除をやめるということになったら、方針を転換すると思うね。」

「13節は、“サタンは自然な願いに付け込む。”で、“多くの国の学校では,役立つ技術だけではなく,人間の哲学も教えられています。神はいないとか,聖書など役に立たないという考えを植え込まれます。”とあり、大学に進学するとサタンに支配されるようです。」
「カルト宗教的だね。でも組織は、学歴のない者を軽んじ、一流大卒の有資格者を優遇する。若いJWがこんな文章を真に受けると損すするよ。“skills”を“技術”と訳しているのは間違い。翻訳者は教育のことを知らないんだろう。大学教育を非難している記事を書いている本人は大学に行ったことがないんじゃないかな。」
「13節で、“生命の起源をきちんと説明しているのは進化論だけだと教えられます。”と学校教育を非難しています。これも間違いですね。進化論は生命の起源について説明するものではありません。」
「生命の起源についての学問はAbiogenesisという。JWは進化については認めるしかないけれど、生命は神が造ったという点は譲れないという立場なんじゃないの。」

「15、16節で、一人の姉妹の体験談が出ています。高等教育を否定する根拠が、たった一人の体験談とは、情けないです。結論は、“天の父エホバが組織を通して与えてくださる警告を無視するのは非常に危険だ,ということです。”で、組織に服従といういつもの話ですね。」
「組織に盲従するのが理想の生き方である、というカルトの教義そのものだね。」
「高等教育が良くない理由として出ているのは、“大学での勉強に時間とエネルギーを奪われ”ることです。それで伝道や集会の予習ができなくなるから良くないという理屈です。」
「高等教育は嘘を教えている、悪魔の教えだ、とヒステリックに叫んでほしかったね。大学に反対する本当の理由は、大学に進学すると、JWをやめてしまうからだろう。」
「実際は、若いJWの多くは大学に行くと決めた時点でJWをやめるつもりですよ。大学教育のせいでJWをやめるのではなく、その前にJWのバカバカしさ気づいたからやめるのですよ。」
「なるほど。進学を理由に、カルト宗教を押し付けるJWの親から離れられるしね。」

「16節で、“大学教育のせいで,他の人,特に兄弟姉妹を批判的な目で見るようになり”と言っています。この一文は、大学教育が批判的思考を奨励することに対して、皮肉っているようです。」
「批判的思考は、他人のあら捜しをして攻撃するという意味ではなくて、結論に至るまでの自分あるいは他人の思考のプロセスを批判的に吟味し、より良い思考を目指すことだよ。この記事は、批判的思考を捻じ曲げて理解している。」
「盲従を美徳とする自分たちの立場を擁護するには、そうするしかないのですよ。」

#1094 2019年08月10日 09:54:44

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

「笑えるね。JWだけ、神の名としてエホバを使っているけれど、
JW自身だってエホバは正しい呼び方じゃないと認めているよ。

わたしもエホバの証人だけが神の名としてエホバを使っていると思っていましたが、
よくよく注意して探すと日本聖書協会発行の文語訳にはエホバが訳出されていて、
明治時代から変更されていません。今でも販売されている聖書です。
また、2015年発行の回復訳という聖書にもエホバが訳出されているので、
エホバの証人だけが使っているということではなさそうです。
でも、新約聖書には写本に神の名前が表記されていないので、
ものみの塔協会が独自の解釈でエホバを訳出するのは問題があると思っています…。

オフライン

#1095 2019年08月16日 16:39:37

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“神の知識に逆らうすべての推論を覆しましょう”で、JWというカルトにふさわしい人間になれるよう、自分を変えようという内容です。」
「バプテスマを受けてJWになったけれど、JWを辞めてしまう人がかなりいるので、その対策といった内容だね。」
「国別の統計を見ると、バプテスマが多いにもかかわらず、JWの増加数がそれ程でもない国がありますね。それは毎年相当辞めているからですね。」
「JWであることのリスクやデメリットを十分知らせていないからじゃないの。それはカルト宗教の特徴だね。入信時に、リスクを説明しない、退会の困難性を説明しない、全生活を宗教に捧げることが求められることを説明しない。組織の真の目的を説明しない。」
「組織の真の目的は何ですか?」
「たいていの組織は、時間の経過とともに、初期の目的は失われ、ただ組織の存続が最優先になる。生き残りが目的だよ。」
「組織の存続なら、輸血の禁止など評判の悪い教義を撤回すればいいのに、なぜしないのですか?」
「組織の目的のもうひとつは、自分たちのアイデンティを保つことだからだ。つまり、自分たちを他の組織と区別するような特徴は維持し続けて、自分たちらしさを失いたくないということ。」
「組織が存続しても、自分たちらしさを失っては意味がない。損だとわかっていても、譲れないものが組織にはある、それがアイデンティティですね。」

「5節で、ローマ12:2を引用し、“2つの行動が必要です。まず,世に「形作られるのをやめ」,次に,思いを作り直して「自分を変革」することです。”とある。そのためには、6節で、“思い,つまり内面の考え方や感情や欲求を「作り直す」必要があります。”とある。これは難しそうだ。」
「その次に、6節では、“イエスはマタイ 12章43‐45節で,どんなことを行なう必要があるかを教えています。(読む。)”とあり、“間違った考えを取り除くだけではなく,神に喜ばれる考えで思いを満たす必要がある,ということです。”というのが結論です。マタイ12章を読む限り、この結論はおかしいじゃないですか?」
「マタイ 12章43‐45節は、悪霊が人から出たけれど、結局元に戻った。さらに7人の悪霊を連れてきて、初めより悪くなったというもので、結論は、“この邪悪な世代もそうなります”というもの。この記事の結論とは全然違う。JWの解釈は通俗的な道徳論的解釈で、悪いものを追い出してもよいもので満たさないとダメだというものだけど、そんな意味じゃない。」
「ここはマタイ12:38から45までがひとかたまりです。38で、“何人かの律法学者とパリサイ派の人たちがイエスに言った。「先生,あなたからのしるしを見たいのですが」。”という問いかけに、39から45まで、イエスの話が続くというものです。イエスがメシアであることのしるしを求める人たちに警告している内容です。」

「8,9節には自己を変革した男性の話が出ています。大酒のみの乱暴者がバプテスマを受けたけれど、また暴力事件を引き起こした。しかし、努力して、長老になり、9節によると、“内面の深いところで,平和を求める謙遜な人に変化していました。”とあります。本当でしょうか?」
「JWの長老って、誰でもなれるんだな、というのが最初の感想だ。この話は、内部の信者ならいい話と思うかもしれないけれど、外部の人は、善人そうなJWも、一皮むけば危険な社会の落ちこぼれにすぎないということを知って、JWに対する警戒心を強めるだろう。元犯罪者が長老になったという話しも以前に出ていたけれどね。」
「外国では、刑務所にも伝道活動をしているところがありますからね。しかし、悪人でも善人に変われるでしょう。」
「犯罪者の多くは、まともな職があり、まともな生活ができるようになれば、犯罪に手を染めることはなくなると思うよ。つまり社会的経済的状態が変われば、人間の行動も変わる。しかし、社会的経済的状態はそう変わらない。」
「貧乏なJWが、生活苦のあまり、つまらない犯罪で逮捕されたことは日本でもあります。JWにならなければ、普通に働いて、貧困にもならず、犯罪者にもならなかったでしょう。」
「JWは、先進国では低学歴貧困層の宗教になっている。従ってJWの犯罪は増えると予想できる。統治体も頭がいたいよ。」
「それで、今週の記事はまともな人になりましょうということになったんでしょう。」

「一方、根っからの犯罪者というのもいる。反社会性パーソナリティ障害、いわゆるサイコパスだ。彼らは口が達者で、表面的には魅力的といわれるから、JWに向いているかも。良心が欠如し、病的な虚言癖があるのもサイコパスの特徴だから、ますますJWに向いているよ。こういう人は、いわば脳のどこかに異常があるような人だから、表面的にしか変われない。」
「JWの数が増えれば、そういう人がJWにいる確率は増しますね。」
「誰でも長老になれるみたいだから、長老の中にはそんな人がいるでしょう。」

「11節以降、考えを新しくするための具体的方法が出ています。祈りprayer→思いめぐらすmeditation→良い友達を選ぶassosiation→初めに戻る、というサイクルが出ています。」
「これは品質管理の仕方を説明する時に使われるPDCAサイクルの真似だ。JWの場合はPMAサイクルだけど。執筆者が、どこかの本でPDCAサイクルのことを知って、この図を思いついたんだろう。」
「2番目のmeditationは普通“瞑想”と訳すのに“思いめぐらす”と訳したのは、瞑想だと仏教的と思ったからですか?」
「キリスト教でいうmeditationは、神、イエスや聖母マリアを心の中で生き生きと思い浮かべるというような意味で、祈りの一つの形態ともいえる。聖書の重要なシーン、例えばイエスが十字架を担いでゴルゴダの丘を登り、処刑されるまでを、静かな場所で集中して、リアルに頭の中で思い浮かべるわけだ。そのことにより新たな発見や啓示が得られるというようなもの。修道院の中にはmeditationを非常に重視するところも多い。」
「カトリックだとロザリオ使ったりしますよね。各連ごとに、イエスの生涯などを黙想することが勧められているようです。」
「カトリックはいろいろな小道具があって面白いよね。プロテスタントはカトリックに対抗する宗教勢力で、カトリック的なものを徹底排除したので、その種の小道具がない。とくにアメリカに渡ってきたピューリタンは、文字通りピュアな信仰を実践しようとして、初期には十字架も排除していたし、クリスマスも誕生日もカトリック的という理由で祝わなかった。」
「ということは、JWは、初期のピューリタンに似ているわけですね。強烈な反カトリックですし。」
「全てが似ているわけではない。プロテスタントの重要な信条に、“万人祭司”というものがある。神の目には祭司と信徒の区別はない。誰もが神の言葉を直接聞ける祭司だというもの。それで信者には聖書を読んで、神のメッセージを自分で受け止めることを勧める。それに対して、JWでは人間は2つの階級に分かれるという思想だし、中央集権的な組織だし、聖書の解釈は一部の人間だけが正しくできるというもので、アメリカの初期のプロテスタントとはかなり違う。」

「話をmeditationに戻すと、JWの理解は、12節で、“思い巡らす,つまり深く考える必要があります。”とあるので、“深く考えること”という意味のようです。挿絵にある説明文では、“自分のことを考える”とありますので、具体的には、反省あるいは自己批判をせよ、ということのようです。」
「13節に、5つの具体例が出ているよ。周りの人を、妬んでいないか、教育や収入に関してほこりを抱いていないか、他人を見下していないか、この世のものや娯楽に魅力を感じていないか、心惹かれていないか、といったもので、宗教的な思いめぐらしとは関係ないね。宗教が小市民的な道徳に変わるのもアメリカ的だ。」
「自分を価値のある人間と思うな、JW以外のものはサタン支配下だから近づくなということのようですね。カルトに多い、自己否定と社会的孤立化が目的ですね。」

「サイクルの第3が“良い友達を選ぶ”で、これはかなり露骨な社会的隔離政策だ。“集会では最高の友達を見つけることができます。”と書いているけれど事実に反するでしょう。」
「この部分で、集会に来ているJWは静まり返ってしまいますよ。」
「JW同士の関係は条件付きで、もし信者でなくなったら無視する。組織の意図は、信者を社会的に孤立させ、JWの集会へと隔離しようということだね。」
「そして、また祈るというわけですが、このPMAサイクルで新しい考えが身につくのですか?」
「カルトが新しい考えを信者に身につかせるために使う方法は、自分たちこそが真理を知っていると主張し、自分たち以外は悪魔の手先とか腐敗しているとかと言って敵視させた後、この世界には善と悪の二つしかないという単純な二元論に基づいた教義を反復学習させる。カルト自体の教義は薄っぺらなものだけど、それを繰り返し、繰り返し、学ばせる。」
「ものみの塔も同じテーマの話が何度も繰り替えされています。何かを憎むことを教える宗教はろくなものではないですよ。」

「16節で、サタンの質問は、“「……と神が言われたのは本当ですか」という,疑念を抱かせる質問です。”とあります。同性婚の禁止、クリスマスや誕生日を祝わないこと、輸血の禁止、排斥された家族との交友禁止、は本当に神が望んでいるのかとよく聞かれるのだそうです。」
「JWも、その4つは気にしているということだね。聞かれても、きちんと説明できないので、17節で、“わたしたちは,自分が信じていることは正しいと確信する必要があります。”となるわけだ。」
「そして、“聖書を勤勉に学ぶなら,聖書の教えが正しいことを確信できます。”と17節にありますね。でも、JWの教義は聖書的根拠のないものが多いですから、聖書の教えが正しいと確信しても、JWの教えの正しさの確信にはつながらないですよ。この記事の執筆者は、本当に聖書は誕生日を祝うことや輸血を禁じていると思い込んでいるのですね。」
「そうだろう。だから、聖書の正しさを確信できれば、JWの正しさも確信できるなどと、奇妙なことを書いても、そのおかしさに全く気づかないんだよ。」
「ものみの塔の執筆者って、ほとんどがJW2世や3世で、JWの教え以外ほとんど何も知らない人たちのようですからね。」

#1096 2019年08月21日 15:49:24

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

火曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“ストレスを感じる時,エホバに頼りましょう(25)”で、ストレスを感じたら、祈って、集会に出席すること、といった怪しげな内容です。」
「17節に、ソフィアという女性が“特に,集会が大きな力になっています。宣教や会衆の活動を行なえば行なうほど,ストレスや不安にうまく対処できると感じています”と嘘くさいことを言っているけど、これは組織の意見を代弁しているだけだね。JWにとって集会、宣教や会衆の活動は、あらゆる問題を解決してくれる万能薬というのが建前なんだね。」
「実際はかえって悪化するだけですよ。ストレスを感じたら、ゆっくり休みましょう、という誰もが思いつくアドバイスがないところに、JWの異常性を感じますね。」
「カルトは信者を休ませないもの。絶えず何かに駆り立てて、信者がじっくり考える暇を持たないようにする。祈りや瞑想を強調するのも、信者がじっくり考えさせないようにするという面もある。」

「2節にはかなり悲惨な例が出ています。多発性硬化症の人が、妻に捨てられ、娘二人は、本文中にはありませんが、恐らく排斥でJWをやめてしまったという話しです。」
「多発性硬化症は日本人にはあまりいないけれど、中枢神経の脱髄によっておこる病気だ。この病気の原因は、免疫系の異常と推定されていて、ストレスが原因でなるものではないよ。」
「もう一つの悲惨な例は、夫婦の話で、失業し、家を失い、妻は重病というものです。」
「アメリカの例と思うけれど、アメリカの住宅ローンは家を手放せば、残りのローンを支払わなくてよいというタイプが多い。日本だと、家を売却しても、ローンの残りは払い続けなくてはならないから大変だ。たいした収入がないJWでも、今は簡単に住宅ローンを組めるから、こういう事例は出てくるね。金融機関は、低金利で金利の利ザヤをとれなくなったので、無理な貸し出しをしているということ。」

「4節から、エリヤの例です。5節によると、王妃イゼベルに命を狙われて、エリヤは、“ストレスと極度の疲れでいっぱいいっぱいになってしまったのでしょう。”とあります。そのエリヤをエホバが天使を使わして、助けたという、列王一の19章の話です。」
「4節の下の挿絵だけれど、天使が、翼をもった髭のおじさんとして描かれている。JWの公式天使像って、こんなむさくるしいものなんだ。中世ヨーロッパの天使像は、美少年の姿で描かれることが多いね。」
「天使の姿について、聖書はあまり述べていませんよね。」
「エゼキエル10:21は、“ケルブは4人とも4つの顔と4つの翼があり,翼の下には人間の手のようなものがあった。”とあり、また、エゼキエル41:18,19では、“ケルブにはそれぞれ2つの顔があった。人間の顔が片側のヤシの木の方を向き,ライオンの顔が反対側のヤシの木の方を向いていた。”とある。ずいぶんグロテスクだ。」
「イザヤ6:2は、“セラフたちがその方の上の方に立っていた。おのおの6つの翼を持ち,2つで顔を覆い,2つで足を覆い,2つで飛び回るのであった。”とあります。」
「JWの天使像は、聖書的根拠のないもので、伝統的なキリスト教美術の影響を受けているだけ。」
「クリスマスや誕生日と同じように、このような天使像は、異教が起源だから描くのを禁止すべですね。」

「エリヤとその後継者エリシャは預言者なんだけれど、同時に奇跡を行う人でもある。その後の預言者には奇跡を行う人はいない。原始的な預言者だね。」
「18章のバールの預言者との対決なんて、神々との争いという点でも神話的です。神話が多神教を前提としているように、18章では、バールが神であることが前提ですよね。」
「歴史的には、バール崇拝とYHWH崇拝はイスラエルでは共存していたので、どちらが本当の神かなんていう対決は考えにくいね。4節に、“イスラエルの歴史の中でも特に不忠実な王アハブは,邪悪なバアル崇拝者イゼベルと結婚しました。”とあるけれど、アハブは、自分の子どもに、アハズヤ(YHWHは捕らえ給う)、ヨラム(YHWHは高くいます)、アルタヤ(YHWHはあがめられる)と名付けている。アハブはYHWH信仰を捨てたわけではなくて、バアル崇拝と共存をはかっただけ。みんな仲良くやろうよということ。しかし、過激で排他的な宗教家であるエリヤは断固拒否したということだろう。」
「列王一18:24で、エリヤは“あなたたちは自分の神の名前を呼びなさい。私はエホバの名前を呼びます。火によって答える神が真の神です」。民は皆,「それはよい」と言った。”とあります。火で答えるのが真の神というエリヤが持ち出した基準は極めて原始的な神の見方です。自然神の一種ですね。」
「そういうことだね。エリヤが勝利した後、18:40で、“エリヤは民に言った。「バアルの預言者たちを捕まえなさい! 一人も逃してはなりません!」 民はすぐに彼らを捕まえ,エリヤは彼らをキションの川に連れていって殺した。”と、いつもの大虐殺で終わるのが、旧約聖書らしくていいね。」

「列王一19章では、エホバは例外的にエリヤに対して親切ですよ。」
「この19章の話は、ヨナの話と似ている。両方とも預言者の任務を放棄して逃げてしまう。しかし、神の働きかけで、本来の任務に復帰する。」
「ヨナに比べても、エホバはとても親切ですよ。エホバらしくないです。」
「だから、19章は後の時代の加筆あるいは修正が相当あると推定されている。19章は、18章の原始的な神の姿を明らかに修正しようという意図がある。」
「エリヤはホレブで神と出会うわけですが、これはモーセの物語の再現ですよね。」
「しかし、そのシーンは19:11、12でこう描かれる。 “エホバがそばを通り,暴風がエホバの前で山々を裂き,大岩を砕いていった。しかしエホバは風の中にはいなかった。風の後,地震があった。しかしエホバは地震の中にもいなかった。地震の後,火が生じた。しかしエホバは火の中にもいなかった。火の後,穏やかで静かな声がした。”」
「天変地異がおこるわけですが、そこには神はいないことを強調していますね。そして神の声は、雷鳴のごとくではなく、その反対の、“穏やかで静かな声”としています。エホバは、18章に描かれたような原始的な自然神ではない、ということを言いたいのですね。」

「8節に、“エホバに気兼ねなく祈ってください。エリヤの時とは違い,直接話しかけてくださることはありません。でも,ご自分の言葉 聖書や組織を通して語りかけてくださいます。”とある。なぜ、現代では神は直接話すことはないのか、説明してほしいね。古代では気軽に話をしているのに、現代ではなぜそうしないの?」
「神が直接話しかけるとすると、組織が不要になるからです。“組織を通して語りかけてくださいます。”とあるとおりです。組織存続のために、神は直接人間に話しかけないことに決めたんですよ。」
「それはものみの塔の公式見解じゃないよね。」
「ものみの塔の見解は、恐らく、答えはすべて聖書の中にあるので、聖書が完成した以降、神は話しかける必要がなくなったのです、というものじゃないですか。」
「そうかな。現代の問題の答えの多くは聖書にないよ。例えば、臓器移植、輸血。聖書時代には存在しなかったから、聖書に答えはない。だから聖書に基づいているというJWの見解も二転三転する。」

「9節で、“エリシャはエリヤを感情面で支えたことでしょう。わたしたちも,信頼できる友に話を聞いてもらうと,気持ちが楽になります。(王二 2:2。箴 17:17)”と、エリヤとエリシャは親友のように描いています。引照聖句の列王二2:2の“生きている神エホバとあなたに懸けて誓います。私はあなたから離れません。”とあります。2人は親友なのですか?」
「旧約の話を、安っぽい友情物語におとしめているね。旧約では友情というものはまず出てこない。」
「これは、王二2:1に、“エホバが暴風によってエリヤを天に上げようとしていた頃”とありまして、エリシャはエリヤが間もなくいなくなることを知っていたわけです。それで、エリシャはエリヤのそばから離れず、次のシーンとなります。王二2:9で、“エリヤがエリシャに言った。「私があなたから引き離される前に私に何をしてほしいか,言ってください」。エリシャは言った。「あなたが持つ聖なる力を2倍分頂けないでしょうか」。”」
「つまり、エリシャはエリヤから、彼の後継者として、聖なる力が欲しかったから、離れたくなかっただけ。友情からではない。」

「11から15節にかけて、ハンナ、ダビデ、ある詩編作者の例が出ていて、その例から、15節によると、“エホバが人々をどのように助けたかを思い巡らし,エホバの助けを祈り求め,エホバが求めておられることを行なうなら,ストレスに対処できるのです。(詩 143:1,4‐8)”と結論付けます。」
「ある詩編作者って、詩編73編の作者のことだね。13節で、“この人は,レビ人アサフの子孫だと思われます。「神の大いなる聖なる所」で奉仕していましたが,感情的なストレスのせいで幸福感や満足感を失いました。”と、詩編73編から説明している。まるで、詩を作者の人生経験そのものかのように理解しているんだ。詩の読み方を知らないようだね。」
「詩編73編は、悪に対する信仰の勝利をうたったものですよね。」
「前半では、悪人の繁栄によって、信仰者が試練を受けている状況を描き、後半は、悪人は結局滅び、信仰者が栄光を受ける、という内容の詩だね。なぜ悪人が栄えるのですかという問いに答えるもので、個人のストレスなんか関係ないでしょう。」
「引照聖句の詩編143篇も、ストレスの対処などとは無関係な詩ですよね。」
「この詩は残忍な敵の迫害からの救いを求める熱烈な祈りだね。」

「16から19節で、孤立しないで集会に行け、エホバが助けてくれると言っています。」
「16節で、夫に捨てられたナンシーは、“他の人の悩みを聞いていると,その人の問題の大変さがひしひしと伝わってきて,自分の問題は気にならなくなりました。”とあるけれど、これは間違った対処法。ストレスに対処することをコーピングcopingというけれど、ナンシーの方法は、回避型コーピングという。ストレスの原因について真剣に考えることをせず、ストレスの原因についての考えや感情を意識から排除することによって対処している。」
「ナンシーのように問題を回避することによってストレスに対処していると、病気になったり、死亡する確率が高くなると思います。」
「HIV陽性者の研究が有名だね。HIVについて考えない、意識しない、悩まない患者は、そうでない患者より、不適切な行動が多く、死亡率も高い。」
「記事の中には書いていませんが、ナンシーの夫が彼女を去った理由は、ナンシーがJWだからと思います。JWの場合、ストレスの原因であるJWをやめるという適切なコーピングが行えないわけです。そして、精神的に病んでいくわけですね。」

「最後の19節に、“ローマ 8:37‐39を読む。使徒パウロは,どんなものも神の愛からわたしたちを引き離すことはできない,と保証しています。”とあるけれど、JWの神様は違うだろう。」
「JWの神様は、信者に対して、とても要求的で、裁くのが大好きで、些細なことで排斥処分にせよ、と命じている愛の乏しい神様ですからね。パウロのいう神とは関係ないですよ。」

#1097 2019年08月29日 14:58:39

聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界

水曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“ストレスに対処できるよう兄弟姉妹を助ける”で、ロト,ヨブ,ナオミの例から、辛抱強く、思いやりを持って、兄弟姉妹に接し、配偶者を失った人に慰めの言葉をかけよ、といった内容です。」
「本当にストレスに対処する方法を学びたければ、その専門家の本を読むべきで、JW流の聖書教訓物語は必要ないと思うよ。ストレスを感じたら、ウイスキーを飲んで忘れろ、と書いてあるかと思ったら、それはなかったね。」

「3から7節がロトの話です。創世記のロトってダメな男ですよね。ところが、ペテロ二では正しい人になっています。」
「ペテロ二の作者は創世記をよく読んでいないのだろう。ペテロの名をかたった偽物だからね。まず、創世記14章では、ロトは捕虜になり、アブラムによって救出される。ロトって、アブラムのお荷物だ。」
「ソドム脱出の話ですが、創世記19:14には、“それでロトは出ていき,娘たちと結婚することになっていた婿たちに何度もこう言った。「急いで,ここから出なさい! エホバがこの町を滅ぼされます」。しかし,婿たちには,ロトが冗談を言っているようにしか思えなかった。”とあり、ロトは自分の娘婿からさえも敬意を受けていません。」
「ソドムから逃げるときも、“ぐずぐず”しているし、酒に酔って実の娘とセックスをするし、ダメな奴としか言いようがない。」
「創世記19:29によると、“神はその地域の町を滅ぼした時,アブラハムのことを気に掛け,ロトをそこから助け出した。”と、神がロトを助けたのは、アブラハムのためだと説明しています。ロトはわざわざ助けるほどの人物ではないということですね。」
「4節に、“エホバは何と辛抱強い方なのでしょう。”とある。確かダメなロトに対しては辛抱強かったね。しかし、ロトの妻に対しては全然そうじゃない。」
「後ろを振り返っただけで、塩の柱に変身させられてしまった。不公平ですね。」

「ロトとその娘のその後は、創世記19:37,38によると、“やがて上の娘は男の子を産み,モアブと名付けた。その子が現在のモアブ人の父祖である。  下の娘も男の子を産み,ベン・アミと名付けた。その子が現在のアンモン人の父祖である。”とある。これは、イスラエルの敵であるモアブ人とアンモン人を愚弄するための話ということだね。」
「アンモン人とモアブ人の祖先は、近親相姦の結果できた子どもだとバカにしているわけですね。民族差別するための創作なんですね。」
「モアブ人は死海の東側に、アンモン人はヨルダン川の東側に住んでいた。イスラエル人の隣の住人で、イスラエル人は、彼らとライバル関係だ。しかし、モアブ人とかアンモン人と集団として存在するようになるのは、アブラハムの時代から数百年から千年後以降だから、創世記が書かれたのは、モーセの時代などではなく、だいぶ後の時代ということがわかる。」

「ロトの話からの教訓は、7節で、“ロトに対するエホバの見方に倣いましょう。兄弟姉妹の良い点に目を向けるなら,いっそう辛抱強く接することができます。”とまとめています。」
「ダメな奴でも見捨てるな、ダメな奴でもいい点はある、そんなところだね。ダメな奴の典型なのに、新約では、偉い人になっているのが理解できない。」

「8から11節は、ヨブのお話です。教訓がヨブの話とはあまり関係がないです。」
「9節では、“うわさを広めるのは,不親切で思慮に欠けたことです。ただでさえ苦しんでいる人に,さらに深い傷を負わせることになるからです。”とあり、会衆内での噂問題を扱っている。ヨブと関係ないよね。」
「JWの中で、心無いうわさに傷ついた人は多いと思います。相互に監視しあい、足を引っ張りあい、密告が奨励される集団ですから。」
「10節で、“ヨブは「乱暴な話」をしてしまうことがありました。後になって,言い過ぎてしまった部分があることを認めました。(ヨブ 42:6)”とある。引照聖句のヨブ42:6は、“それで,言ったことを撤回し,後悔して土と灰をかぶります”だけど、新共同訳では、“それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。”」
「言ったことを撤回したのか、自分を退けたのか、どちらなんですか?」
「文が不完全で、動詞の目的語がない。そのため目的語を訳者が補うわけで、JWは自分の発言が目的語だと解釈し、新共同訳では自分自身が目的語だと解釈したということ。」
「このヨブ42章は、ヨブ記の終わりの部分です。神と対話した後、反省している部分ですよね。単に言いすぎて、ごめんね、と言っているのではないと思うのですが。」
「JWの解釈は、わかりやすいけれど深みがないよね。ヨブは神と対話し、人間そのものの限界性を自覚し、聖なるものに触れ、おののきを感じた。とすれば、自分自身を退け、悔い改めますと言ったと解釈した方が作者の言いたかったことを表現しているよ。」

「11節に、“長老たちはどのように助けになれるでしょうか。エリフに倣うことができます。エリフはヨブに深い思いやりを示し,ヨブの言葉に耳を傾けました。(ヨブ 33:6,7)”とある。でも、引照聖句のひとつ前、ヨブ33:5では、“私に答えられるならそうしてください。言い分を私に提示し,意見を述べてください。”といっている。この部分を新共同訳では、“答えられるなら、答えてみよ。備えをして、わたしの前に立て。”としている。」
「エリフは思いやりを示しているかもしれませんが、自分の方が優位という立場でそうしているにすぎないということですね。答えられるなら答えろ、というのは答えられないだろう、という意味ですからね。」
「エリフは、3人の友人の発言が終わった後、33章から突然出てくる。ヨブ記の最後の所で、ヨブの友人たちは神様に叱られて、犠牲を捧げなさいといわれる。ヨブ42:9で、“テマン人エリパズ,シュアハ人ビルダド,ナアマ人ツォファルは行って,エホバに言われた通りにした。”とあるけれど、エリフについては何も触れられていない。」
「これは、エリフの部分が後から付け加えられたということですね。ヨブ記の最後の部分ではサタンについても何も触れられていません。ヨブ記の冒頭のサタンと神様の会話も、後からの追加ですよね。」
「それなのに、エリフの論点は、別の友人の言ったことの繰り返しで、目新しいことを言っていない。でも、32:9の“ただ年を取れば賢くなるのでも,ただ年を重ねれば正しい事を理解するのでもありません。”という発言は、伝統的な見解を否定するものだね。」

「12から18節までは、ナオミとルツを取り上げて、配偶者を失った人を支えましょうというものです。」
「それはとてもいいことだ。でも、JWは未婚が多いんだよね。結婚しなければ、配偶者を失うこともない。こういう記事の前に、結婚相手の見つけ方という記事が必要だね。」
「12節で、ナオミが“自分の名前を「苦い」を意味する「マラ」に変えたいと思いました。”とありますが、ナオミという名前の意味が「甘い」ということを知らない人は、この改名の話がよくわからないと思います。」
「一方、ルツはヘブライ語では“浸み込む、水につける”という意味だよ。ルツは英語ではルース(Ruth)と発音し、ホームラン王のベイブ・ルースのルースね。ruthは、英語では、“憐み、同情”という意味を持つ。ruthlessは、“無慈悲、残酷”という意味になる。」
「ルツは、ロトとその娘の間にできた子どもが祖先のモアブ人なんですね。」
「そして、ルツの子孫がダビデということになっている。」

「12節にルツは、“短くても心のこもった言葉で愛を表わし,ナオミを支えたのです。(ルツ 1:16,17)”とあり、この引照聖句は、“お母さんと同じ所で死に,そこで葬ってもらいます。生きている限り,ずっと一緒にいます。もしそうしなかったら,エホバが私を厳しく罰しますように。”で終わっています。最後の、“エホバが私を厳しく罰しますように。”は、何かを誓った時の決まり文句ですよね。」
「ルツの言葉は誓いの言葉で、一生ナオミの奴隷として使えます、といっている。ルツ記1章の終わりで、ナオミとルツはベツレヘムに戻るけれど、だれもルツのことは話題にしない。これは外国人の奴隷と見なされたからだ。」

「13節の夫を失ったポーラの話は悲しいですね。JWにしては、いい夫だったみたいですよ。」
「そのいい夫の話なのに、訳があまりよくないね。“悩みもよく聞いてくれました。夫がいなくなり,体の一部を失ったような気持ちです。”の元の英文は、“He provided a shoulder to cry on. I really felt as if I had been cut in half.”英文で読む方がいい夫だったんだと思える。」
「ポーラは夫の肩でよく泣いたのですね。」
「英文では、“本当に半分を切られたようだ”とあるのに、翻訳では、“体の一部”にしている。英文は、配偶者のことを指すbetter halfという慣用表現を前提にしているから、really(本当に)という言葉が挿入されているのに、翻訳者はそれがわからないのだろう。」
「better halfは配偶者のことなので、配偶者を失うのは自分の半分を失うわけですね。」
「今までの翻訳者は僻地の会衆に飛ばし、新しい人に替えるべき。」

「ポーラは、14節で、“人の死に直面すると,だれもが困惑します。不用意なことを言って相手を傷つけてしまうのではないかと心配するのです。でも,何も言ってもらえないほうが,もっとつらいです。”と言っている。これはJWだけの話だね。」
「JWは、人が死んだときどうすべきか、なにをいうべきかわからないのです。それで、慰めの言葉をかけることもなく、沈黙してしまう。」
「人の死は、“困惑する”だけなんだ。英文ではuncomfortableで、不愉快とか気まずいという意味。奇妙な表現だ。」

「人が死ぬとお葬式が行われるわけですが、JWの葬式では、亡くなった人についての話は5分で、あとは復活と楽園での生活という、JWの宣伝ばかり。その葬式に出て、JWの異常性に気づき、JWをやめる決意ができたという人もいます。」
「JWでは、死を悼むという当たり前のことが行われないようだね。それで、残された人は当然悲しみ、途方に暮れるけれど、そういう反応自体が間違いであるかのように感じてしまう。」
「JWは、楽園での永遠の命を信じているかのようにふるまわなくてはいけないので、現実の死に対して、悲しんではいけないのですよ。」

#1098 2019年09月06日 17:00:08

聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“今,迫害に備えましょう(27)”で、迫害は必ず来るので、それに備えて、組織の指示に従え、という内容です。」
「どんなタイプの迫害を想定しているのかと思ったら、2節で、“これからどんな迫害に遭うのか,あれこれ想像する必要はありません。”とある。ということは、迫害は単に信者を引き締めるための口実ということかな。」
「迫害に備えるためには、どのような迫害かを想定して、具体的な対策を立てるというのが普通のやり方だと思いますが、神の組織は違うわけですね。」

「写真付きで紹介されている3人の人物は、長い間刑務所で過ごしている。3人とも、中国と旧ソ連での投獄で、共産主義国家ならではの宗教迫害だね。でも、こういう迫害は多くの国では非現実的だね。」
「JWが多くいる、ほとんどの国は信教の自由が認められていて、その自由を利用して、JWの数を増やしてきたわけですよ。その様な国で、JWだからというだけで刑務所送りは考えられないですよ。」
「多くのJWにとって、国家的な迫害は現実感のない他人事でしょう。いま世界各地でJWは児童の性的虐待で訴えられていている。こちらの方が現実的な脅威だと思うね。過去の悪事が裁かれているにすぎないのだけどね。」

「4節から、具体的な備えが7つ出ています。エホバを愛し頼る、聖書を読む、祈る、神の王国に関する約束を信じる、集会に出る、聖句を覚える、賛美の歌を歌う、だそうです。」
「JWが普段やっていることを、さぼらずにやれということだね。」
「神の王国に関するJWの教義は、かなり怪しいものなので、固く信じろと念を押しているのでしょうね。」
「あと数年で、神の王国が来ると信じていれば、刑務所暮らしも耐えやすいのは真実だろう。すべての困難を克服するのが、間もなく終わりが来る、という信念ということだね。」
「そうやって、長い刑務所暮らしを耐えた人も、実際は、神の王国を見ることなく、死んでいったわけですね。」

「7節で、スタンレー・ジョーンズ兄弟は“神の王国についてしっかり学び,王国が成し遂げる事柄を信じ,一瞬たりとも疑わなかったの で,圧力を受けても動じませんでした。”と言っていますが、“わたしたちの王国宣教”の2001年1/11号では、“わたしたちは信仰にかたく立つことができます。まず,研究しなければならないことは言うまでもありません。研究しなければ自分の中に力をたくわえられません。”と言っています。どちらが本音なんですか?」
「この人は組織に迎合するようなことをいろいろ言う人だったので、何度も引用されているということでしょう。」

「集会に出ることに関して、8節で、“集会への出席をどれほど大切に見ているかは,今後,迫害に遭っても信仰を保てるかどうかを左右するからです。”とあります。集会に来ないJW は迫害に弱い人といじめられそうで嫌ですね。」
「国家的な迫害がおこれば、集会なんて無理だよ。JWはバラバラになると想定すべきで、たった一人でも信仰を保てるようにすべきでしょう。」
「集会を休みがちの人は、迫害に備えて、一人で信仰を保つ訓練をしています、と言えばいいわけですね。」
「ふざけるな、と怒られたら、迫害は間もなく始まるのですよ、今から一人一人がそれに備えるべきです、と天を見上げて真面目に答えればいいよ。」
「以前、迫害に会い、密かに個人の家に集まっているという写真がありましたけれど、JWは国家的な迫害がっても、集会が開けると想定しているようです。」
「信者の引き締めにすぎないよ。まじめに考えているわけじゃない。その写真の中で、電波を出す電子機器を使っていた。位置がすぐわかるよ。」

「聖句を覚える、歌を覚える、というのは一人でもできますね。記事の中で、家族で聖句を暗記しているのと、車の中で歌っている写真が使われています。お父さんが見せているカードには“イザヤ43:10“と書いていて、男の子が手を挙げています。」
「“エホバはこう宣言する。「あなたたちは私の証人である。”という聖句ね。ここでいう“あなたたち”はイスラエルの民のことで、JWと何の関係もないよ。」
「こういう聖句を暗記すれば、迫害の時役に立つのでしょうか?役に立つという根拠は、9節の、たった一人の体験談なのですよ。」
「その体験談も、“聖書の様々な論題について黙想することで,さもなければむなしかったであろう日々を過ごせたのです。”とあるから、単純に聖句を暗記してよかったと言っているわけじゃない。単純な聖句の暗記が役に立つとは思えない。」

「歌は役に立ちそうな気がしますが?使徒16章のパウロとシラスの例も出ています。」
「そのためには格調高い詩とメロディーが必要でしょう。JWの歌はもともと宗教的な荘厳さに欠け、音楽的にも優れているとは言えなかったけれど、最近はますます安っぽい歌になっているんじゃないの。」
「伝統的なキリスト教音楽の足元にも及ばないと思います。作曲者のレベルが違いすぎます。」
「囲み記事で、“勇気をください”という歌が、8歳の子どもから褒められたと自慢しているけれど、情けない記事だと思わないのかな?作曲家じゃなくて8歳の子どもだよ。子ども向けの歌ではないよね。」
「歌詞は、“立ちはだかる恐れの壁/ 神が共にいて道を拓(ひら)く”で始まりますから、決して子ども向けではないと思います。この歌に感動した8歳児はどうかしていると思いますよ。」

「11,12節は、ダビデがゴリアテを倒した話で、ダビデの勇気を見倣おう、という話しです。ダビデがゴリアテに勝てたのは勇気だけではないですよね。」
「ダビデとゴリアテの話を史実としてみると、実際の戦いはサムエル一17:41から始まる。“フィリスティア人ゴリアテもダビデにだんだん近づいてきた。盾を持つ兵士がゴリアテの前にいた。”とある。そのあと、言葉合戦が行われ、17:44で、ゴリアテは、“さあ,向かってこい。”という。さらに言葉合戦があり、17:48で、“フィリスティア人ゴリアテはダビデの方に近づいてきた。ダビデはゴリアテに立ち向かうため,敵の戦列へ勢いよく走った。”とある。その後、ダビデの石がゴリアテの額に命中し、戦いは終わる。この戦いからわかるのは、ゴリアテにまったく機動力がないことだ。突っ立っているだけだ。」
「ゴリアテは重い鎧を身に着けた重装歩兵ですよね。動きは極めて鈍い。ダビデが自ら接近してこなければ、攻撃できないので、“向かってこい”と挑発したわけですね。」
「それに対して、ダビデは敏捷に動き回る軽歩兵で、機動力重視のHit and run という戦いをする。遠くから投石したり、矢を射たりしてダメージを与える。」
「重装歩兵対軽歩兵だと、軽歩兵が勝利するわけですね。」
「そのため重装歩兵を守るために、同じ軽歩兵か騎兵が必要になる。アレキサンダー大王は、主力である重装歩兵を守るためにそうしていた。ダビデが勝利するのは神の助けがなくても可能ということ。」
「ゴリアテは自分と同じ装備をした鈍重な兵士と剣か槍で戦うと想定していたわけですよね。イスラエル側も、初めはダビデに重い鎧を着せますが、ダビデが断るわけです。」
「ダビデは、その当時の暗黙のルールや社会的な規範を無視することによって、王にまでなったということ。」

「13節で、唐突に、勇気を示すためには“神の王国の良い知らせを伝えることが役立ちます。”と、伝道せよという話しにかわります。」
「伝道する理由の一つが、迫害に備えて勇気を培うためだったとは知らなかったね。仮に禁止されても、伝道を続けさせて、末端の信者を危険にさらしても、統治体は気にしないということだね。」

「14から16節が投獄された体験談で、17、18節がルカ6:22の話です。憎まれ、締め出され、非難され、汚名をきせられることが、現実に起こるといっています。それは、18節によると、“イエスの教えに従って生活し,イエスが伝えたメッセージを広めるので,世から憎まれます。”と説明しています。」
「こういう時だけイエスを持ち出すのが変だね。もしそうならイエスの証人と名前をかえたらいい。エホバの教えに従って、エホバのメッセージを広めているから、JWでしょう。」
「JWという組織の問題点ですね。自分たちのことを、ある時はエホバの証人、別な時はクリスチャンと呼ぶわけです。どっちなんだと思います。」
「1節に、“エホバに忠実に仕えるクリスチャン”といきなり出てくるけれど、クリスチャンはキリストに従うものだよ。奇妙な言葉と思わないのかな。」

「19節は、使徒を見倣うという話しで、“わたしたちも,同僚やクラスメートや近所の人たちに,自分がエホバの証人であることをいつもはっきりと伝えることができます。”と、JWであることを隠すのはダメだといっています。」
「その方針を徹底すれば、組織の方針に反してJWであることを隠している人は、信用できないJWということになるからだよ。要注意人物をあぶり出させようということじゃないの。」
「本当に迫害に備えるのなら、地下に潜って、自分がJW であることを隠すように言うべきですよ。その逆を言うということは、単に内部の締め付けを厳しくするつもりですね。」

「20節で、“使徒たちは幸せでした。”とあり、自分たちが正しいことをしているゆえに憎まれていることを知っていたからとあります。」
「でも、JWが憎まれるのは、単純に、周囲に迷惑をかけるだけの存在で、社会に対して何の貢献もするつもりもないくせに、社会に依存して生きているからだよ。」
「輸血禁止というなら、自分たちで研究所を作って、血液の代用品を作ることでもしていたら、社会的評価は変わったでしょうね。JWを使って、治験を行えばいいのですから。現状は、医師にあれこれと自分勝手な要求をし、ただでさえ多忙で重労働の医師の仕事をより困難にしているだけですからね。」

#1099 2019年09月13日 16:41:50

聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“禁令が課されてもエホバを崇拝し続ける(28)”で、禁令下でも伝道は続けるぞ、という内容です。」
「危機感をあおって、信者を引き締めつつ、信者にスパイ映画の主人公になったような気持ちにさせて、JW生活にほんの少し変化を持たせようという、統治体の温かい配慮だね。」

「1節によると、“エホバの証人の活動が禁止されたり厳しく制限されたりしている国や地域に住む伝道者は22万3000人以上います。”とあります。平均伝道者数は約836万人なので、迫害されているのは全JWの2.7%になります。この記事はその2.7%向けの記事ですね。大多数のJWにとって、禁令下の伝道は、他人事でしょう。」
「1節に、“真のクリスチャンは迫害を受けることになっているからです。”とあるけれど、JWが迫害されている国では、JW以外の宗教団体も迫害されているよ。JWだけを狙い撃ちにしているわけじゃない。」
「例えばロシアでは、JWの他に、モルモン教、セブンスデー・アドベンチスト教会も過激活動対策法の対象団体になっていますね。」

「法律で禁止された場合でも、なぜ伝道をしなくてはいけないの?法律で禁止された国では新しい信者獲得は困難なのだから、その国から撤退し、別の国に伝道者を回せばいい。費用対効果を考えるべきだね。」
「JWには、全ての人に伝道するという目標があるのです。それから終わりが来るのです。効率性は度外視です。」
「信者の生命も度外視でしょう。禁止されたら、その国のJWを現代版ノアの箱舟と称してチャーター機で脱出させる。そうすればJWの評価も上がり、信者も増える。さらにチャーター機代として信者に寄付を要請する。」

「国外移住の問題は、8節で扱われています。答えは、“それは自分で決めるべき事柄です。”とあります。」
「でも、8節では、“他方,別の迫害の波が押し寄せた時,パウロは伝道が反対されていた地域にとどまることにしました。”とあり、本当の所は国外移住はダメなんだよ。高等教育と同じだ。組織は、大学進学はダメとは言わないけれど、子どもを大学に進学させた長老の特権を削除するように勧告している。」
「迫害のため国外移住したら、移住先では特権はく奪が待っていそうですね。」
「ロシアからフィンランドに逃げ込んでいるJWが結構いるそうだけど、どうなったんだろうか?ロシアに送り返されたのか心配だね。」

「8節に、“ステファノが敵たちから石打ちにされて死んだ後,エルサレムにいた弟子たちはユダヤとサマリアのあちこちに移り住みました。”とあります。これは使徒8:1が根拠なのですが、そこには、“使徒たち以外は全員,ユダヤとサマリアの全域に散らされた。”とあります。使徒たちがエルサレムにとどまっていることができたのはなぜですか?」
「まず事件の発端となったステファノは、使徒6章にでている新たに選ばれた7人の一人。その7人は、名前からギリシャ系なので、ギリシャ語を話すユダヤ人。ヘレニストだ。出身はパレスチナ以外の地域だろう。ギリシャ系ユダヤ人やステファノは律法重視の保守派と激しく論争をしたようだ。」
「使徒6:14で、“例えば,彼は,あのナザレ人イエスはこの場所を壊し,モーセから伝えられた習慣を変える,と言っていました。”とステファノは非難されていますね。」
「神殿や律法は、もとからユダヤに住んでいたユダヤ人キリスト教徒には慣れ親しんだものなので、それらを強く批判はしないのに、外国育ちのギリシャ系ユダヤ人は、そのような地元の人の心情を理解せずに、それらをかなり強く批判したのだろう。」
「つまりエルサレムのキリスト教徒は、ギリシャ語を話すグループとアラム語グループに分裂していて、ギリシャ語グループは地元民の信条や習慣を配慮することなく、自分たちの主張を強く述べ伝えていて、相当反感を買っていたというわけですね。」
「ステファノはギリシャ語を話すグループのリーダー的存在だったようだ。それで狙われた。ステファノの処刑を受けて、ギリシャ語グループはエルサレムから急いで逃げたのだろう。彼らはもともとエルサレムに住んでいたわけではないのだから、故郷に帰っただけじゃないかな。」
「地元のアラム語を話す使徒たちは、彼らと別の存在として、周囲から見られていたので、迫害を受けることなくエルサレムに留まったということでしょうか。」
「処刑されるときのステファノの大演説が、使徒7章にあるけれど、かなり特異な思想で、使徒たちとは教義面でも対立していたのかもしれない。」
「使徒7:47,48の、“神のための家を建てたのはソロモンでした。とはいえ,至高者は人が造った家には住みません。”という部分ですか?神殿は最初から不要だったという主張です。」
「このような主張は福音書には見られない。思想的に近いのはヘブライ書だね。」

「そうなりますと、ステファノの殺害以後、各地に移住したという話しは、現代のJWが迫害を受けて国外移住するというのと、状況がかなり違うので参考にならないというわけですね。」
「その当時のクリスチャンは、ステファノの殺害をエルサレムに対する神の裁きのしるしとして理解した可能性が高い。マタイ23:37、38には、“エルサレム,エルサレム,預言者たちを殺し,遣わされた人々を石打ちにする者よ,(略)聞きなさい,あなた方の家は見捨てられます。”というイエスの言葉を思い出したはず。」
「エルサレムから移住した人は、失望するどころか、喜んでいたというわけですね。」

「8節には、マタイ10:23が引照聖句になっています。“ある町で迫害されるときには,別の町に逃げなさい。はっきり言いますが,人の子が来るまでにあなたたちがイスラエルの町々を回り尽くすことは決してありません。”です。意味がよくわからないのですが?」
「この聖句は難解だね。写本によって文言が異なり、どのテキストにするかで解釈は変わる。解釈1は、これはイエスが12人を派遣するときの指示なので、後からイエスが追いかけて、弟子たちに追いつくことを言っているというもの。この解釈を支持する人は元の資料のQ資料では、23節は、6節の“いつも,イスラエル国民の迷い出た羊の所に行きなさい”の後にあったと推測する。そうすると、この話の最後は22節の、“終わりまで耐え忍んだ人が救われます。”となり、その方が繋がりがいい。」
「でも、派遣された使徒たちが迫害されたという記録は、どこにもないですよ。」
「解釈2は、イエスは終わりの日がすぐに来ると思っていた。しかし、来なかった。初期のキリスト教は、それで教義を変えたけれど、初めの頃のイエスの教えが福音書の中に図らずも保存されたというもの。シュバイツァーの解釈ね。」
「“イスラエルの町々”が解釈を困難にしていますよね。これは全世界を指すという解釈は可能ですか?」
「“イスラエルの町々”がない写本もある。写本家が意味が通るように削除したんだろう。マタイの中で、イスラエルが全世界を象徴するような部分はない。イスラエルはイスラエルさ。」

「10から13節は、禁令下で、すべきことがでています。11節では、“聖書や出版物を隠す場所を決めてください。”とあります。
「廃棄処分はダメということね。出版物は数年で使われなくなることがあるのに、それも捨ててはいけないのかな。」
「12節では、“長老たちは,目立たない方法で集会を行なうよう取り決めます。”とあります。長老の役割は重要ですね。」
「禁令下で、ものみの塔の研究をする必要があるのかな?たいした内容じゃないし、同じことの繰り返しが多いよ。それでも中止にはできないのね。」
「13節では、“何とかして伝道するよう努めます。”と、禁令下でも、自主的に、信者の判断で、伝道しなくてはいけないようです。」
「国によっては、自殺行為だろう。今でさえJWは嫌われているわけだから、法律で禁止になったら、みんな喜んで目障りなJW を密告するよ。旧ソ連の話が出ているけれど、強制収容所送りになったら、老人や病人はまず生きて出られないよ。」
「信者の生命尊重という思想は統治体にはないのですよ。伝道して、逮捕されても、立派にJWとして死んでくれたら、それでいいのです。」
「何年か後のものみの塔の記事に使えるからね。」

「14から18節は、禁令下で、すべきではないことが出ています。14節では、“不用意に情報を明かさない。”です。」
「もし禁止処分にするなら、その前から相当な情報収集を国家はしている。末端の信者から得る情報なんか必要ないよ。」
「15節は、“ささいなことで仲たがいしない。”です。これは無理でしょう。迫害など何もなくても、JWは仲が悪いですから。」
「“サタン は,分裂した家が存続しないことを知っています。”と、こんなことにもサタンを持ち出すのがいいね。普通は禁止処分にする前に、警察のスパイが組織の中に入っているよ。旧共産国の例だと、組織に潜入したスパイは極めて模範的で有能なので、長老になったりしているよね。」

「17節は、“指示に従う。”です。禁令下でも服従せよ、です。18節では、“不必要な規則を作らない。”ですが、これがよく理解できませんね。」
「規則で信者を縛るのがJWだろう。JWの規則で必要なものってどれだけあるの?ほとんどが不必要でしょう。18節に、“責任ある兄弟と多くの長老が逮捕された後,会衆と巡回区の指導の任に当たった人の中には伝道者の振る舞いに関して規則を定める人が出るようになりました。”とある。禁令下で、指揮系統が破壊され、それまで下っ端だった人が偉そうに振舞いだして、くだらない規則を作ることがあったんだろう。JWらしいね。」
「下っ端が権力を握ると、ろくなことはないということですね。もともとたいした人材がいないのがJWですから。」
「18節に、“エホバはわたしたちに,各自が下すべき決定を肩代わりする権限を与えておられません。”とある。まじめに言っているのか?」
「禁令下だけの話ですよ。それ以外の時は、自分より偉い人の指示に従え、従わないと排斥だ、ですよ。」

#1100 2019年09月19日 16:58:37

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“「行って……弟子とし」なさい(29)”で、伝道はほとんど成果がないけれど、さぼるな、まじめにやれ、という内容です。」
「また、その話?あきたね。執筆者も書くことがないのか、17節で終了だ。」

「この記事では、マタイ28:18-20が引用されています。イエスは“行って,全ての国の人々を弟子としなさい。父と子と聖なる力の名によってバプテスマを施し”と言っているのですが、本当にそんなことを言ったのですか?」
「JWの大好きな聖句だね。もちろんイエスはこんなことは言っていないと思うよ。後の創作だね。」

「使徒たちの活動を見ると、異邦人への伝道は、ゆっくりと少しずつ拡大して行き、その過程で異邦人をどう処遇するかで対立があったことがわかります。それから、パウロなどはバプテスマをそれほど重視していません。イエスが、このようなことを言ったのなら、おかしいですよ。マタイ28:18-20は後のキリスト教の教えで、それをイエスが言ったということにして権威づけたと思います。」
「ペテロが異邦人のコルネリオに伝道するのは使徒10章になってからで、しかも、自発的にではない。さらに、使徒10:28で、“よくご存じの通り,ユダヤ人にとって,別の人種の人と交友を持ったりそのもとを訪れたりするのは許されないことです。”とペテロは言っている。異邦人への伝道に乗り気でないのが明らか。」
「ペテロは、全ての国の人々を弟子としなさいというイエスの言葉を聞かなかったようですね。」

「パウロは、コリント一1:16,17で、“もっとも,私はステファナの家の人たちにもバプテスマを施しました。ほかの誰かにバプテスマを施したかどうかは覚えていません。 私がキリストによって遣わされたのは,バプテスマを施すためではなく,良い知らせを広めるためでした。”といっている。」
「パウロもバプテスマの重要性がわかっていないようです。」
「復活したイエスが、弟子たちに、全ての国人々を弟子とせよ、バプテスマを施せ、と大号令をかけたとすると、弟子たちの行動は納得いかないよね。」

「3,4節は、“人々を弟子とすることが大切なのはなぜか”を扱っています。弟子となると永遠に生きられるようです。」
「4節に、コロンビア人夫婦の話が出ている。最低のダメな奴が立派なJWになりましたという内容だけど、これも聞き飽きたね。こういう話しをいい話と思って載せているようだけど、JWというのはこの種の人たちが多い宗教なのかと、イメージの低下を招く面もあるよ。」
「多く人にとって、宗教は社交の場ですからね。教育水準が高くて、上品な人たちのいる宗教に行きたいと思っている人にはJWは向いていないということですね。」

「5から8節は、“人々を弟子とするためには何をしなければならないか”で、伝道の仕方を説明しています。」
「7節では、“一つの点をお尋ねしています。最近のいろいろな問題は世界中の人に影響を与えています。そういう問題を解決するには,世界全体を治める政府が必要だと思いませんか”と尋ねるとある。他人の家にいきなり来て、こんなことを尋ねたら、頭のおかしな人間と思われるよ。」
「英文では、“Would you mind if I ask your opinion on something?”と丁寧な言い方です。日本語訳に問題があります。」

「その後、“ダニエル 2章44節を読んで,説明します。”とある。そこには、“この王たちの時代に,天の神は決して滅ぼされることのない王国を建てます。その王国はほかのどんな民にも渡されません。これらの王国を全て打ち砕いて終わらせ,その王国だけが永遠に存続します。”とあるけれど、これからどうつなげるの?」
「神の王国が間もなく地上の王国を終わらせて、楽園がやってくるのです、というような話にもっていくんじゃないですか?」
「ダニエル2章は、ネブカドネザルが巨大な像の夢を見て、そのなぞ解きをダニエルがする部分。古代の出来事を言っているわけで、それが21世紀の出来事であるなんて、聖書のどこにも書いていないよ。JWの勝手な思い込みじゃないの。もしそう質問されたらどう答えるの?」
「神の王国はまだ来ていませんから、これからのことなのです、というんじゃないですか?」
「“この王たちの時代に”に神の王国ができるとあるよ。古代の出来事のはずで、この予言は外れたんじゃないの?」

「もう一つ例が出ていて、“礼儀正しい子どもに育てるためには何が大切だと思いますか”と尋ねて、申命記6:6,7を読むそうです。そこには、“私が今日命じるこれらの言葉があなたの心に入っていなければなりません。あなたはその言葉を自分の子にしっかり教え,家で座るときも,道を歩くときも,寝るときも,起きるときもそれについて話さなければなりません。”とあります。」
「これは全くダメだよ。JWといえば、輸血を拒否して子どもを死なせる狂信的宗教というイメージだよ。そう思っている人が申命記のこの部分を読めば、洗脳教育を行えといっていると理解される。やはり、JWはまともじゃないと思われるだけ。」
「申命記の教育論は、押しつけ型、詰込み型の教育です。現代人には受け入れがたいと思います。」
「でも詰込み型の教育がダメとされるのは先進国だけ。先進国は新しい知識、技術、価値などを生み出すことが求められるから。そうでない国は、先進国の真似をすればいいわけで、先進国の知識や技術を詰め込む教育が行われる。JWが信者獲得として期待しているのは発展途上国。そのような国では、申命記のような詰め込み教育に対して違和感は少ないと思うよ。」

「9から13節は、“人々を弟子とする活動にだれが貢献しているか”です。なかなか面白い主張をしています。」
「ある人の功績はその人の功績ではなく、みんなの功績だという主張だね。」
「9節で、迷子を500人で探し、ある人が見つけたが、見つけた人は“子どもを見つけたことを自分の手柄にしようとはしませんでした。”とある。10節で、聖書研究生を見つけるのも同じだ、と主張しています。」
「大勢で、迷子を捜す場合、探す場所をあらかじめ割り振って計画的に捜索する。見つけた人は、たまたま子どもがいた場所に割り振られただけなので、自分の功績だと主張するわけにはいかない。JWもそう考えろという訳だけれど、それはおかしいよ。JWは、迷子捜索のように、皆が同じように地域や時間をランダムに割り当てられるわけではないからだ。」
「10節に、“あなた自身は,聖書を学びたいという人に出会ったことがないかもしれません。”とあります。これは笑えますね。多くのJWが伝道しても何の成果がないという現実を踏まえて、あなたは成果がなくても、ほかの人の成果はあなたのものだから、気落ちするなと言いたいようです。それで、奇妙な例えを出していると思います。」

「9節に、“真理を知りたいと思っている人を探す”とあるけれど、英文では、“to find honesthearted ones”だよ。真理を知りたい人なんてかいていないよ。しかも、“honesthearted”という単語はへんじゃないの?普通はhonest‐heartedとハイフンをつけると思うよ。意味は、正直なとか素直な、あるいはせいぜい信仰心のある、といった意味。」

「11節は、研究生のいない人向けで、新しい人を歓迎しろとか、コメントに精を出せとか、新しい人と一緒に伝道しろ、などと書いています。」
「伝道活動10年で、研究生ゼロなら、もう伝道活動を免除して、別のことをさせるようにしたらいいんじゃないの。人間には向き不向きがあるわけで、それを無視して、みな同じことをさせるのはおかしいよ。」

「12節は、“イエスの弟子となるよう人々を教えるために,特別な才能は必要ありません。”です。例として、読み書きがほとんどできない女性が、毎週5件の聖書レッスンを行っている話が出ています。」
「この女性は、おそらく特別な才能に恵まれた人だよ。そのうえ、多くの人を引き付ける魅力があるのだろう。」
「この女性は、読み書き能力に乏しいわけで、組織の本や雑誌の内容をそれほど理解せず、自己流の現地の人のニーズに合った教えをしているので、多くの研究生を得られたという可能性はどうですか?」
「中南米のようなキリスト教圏の教育水準が低い国では、そのようなことがしばしば生じるようだ。宗教の土着化だね。それを防ぐために、JWは、質問をしては、本文から答えを見つけ出させるという方式の聖書レッスンを採用しているのかもね。」
「そうすれば、組織の教義から外れたことを教えるというのを防げますし、教育水準の低い人でも聖書レッスンをした気になれますね。」
「一方、先進国のある程度教育を受けた人たちには、JWの聖書レッスンはバカバカしいものになっている。」
「13節には、アラスカに住むメラニーの話が出ています。8歳の娘を一人で育てているのですが、“金曜日の夕方にはいつも疲れ切っていましたが,娘と一緒にサラの家に行き,聖書レッスンをしました。”とあります。アラスカの極寒の地で、連れまわされている娘がかわいそうです。」
「児童虐待だ。こんな記事を模範例としてだすJWが理解できない。」

「14から16節は、“人々を弟子とすることに辛抱強さが求められるのはなぜか”がです。JWという組織とその教義に問題があるからじゃないかと思いますよ。」
「これも、JWの伝道がうまくいっていないことが前提の内容だね。研究生を見つけることを魚釣りに例えているのに違和感があるね。研究生は、餌に食いついて引っ張り上げられた魚なの?」
「そういうことを言いたいのではなく、魚釣りと同じように、伝道も辛抱強く時間と場所を変えて行いましょうということです。」
「いつも同じ場所、同じ時間にカート奉仕している人がいるけど、魚釣りをしたことがないのかな?」

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