ログインしていません。

#976 2019年05月17日 14:30:37

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバの声に聴き従いましょう”で、エホバが天から3回話しかけたことを題材にした、組織に従おう、という内容です。」
「マタイ17:5の“この者に聴き従いなさい”を強調したいようだね。“この者”とはイエスのことだけど、イエス=組織として、組織に感謝し、服従せよと、言いたいようだ。」
「4節の下にある3枚の写真ですが、アジア系の若者が王国会館の掃除や文書の管理の仕事をして、長老に褒められたというものですが、JWのつまらない人生がよくわかる写真です。」
「この若者の印象は、将来性のない高卒の宗教セールスマンというものだね。よりよい人生を求めて、1,2年で転職しそうだよ。」

「3節によると、話しかけた1回目は、バプテスマを受けたイエスに対するもので、マルコ1:9の、“あなたはわたしの子,[わたしの]愛する者である。わたしはあなたを是認した。”です。でも、新しい訳では、“あなたは私の愛する子,私はあなたのことを喜んでいる。”で、“是認した”というへんな訳は撤回していますね。」
「少しはましな訳になったということだね。」
「4節で、“私の子”とは、“イエスは地上に来る前から神の子でした。(略)天に戻って神の王国の王また大祭司になる,という見込みが与えられた”という意味だと言っています。まったく根拠が示されていません。」
「イエスが生まれる前から神の子とは、マルコは書いていない。それはヨハネだけの主張。マルコがイエスは生まれる前から神の子だったと知っていたら、福音書に書くはずだよ。マルコはイエスが生まれる前から神の子なんていう思想は持っていない。4つの福音書の思想は皆違う。」
「マルコでは、イエスはどこからともなく突然現れ、バプテスマを受けると、神の子と認定されたことになっています。」
「神の子の意味だけど、古代では、イスラエル自体やその王が神の子とされていて、超自然的な存在を指すわけではない。神がその意志をあらわすために選んだ、神と特別な関係にある存在をさす。イエスはメシアとしてバプテスマの時に選ばれたので、神の子になったというのがマルコの思想だよ。」

「マルコより古いのはパウロの書簡ですが、ローマ1:3,4では、“その方は,ダビデの子孫から人間として生まれました。そして復活させられた時,神の子であることが聖なる力によって示されました。”とあります。復活した時にはじめて神の子になったんです。イエスが生まれたときから神の子という思想はルカからですよね。でも、地上に来る前については何も言っていません。ヨハネになると、永遠の昔からイエスは神の子としています。」
「イエスはいつ神の子になったかというと、歴史的には、復活したとき➡バプテスマを受けたとき➡生まれたとき(あるいは妊娠した時)➡永遠の昔から、という順番で変わってきた。」
「どんどんさかのぼって、ついには永遠の昔までたどり着いた。キリスト論の移り変わりですね。」

「ルカ3:22は、4節でも引照聖句として出ている。天の声の内容はマルコと同じなんだけれど、初期の写本には、“あなたは私の子、今日あなたは私の子になった。”というものがある。現存する写本が作られる前に生きていた初期教会の教父たちが、この一節を何度も引用している。」
「イエスの養子論ですね。でも、ルカでは、生まれたときから神の子じゃないですか?養子論ではないですよ。」
「だから、改ざんがあったとすると、現行の文のほうになる。ルカの福音書に一貫性を持たせるために、後の人が、養子論的なルカの文をマルコの文に変えた。聖書の改ざんは別に珍しいことではないからね。」

「7節には、山上の変容の場面で、マタイ17:5の“これはわたしの子,[わたしの]愛する者である。わたしはこの者を是認した。この者に聴き従いなさい。”が出ています。」
「8節に、“イエスは非常に励まされ,力づけられたに違いありません。”とあるけれど、的外れだね。この天の声は、イエスを励ますものではなく、弟子たちに向けられたものだよ。だから、最後は、“この者に聴き従いなさい。”で終わる。」
「どういう文脈かというと、16章でペテロが、「あなたはキリスト,生ける神の子です」と言って、イエスがキリストであることを理解したのですが、イエスがエルサレムで死ぬことの意味を理解せず、それに反対したら、“あなたは,神の考えではなく,人間の考えを抱いている”と叱られます。そして、17章で、イエスはペテロたちを山の上に連れていった。」
「そこで、神様自ら登場し、弟子たちにイエスの言うことは正しいのだから、従えと命令する。弟子たちは恐れおののく。福音書の中のターニングポイントだ。」
「この記事では、そういった文脈は全く無視して、単にイエスに従いましょうという、JWの基本である服従を強調していますね。」

「12節で、“イエスに聴き従う人は,指導の任に当たっている人たちに協力します。”と突然、組織に服従という話になるのがおもしろいね。“神の組織は最近,多くの調整を行なってきました。”、そして“組織のタイムリーな指示に従うよう努力するなら,エホバは必ず祝福してくださいます。”と、いい加減なことを言っている。」
「“調整”という名の様々な変更によって生じた不満に対する統治体の返答ですね。“黙って従え、お前ら羊だろう。”というものですね。」

「14節から、3回目の天からの言葉についてです。ヨハネ12:27,28の“わたしはすでにその栄光を示し,さらにまたその栄光を示す。”というものです。これは、イエスがエルサレムに到着した直後の話ですね。イエスが、“父よ,み名の栄光をお示しください。”というと、先ほどの声がしたというものです。」
「その解説が15節なんだけど、“冒とくの罪で訴えられていたので,自分の死が神に非難をもたらすことを心配していました。ですから,エホバの言葉を聞いた時,本当に安心したことでしょう。”とイエスの気持ちを解説している。しかし、ヨハネでは冒とく罪は関係ないよ。マタイ、マルコでは、イエスは逮捕された後、サンヘドリンに連れていかれ、“メシアなのか?”ときかれて、肯定したので、神を冒とくした、死刑だということになる。ヨハネでは、イエスが逮捕されるのは6章後の18章で、この天の言葉を聞いたときはまだ逮捕も告発もされていない。」
「この記事の執筆者は、イエスの受難物語をいい加減に覚えているのですね。ヨハネではイエスは大祭司の所に連れていかれた後、ピラトの所に連れていかれて、反逆罪で死刑という展開ですね。」
「イエスの受難物語は福音書によってかなり違うけど、執筆者の頭の中には、4つの福音書がブレンドされた独自の話が存在しているようだ。」

「神を冒涜するというのはどういうことですか?自分はメシアだと言うと、神を冒涜することになるのですか?」
「冒とくは何らかの尊厳を汚すことだけど、自分はメシアだという発言は冒とくには当たらない。1世紀には、イエス以外に自分はメシヤだと名乗った人は大勢いるけれど、冒とく罪で裁かれた人はいない。1世紀だと、神を冒涜する行為の代表は神の名をいうこと。YHWHを発音することは禁じられていた。」
「ということは新約聖書の登場人物が神の名を言うことはあり得ない?」
「ありえないね。冒とく罪だ。石打の刑だね。新世界訳では、新約聖書の登場人物がエホバなんて言うインチキな神の名前を語るけれど、バカバカしい創作だ。」
「イエスが冒とく罪で死刑といわれたといった福音書の記述は史実ではない、ということですね。」
「ありそうもない話ということ。」

「16節に、“反対者たちが広めているうそによって,エホバのお名前やエホバの組織が非難されるのではないかと心配になることもあるでしょう。”とあります。嘘なら嘘だということを、組織が証明すればいいだけじゃないですか。心配する必要はありませんよ。」
「反対者が広めているのは嘘じゃないから心配なんだよ。JWによる児童の性的虐待は背教者の嘘と言ってきたのに、ごまかしきれなくなって、長老マニュアルまで変えざるを得なくなった。」
「同じ新聞のニュースでも、自分たちに都合がよければ、真実として大きく扱い、都合が悪ければ嘘として無視するのがJWです。」
「カルトはそういうものなの。」

「17節は、“エホバは今日でもわたしたちに話しかけてくださっています。(イザヤ 30:21を読む。)”ではじまります。読むことになっているイザヤ30:21の後半は、“後ろからあなたの耳に,「これが道である。この道を歩みなさい」という言葉が聞こえる。”なんですが、この言葉を言うのはエホバなんですか?」
「その前のイザヤ30:20は、“あなたの偉大な教師はもはや姿を隠さず,あなたは自分の目で偉大な教師を見る。”とある。英語版では、“your Grand Instructor”だね。これが語りかけるわけだけど、偉大な教訓者が神を指しているかというと、違うよ。元のヘブライ語は複数でも単数でも可能なんだ。単数だと神と見なせるけれど、複数だと預言者たちとしか解釈しようがない。新しく見つかった死海写本では、“隠す”が複数形になっていた。それで、神ではなく、預言者たちが、後ろから語るという意味となっている。執筆者はその辺のことを知らないのだろうね。完全に時代遅れだ。」
「標準的な英語の聖書New international versionでは、“your teachers”と複数形にしていますね。」
「イザヤの時代では、神が直接語りかけることはなくなっていて、預言者を通じて語るのが基本的な在り方。時代背景を考えれば、複数形の方がよいというわけだね。」

「同じ17節に、“聖霊によって「忠実な家令」を導き,「食糧」を与えてくださっています。”とあります。この記事も聖霊の導きによるものなんですね。でも、2017年2月号の“今日,神の民を導いているのはだれですか”では、“統治体は霊感を受けているわけでも,完全であるわけでもありません。教理上の説明や組織上の指示の点で間違いをすることがあります。”とあります。聖霊に導かれているけれど、霊感を受けているわけではないので、よく間違ったことを言うらしいのですが、さっぱり意味が分かりません。」
「聖霊に導かれていなければ、統治体は単なる間抜けな人間集団ということになり、権威を失う。一方、預言は外すし、教義がコロコロ変わるのも否定しょうがない。この困った事態の解決策が、聖霊に導かれているけれど、霊感は受けていないという奇妙な主張なんだと思うよ。」

#977 2019年05月17日 22:53:38

仰天
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

「イエスが生まれる前から神の子とは、マルコは書いていない。それはヨハネだけの主張。マルコがイエスは生まれる前から神の子だったと知っていたら、福音書に書くはずだよ。マルコはイエスが生まれる前から神の子なんていう思想は持っていない。4つの福音書の思想は皆違う。」
「マルコでは、イエスはどこからともなく突然現れ、バプテスマを受けると、神の子と認定されたことになっています。」
「神の子の意味だけど、古代では、イスラエル自体やその王が神の子とされていて、超自然的な存在を指すわけではない。神がその意志をあらわすために選んだ、神と特別な関係にある存在をさす。イエスはメシアとしてバプテスマの時に選ばれたので、神の子になったというのがマルコの思想だよ。」

まず、マルコによる福音書では、バプテストのヨハネが、旧約で主(YHWH)の道を整えた者になぞらえられ
ています。
ヨハネはイエスの為に道を備えました。イエスは主です。

そして、マルコ1:24を見ますと、

「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」

とあり、悪霊は自分を滅ぼす事のできる存在としてイエスを認めています。

明らかに人間が神の子と呼ばれるのとは異なります。

さらにイエスは、神にしか罪を許す事はできないという状況で罪を許しておられます。

マルコによる福音書/ 02章 05節
イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

マルコによる福音書/ 02章 06節
ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。

マルコによる福音書/ 02章 07節
「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」


それを律法学者は神を冒涜しているとしています。
つまり、自分を神と等しいとしているという事です。

マルコによる福音書/ 02章 28節
「だから、人の子は安息日の主でもある。」

マルコによる福音書/ 11章 09節
そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。

イエスは、主の名、(YHWH)の名によって来られた方です。

マルコによる福音書/ 12章 36節
ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』

マルコによる福音書/ 12章 37節
このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」


このように、ご自身がメシアであるという意味は、他の人間がメシア(油を塗られた者)であるという意味とは全く違う意味である事をマルコも示しています。

ですから、最古の福音書であるマルコによる福音書でもイエスを神として伝えているのです。



聖書についての質問 さんの発言:

「マルコより古いのはパウロの書簡ですが、ローマ1:3,4では、“その方は,ダビデの子孫から人間として生まれました。そして復活させられた時,神の子であることが聖なる力によって示されました。”とあります。復活した時にはじめて神の子になったんです。イエスが生まれたときから神の子という思想はルカからですよね。でも、地上に来る前については何も言っていません。ヨハネになると、永遠の昔からイエスは神の子としています。」
「イエスはいつ神の子になったかというと、歴史的には、復活したとき➡バプテスマを受けたとき➡生まれたとき(あるいは妊娠した時)➡永遠の昔から、という順番で変わってきた。」
「どんどんさかのぼって、ついには永遠の昔までたどり着いた。キリスト論の移り変わりですね。」

ローマ人への手紙と同時期に書かれたコリント人への手紙第一を見てみましょう。


コリントの信徒への手紙一/ 01章 02節
「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、」

ここでは、エホバの名ではなく、主である『イエスの名』を呼び求めています。


コリントの信徒への手紙一/ 01章 07節
「その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。 」

コリントの信徒への手紙一/ 01章 08節
「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。 」

ものみの塔協会の言う「エホバの日」というのは、「イエス・キリストの日」です。


コリントの信徒への手紙一/ 01章 31節
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。 」


エレミヤ書/ 09章 22節
主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。


エレミヤ書/ 09章 23節
むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。




※新約聖書では、主ヤハウェと、主イエスとの区別をつける為、通常は、父なる神を「神」、子なる神であるイエスを「主」と呼んで区別しています。



コリントの信徒への手紙一/ 04章 19節
「しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。 」

ここでの主の御心とは、イエス・キリストの御心の事でしょう。


使徒言行録/ 18章 21節
「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って別れを告げ、エフェソから船出した。

※父なる神と独り子の神イエスの御心は完全に一致しています。


コリントの信徒への手紙一/ 04章 04節
自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。


※裁くのは神ですが、裁き主はイエスです。


コリントの信徒への手紙一/ 05章 04節
つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、




コリントの信徒への手紙一/ 05章 05節
このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。


※「主の日」とは、イエス・キリストの日です。


コリントの信徒への手紙一/ 06章 11節
あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。


コリントの信徒への手紙一/ 06章 13節
食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。






コリントの信徒への手紙一/ 08章 06節
「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」

※ ここでは、イエスを『唯一の主』と呼んでいます。

聖書の中ではイエスは神とも主であるとも呼ばれています。
イエスだけが主であると決めつけるなら、父なる神を主と呼べなくなります。
では、聖書の中で神は何人でしょう。


旧約での三重の祝祷は、三位一体の神を暗示していると思います。

イザヤ書/ 06章 03節
彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」

コリントの信徒への手紙二/ 13章 13節
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

※これも三位一体の神を示していると言えるでしょう。

そもそも、創世記の時点で神は言葉をもって万物を創造され、霊が行き巡っていたとあります。

イエスのバプテスマの際にも、父、子、聖霊の一体性が示されています。

マルコによる福音書/ 01章 10節
水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。

マルコによる福音書/ 01章 11節
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。





こうやって見てみますと、イエスが神の子、または神となったのは、新約聖書の各書の成立年代は関係なく、最初から神として示されているという事が分かります。

ヨハネによる福音書が特にキリストの神性を強調して書かれた理由は、途中から、イエスを被造物であるとみなす異端が出てきた為であり、聖書の各書のメッセージに変わりはありません。

ご指摘の、ローマ人への手紙1章4節では、

新共同訳では、「死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」と、なっていますが、バルバロ訳では、「復活によって神のみ子と力強く定められた者」とあり、復活によって余計に神の子と示されたのであり、その時に初めて神の子となったという事ではないと言えるでしょう。
その方が、聖書全体から調和しています。
現に、イエスは復活前から神の子と呼ばれています。

マタイによる福音書/ 04章 03節
すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

新改訳では、ローマ1:4は、

『聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。』

と、なっており、全体の調和を考えるなら復活前から神の子ではあったけれども、復活によって公に神の御子として示されたと考える方が自然です。


ですから、キリスト論に移り変わりはないと言えるでしょう。


聖書についての質問 さんの発言:

「ルカ3:22は、4節でも引照聖句として出ている。天の声の内容はマルコと同じなんだけれど、初期の写本には、“あなたは私の子、今日あなたは私の子になった。”というものがある。現存する写本が作られる前に生きていた初期教会の教父たちが、この一節を何度も引用している。」
「イエスの養子論ですね。でも、ルカでは、生まれたときから神の子じゃないですか?養子論ではないですよ。」
「だから、改ざんがあったとすると、現行の文のほうになる。ルカの福音書に一貫性を持たせるために、後の人が、養子論的なルカの文をマルコの文に変えた。聖書の改ざんは別に珍しいことではないからね。」

そもそも、養子論というのは、モナルキア主義(一位神論)の一つで、イエスが洗礼者ヨハネによる洗礼、復活、もしくは昇天の際に神の力を受けて神の子になったとする説であり、2世紀以降に出てきたものです。



エビオン派:

『その頃、養子論的キリスト論がかなり存在したようで、その中で有名なのがこのエビオン派だった。 自ら進んで貧困となり財産を他者へ分け与えた。 彼らはユダヤ人で他のキリスト教徒と違い、イエスの信徒はユダヤ人でなければならないと考えていた。 そしてモーセの律法に従っていたが、イエスをユダヤ教のメシアと見なした。 厳格な一神教徒として神は唯一と信じ、イエスはヨセフとマリアの子であり、彼はユダヤ律法の遵守において義であり、神はそれを見て洗礼の時に「私の子」として養子に採った、と考えていた。』

エビオン派は、ユダヤ人中心で律法を守り、ユダヤ教的な考えに固執し、キリストを単なる人間とみなして処女懐胎も認めていません。
明らかに後から出てきた解釈です。



既に見たように、誰かが引用した文が多少違ったとしても、最古の福音書であるマルコや、それより古いパウロ書簡においてイエスは最初から天から来た存在として書かれていますから、そのような推測は成り立たないでしょう。



聖書についての質問 さんの発言:

「7節には、山上の変容の場面で、マタイ17:5の“これはわたしの子,[わたしの]愛する者である。わたしはこの者を是認した。この者に聴き従いなさい。”が出ています。」
「8節に、“イエスは非常に励まされ,力づけられたに違いありません。”とあるけれど、的外れだね。この天の声は、イエスを励ますものではなく、弟子たちに向けられたものだよ。だから、最後は、“この者に聴き従いなさい。”で終わる。」
「どういう文脈かというと、16章でペテロが、「あなたはキリスト,生ける神の子です」と言って、イエスがキリストであることを理解したのですが、イエスがエルサレムで死ぬことの意味を理解せず、それに反対したら、“あなたは,神の考えではなく,人間の考えを抱いている”と叱られます。そして、17章で、イエスはペテロたちを山の上に連れていった。」
「そこで、神様自ら登場し、弟子たちにイエスの言うことは正しいのだから、従えと命令する。弟子たちは恐れおののく。福音書の中のターニングポイントだ。」
「この記事では、そういった文脈は全く無視して、単にイエスに従いましょうという、JWの基本である服従を強調していますね。」

「12節で、“イエスに聴き従う人は,指導の任に当たっている人たちに協力します。”と突然、組織に服従という話になるのがおもしろいね。“神の組織は最近,多くの調整を行なってきました。”、そして“組織のタイムリーな指示に従うよう努力するなら,エホバは必ず祝福してくださいます。”と、いい加減なことを言っている。」
「“調整”という名の様々な変更によって生じた不満に対する統治体の返答ですね。“黙って従え、お前ら羊だろう。”というものですね。」


確かにクリスチャンは統治体などに従う必要はありません。

クリスチャンとは、キリストの名を伝えていたから蔑称でクリスチャンと呼ばれたのであり、エホバを伝えていたのではないですからね。
クリスチャンとは、キリスト者です。キリストの証人です。新約時代はキリストの花嫁なのです。

誰かの言葉を借りるなら、エホバの証人はクリスチャンではなく、エホヴィアン、エホバ者でしょう。


聖書についての質問 さんの発言:

「14節から、3回目の天からの言葉についてです。ヨハネ12:27,28の“わたしはすでにその栄光を示し,さらにまたその栄光を示す。”というものです。これは、イエスがエルサレムに到着した直後の話ですね。イエスが、“父よ,み名の栄光をお示しください。”というと、先ほどの声がしたというものです。」
「その解説が15節なんだけど、“冒とくの罪で訴えられていたので,自分の死が神に非難をもたらすことを心配していました。ですから,エホバの言葉を聞いた時,本当に安心したことでしょう。”とイエスの気持ちを解説している。しかし、ヨハネでは冒とく罪は関係ないよ。マタイ、マルコでは、イエスは逮捕された後、サンヘドリンに連れていかれ、“メシアなのか?”ときかれて、肯定したので、神を冒とくした、死刑だということになる。ヨハネでは、イエスが逮捕されるのは6章後の18章で、この天の言葉を聞いたときはまだ逮捕も告発もされていない。」
「この記事の執筆者は、イエスの受難物語をいい加減に覚えているのですね。ヨハネではイエスは大祭司の所に連れていかれた後、ピラトの所に連れていかれて、反逆罪で死刑という展開ですね。」
「イエスの受難物語は福音書によってかなり違うけど、執筆者の頭の中には、4つの福音書がブレンドされた独自の話が存在しているようだ。」

ヨハネによる福音書/ 18章 13節
まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。
ヨハネによる福音書/ 18章 14節
一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。


ヨハネによる福音書/ 18章 28節
人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。

ヨハネによる福音書/ 18章 29節
そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。


※最初に、アンナスの所に連れて行かれた事が詳細に書かれているものの、大祭司カイアファの所に連れて行った事はマタイによる福音書と一致しています。

マタイによる福音書/ 26章 57節
人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。

マタイによる福音書/ 26章 59節
さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。


マタイによる福音書/ 26章 61–66節

「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。

そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」

イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」

イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」

そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。

どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。

※マタイによる福音書においても、イエスは、メシア、神の子であり、神の右に座して、やがて天の雲と共に来ると言っています。

ちなみに、イエスの言われる『人の子』とは、の第一の意味は、ダニエル書7章13-14節の預言のことを言います。「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」 この「人の子」というのは、メシヤの称号です。イエスが主権と栄光と国を与えられたお方です。イエスがこのことばを使われたとき、人の子の預言をご自分に当てはめておられたのです。 当時のユダヤ人には、このことばはよく知られていたもので、誰のことを指しているかもよくわかっていたはずです。イエスはご自分こそがメシヤだと宣言されたのです。
決して、ご自分の神性を否定しておられたのではありません。


イエスが人の子だと言うのはどういう意味ですか?
https://www.gotquestions.org/Japanese/J … f-man.html


ですから、ユダヤ人達は、イエスの言葉を理解したので冒涜だと判断したのです。神を父と呼び、自分を神と等しい者としている冒涜だと。

それは、ヨハネによる福音書からも分かります。


ヨハネによる福音書/ 05章 18節
このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。


ヨハネによる福音書/ 08章 57節
ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、


ヨハネによる福音書/ 08章 58節
イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」


ヨハネによる福音書/ 08章 59節
すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。


イエスが捕らえられて、アンナス、カイアファ、そしてサンヘドリンと呼ばれるユダヤの宗教指導者達の会議の前に連れて行かれました(ヨハネ18:19-24; マタイ26:57)。その後イエスはローマ総督であるピラトの元に連れて行かれ(ヨハネ18:28),ヘロデの元に送られ(ルカ23:7)、またピラトの元に送られ(ルカ23:11-12)、そこで死刑の判決を受けたと考えられます。


イエスが十字架に架けられる前に掛けられた裁判はどんな物 ?
https://www.gotquestions.org/Japanese/J … rials.html



福音書の間で食い違いのように見える箇所があるという事は、細部にわたるまで弟子達が辻褄合わせをしておらず、それぞれの別の視点からの独立した目撃証言によるものだという事が分かり、それだけ多くの人の証言がある故に逆に信憑性が上がると私は考えます。


聖書についての質問 さんの発言:

「神を冒涜するというのはどういうことですか?自分はメシアだと言うと、神を冒涜することになるのですか?」
「冒とくは何らかの尊厳を汚すことだけど、自分はメシアだという発言は冒とくには当たらない。1世紀には、イエス以外に自分はメシヤだと名乗った人は大勢いるけれど、冒とく罪で裁かれた人はいない。1世紀だと、神を冒涜する行為の代表は神の名をいうこと。YHWHを発音することは禁じられていた。」
「ということは新約聖書の登場人物が神の名を言うことはあり得ない?」
「ありえないね。冒とく罪だ。石打の刑だね。新世界訳では、新約聖書の登場人物がエホバなんて言うインチキな神の名前を語るけれど、バカバカしい創作だ。」
「イエスが冒とく罪で死刑といわれたといった福音書の記述は史実ではない、ということですね。」
「ありそうもない話ということ。」

確かに、一世紀のクリスチャン達はエホバなんて発音もせず、もちろんYHWHを発音するのは、大祭司が年に一度、至聖所の中だけだったようです。

しかしながら、既に指摘しましたように、イエスがメシアであるという事は、単なる人間が油注がれて任命されたという事とは異なり、ご自分で自らの神性を語られた故に冒涜とみなされた事は確実であり、史実でないなどとは断言できないわけです。

メシアや、神の子という言葉は、聖書の中で、それぞれ使い分けられており、単に1つの意味しかないと考えるのは不自然です。


Q. 質問

Q:人類はみな神の子だと思いますが、聖書ではどう教えられていますか。

A. 回答

A:確かに、神によって創造されているという意味では、人類はみな神の子です。しかし、「神の子」という言葉は、それ以外の意味でも用いられています。この点について、いつものように3つ申し上げます。

1番目に、旧約聖書では、「神の子」と言うと天使たちを指します。

ヨブ記1章6節にはこうあります。「ある日、神の子らが【主】の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた」 。ここでの「神の子ら」とは天使たちのことです。天使たちは、神に仕えるために創造されました。それゆえ、「神の子ら」と呼ばれています。

2 番目に、新約聖書では、信者のことを「神の子」と呼びます。

ローマ人への手紙8章14節にはこうあります。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」 。イエス・キリストを信じて救われたということは、神の怒りから解放され、神との平和を持ったということです。さらに、神によって養子に迎えられたとうことでもあります。それゆえ、クリスチャンは「神の子」と呼ばれるのです。

3 番目に、新約聖書は、イエス・キリスト御自身を「神の子」と呼んでいます。

ヨハネの福音書20章31節にはこうあります。「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」 。イエス・キリストを「神の子」と呼ぶのは、この方が神だからです。イエス・キリストは、三位一体の神の第2位格の神です。また、その神が人となられたお方です。

「神の子」が何を意味しているかは、文脈によって判断する必要があります。

参考になる聖句

「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」 (ローマ8:14)

イエス・キリストを信じた人は、「神の子」とされています。

神の子とは誰ですか。 | 聖書入門.com
http://seishonyumon.com/movie/5530/




イエスが神の御子であるとは、どういう意味ですか・?
https://www.gotquestions.org/Japanese/J … f-God.html


聖書の中では、「神の子」とは、天使や、人間、クリスチャンや、独り子の神であるイエス等を指して色んな意味で用いられています。


ヨハネは、独り子(モノゲネース)という言葉を用いて、「ほかに類が無い、ただ一つや一人」という意味でイエスを表しました。
ですから、イエスが神の子と呼ばれるのは、他の者が神の子と呼ばれるのとでは意味が異なります。


ヨハネによる福音書/ 03章 16節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。



新約聖書の書簡の著者達の中で、この単語を使ってイエスを形容しているのはヨハネだけです。(ヨハネ1:14, 18, 3:16, 18; I ヨハネ 4:9参照)

ヨハネはイエスが神の御子である事を示す事を主な目的とし、(ヨハネ20:31)

この単語を使う事でイエスがただ一人の神と同じ神性を持っておられ、神の子供とされたキリスト者達とは違った神の御子である事を示したのです。


イエスが神のひとり子とはどういう意味があるの?
https://www.gotquestions.org/Japanese/J … n-son.html

#978 2019年05月18日 06:04:16

仰天
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

訂正


三重の祝祷は、このアロンによる祝祷でした。

民数記/ 06章 24–26節

主があなたを祝福し、あなたを守られるように。

主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。

主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。


これは、三重の祝祷であるが、祝福されるのはひとりの神であるという事に注意すべきです。

他の箇所でも、聖なるかな、聖なるかな、聖なるかなと、2回でも、4回でもなく、3回呼ばわっているのも三位一体を示唆しているように思われる。



その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。 
(イザヤ書 / 6章 2-3節)



ヨハネの黙示録/ 04章 08節
この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、/全能者である神、主、/かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」

#979 2019年05月18日 07:55:32

さやか666
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

アロンおじいちゃんの三回繰り返しですか

解釈のアレコレは、宗教を楽しむ上での醍醐味かもしれませんね

カートコバーンが歌った「ハロー ハロー ハウロウ ハウ・ロウ? ×3」


これは私の退屈な学生生活に風穴をあけてくれましたがカートコバーンはこのように語っています


「どうもみんな深読みしたがるみたいだけど、あれは単なるゴミだよ」

以下、他人のコピペです







百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スメルズ・ライク・ティーン・スピリット はニルヴァーナを代表する曲というだけでなく、グランジを代表する曲といっても良いでしょう。 70年代後半に登場したパンクが複雑になりすぎたロックをぶち壊し、単純で荒々しい不良の音楽に戻したように、この曲もまたシンプルでストレートなものとなっています。

'90年代にグランジやオルタナティブ・ロックと言われたグループが出てきた中で、ニルヴァーナはパール・ジャムやスマッシング・パンプキンズらと共に中心的な存在でした。 けれども一躍時代の寵児となったものは、大抵は時代の要求するものや過度の期待に圧(お)しつぶされてしまうものです。
'70年代のジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンがそうであったように、ニルヴァーナのカート・コベィン(コバーン)も薬物中毒になり、'94年に自らの頭を撃ち抜くことでその活動に終止符を打ってしまいました。 グランジ・ブームはその後、急速に衰退して行きます。

この曲が売れ過ぎたことで、彼らはこの曲に対して否定的な発言もしていますが、それはこの曲と並び称される「クリープ」が売れてしまったレディオヘッドでも同じだったみたいです。
歌詞についてカート・コベインは、「どうもみんな深読みしたがるみたいだけど、あれは単なるゴミだよ」と語っていますが、あの時代のやり場の無い苛立ちや閉塞感を見事に表しています。

#980 2019年05月18日 07:59:28

さやか666
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

それでですね、こんな感じにアレコレ書き連ねる人もいたりしてhttps://otokake.com/matome/qS3067


ライナーノーツを読むのを楽しむ人もいるわけですからね

じゃあ、さやか666、お前はどちら派なんだ?と


敢えて伏せておきます

#981 2019年05月18日 08:00:44

仰天
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

あら、さやかさん、お久しぶりです(^_^)

お元気そうでなによりです。

#982 2019年05月18日 12:16:59

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

昔に友人から「clouds taste metallic」というアルバムを勧められて、どんな深いメッセージがそこに、とライナーノーツを見たら「雲って金属の味がするよね☆とか訳わかんないこと言ってんじゃねえよこのクスリ野郎」と解説されていました。


ただ、エゼキエルの半神半獣や黙示録の幻獣などは、高度に分化した意識の境界線による元型性の幻視で、「病的な」ものではないそうです。

これも深読みしすぎのような気がしなくもないですが、それも含めて、いろんな楽しみ方があるのが醍醐味ですね。

#983 2019年05月18日 13:09:18

さやか666
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ジョエル さんの発言:

昔に友人から「clouds taste metallic」というアルバムを勧められて、どんな深いメッセージがそこに、とライナーノーツを見たら「雲って金属の味がするよね☆とか訳わかんないこと言ってんじゃねえよこのクスリ野郎」と解説されていました。



これは笑えます

過剰に反応したり大袈裟になりがちなんですよね

ライナーノーツ自体「なんか、うまいこと言ってやろう」「私はコイツらの事わかってる」になりがちですからね

#984 2019年05月18日 14:00:59

さやか666
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

仰天 さんの発言:

あら、さやかさん、お久しぶりです(^_^)

お元気そうでなによりです。



元気ですよ、現役日蓮正宗の方の掲示板で書き込みしてましたが即刻消されてしまいました

そして私の書き込みが無かったかのように管理人の方が素敵な風景や花の写真をアップしてました

怖い世界です

#985 2019年05月22日 06:14:00

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん いつも興味深い書き込みありがとうございます

先日ふと疑問に思ったのですが パウロが自分はベニヤミン部族の者だといっていることについて

(フィリピ 3:5) …八日目に割礼を受け,イスラエル一族から出ており,ベニヤミン部族の者,ヘブライ人から[生まれた]ヘブライ人なのです…

自分は現在はアブラハムからイスラエルの12部族が生じたというのは 神話で実際におこったことではないと思っています
聖書の記述ににアブラハムの時代にラクダがでてくるがそのころこの地方ではラクダは使役されていなかったのでこの記述は後代に作られたもの

ソロモンの時代に北と南に別れたというのも 神話でもともと二つの別々の国だった
それで失われた10部族というものももともとなかったものならつじつまが合うと思います

であればどうしてパウロは自分がベニヤミン部族の者だと主張できたのでしょうか
あと部族がそれほど大切なものだったのなら最後まで残っていたらしい ユダとベニヤミンがなぜユダヤ人に収束したのでしょうか

以上のことで何かご存知のことがあれば教えていただければうれしいです

オフライン

#986 2019年05月22日 06:44:46

仰天
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

横から恐縮ですが、確かにアブラハム時代のラクダについては否定的な意見もありますね。

そして、一般的には出エジプトの記述はなかったと考えられています。

しかしながら、長谷川さんによると全体的に否定的ではありますが、何らかの史実が反映されている可能性もあるとの事です。

聖書にしか記述がないからといって、全否定するのはどうなんでしょうか。


引用



長谷川修一『聖書考古学 遺跡が語る史実』中公新書、2013年。
第3章以降は考古学の痕跡と文献学の史料の双方を批判的に検証しながら史実を再構成するという作業が実践されます。そこであらわれる歴史の姿は旧約聖書の記述の信憑性を突き崩す破壊的なものになります。だからこそ興奮を誘う。特に面白いのがラクダの話です(76–82ページ)。アブラハムからその孫ヤコブにいたるまでのいわゆる「族長時代」の出来事を記した旧約聖書の箇所にはラクダが頻繁に登場します。族長時代は聖書の記述から判断するに、紀元前2160年頃から1870年になります。しかし実は考古学的痕跡からも、この時代の文書史料からも、紀元前2000年頃にはラクダはまだ西アジアで家畜化されていなかったことがわかります。家畜化がなされたのは紀元前二千年紀の末、つまり紀元前1000年に近い時期でした。旧約聖書にあるアブラハムたちについての記述は、このラクダが家畜化された時代以降の人々によって文字として記されたと考えられます。

もう一つ興味深いのは「出エジプト」についての議論です。旧約聖書ではモーセに率いられてエジプトを脱出したユダヤ人がパレスチナにいた先住民族を征服したことになっています。しかし考古学的調査からはむしろ、元来パレスチナの山地に住んでいた人々が、じょじょに平野部に進出していたことが推測されます。この人々が後に自分たちをイスラエル人として認識しはじめたのではないかと多くの研究者はみなしています。しかもある学説によれば、この山地に住んでいた人々は、平野に住んでいた人々から分かれたものとされます。となると、イスラエル人による先住民族の駆逐とは、元来は「同胞」であった人々との抗争ということになります。もしイスラエル人が元来パレスチナに住んでいたとすると、彼らがエジプトから来たという「出エジプト」の伝承の史実性は疑わしくなります。実際、出エジプトを裏づける聖書以外の記録はありません。もちろん、イスラエル人となった人々の一部が祖先の記憶として伝承していた史実がそこに反映されている可能性はあります。近年はヒクソスという王朝のエジプトからの追放とイスラエル人の出エジプトを結びつけるヨセフス(!)の記述を真剣に考慮せねばならない発掘成果も出ているようです(104–105ページ)。著者の結論は以下のようなものです。

本書の著者自身は、現在入手できる資料のみから、出エジプトの年代やルートについて生産的な議論をすることはきわめて難しい、と考えている。むしろ、こうした伝承が成立した時代に目を向けて、この伝承が当時の読者に伝えようとしたメッセージや、伝承をまとめた人物の意図などを明らかにする方が、たとえそれが虚構であれ本当に起きた事件であれ、イスラエル史における出エジプトという出来事の重要性につてより有意味な議論ができよう。(216ページ)

#987 2019年05月22日 06:54:57

仰天
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

こちらは、ものみの塔オンラインからの転載で恐縮なのですが、アブラハム時代にラクダが存在していたという見解です。

ここで、ものみの塔協会が引用している書籍は調べるのは困難で正確に引用しているかは不明ですが、こういう意見もあるようです。
聖書を信じるか信じないか、判断は各自がするものでしょう。

引用します。




アブラハムは本当にらくだを所有していましたか
聖書によると,アブラハムがファラオから授かった家畜の中にらくだがいました。(創 12:16)アブラハムの僕は,メソポタミアへの長旅をした時,「自分の主人のらくだの中から十頭のらくだを取り」ました。このように聖書ははっきりと,アブラハムが西暦前2千年紀の初めごろにらくだを所有していたと述べています。―創 24:10。

しかし,このことに異議を唱える人もいます。「新国際訳 考古学研究用聖書」(英語)にはこう書かれています。「らくだに関するこれらの記述の史実性は,学者たちの議論の的となってきた。大半の学者は,らくだを飼うことが広まったのは紀元前1200年ごろ,すなわちアブラハムの時代よりずっと後のことだったと考えているからである」。聖書の始めのほうに出てくるらくだへの言及は,どれも時代錯誤だというのです。

一方,らくだを飼うことが重視されるようになったのは西暦前2千年紀の終わりごろであるとはいえ,それ以前にらくだが用いられていなかったわけではない,と述べる学者たちもいます。「古代近東の文明」(英語)という本にはこうあります。「最近の調査によれば,アラビア南東部では[西暦前]3千年紀中にらくだが飼われていたようである。当初は,乳,毛,皮,肉のために飼育されていたと思われる。しかし程なくして,荷役動物としての有用性も明らかになったはずである」。アブラハムの時代より前にらくだが使用されていたというこの見解は,骨片などの考古学上の遺物によって裏づけられているようです。

証拠となる記録もあります。「古代近東の文明」はこうも述べています。「楔形文字で記されたメソポタミアの目録にはらくだへの言及があり,幾つかの印章にはらくだが描かれている。したがって,らくだは[西暦前]2千年紀の初めにはメソポタミアに伝わっていたと考えられる」。それは,アブラハムの時代のことです。

香料の交易を行なっていた南アラビアの商人たちがらくだを使って砂漠を通り,品物を北へ運んだ,と考える学者もいます。そのようにしてエジプトやシリアにらくだを広めたというわけです。この交易は西暦前2000年の初めには盛んになっていたと思われます。興味深いことに,創世記 37章25‐28節には,アブラハムの時代のおよそ100年後に,イシュマエル人の商人たちがらくだで香料をエジプトに運んだという記述があります。

西暦前2千年紀の初めには,古代近東でらくだは広く用いられてはいなかったのでしょう。しかし証拠によると,全く知られていなかったわけではないようです。それゆえ,「国際標準聖書百科事典」(英語)はこう述べています。「族長物語におけるらくだへの言及を時代錯誤とみなす必要はもはやない。族長時代以前にらくだが飼われていたことを示す考古学上の証拠が豊富にあるからである」。

#988 2019年05月22日 16:58:59

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

てつてつさんの質問ですが、難しい質問ですね。てつてつさんの参考になるかわかりませんが、お答えしましょう。

てつてつさんは、
「自分は現在はアブラハムからイスラエルの12部族が生じたというのは 神話で実際におこったことではないと思っています」
と書いています。

そうです。アブラハム、イサク、ヤコブは神話でしょう。別々の伝承があり、それを直系の家族の神話に作り替えたのが今の聖書の話だと考えられています。となると、ヤコブの12人の子どもから、イスラエルの12部族が生じたというのも神話になります。

12部族の名称と順序は、創世記49章、民数記26章、ヨシュア記に出てくるのですが、一致しません。古い時代に書かれとされているのが、裁き人5章にある戦争の勝利をうたった「デボラの歌」です。そこには10部族しか出てきません。ユダとシメオンの南の部族がないのです。しかし、部族そのものは、架空のものではなく、12という数は別にして、実際に存在し、社会の中の集団の単位として機能していたと考えられています。

私はパキスタン人の大学生と会ったことがあるのですが、彼は、自己紹介の時、自分の名前と部族tribeを言っていました。イスラム社会では部族は今でも存在し、重要な役割を果たしています。部族長もいて、大変権威があるそうです。

イスラエルの部族は、聖書の記述とは違って、共通の祖先をもつ血縁集団として出発したのではありません。エフライムとユダ(とおそらくナフタリ)という名前は、カナンの地の同じ名前の山に由来すると考えられていますし、ベニヤミンは、「南の人」という意味です。つまり、部族は血縁集団というより、同じ地域に住む地縁集団が始まりで、それが拡大していったものだろうと考えられています。

やがて政治的経済的利害が一致する各部族は連合体を形成し、絆を強めるため、自分たちは共通の祖先から生まれた子孫だという神話が造られていきます。その際各部族に伝わる神話が一つの共通の神話へと編集されていきます。それが今の聖書です。アブラハム、イサクやヤコブの話は本来別々の集団に伝わった話だと考えられていますが、それは各話の舞台となっている地域が異なるからです。話を寄せ集めたため、似たような話の重複も生じます。話の重複は創世記に特に目立ちます。

単なる部族連合ではなく、中央集権的な国家が成立すると、国家は自己を正当化するために、国家として正しい歴史を編纂します。日本では、天皇制が成立すると、「日本書紀」が書かれました。天皇は神の子孫として描かれます。イスラエルの場合は、サムエル記の元の資料がそれにあたると思います。サムエル記の主な目的は、ダビデ王朝の正当化です。ダビデが神に選ばれたというたぐいの話がそれにあたります。サムエル記自体は、バビロン捕囚以降の人間による編集がかなり入っています。

というわけで、普通は、地域共同体として出発した部族は存在し、それが部族連合へと進み、やがて国家になった、と考えるわけです。しかし、聖書にある、その部族の成り立ちや名称などは、史実ではなく、後の時代の創作です。

てつてつさんは、
「ソロモンの時代に北と南に別れたというのも 神話でもともと二つの別々の国だった
それで失われた10部族というものももともとなかったものならつじつまが合うと思います」
と書いています。

この文の意味はよくわからないのです。

現代の普通の見解は、統一イスラエルというのは同君連合(personal union)に過ぎないというものです。別々の国が同じ君主を迎えただけということです。ソロモンの死後以降、同君連合が解消され、それぞれ別の王が地位につき、時代によって友好国だったり、戦争をしたりをしたというものです。しかし、宗教的な結びつきが強く、そのため同じ仲間という意識は存在し続けたようです。

「失われた10部族」という話しの聖書的根拠とされたのは、列王二17:6で、“ホシェアの治世の第9年,アッシリアの王はサマリアを攻め落とした。イスラエルの民を捕らえてアッシリアに連れていき,ハラハ,ゴザン川のそばのハボル,メディア人の町々に住ませた。”です。しかし、どこにも10部族とは書かれていません。「失われた10部族」という言葉は聖書にはないということです。もちろん聖書以外の資料もありません。

この記述から、北の10部族が拉致されて、行方不明になった、しかしどこかで生きているという話しができます。ヨーロッパ人が17世紀に大航海時代を迎えると、この話はとても人気が出て、南米の○○に、失われた10部族の子孫を発見した、というような話がしばしば真実として語られるようになります。

モルモン教は、失われた10部族の一部がアメリカ大陸に渡り、いわゆるインディアンになったと信じているのではなかったでしょうか?モルモン教に詳しい人、教えてください。

北のイスラエル王国が10部族からなるという聖書的根拠は、列王一11:31の“アヒヤはヤラベアムに言った。「10切れを取りなさい。イスラエルの神エホバはこう言っています。『私はソロモンから王国を引き裂いて取り上げ,10部族をあなたに与える。”です。これは史実かというと違うでしょう。

一方、歴代二15:9では、“エフライムやマナセやシメオンから来てその人たちに加わった外国人居住者も集めた。エホバ神がアサと共にいるのを見て,アサを頼ってイスラエルからやって来た大勢の人たちである。”とあります。北のエフライムとマナセとシメオンの3部族が、アサ王を頼って、南のユダ王国に逃げてきたという意味です。これが史実なのかはわかりません。考古学上の根拠は、エルサレムの拡張工事です。北からの人間が流入したからではないかと推定されています。

てつてつさんは、
「であればどうしてパウロは自分がベニヤミン部族の者だと主張できたのでしょうか」
と書いています。

部族の数や名称は別にして、部族という社会単位は存在し続けます。国家が消滅しても、続いていきます。ベニヤミン部族は存在し、パウロは自分がベニヤミン部族と思っていたからでしょうとしか、答えようがありません。

てつてつさんは、
「あと部族がそれほど大切なものだったのなら最後まで残っていたらしい ユダとベニヤミンがなぜユダヤ人に収束したのでしょうか」
と書いています。

部族が実際果たした役割は、聖書を読む限りたいしたものはありません。聖書以外の資料もありません。はっきりしているのは、戦争のときに部族ごとに兵士を出す仕組みがあったことです。

例えば、裁き人4:10、“バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに呼び,1万人が彼の後に従った。デボラも一緒だった。”とあります。ゼブルンとナフタリは北の方の部族名です。両部族に提供すべき兵士数が割り当てられ、部族長とその部下が割り当てられた人数分の徴兵業務を担ったと考えられます。当時の人口から言って1万人はありえず、聖書によくある誇張表現です。

しかし、イスラエルは国家が消滅し、他国の支配下に置かれますので、徴兵業務はなくなり、部族も名目だけのものとなっていったのではないでしょうか。ユダヤ人は家系図にこだわりがあるようなので、自分の祖先が○○だ、自分は○○部族だと真偽は別にして知っていたと思います。

最後に、ユダヤ人に収束したと、てつてつさんは書いていますが、どういう意味でしょうか?よくわかりません。

以上、かなり適当に書きました。歴史は難しいです。疑わしいと思ったところは、ご自分でお調べください。

てつてつさんの参考になれば幸いです。

#989 2019年05月22日 17:35:57

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

仰天 さんの発言:

こちらは、ものみの塔オンラインからの転載で恐縮なのですが、
アブラハム時代にラクダが存在していたという見解です。
ここで、ものみの塔協会が引用している書籍は調べるのは困難で
正確に引用しているかは不明ですが、こういう意見もあるようです。
聖書を信じるか信じないか、判断は各自がするものでしょう。

引用します。

この部分ってオンラインのどこからの引用でしょうか。
内容的には「洞察」という感じですが、
もしそうであれば、どの項目でしょうか。

オフライン

#990 2019年05月22日 17:44:18

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

以上、かなり適当に書きました。歴史は難しいです。

これは正直なところ、その通りだと思います。
歴史というものは、
実験のように誰でもが繰り返させることが不可能です。
せめて、タイムマシンがあって、
その現場を見ることだけでもできればいいのにと思います…。

オフライン

#991 2019年05月22日 17:58:25

仰天
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ラハム さんの発言:

この部分ってオンラインのどこからの引用でしょうか。
内容的には「洞察」という感じですが、
もしそうであれば、どの項目でしょうか。

塔11  6/15 P16−17です。

出版物 — ものみの塔 オンライン・ライブラリー
https://wol.jw.org/ja/wol/lv/r7/lp-j/0/21554

#992 2019年05月22日 21:08:24

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん大変わかりやすい説明ありがとうございます  仰天さんも参考になる資料の紹介ありがとうございました

>ベニヤミンは、「南の人」という意味です。つまり、部族は血縁集団というより、同じ地域に住む地縁集団が始まりで、それが拡大していったものだろうと考えられています。
やがて政治的経済的利害が一致する各部族は連合体を形成し、絆を強めるため、自分たちは共通の祖先から生まれた子孫だという神話が造られていきます。その際各部族に伝わる神話が一つの共通の神話へと編集されていきます。それが今の聖書です。アブラハム、イサクやヤコブの話は本来別々の集団に伝わった話だと考えられていますが、それは各話の舞台となっている地域が異なるからです。話を寄せ集めたため、似たような話の重複も生じます。話の重複は創世記に特に目立ちます。
単なる部族連合ではなく、中央集権的な国家が成立すると、国家は自己を正当化するために、国家として正しい歴史を編纂します。日本では、天皇制が成立すると、「日本書紀」が書かれました。天皇は神の子孫として描かれます。イスラエルの場合は、サムエル記の元の資料がそれにあたると思います。サムエル記の主な目的は、ダビデ王朝の正当化です


これは自分もそう思います 発掘された聖書にもイスラエル人とは土着のカナン人であるとかかれていました また申命記史書は当時の宗教指導者たちの利益誘導のためにかかれたともでています


>現代の普通の見解は、統一イスラエルというのは同君連合(personal union)に過ぎないというものです。別々の国が同じ君主を迎えただけということです。ソロモンの死後以降、同君連合が解消され、それぞれ別の王が地位につき、時代によって友好国だったり、戦争をしたりをしたというものです。しかし、宗教的な結びつきが強く、そのため同じ仲間という意識は存在し続けたようです。

そうなんですか 同君連合というのは初めて聞きました  このことを書いてある本や参考になるサイトがありましたら教えてください


>部族の数や名称は別にして、部族という社会単位は存在し続けます。国家が消滅しても、続いていきます。ベニヤミン部族は存在し、パウロは自分がベニヤミン部族と思っていたからでしょうとしか、答えようがありません。

もしかしたら日本でたとえると自分は何々県人だみたいな感覚かもしれませんね 牧師の書斎のサイトに系図がかかれていましたが10代くらいとんでますものね

>最後に、ユダヤ人に収束したと、てつてつさんは書いていますが、どういう意味でしょうか?よくわかりません

ウキのサイトに ソロモン王は、ベニヤミン族を行政区の一つに入れた。ヤロブアム1世の時代には、ベテルとベニヤミン部族領の東部が王の支配下にあった。領内にはエリコがあったが、アハブ王時代に、ベテル人ヒエルが再建した。後に、ユダ族とベニヤミン族は統合されていった。
という表現があったので二つの部族が一つに混ざり合って統合したのかなと思いました

あと最後に聖書についての質問さんはソロモンの大神殿は実際に存在したと思いますか 自分は作り話だと思いますが

編集者 てつてつ (2019年05月23日 07:18:21)

オフライン

#993 2019年05月23日 09:08:31

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

仰天 さんの発言:
ラハム さんの発言:

この部分ってオンラインのどこからの引用でしょうか。
内容的には「洞察」という感じですが、
もしそうであれば、どの項目でしょうか。

塔11  6/15 P16−17です。

出版物 — ものみの塔 オンライン・ライブラリー
https://wol.jw.org/ja/wol/lv/r7/lp-j/0/21554

仰天さん
ご返事ありがとうございます。
あれから洞察も直接読んでみました。
らくだが生物としてどのように人間生活に役立つかという内容でした。
ものみの塔の記事は歴史的な経緯を扱っています。
らくだについてに記事は組織が掲示板をチェックして
反証を書いているのかと思わせるような内容ですね…。
現役さんに質問するとこの記事から答えてきそうです。

オフライン

#994 2019年05月23日 17:07:50

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

てつてつさんは、ソロモンの大神殿は実際に存在したと思いますかと、お尋ねです。

てつてつさんは、作り話だと思うとのことですが、規模や豪華さは不明ですが神殿自体は存在していたと考えられます。その神殿は、いつごろ誰が造ったのかですが、ソロモンではなく、後の王でしょう。

てつてつさんもご存知の通り、ソロモンの神殿が存在したという考古学的証拠はありません。19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて神殿の丘周辺の発掘調査が行われましたが、ソロモンの神殿や宮殿にかかわるものは見つからなかったわけです。

しかし、ソロモンの神殿があった主張する人は、それはバビロニア帝国によって、徹底的に破壊されたからと主張するわけです。

しかし、ダビデ、ソロモンの時代の地層の発掘調査から、その時代のユダヤ地方の人口を推定すると4万5千人くらいとなりました。90%はエルサレムより北側の地域に住んでいたようです。エルサレムやヘブロン、その他の20ほどの村に5000人くらいが住んでいたようです。つまり、当時のエルサレムは、丘の上にある比較的大きな村だったわけです。

これまでの発掘調査では、ダビデ、ソロモンの時代の地層からは、大きな国を支配するために必要な行政機関や軍隊の施設、壮麗な宮殿なども、どこにも見当たりません。その種の施設が発見されても、それは後の時代のものばかりです。

ダビデが征服したとされる地域の発掘調査が行われていますが、その調査が示すのは、文化の連続性です。異民族に侵略され支配されると、それまでの文化が破壊され、支配者の文化が押し付けられます。例えば、日常生活に使う壺や容器のデザインや材質が変わったりするわけです。しかし、そのような変化があったことを示す証拠はありません。ダビデが征服したとされる地域は、何事もなくそれまでの生活を営んでいたということです。

それで、わたしの意見は、ダビデ、ソロモンは実在したかもしれないが、地方の豪族程度の人で、聖書にあるように他の国を征服したり、豪華な宮殿や神殿など作れるわけがないというものです。

国際政治の世界で、ソロモンの神殿なんかなかったと言っている人たちがいて、それはアラブ系の反イスラエルの人たちです。それに対して、イスラエルやキリスト教関係者は猛烈に反発しています。聖書は争いの種をまき散らしていますね。

ついでですが、ラクダが家畜化されたのは紀元前10世紀ごろです。アブラハムの時代じゃありません。イスラエルの考古学者の研究(2013)の結果の要約がナショナルジオグラフィックに出ています。インターネットで見ることができます。研究論文そのものも英語ですが読むこともできます。

#995 2019年05月23日 18:33:29

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん ソロモンの神殿のお答えいただきありがとうございます

>てつてつさんは、作り話だと思うとのことですが、規模や豪華さは不明ですが神殿自体は存在していたと考えられます。その神殿は、いつごろ誰が造ったのかですが、ソロモンではなく、後の王でしょう

元ネタはあったのかもしれませんね 発掘された聖書409ページでは

列王記の著者は後代のこれらの都市での大建築をソロモンの時代に投影させたのか。

といってますので

意外と聖書で最も邪悪な王として描かれているオムリとかアハブ王かもしれませんね「自分は彼らがグローバルに活動して成功したので 聖書の著者から憎まれてそのように書かれていると思っています cry

>それで、わたしの意見は、ダビデ、ソロモンは実在したかもしれないが、地方の豪族程度の人で、聖書にあるように他の国を征服したり、豪華な宮殿や神殿など作れるわけがないというものです

発掘された聖書でも同じようなことが書いてありますね

編集者 てつてつ (2019年05月24日 22:34:16)

オフライン

#996 2019年05月24日 14:30:12

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“会衆で思いやりを示しましょう”で、このとおりの内容です。ということは、会衆以外の人には思いやりは必要ないということですね。」
「このタイトルは日本語版だけ。英語版では、“Show Concern for the Feelings of Others”(他の人の感情に配慮せよ)で、“会衆で”という限定はない。第3者の目を意識しているからだろう。日本語翻訳者は、そのようなことを考えることなく、本文の内容に合わせて、タイトルを変えたのだろう。」
「14節の下に、思いやりを示している人たちの写真が出ていますが、会衆内で、老人や子どもに思いやりを示しているだけですからね。」
「この写真では、思いやりを示しているのは中年男ばかりだね。白人ばかりにならないように黒人も入れているのに、思いやりを示しているのが一人くらいは女性にしようという発想はJWにないんだね。JWの男性優位思想が示されている。」

「2節で、思いやりを示すのが困難な理由を説明しています。理由の第1は不完全だからです。JWの決まり文句ですね。“そのため,自分のことで頭がいっぱいになってしまいがちです。”とあります。」
「不完全だから、自分のことを優先するの?仮に自分のことよりも他人のことを優先する人がいたとしても、自分のことを優先する人のほうが高い確率で生き延びて、子孫を多く残すので、そのような人は大昔に死に絶えたからじゃないの?」
「そういう進化論的な発想はJWにはないのですよ。」
「自分のことを優先するのは生物として合理的ということ。不完全だからじゃないよ。」
「人間以外でも思いやりは示すのですか?」
「チンパンジーを使った実験で、こういうのがある。2頭のチンパンジーが別々のケージに向かい合って入れられている。1頭のチンパンジーは2つのレバーを押すことができるようになっている。右を押すと、自分にだけ食べ物が出てくる。左を押すと、自分と相手にも食べ物が出てくる。チンパンジーはどちらを押すかという実験。」
「左を押して、自分にも相手にも食べ物が出てくるようにするわけですね。」
「そのとおり。チンパンジーも人間も、自分に何の得がなくても他者のことを配慮する。これを“他者配慮選好”があるという。」
「でも、他者配慮を示すのは自分の所属している集団の仲間だけですよね。それを越えて、配慮は示さない。JWはJWにだけ思いやりを示すわけで、生物として普通の行動をとっているに過ぎないわけですね。」
「人間が思いやりを示す対象は、歴史的に見ると、家族から血縁・地縁集団、そして国民へと拡大してきた。現在では同じ国の人間は助け合っている。例えば、年金制度。JWの老人が貰っている年金は、自分が積み立ててものではなくて、今働いている人が支払っているお金だよ。医療保険制度もそう。聖書の時代から見れば、人類は大きな進歩をとげだ。」

「4から7節で、エホバの思いやりの手本が書かれています。出エジプトとヨナの話が出ています。」
「出エジプトの話は思いやりの話ではないよ。アブラハムとの契約があったから。」
「出エジプトの話では、神はファラオの心をかたくなにして、民を解放させないように仕向けたあげく、様々な災厄でエジプト人を苦しめ、最後はエジプト人の長子を皆殺しにします。エジプト人を不必要に過度に苦しめています。旧約の神の残虐性がよくわかります。」
「これは旧約の倫理が、あくまで古代の仲間内の倫理に過ぎないことの反映だね。仲間でなければ、子どもでも皆殺しだから。仲間でない人に対してどうあるべきかは考えられていない。」
「出エジプトの話は、発端からバカバカしいです。イスラエル人がどんどん増えていったので、人口を抑制しようと、ファラオが産婆に男の子が生まれたら殺すように言う。これは非合理的ですよ。」
「確かにおかしい。人口を抑制するためには女の子を殺すべきだろう。しかも、神のような存在であるファラオが産婆と直接話をするなんてこともあり得ない。ストーリ上、男であるモーセを主人公にするために、男の子を殺せという命令が必要だったということだね。出エジプトの話は非合理的な点が沢山あって、昔から冗談の対象になっている。」

「聖書には、エホバが思いやりを示さなかった例の方が沢山ありますよね。4節では、イザヤとゼカリヤから、エホバが思いやりがあることを示す聖句が引用されています。イザヤとゼカリヤから、エホバの思いやりのなさ、無慈悲さ、残酷性を示す聖句を教えてください。」
「イザヤにはたくさんある。例えば13章。バビロンに対して、エホバの日が来るとどうなるか、残酷なことを延々と描いている。13:15,16では、“見つけられる者はみな刺し通され,一度に集め捕られた者はみな剣によって倒れる。 彼らの子供たちさえ,彼らの目の前で打ち砕かれる。彼らの家は略奪され,彼らの妻は犯される。”子どもだって許さない、親の目の前で打ち砕くというわけ。女でも許さない。強姦されて殺されるんだろうね。思いやりがあるかな?実現しなかったからよかったけれど。」
「ゼカリヤはどうですか?」
「ユダヤ人に対して、ゼカリヤ11:6は、“『わたしはこの地に住む者に対してもはや同情を示さない』と,エホバはお告げになる。”と言っている。同情は示さないけれど、思いやりは示すのかな。」
「JWの教義では、エホバは、間もなく人類の99.9%を皆殺しにして、残りの0.1%にその死体を片付けさせるという仕事をやらせようとしているわけです。思いやりのある神様ではないですよ。」
「旧約聖書のおかげで、キリスト教は多くの信者を逃してきたと思うね。」

「8から13節は、イエスの手本に倣うという内容ですが、8節に、“イエスはそのすべてに喜びを感じましたが,特に人間に深い愛情を抱いていました。「親愛の情を抱く事柄は人の子らに関してであった」と記されています。(箴 8:31)”とあります。箴言が引用されていますが、これはイエスのことなんですか?」
「JWはそう解釈しているようだね。箴言は知恵が擬人化されて、知恵自らが語るというスタイルをとっている部分が多い。箴言8章もそうだけど、8:22-31は創造における知恵の関わりを語っている部分。」
「8:22、23では、“エホバが,創造の初めとして,昔の偉業の最初として私を生み出した。 私は,昔から据えられた。初めから,地球より前の時代から。”と知恵が語っています。これはヨハネのロゴスと似ていますね。それで、箴言の知恵がイエスであるという解釈が出てきたんですね。」
「擬人化された知恵なのに、JWは、この“わたし”をイエスと解釈している。このような解釈は昔はよくあったけれど、今はそれを支持する人はほとんどいない。JWの基本的な教義は20世紀前半までに作られたようだ。その当時の聖書解釈をそのまま維持しているということだね。」
「この知恵である“わたし”は女性ですよね。それから、この“わたし”の性格はかなり傲慢です。知恵のないものに対して非常に辛辣です。」
「イエスとは違うキャラクターだね。」

「12節で、ラザロが死んだときイエスが涙を流したというヨハネ11:35について、“親しい友を亡くして悲しかっただけではなく,マルタやマリアの悲しみに胸を打たれたからです。”と解説しています。これは間違いですよね?」
「ヨハネ11:36に、“それでユダヤ人たちは言いだした。「見なさい,本当に愛情を抱いていたのだ」。”とある。となると、JWの見解は、このユダヤ人たちの見解と同じということ。でも、ヨハネでは、イエスの敵対勢力は、“ユダヤ人”とひとくくりにされることが多い。」
「このユダヤ人の見解は、イエスの敵の見解であって、本当は違うということですね。」
「ユダヤ人の発言を聞いた後、11:38で、“イエスは,再び心の中でうめいてから,墓に来た。”とあり、イエスはユダヤ人の発言を是認していないよ。ヨハネのイエスは神のごとき存在。そのイエスが涙を流したとすれば、ひとりの知人の死に対してではなく、罪と死によって生じた人間の悲惨さそのものに涙したという方がもっともらしい。」

「15から17節は、長老たちは思いやりを示せ、という内容です。17節には、“多くの兄弟姉妹が長老に一番期待するのは,思いやりです。”とあります。これは、思いやりのない長老がいかに多いかということですね。」
「長老は、マニュアル通りのことをやるだけで精一杯なんじゃないの。」
「15節で、“どうすれば思いやりを示せるでしょうか。”と問いかけます。その答えは、16節で、“質問をし,辛抱強く耳を傾けます。”です。これで思いやりを示したことになるのら、簡単なことですよ。話を聞いて、適当にうなずいて、後はお決まりの聖句の引用でおしまいです。重要なのは話を聞いてどう行動するかじゃないですか。」
「長老に期待しすぎだ。JWのようなカルト宗教に優秀な人材はそもそも集まらない。」

「18,19節は一般のJWがどのように思いやりを示すべきか、が書かれています。19節で、“他の人を助ける時には,相手に合わせることが必要です。”とあり、“あまり立ち入った質問をしないようにしましょう。”、それから、“相手の見方に同意できないことがあるかもしれません。でも,その人はそう感じているのです。”と注意しています。」
「これは、JWが個人のプライバシー侵害に鈍感で、他人の感情や意見を尊重せず、自分の意見を押し付けたがることを示しているね。」
「大多数のJWでは、奉仕活動をし、集会に出席するだけで、精一杯ですよ。さらに思いやりを示せとか、過大な要求されても、多くのJWは、無理です、と心の中で言っていると思います。」
「カルトは信者に過大な要求をし、達成できないことで罪悪感と恥の感情を持たせるのが普通だね。それで、JWも信者にどんどん要求するわけだね。」

#997 2019年05月24日 21:06:02

仰天
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

このナショナルジオグラフィックの記事では、放射性炭素年代測定法で算定したとありますね。




ラクダの家畜化は紀元前10世紀 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/8886/


こちらの記事では、論文ではないのですが、500年以上の誤差が出ただけで、アブラハム時代にもラクダがいたと書いています。



らくだの家畜化の問題 イスラエルの最初のラクダ発見 - ハテヘイの日記
http://d.hatena.ne.jp/hatehei666/20140225/1393336013


炭素14年代法は誤差が大きいとか、いや、正確だとか様々な意見を見ます。


正確な割には誤差も大きい場合もあり論争もあるようです。


放射性炭素年代測定

Wikiより


縄文時代早期は9500年前と初めて測定され縄文土器が世界最古の土器文化である可能性が指摘された。これは日本の考古学者の多くを驚愕させた。また、測定を依頼した芹沢長介らと、大陸で出土した遺物の年代から3000年前と主張する山内清男との間で論争が起きている。

青森県東津軽郡外ヶ浜町の大平山元I遺跡の縄文時代草創期の土器製作時期が、通説より4500年も古い(早い)1万6500年前と1999年4月に発表された。この実年代は、ワシントン大学のスタイヴァーらが炭素14年代を年輪年代や珊瑚年代を使って暦年に換算する国際較正曲線 (INTCAL 98) を使ったものである。また、弥生時代の開始期は通説では紀元前5 - 紀元前4世紀ごろであったが、2003年3月の国立歴史民俗博物館の発表では約500年古い(早い)約3000年前(紀元前10世紀終頃、つまり、九州北部の弥生時代早期が前949年 - 915年から、前期が前810年頃から、中期が前350年頃から、それぞれ始まった。)に遡る結果が出た。2003年5月の日本考古学協会総会での報告は、衝撃、当惑、賛成、反発などとともに拒否、嘲笑などに覆われた。



果たして、ナショナルジオグラフィックで紹介された測定は正しいのでしょうか。(たとえ論文で出されたものであってもです。)



この投稿は特に、聖書についての質問さんに対抗する意図はありませんので悪しからず。

前から疑問に思っていましたので書かせてもらいました。

悪く思わないでくださいね。m(._.)m



さらに、エルサレム神殿のあった場所に現在は岩のドームが建っており、聖地になっています。それ故にそれを壊して考古学上の発掘を行う事が困難なのですから、ソロモン王やその他に関する新たな発見がなかなか出ないという側面があります。

発見されていないからといって安易に否定もできないと私は思います。

#998 2019年05月24日 21:09:18

仰天
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

カリウムアルゴン法による年代測定は正確でしょうか。

引用です。


しかし、カリウム―アルゴン法による年代測定は、その信頼性に疑問がもたれています。カリウム―アルゴン法は、放射性カリウムの「半減期」を利用して年代を測るものですが、その「半減期」は一、三〇〇、〇〇〇、〇〇〇(一三億)年もあります。その膨大な時間をかけて、カリウムはその半分がアルゴンになるのです。
カリウム―アルゴン法は、このカリウムとアルゴンの割合を測って、年代を決めようとするものです。数千年前のものであろうと、数百万年前のものであろうと、この方法で年代を測定しようとすれば、「半減期」の数字が何桁も違うのですから、それはあたかも"時針しかない時計で秒をはかる"ようなものです。正確な数字は、とても期待できません。
また、この方法は幾つかの薄弱な仮定に基づいており、実際、今やこの方法による結果がきわめて不確かで、信頼性に乏しいことは、全世界から報告が入ってきています。東大の小嶋稔博士は、こう述べています。
「『カリウム―アルゴン法』は、往々きわめて古い、もちろん真の年代とはまったく関係のない年代を与える傾向のあることが、知られている・・・・(また)求められた年代が、岩石の真の年代なのかどうかのチェックが大変むずかしい、という欠点をもっている」(『地球史』一二〇頁)。

例えば、ハワイのファラライ火山で一八〇〇年から一八〇一年に形成されたとわかっている熔岩を、カリウム―アルゴン法で測定した結果が、一九六八年発行のある学術雑誌に出ています。
カリウム―アルゴン法の半減期は一三億年もあるので、このようにわずか一七〇年前のものを測ると、その結果はほとんどゼロと出なければなりません。ところが、一億六〇〇〇万年ないし三〇億年前に形成されたと出て、どう取り扱ってよいかわからないと、報告しています(『マハナイム』九号四頁)。

また、一九六八年一〇月一一日付けの科学雑誌『サイエンス』は、二〇〇年に満たないとわかっている火山岩が、一二〇〇~二一〇〇万年を示したと報告しています。

同様な結果は、ノルウェー、ドイツ、フランス、ロシア等、世界各地から報告されており、カリウム―アルゴン法が、往々にして真の年代よりも、はるかに古い年代を示すことを告げています。

また、有名なリチャード・リーキー博士が発掘したアウストラロピテクス(「猿人」と呼ばれている最古の人類)にあてがわれた年代は、この方法を用いたもので、「二六〇万年前」とされています。ところが、年代測定の専門家E・T・ハル教授によると、最初調べられた時は、実は「二億二〇〇〇万年前」と出たということです。

しかしこれは、年代があまりに古すぎるという理由だけで拒絶され、別の岩石の標本が調べられました。この標本の年代は、もっと受け入れやすい年代「二六〇万年前」という数値を出しました。それで、この数値が採用されたのです(シルビア・ベーカー著『進化論の争点』九三頁)。

このことにも表れているように、進化論者はつねに、自分たちの進化論に合う結果だけを選び取り、他の結果は無視してきました。しかし進化論者が採用した年代は、きわめて根拠に乏しく、信頼に値しないと言わなければなりません。



創造科学――人類・地球の年齢
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/kagaku05.htm

#999 2019年05月24日 21:11:58

仰天
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

科学者の見解でも変わる事があります。

ビッグバンが宇宙の始まりではなかったというような見解や、前にakameさんが紹介しておられた利己的な遺伝子というより、むしろ利他的遺伝子であるという発見などです。

他にもこれまで信じられてきた説でも覆されたものはあるでしょう。

ですから、論文で出されたものは出どころがはっきりしていて、その点では他の意見よりはいいのですが、論文だからといって、それが確証された真実であるとは断言できないはずです。

スタップ細胞の論文でも致命的な誤りがありました。
他にも医学の世界でも論文の不正があるようです。


東大研究不正
Ordinary researchers - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/Ordinary_researchers



論文を絶対視する事なく、色々な角度から見なくてはならないと思います。


アブラハム時代のラクダに関してもです。

#1000 2019年05月24日 23:20:11

akame
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

最近は事情でROM専ですが、

>出エジプトの話では、神はファラオの心をかたくなにして、民を解放させないように仕向けたあげく、様々な災厄でエジプト人を苦しめ、最後はエジプト人の長子を皆殺しにします。エジプト人を不必要に過度に苦しめています。旧約の神の残虐性がよくわかります。


聖書をある程度史実として読むと、聖書の神に(私的に)野蛮性を感じる部分がかなりあります。ジェノサイドを始め、イサクを生贄にするよう求める場面、その他これまで複数のトピで述べさせていただいている通りです。

「神さま、何もそこまでしなくても!」「人にそこまで求める?」

素直な気持ちです。幾ら考えても、至高の神ではないような気がします。

聖書は先人の知恵として役立つ部分も多々あると考えていますから、其々の内容で是非を自問しながら今後も読ませていただきます。

結局、人はその時点におけるその人の価値観や感性に基づき、自分の信じたいように自分の中で情報を変換するものです。取分け、信条においては....ですから、感性が近い者同士が集うのです。

口は重宝なものです。あーでもない、こーでもない、藁人形論法も駆使、他のサイトでも散々この10年しましたが、もうウンザリで、今の私には時間の無駄です。

また、自分の信条を宣伝したい方は、姑息なことをしないで、自分のトピを立て、堂々と行ってください。

クィック投稿

メッセージを書いて送信してください。

Board footer