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#951 2019年05月08日 20:17:26

めぐママ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん

ありがとうございます。
内婚  外婚  についての 説明  司馬遼太郎も  そんなこと書いてました。 朝鮮半島では
同じ姓  つまりは 近親者 で遺伝的な問題が起こるのを避けるため 法律で禁じているそうです。  羊を 飼う事からの  遊牧民族の 知恵です。ギリシャ神話では近親結婚は当たり前だけど ヴィクトリア女王もいとこのアルパートと結婚したと。
日本でも 農村で財産の分散を防ぐために とか一族同士の井戸の中の平和を外から乱されたくないとかいう理由で 喜ばれた。
横溝正史の世界  です。
儒教からみると 野蛮な事なのだそうです。

聖書の  おかしな点  それを信じているカルト信者 のおかしな 理屈を  解明してください。

オフライン

#952 2019年05月08日 23:03:30

仰天
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

アブラムが、自分を守るために、妻に対して「妹と言ってくれ」と頼んだという話しですが、これは創世記12章(エジプト)と20章(ゲラル)にほぼ同じ話が出てきます。またイサクとリベカと登場人物が変わるのですが、26章にも同様の話が出ています。

同じ話が、登場人物、場所、状況を変えて複数出てくるのが創世記の特徴です。創世記は、複数の文書を寄せ集めてできたので重複が生じたと考えられています。12と26章はJ資料から、20章はE資料からと通常は考えられています。

12章のエジプト編では、アブラムは、「ちょっと聞いてほしい。あなたはとても美しい。だから,あなたを見たエジプト人は,『この人はあの男の妻だ』と言い,私を殺してあなたを生かしておくだろう。 それで,私の妹だと言ってくれないか。そうすれば,私は無事でいられる。あなたのおかげで,死なずに済むのだ」。と頼みます。

これは、妻が本当は妹ではないことを意味しています。妹ではないので、妹と言ってくれないかと頼む必要があるわけですね。


確かに、もし妹であったとしても妻としてもらったなら妻ですから妻だと言わなくてはダメですね。

つまり、アブラムは嘘をついた事になります。

この状況で、アブラムは神を信頼できなかったという事を示しています。ですから嘘をつきました。


聖書についての質問 さんの発言:

そのあとサライはファラオの家に招き入れられて、相当な高齢であるにもかかわらず、その美貌と肉体でファラオを喜ばしたのでしょう(聖書には何も書かれていませんが)、アブラムにご褒美がたくさん与えられます。


創世記/ 12章 15節
ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。

創世記/ 12章 16節
アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた。


創世記/ 12章 17節
ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。

創世記/ 12章 18節
ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたはわたしに何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、言わなかったのか。


創世記/ 12章 19節
なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。だからこそ、わたしの妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」


創世記/ 12章 20節
ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた。



確かに、ファラオはサライを妻として召し入れたとは書いていますが、家臣が彼女を褒めたので召し入れられ、そしてアブラムは家畜をもらっています。

しかし、すぐに宮廷の人とファラオは病気になっています。

ですので、聖書についての質問さんが、

サライが美貌と肉体でファラオを喜ばした、また、

売春行為のような事をしたというのは、

聖書がそこまで明らかにしていない以上、単なる推測に過ぎないのではないでしょうか?





聖書についての質問 さんの発言:

ところが、ファラオの家では災厄がおこり、それが、なぜかファラオはサライのせいだと正しく理解し、アブラム一家をなぜか殺さずに、追放します。話としてはあまり練られていませんね。

この話では、アブラムが妻をファラオに差し出し、褒美をもらいます。これって売春行為のようなものです。にもかかわらず、神様はなんにもいいません。この話の道徳性は極めて低く、うまくエジプトのファラオをだまして、褒美をもらって逃げたことを自慢しています。

サライを召し入れてからすぐに災厄が生じたのですから、サライのせいだと思うのも不思議ではないのではないですか?

既に述べたように、不道徳を犯したかは定かではなく、褒美をもらった事は記述していますが自慢というわけではないと思います。
しかも、送り出されてエジプトから追放されていますので逃げたのではないですね。




聖書についての質問 さんの発言:

20章のゲラル編では話の要点は同じですが、細部が変えられていて、12章より道徳性に配慮したものになっています。ゲラルの王アビメレクは、サライを連れてこさせるわけですが、夢に神様が現れてアビメレクに警告します。夢でお告げをするというのはE資料が好む題材です。ここで神様の言うことは滅茶苦茶です。アビメレクはだまされた側なのに、「彼女を返さないなら,あなたもあなたの家の人たちも皆,必ず死ぬことになる」と神様に脅迫されるのです。

騙されたとはいえ、神が選んだアブラムの妻と関係を持つなら幸福にはなれなかったでしょう。

しかし、神はそうなる前に警告を与えました。


創世記/ 20章 06節
神は夢の中でアビメレクに言われた。「わたしも、あなたが全くやましい考えでなしにこの事をしたことは知っている。だからわたしも、あなたがわたしに対して罪を犯すことのないように、彼女に触れさせなかったのだ。



ですから、アビメレクの心をご覧になり罪を犯さないように警告されたのであり、脅迫ではありません。





聖書についての質問 さんの発言:

その後、アビメレクはアブラムを非難するのですが、アブラムは次のような弁解をします。「『ここの人たちには,神への畏れがない。だから私は,妻を奪おうとする人たちに殺されるだろう』。 それに,彼女は実際に私の妹なのです。私の父の娘であり,母が違うだけです。妹が私の妻になったのです。 それで,神に命じられて父の家族から離れ,旅を始めた時,私は彼女にこう言いました。『どこへ行くとしても,私のことを「兄です」と言ってくれないか。そうすることで,私への揺るぎない愛を示してほしい』」

これは本当なのでしょうか???? 本当に、ここの人たちは神の畏れがないの?いいえ、アビメレクは夢の中の神様のお告げを信じて、直ちにお告げ通り実行しました。アブラムは失礼な奴です。

アビメレクは、神から『直接に』お告げを聞いた故に信じましたが、そこの人々は全体として神を畏れぬ者だったのでしょう。




聖書についての質問 さんの発言:

また、旅を始めたとき、『どこへ行くとしても,私のことを「兄です」と言ってくれないか。』と言ったって?ここで初めて出てきた言葉だよ。

旅を始めた時というのは、アブラムがハランを出た時というより、エジプトに下って行った時なのではないでしょうか。
もしくは、兄だと言ってくれと頼んだものの、エジプトに行くまではそのように言う必要がなかった為に記録していないのかもしれません。(これは推測です)



聖書についての質問 さんの発言:

アブラムの言い訳で一番の問題は、「神に命じられて父の家族から離れ,旅を始めた時」という部分です。要するに、自分は神様から命じられたので仕方なく、各地を放浪して、おかげであちこちで危険な目にあっているのです、と泣き言をいっているのです。神様のせいにして、自分を守ろうとしている卑劣な男だ。

創世記/ 20章 13節
かつて、神がわたしを父の家から離して、さすらいの旅に出されたとき、わたしは妻に、『わたしに尽くすと思って、どこへ行っても、わたしのことを、この人は兄ですと言ってくれないか』と頼んだのです。」



ここを見る限りでは、命じられたから仕方なくとか、おかげで危険な目に遭ってとか泣き言を特に言っているようには見えません。


聖書についての質問 さんの発言:

やっと、万年研究生さんの質問にかかわる部分となりました。以上の点を踏まえると、「彼女は実際に私の妹なのです。」と言うアブラムの主張は信用できるでしょうか? いいえ。私の意見は、これはアブラムの口からの出まかせです。この話でのアブラムは自己保身しか考えていない嘘つきのポン引き野郎です。




創世記/ 11章 27節
テラの系図は次のとおりである。テラにはアブラム、ナホル、ハランが生まれた。ハランにはロトが生まれた。

創世記/ 11章 29節
アブラムとナホルはそれぞれ妻をめとった。アブラムの妻の名はサライ、ナホルの妻の名はミルカといった。ミルカはハランの娘である。ハランはミルカとイスカの父であった。

ここを見ると、アブラムの兄弟のナホルは、自分の兄弟であるハランの娘を嫁にしていますから、親族同士の結婚もおかしくはありません。

「事実、彼女は、わたしの妹でもあるのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではないのです。それで、わたしの妻となったのです。 」というアブラハムの言葉ですが、全てを打ち明けている時に、果たして嘘をつく理由があるでしょうか。


聖書についての質問さんが、でまかせであると考えるのは自由ですが、当時は親族同士の結婚は珍しくなかったという事、

本当にわたしの妹でもあるのですという、アブラハムの弁明が事実であったかどうか、聖書本文は明らかにしていないという事を考えるなら確かな事は言えないのではないでしょうか?


また、売春を許可したポン引き野郎だというのも不確かな主張です。


聖書についての質問 さんの発言:

妻を妹と偽る話の要点は、うまく騙して異民族の王様に一杯食わしてやった、俺たちの祖先もなかなかやるね、ということです。そのため道徳性はあまり問題にしないのです。旧約聖書の話をありがたがって読んではいけません。

アブラムは神を信頼できなかった。
そこで、妹ですと嘘を言って、エジプト人を騙そうとして恥をかき、国を立ち去らなければならなかったという事です。


聖書には、登場人物の美談だけでなく失敗談も正直に載せられています。この点が他の宗教とは異なるよい点だと思います。


アブラムは恥をかき、追放されました。正直であったならばそのような事にはならなかったでしょう。

つまり、聖書は嘘をつく事は勧めていないという事です。

神の民は正直である事が大事であり、どのような時も神を信頼し続けなければならないという事を学べると思います。



ですから、「うまく騙して異民族の王様に一杯食わしてやった」


というようなメッセージではないと思うのですが。



創世記/ 20章 11節
アブラハムは答えた。「この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。


創世記/ 20章 12節
事実、彼女は、わたしの妹でもあるのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではないのです。それで、わたしの妻となったのです。


創世記/ 20章 13節
かつて、神がわたしを父の家から離して、さすらいの旅に出されたとき、わたしは妻に、『わたしに尽くすと思って、どこへ行っても、わたしのことを、この人は兄ですと言ってくれないか』と頼んだのです。」



創世記/ 20章 14節
アビメレクは羊、牛、男女の奴隷などを取ってアブラハムに与え、また、妻サラを返して、


創世記/ 20章 15節
言った。「この辺りはすべてわたしの領土です。好きな所にお住まいください。」



アビメレクの時は、妻を返す時に家畜などを与えていますから特に、聖書についての質問さんが言うような、うまく騙して一杯食わしてやったというような事は全くないですね。

#953 2019年05月09日 17:01:56

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#1013で私が書いた事が、聖書大好きで、きまじめな仰天さんには気に入らなかったようで、仰天さんからいろいろ反論が寄せられました。キリスト教への仰天さんの愛情はイエス様にも届いたでしょう。

キリスト教擁護の書き込みなら簡単にできます。過去2000年間キリスト教は自分たちの教えを擁護する理屈を考えてきたからですね。

アブラハムが妻を妹と偽った話を、護教的な外国人牧師風にいうと、こうなります。

「この話は、異国の危険な状況にあっても、神は決してその愛する者を見捨てないということを示しているので~す。この時、アブラムは勇気と信仰が足りませんでしたネ。そのため危機に瀕したので~す。アブラムの知恵や勇気で、アブラムは危機を脱したのではありませ~んネ。神の恵みゆえに危機を脱することができたので~す。ただ神の恩寵のみがアブラムとサライを救ったので~す。とても感動的な話だと思いますが、いかがでしょうか。」

こんなふうに過去2000年間教会で話されてきたのです。実際は、そんないい話ではないというのが、私の言いたいことで~す。

妻を妹と偽った話ですが、仰天さんは、この話を実際に起きた史実と考えているのですか?これは、イスラエル人の間で大昔から伝えられたお話をもとに、誰もが知っているアブラハムとサラ、あるいはイサクとリベカの話として作り直されたものだと思います。

史実だとしたら、この時サライの年齢は65歳以上です。アブラムがハランの地を出たのが75歳で、サライはアブラムより10歳若いことになっています。それがファラオの気を引くほどの美人だなんてありえません。このお話の語り手は、年齢のことを忘れています。

また史実としたら、危険を感じているはずのアブラムはなぜサライを隠さないのでしょうか?エジプト人やファラオの家臣まで、サライを見て美貌をほめそやしています。美人の妻をエジプト人にみせびらかしたのでしょうか。

仰天さんの意見と大きく違う点を一つだけ取り挙げます。それは、創世記12章でサライはファラオとセックスしたのか、という点です。非常に興味深い点ですね。

わたしはYes。仰天さんはNo! 聖書に何も書いていないのでどちらの答えも可能です。しかし、お話としてみた場合、どちらがより可能性が高いかというと、セックスした方だと思います。理由は、同様の話が創世記には3回出ていますが、2回ともセックスはなかったことがはっきり示されています。しかし、この創世記12章のみ、それが示されていません。あいまいな書き方です。なぜはっきり書かないのか?書きたくないからですよ。

古代のイスラエルの読者は、ここでサライは好色で薄気味悪い異教徒のファラオの慰み者になったのだと想像し、ひどく興奮するのではなく、彼女の不幸を思って涙したはずです。そうでなければ話として面白くないでしょう。聖書は子ども向けの道徳の本ではありません。妙にエロティックで残酷で不条理です。しかも、女が犠牲になって男を救うというのは、旧約聖書の男性中心の思想と合致します。そういう思想のもと、サライは模範的な女性と位置付けられていくわけです。

また、この物語がどれくらいのタイムスパンかについては不明なことが重要です。仰天さんは、「すぐに」起きたと書いていますが、1日かもしれないし、1週間かもしれないし、1か月かも、1年かもしれません。聖書のこの部分の書き方は非常に簡潔で、細部は読者の想像に任せるものとなっています。仰天さんは、サライはファラオとセックスしていないという立場なので短時間に起きたことにしないと困るので、そう読むわけです。道徳家は違うね。

創世記12章で、一番道徳的なのはファラオです。サライが人妻と知って、贈り物の返却を求めることなく、自分の所から去らせるのです。他人の妻に手を出すのはいけないことだという倫理観があるようですね。

アブラハムが道徳性の高い人なら、嘘を言ってもらったものを返すでしょう。しかしアブラムは返すことなく、妻と贈り物を携え、エジプトを出ました。アブラムは、エジプトで大儲けしたわけで、その顔には笑みが浮かんでいたでしょう(聖書には書かれていませんが)。これは、創世記20章の場合も同様です。アビメレクはサライを返しますが、贈り物を返せとも言いません。アブラム、大儲けという結末は同じです。

アブラムは妻を妹として権力者に差し出すことによって、物質的利益を受けています。聖書大好きな仰天さんは気に入らないと思いますが、これをポン引き行為と呼んでも大きな問題はないと思います。

もうすぐ、近所のJW少年が、ものみの塔の予習にやってくる時間なので、この辺でやめておきます。

#954 2019年05月09日 19:51:52

仰天
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

#1013で私が書いた事が、聖書大好きで、きまじめな仰天さんには気に入らなかったようで、仰天さんからいろいろ反論が寄せられました。キリスト教への仰天さんの愛情はイエス様にも届いたでしょう。

キリスト教擁護の書き込みなら簡単にできます。過去2000年間キリスト教は自分たちの教えを擁護する理屈を考えてきたからですね。

アブラハムが妻を妹と偽った話を、護教的な外国人牧師風にいうと、こうなります。

「この話は、異国の危険な状況にあっても、神は決してその愛する者を見捨てないということを示しているので~す。この時、アブラムは勇気と信仰が足りませんでしたネ。そのため危機に瀕したので~す。アブラムの知恵や勇気で、アブラムは危機を脱したのではありませ~んネ。神の恵みゆえに危機を脱することができたので~す。ただ神の恩寵のみがアブラムとサライを救ったので~す。とても感動的な話だと思いますが、いかがでしょうか。」

こんなふうに過去2000年間教会で話されてきたのです。実際は、そんないい話ではないというのが、私の言いたいことで~す。


キリスト教を茶化したり、突っ込みを入れながら読む事、キリスト教否定の書き込みも簡単にできると思います。

しかし、聖書についての質問さんの言いたい事は、そんないい話ではないという事は分かりました。

聖書についての質問 さんの発言:

妻を妹と偽った話ですが、仰天さんは、この話を実際に起きた史実と考えているのですか?これは、イスラエル人の間で大昔から伝えられたお話をもとに、誰もが知っているアブラハムとサラ、あるいはイサクとリベカの話として作り直されたものだと思います。

史実だとしたら、この時サライの年齢は65歳以上です。アブラムがハランの地を出たのが75歳で、サライはアブラムより10歳若いことになっています。それがファラオの気を引くほどの美人だなんてありえません。このお話の語り手は、年齢のことを忘れています。

また史実としたら、危険を感じているはずのアブラムはなぜサライを隠さないのでしょうか?エジプト人やファラオの家臣まで、サライを見て美貌をほめそやしています。美人の妻をエジプト人にみせびらかしたのでしょうか。

史実かどうかは誰にも分からない事でしょう。
教訓を得るための話として伝承された創作の物語かもしれませんし、話の元になった何らかの事実も一部含まれているかもしれませんし、史実かもしれません。
それは分かりません。

ですが、聖書についての質問さんは、断定して他の可能性を認めず、事実ではなかったという見解だけに限定されておられるように感じます。


聖書の記述どおりとした場合、
サラは、127歳まで生きており、アブラハムは、175年生きていますから、神による創造から近く、完全に近いサラの、127歳を現代の80歳位の容姿だったと仮定すれば、65歳当時でも現代の40歳位ですから、十分に綺麗だったのかもしれません。
アブラハムは、全ての国民が彼の子孫によって祝福される事になっていましたから長命ですね。

アブラムがなぜサライを隠さなかったのかは、聖書に書いてある通りではないでしょうか?

「どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」


妹だと嘘をつく事により良くしてもらえ生きのびたいと。


このように、聖書は登場人物の過ちまで正直に記しています。


ですから、サライを隠さずに共に旅をしたという聖書通りの話です。



妻を利用しようとはしましたが、
飢饉のためにエジプトに下ったのであり、特に嫁を見せびらかす為ではないと思いますが、聖書嫌いで茶化す事が大好きな聖書についての質問さんはアブラムが美人の嫁を見せびらかしに行ったとお考えになるようです。(笑)

しかし、聖書についての質問さんもそれだけ長く聖書について書いておられるのですから、ある意味、聖書が好きなのでは?


聖書についての質問 さんの発言:

仰天さんの意見と大きく違う点を一つだけ取り挙げます。それは、創世記12章でサライはファラオとセックスしたのか、という点です。非常に興味深い点ですね。

わたしはYes。仰天さんはNo! 聖書に何も書いていないのでどちらの答えも可能です。しかし、お話としてみた場合、どちらがより可能性が高いかというと、セックスした方だと思います。理由は、同様の話が創世記には3回出ていますが、2回ともセックスはなかったことがはっきり示されています。しかし、この創世記12章のみ、それが示されていません。あいまいな書き方です。なぜはっきり書かないのか?書きたくないからですよ。

私は、Noとは断定してはいませんが、2回とも性交渉がなかった事を示しているのなら、詳しく言及していないファラオの件でも神は守られたという可能性もあるという事を述べています。

たとえアブラムが性交渉を持ったとしても、聖書は過ちや失敗を隠しませんから私は構わないのですが、聖書本文が書いていない事を推測して決めつけるというのはどうかなと思います。(聖書についての質問さんが単にそう思うというのであればそれでいいですけど)


書きたくないからというのも、聖書についての質問さんの想像ですし。

聖書についての質問 さんの発言:

古代のイスラエルの読者は、ここでサライは好色で薄気味悪い異教徒のファラオの慰み者になったのだと想像し、ひどく興奮するのではなく、彼女の不幸を思って涙したはずです。そうでなければ話として面白くないでしょう。聖書は子ども向けの道徳の本ではありません。妙にエロティックで残酷で不条理です。しかも、女が犠牲になって男を救うというのは、旧約聖書の男性中心の思想と合致します。そういう思想のもと、サライは模範的な女性と位置付けられていくわけです。

確かに、聖書は綺麗事だけでなく、人間の醜い所、ドロドロとした部分も描いています。

しかし、涙したはずだというのも推測です。はっきりした事は分からないのですから。

聖書についての質問 さんの発言:

また、この物語がどれくらいのタイムスパンかについては不明なことが重要です。仰天さんは、「すぐに」起きたと書いていますが、1日かもしれないし、1週間かもしれないし、1か月かも、1年かもしれません。聖書のこの部分の書き方は非常に簡潔で、細部は読者の想像に任せるものとなっています。仰天さんは、サライはファラオとセックスしていないという立場なので短時間に起きたことにしないと困るので、そう読むわけです。道徳家は違うね。

私は、セックスしていないという立場には限定せずに、確かな事は分からないという立場ですので何も困らないのですが、

常識で考えれば、一ヶ月も、一年も放っておいてから神が災害を下すというのは不自然なように思えます。

アビメレクの時と同様に、ファラオがサライを召し入れた時に遅くならないうちに、すぐに災厄が下されたと考えるほうが、聖書が記述していないストーリーを作り上げるよりは自然だと思います。

聖書についての質問 さんの発言:

創世記12章で、一番道徳的なのはファラオです。サライが人妻と知って、贈り物の返却を求めることなく、自分の所から去らせるのです。他人の妻に手を出すのはいけないことだという倫理観があるようですね。

エジプト人でも性に関して道徳的な人はいたでしょうからね。


聖書についての質問 さんの発言:

アブラハムが道徳性の高い人なら、嘘を言ってもらったものを返すでしょう。しかしアブラムは返すことなく、妻と贈り物を携え、エジプトを出ました。アブラムは、エジプトで大儲けしたわけで、その顔には笑みが浮かんでいたでしょう(聖書には書かれていませんが)。これは、創世記20章の場合も同様です。アビメレクはサライを返しますが、贈り物を返せとも言いません。アブラム、大儲けという結末は同じです。

アブラムは妻を妹として権力者に差し出すことによって、物質的利益を受けています。聖書大好きな仰天さんは気に入らないと思いますが、これをポン引き行為と呼んでも大きな問題はないと思います。

もうすぐ、近所のJW少年が、ものみの塔の予習にやってくる時間なので、この辺でやめておきます。

アブラハムは、返さなかったとはいえ、書いてはいませんが、王が返さなくていいと言ったのかもしれません。(これくらいの推測はお許しください)

また、アブラハムが嘘をついたり、道徳の点で多少の問題があっても、聖書はそれを正直に記し、神はそのような土の器である弱い人間を用いて偉大な業、ご自身のご計画を実現されるのではないでしょうか。

結果として大儲けになったわけですから、笑みは浮かべたかもしれないですね。

神は、アブラハムを祝福すると言われたのですから、神は、出エジプトの際にファラオの頑なな心さえ利用されたように、アブラハムの弱さ、ついた嘘から出た結果までアブラハムの祝福の為に用いられたのではないでしょうか。


とにかく、聖書についての質問さんのご意見は了解しましたので、今後もこれまで通り、興味深い書き込みをしていって下さい。

よい視点からの書き込みも多いと思いますので。

#955 2019年05月10日 00:43:33

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

爆弾というほどでもない情報!!現代でもスウェーデンでは異母・異父ならば兄弟婚が認められて
いるそうです。
この感覚、時代背景・環境を確認しないと分かりません。

#956 2019年05月10日 13:54:01

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“わたしがバプテスマを受けることに何の妨げがあるでしょうか”で、エチオピアの宦官のように、さっさとバプテスマを受けろ、という内容です。」
「バプテスマを促す記事は1年に1回はあるよね。バプテスマは、年を取って、何もすることがなくなってから考えても遅くないよ。」
「組織としてはそれでは困るので、ニンジンをぶら下げたり、脅したりして、若者にバプテスマを受けさせようとしているのです。」
「ニンジンは、楽園での永遠の命という夢物語だろう。」
「最後の19節の締めくくりは、“今から1000年後の自分を想像してみてください。「あの時はバプテスマを受けることにして本当に良かった」と思うに違いありません。”です。1000年後の話しを持ち出すなんて、しらけますね。執筆者も、情けない気持ちになったと思いますよ。」
「1000年後のことじゃなくて、今得られる喜びと感動を強調すべきだ。JWになると、愛と感動に満ちた主の記念式に出られますとか、費用は普通の2倍はかかるけれど国際大会で世界的な兄弟愛を味わえますとか、迷惑な人が多いけれど会衆の兄弟姉妹という霊的家族が得られますとか、何の能力がなくても、奉仕活動に無駄に時間をかけるだけで開拓者という名誉が与えられますとか、JWだけが味わえる素晴らしいことはたくさんあるでしょう。」
「1年後に1万円もらうより、今すぐ千円をもらう方がうれしいのが人間です。1000年後の話なんか誰も関心ありませんよ。」

「1節に、アダムとエバの話が出ている。この記事の中であと数回繰り返されるけれど、JWはアダムとエバの話が大好きだね。自分で考えてはダメ、服従していればいい、というJWの基本的価値観を説教するのに都合の良い話だからだ。」
「1節では、アダムとエバが“何が正しくて何が間違っているかを自分で決めることを選んだのです。”といい、その結果人類は悲惨なことになったのだから、自分で決めるな、組織に従え、というメッセージを送っています。」
「組織に従った結果が、悲惨な死でも、組織が責任を取ることはないけれどね。」

「この記事で取り上げられている聖書の話は、使徒8章に出ている、エチオピアの宦官がバプテスマを受けた話です。これは奇妙な話だと思うのです。フィリポが、み使いの指示で、珍しい場所に行ったら、珍しい人に出会った、というのですが、史実というより、福音が地の果てまで伝わったことの象徴的な話としか理解できないのですが。」
「エチオピアはその当時知られているアフリカの最も南の地域。地の果てだね。そんな国の高官に出会うこと、しかもその人物がユダヤ教の改宗者であること、さらに、ギリシャ語訳のイザヤ書を所有し、なおかつそれを読めること、あり得ない偶然だね。」
「創作した話ということですね。」
「列王記二5章にある、シリアの軍人でらい病にかかっていたナアマンが、エリシャの所に来て、ヨルダン川の水に7度使ったら、病気が治ったという話が、この話の元ネタだろう。使徒には、他にも列王記を元ネタにしたと思われる話があるね。」
「それで、エチオピアの宦官も、軍人でもないのに兵車に乗っているわけですね。」
「また、この話の構造は、ルカ24:13-35と同じなんだ。エマオという村へ旅していた二人に復活したイエスが現れるという話ね。」
「二人は、イエスに気づかずに、イエスという人物が強力な預言者と思っていたのに、処刑され、その後復活したというから、墓まで見に行ったのに何も見えなかった、と歩きながら語る話ですね。」
「両方とも、教師役(フィリポ、イエス)が生徒役である旅人に出会い、質問に対して質問で答え、イエスの死と復活が話され、それに対する解説がなされ、その後ある種の宗教的な儀式が行われ、教師役が突然消えるが、生徒役は喜びを示す、という展開。同じ創作話を使いまわしているんだね。」

「エチオピアの宦官がバプテスマを受けている挿絵があるけれど、宦官はこんなに筋肉質なんですか?宦官は生殖器を切り取った、宮廷につかえる人ですよね。」
「精巣、つまり睾丸を切り取るわけだけど、そのため男性ホルモンが十分作れず、特異な体型になる。類宦官体型あるいは宦官様体型という。」
「細長い体型になるんですか?」
「男性ホルモンが少ないため、筋肉はあまりつかない。挿絵では筋肉質だけど。男性ホルモンが不足すると、骨の成長が止まらずに、手足が異常に長くなる。ヨーロッパではカスラートと呼ばれる去勢したオペラ歌手が沢山いた。去勢すると、声変りがおこらず、高音がだせるから。有名なヘンデルのオンブラ・マイ・フはカスラートが歌うために作曲された。当時のカスラートの絵を見ると、特異な体型をしていることがわかるよ。」

「ところが“洞察”の“宦官,閹人”の所には、“宦官という語はまた,広い意味では,だれであれ,王の宮廷の職務に就くよう選任される役人をも表わしており,それらの人々が文字通り閹人だったことを示唆していたわけではありません。”とあります。つまり、玉無しとは限らないということです。」
「それは正しいよ。申命記23:1は、“睾丸を打ち砕いて去勢された者,また陰茎を切り取った者は,エホバの会衆に入ることを許されない。”とあるから、この人物が本当の宦官なら、エルサレムの神殿に入ることはできない。」

「2節には、この宦官が“エホバとイエスが自分のためにしてくださったことに深く感謝し,すぐにバプテスマを受けました。(使徒 8:34‐38)”とありますが、感謝したとはどこにも書いていません。」
「初期のバプテスマがどのようなものかはよくわからない。“使徒”の中のバプテスマの特徴は福音を聞くとすぐにバプテスマを受ける、そして聖霊が下る、ことだね。」
「2節に“その宦官のようにエホバに献身してバプテスマを受けるなら,”とありますが、エホバに献身したとはどこにも書いていません。嘘が多いですね。」
「“イエスの名において”バプテスマを受けるのが普通だね。バプテスマをイエスの弟子となることの象徴的行為としてとらえていたようだ。エホバなんて関係ないよ。」

「4から8節で、バプテスマをためらっている5人が取り上げられています。」
「4節のエイブリーは偉すぎる父を持ったゆえに自信が持てないとある。5節のハンナは、両親がJWの18歳の女の子で、“自尊心がとても低かったからです。気分が落ち込んで自傷行為をすることもありました。”とあるから、うつ病のようだね。」
「10節で、“ハンナは正しい考え方を持てるようになり,「み言葉を行なう者」になりました。”とあり、バプテスマを受けたとあります。本当でしょうか?」
「この記事に出てくる人物は架空の人物でしょう。ハンナは、専門家による治療が必要なのに、聖書を読むといった無意味な宗教療法のようなことをさせられている。適切な治療を受ける機会を奪うという点でJWのようなカルトは有害だね。」
「“ハンナは正しい考え方を持てるようになり”とあるのですが、自傷行為は正しい考え方をしていなかったから生じるのですか?」
「違うでしょう。ここでわかるのは、ハンナのような病人に対して、JWは正しい考え方を教えようとするということだね。あなたは間違っている、正しいのはこうだ、とカルトらしく押し付けるのだろうね。」
「その場合、症状は悪化するだけですよね。ハンナは両親がJWなので、本当は進学したいにもかかわらず進学できない、信じてもいない大嫌いなJWになるしかない、という閉塞状況が、彼女の精神を蝕んでいる原因じゃないですか?この後、ハンナは精神病を悪化させ、集会にも来なくなるというのが一番考えられる結末でしょう。」
「日本においても、自傷行為を繰り返すJW2世の話を聞いたことがあるよ。最終的には死亡したらしいけれど、JWの両親は、娘の命には無関心で、医師に言うことは、輸血をするな、ということだけで、周囲の人をあきれさせたらしい。」

「6節にあるバネッサは22歳のくせに、友だちがJWを嫌っているので、バプテスマを受けたくない、といっています。」
「中学生程度の発達レベルということだね。でも、“その子と付き合うのをやめたら,もう友達ができないんじゃないかと思いました”とある。バプテスマを受けたら、親友がJWでなければ、付き合いをやめなくちゃいけないんだ。おかしいだろう。社会的な隔離はカルトの特徴だね。」
「7節のマケイラという女の子は、バプテスマを受けた後の排斥を心配しています。もし排斥されたら、家族がバラバラになってしまうわけです。」
「でも、15節によると、“エホバがどれほど寛大に許してくださるかを理解した時,失敗することへの恐れを克服できました。”とあり、バプテスマを受けてしまう。エホバは寛大でも、会衆の長老の多くは、権力を振りかざすのが大好きな偏狭な人物ということを知らないのだろうね。」

「8節のマイルズは母親の反対が怖くてバプテスマを受けていないようです。」
「JWが、誠実な宗教団体なら、保護者の承諾のない未成年者のバプテスマは拒否すべきだ。そうすれば、社会的信頼も得られる。」
「16節を見ると、マイルズは母親を捨てて、家を出てしまいます。JWは、家族を破壊するカルトであることの証拠を図らずも提供していますね。」
「最後の19節に、“エホバの導きに従えば必ず良い結果になる,ということをいつも覚えておきましょう。そうすれば,エホバとエホバの規準に対する愛は深まります。”というおバカな文があるけれど、訳が変だね。」
「“When you continue to recognize how much you benefit from Jehovah’s guidance, your love for him and his standards will grow.”ですね。」
「エホバの導きからどれだけ利益を得てきたかを認識しつづけるとき、エホバとエホバの基準に対するあなたの愛は大きくなるでしょう、という意味だよ。“必ず良い結果になる”なんてどこにも書いていない。日本のJWをだましているよ。」

#957 2019年05月11日 07:21:41

仰天
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

「予習に来ました。次回のものみの塔は、“わたしがバプテスマを受けることに何の妨げがあるでしょうか”で、エチオピアの宦官のように、さっさとバプテスマを受けろ、という内容です。」
「バプテスマを促す記事は1年に1回はあるよね。バプテスマは、年を取って、何もすることがなくなってから考えても遅くないよ。」

もちろん、エホバの証人のバプテスマを受けるのはお勧めできないですが、歳を取ってからに無理に伸ばすようにと聖書は勧めていません。

聖書についての質問 さんの発言:

「組織としてはそれでは困るので、ニンジンをぶら下げたり、脅したりして、若者にバプテスマを受けさせようとしているのです。」
「ニンジンは、楽園での永遠の命という夢物語だろう。」
「最後の19節の締めくくりは、“今から1000年後の自分を想像してみてください。「あの時はバプテスマを受けることにして本当に良かった」と思うに違いありません。”です。1000年後の話しを持ち出すなんて、しらけますね。執筆者も、情けない気持ちになったと思いますよ。」
1000年後のことじゃなくて、今得られる喜びと感動を強調すべきだ。

確かに、物事を行うからには、遠い未来だけでなく、現在にも喜びがなくてはならないでしょうね。


聖書についての質問 さんの発言:

JWになると、愛と感動に満ちた主の記念式に出られますとか、費用は普通の2倍はかかるけれど国際大会で世界的な兄弟愛を味わえますとか、迷惑な人が多いけれど会衆の兄弟姉妹という霊的家族が得られますとか、何の能力がなくても、奉仕活動に無駄に時間をかけるだけで開拓者という名誉が与えられますとか、JWだけが味わえる素晴らしいことはたくさんあるでしょう。

それのどこが素晴らしいのか分かりません。(笑)


聖書についての質問 さんの発言:

「1年後に1万円もらうより、今すぐ千円をもらう方がうれしいのが人間です。1000年後の話なんか誰も関心ありませんよ。」

今、10万もらうよりは、一年後に100万円もらうのも嬉しいですが。(^_^)


聖書についての質問 さんの発言:

「1節に、アダムとエバの話が出ている。この記事の中であと数回繰り返されるけれど、JWはアダムとエバの話が大好きだね。自分で考えてはダメ、服従していればいい、というJWの基本的価値観を説教するのに都合の良い話だからだ。」

「1節では、アダムとエバが“何が正しくて何が間違っているかを自分で決めることを選んだのです。”といい、その結果人類は悲惨なことになったのだから、自分で決めるな、組織に従え、というメッセージを送っています。」
「組織に従った結果が、悲惨な死でも、組織が責任を取ることはないけれどね。」

神に従う事と組織に従う事では全く別ですよね。


聖書についての質問 さんの発言:

「この記事で取り上げられている聖書の話は、使徒8章に出ている、エチオピアの宦官がバプテスマを受けた話です。これは奇妙な話だと思うのです。フィリポが、み使いの指示で、珍しい場所に行ったら、珍しい人に出会った、というのですが、史実というより、福音が地の果てまで伝わったことの象徴的な話としか理解できないのですが。」
「エチオピアはその当時知られているアフリカの最も南の地域。地の果てだね。そんな国の高官に出会うこと、しかもその人物がユダヤ教の改宗者であること、さらに、ギリシャ語訳のイザヤ書を所有し、なおかつそれを読めること、あり得ない偶然だね。」
「創作した話ということですね。」

聖書に出てくるエチオピアは、現在のエチオピアではなく、エジプトの南のスーダン辺りでした。

現在のアフリカの南の場所とは異なります。

ですから、遠い場所ではありますが現在のエチオピアの位置よりはエルサレムに近くなります。

フィリポは、エルサレムからガザに下る道で、エチオピア人の女王カンダケの高官で女王の財産全部を管理していた宦官に出会いました。
かなり身分の高い地位にいた事が分かります。

彼は、エルサレムでの礼拝からの帰りでした。

また、古代には、エチオピアと交流がありましたので(詩編68:31、エレミヤ38:7)
エチオピアの宦官はユダヤ教に改宗した異邦人だったのかもしれません。
(クシュとはエチオピアの事です。)

コイネーギリシャ語はヘレニズム世界(エジプト含む)の共通言語でしたから、当時のエチオピア、エジプトの南でもギリシャ語を読める者も当然いたでしょう。
クレオパトラもギリシャ語は話したかは分かりませんが、複数の言語を話せましたね。ですから、エチオピアの高官が話せても不思議ではありません。



聖書についての質問 さんの発言:

「列王記二5章にある、シリアの軍人でらい病にかかっていたナアマンが、エリシャの所に来て、ヨルダン川の水に7度使ったら、病気が治ったという話が、この話の元ネタだろう。使徒には、他にも列王記を元ネタにしたと思われる話があるね。」
「それで、エチオピアの宦官も、軍人でもないのに兵車に乗っているわけですね。」

戦車は、一義的には軍事目的のものでしたが、個人が使用する事もありました。(創50:9、IIサム15:1、創41:43)
ですから、使徒の場合もエチオピアの宦官が乗っていたものは他の翻訳では、戦車や兵車ではなく馬車としています。

兵車は個人使用する事もありましたし、高い地位にいたエチオピアの宦官なら兵車を利用しても不思議ではないですね。

ですから、類似した話があっても、元ネタにして創作したとは限らないでしょう。


聖書についての質問 さんの発言:

「また、この話の構造は、ルカ24:13-35と同じなんだ。エマオという村へ旅していた二人に復活したイエスが現れるという話ね。」
「二人は、イエスに気づかずに、イエスという人物が強力な預言者と思っていたのに、処刑され、その後復活したというから、墓まで見に行ったのに何も見えなかった、と歩きながら語る話ですね。」
「両方とも、教師役(フィリポ、イエス)が生徒役である旅人に出会い、質問に対して質問で答え、イエスの死と復活が話され、それに対する解説がなされ、その後ある種の宗教的な儀式が行われ、教師役が突然消えるが、生徒役は喜びを示す、という展開。同じ創作話を使いまわしているんだね。」

既に見てきたように(当時の社会背景を)、単に似た構造の話であっても、使いまわしているとか、創作だとは断定できないのではないでしょうか。


聖書についての質問 さんの発言:

「エチオピアの宦官がバプテスマを受けている挿絵があるけれど、宦官はこんなに筋肉質なんですか?宦官は生殖器を切り取った、宮廷につかえる人ですよね。」
「ところが“洞察”の“宦官,閹人”の所には、“宦官という語はまた,広い意味では,だれであれ,王の宮廷の職務に就くよう選任される役人をも表わしており,それらの人々が文字通り閹人だったことを示唆していたわけではありません。”とあります。つまり、玉無しとは限らないということです。」
「それは正しいよ。申命記23:1は、“睾丸を打ち砕いて去勢された者,また陰茎を切り取った者は,エホバの会衆に入ることを許されない。”とあるから、この人物が本当の宦官なら、エルサレムの神殿に入ることはできない。」


確かに、宦官とは、宮殿や支配者の後宮で仕えた男性の家令で多くは去勢されていました。
しかし、宦官と訳される語は、元来は信頼できる腹心の廷臣を意味し、必ずしも去勢された宦官の意味で用いられているわけではありません。

新改訳では、創37:36、39:1では「廷臣」と訳され、II列23:11、エス1:10の「宦官」も口語訳では「侍従」としています。
ですから、使徒8章のエチオピアの宦官も、文字通りの宦官とは限りません。去勢されていたなら神殿には入れないですが、その前に、そもそも異邦人ですから、異邦人の庭が設けられており、外側からしか礼拝できなかったでしょう。
彼がエチオピアに住むユダヤ人でそこの高官だったのなら話は別ですが。



聖書についての質問 さんの発言:

「2節には、この宦官が“エホバとイエスが自分のためにしてくださったことに深く感謝し,すぐにバプテスマを受けました。(使徒 8:34‐38)”とありますが、感謝したとはどこにも書いていません。」

「初期のバプテスマがどのようなものかはよくわからない。“使徒”の中のバプテスマの特徴は福音を聞くとすぐにバプテスマを受ける、そして聖霊が下る、ことだね。」

当時の人々が福音を聞いてすぐにバプテスマを受けたのは、ユダヤ教の下地があったからだと思います。
現代では、教会に通いだして短いうちに、あまり理解していないのにバプテスマを受けるのはあまりお勧めできません。
かといって、ものみの塔協会のように、2冊の書籍で組織の独自の混ぜ物をした教えを学ぶ必要は全くありません。


イエスは、ご自分が去った後に別の助け主として聖霊を遣わすと言われたので約束の聖霊が来られるのは自然な事です。

そして、使徒の働きだけでなく、他の箇所でもバプテスマを受けた者は聖霊を受けています。

コリントの信徒への手紙一/ 12章 13節
『つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。』

聖書についての質問 さんの発言:

「2節に“その宦官のようにエホバに献身してバプテスマを受けるなら,”とありますが、エホバに献身したとはどこにも書いていません。嘘が多いですね。」
「“イエスの名において”バプテスマを受けるのが普通だね。バプテスマをイエスの弟子となることの象徴的行為としてとらえていたようだ。エホバなんて関係ないよ。」

そうですね。最初は父と子と聖霊の名で行っていたバプテスマですが、あとの方では「イエスの名」によるバプテスマです。
クリスチャンは神の名を伝えたとありますが、使徒の働きで、初期クリスチャンが伝えた「名」とはイエスでした。
これは、新約時代のクリスチャンが伝えるべき神の名とはイエスであり、イエスの名を用いる事が父なる神を讃える事、同じく聖霊も崇める事、

イエスの名による洗礼が三位一体なる神の名による洗礼を表しているようにも思います。

イエスとは、「ヤハウェは救い」の意味ですから。

#958 2019年05月11日 09:58:18

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

シセイ さんの発言:

jwの終わりの日の教義ってそもそも変ですよね。このままだと天国の前にJWが殺到しそうですね。
凄い数いますよね。天的級。しかも年々増えているし。終わりの日に裁くとかいうけど、今までになくなった
人も含めて天国行きの人数、凄い数ですよね。?(笑)??終わりの日の意味なくね?とか・・・なし崩しになってる・・・・そのうち、天国の門、破壊されて突破されそうですよね。

聖書について質問さんへ書くつもりで「ちょっと一言」さんへ誤投してしまいましたので、同じ文ですが
こちらに持ってきました。

#959 2019年05月11日 12:19:14

akame
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

順調〜 ♪

#960 2019年05月11日 20:40:44

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

天国の門、みんなで通ればただの門。

#961 2019年05月11日 20:55:29

めぐママ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

シルクロード 美の回廊  を見ています。
アルカイックスマイルの 弥勒 は遠く ギリシャから 途中 バーミアンを経て来た。
カニシカ王 は寛大に 鷹揚に取り入れていた。
中国 黄河を遡って 柄霊寺の 微笑みの弥勒は圧感です。
仏教徒になるつもりは  ありません。

オフライン

#962 2019年05月11日 21:00:05

めぐママ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

5世紀から6世紀  戦乱が絶えなかった。救済の 仏は 微笑みにより 人々の心を癒したのだそうです。
今の 日本は自由でいいです。カルトに入っても 火あぶりにされないし、天皇陛下は神道を押し付けられませんし。

オフライン

#963 2019年05月12日 10:58:43

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

akameさんの書き込みが減ってる~寂しいよ~
でもお孫さん相手に忙しいのかな・・・
良いことです・・・平和。

#964 2019年05月12日 11:21:22

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

他トピで書いたユングについて、ついでに少し。

ユングの面白いところは、旧約の神をその発言から心理的に分析しているところで(新約では、父なる神は是認したよ、と無機質に3回くらい声を響かせるくらいでほぼしゃべらない、だからいっぱいしゃべる旧約の方が題材としては価値がある)その心理が最もよく表れているのがヨブ記です。以下、自分の考察も多少含みます。


ヤハウェは造った割には人間心理がよく分からなくて疑り深いところがある。むしろ、そういう風に(自らの全知が及ばない領域を)造ったからこそ興奮する(熱情の神)。だからわざわざ食べてはならないと前置きした上で、木をこれみよがしに真ん中に植える。

アブラハムには自分の掟に矛盾して子を焼き殺せとまで命じてどうするかを見る。このシチュエーションは最高に興奮するよなおい。

神の子の一人はヤハウェのこの性格を熟知していて、ヨブに対する疑いをほのめかせばすぐに興奮して(笑)賭けに乗ってくることを知っていた。

「お前は理由もなく、わたしを唆して(新世界訳:けしかけて)彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」(ヨブ2の3)

ここで、ヤハウェ自身が「理由もなく」と認めちゃっています。彼は訳もなく興奮しているだけなのです。


ところが、このヨブの件で、ヤハウェは変わります。

無垢な義人が、言われもなくここまで苦しんだのに、そしてそれを残酷に許可したのは自分なのに、自分を呪わずに耐えている。ここで、ヤハウェは全能性においてではなく、精神性においてヒトが自分を超えてしまったことに焦燥する。それが心理的に表れているのがムキになっているかのようなヨブへの最後の叱責です。

「彼は71行のもの長さを費やして、スクリューカウンターを食らわすかのように、惨めな犠牲者に創造者の権能を叩きつける。ヨブには、もううんざりするほど、この権能に驚かせてもらう必要はないのに、である。」(ユング)


この件で、ヤハウェにはヒトになりたい、ヒトにならなければ自分は真の意味で「完全」にはなりえない、という願望が芽生えます。それが神の受肉です。なぜなら全能性が決して味わうことがない、自らではどうにもならない障壁に圧倒され、さらに「神」にさえ見捨てられる絶望と無力さの極限に達したとき、ヒトの精神性が昇華するのを見てしまったからです。


「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。」(ヘブライ2の10)

休日の道楽(笑)長文書き込み失礼しました。

#965 2019年05月12日 11:43:59

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

全能性とはこれいかに。宇宙は一回終わったのか・・・死んでたもんね。おつかれ・・・
でも宇宙終わった時に地球の他の地域は普通に生活してたし・・・

#966 2019年05月12日 11:47:13

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

苦しみを知らなかったから懲罰与え放題とか・・・それただの・・・
それで受肉して「やばっ!これやばいじゃん」とか・・・
見えてくるのは安い哲学もどき。超越した精神性は感じませんね。

#967 2019年05月12日 11:52:09

akame
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ジョエルさん、ありがとうございます。

>自らではどうにもならない障壁に圧倒され、さらに「神」にさえ見捨てられる絶望と無力さの極限に達したとき、ヒトの精神性が昇華するのを見てしまったからです。

私も似たような解釈をしたことがあります。

上から抑えつけたような通り一遍等の「預言の成就」以上に、イエスの血のような汗、苦悶との整合性や感動があることさえあります。

単なる肯定や否定以上に物語を生かす方法はたくさんあるように思います。

#968 2019年05月12日 12:08:46

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

シセイ さんの発言:

苦しみを知らなかったから懲罰与え放題とか・・・それただの・・・
それで受肉して「やばっ!これやばいじゃん」とか・・・
見えてくるのは安い哲学もどき。超越した精神性は感じませんね。

その通りかと(笑)。

ちなみに、彼は神を外的な実在として捉えて解釈している訳ではありません。

古代の残酷で気まぐれな神々を宥めるのに何の疑問もなく生け贄を屠っていた時代(イスラエル含む)から、ヒトの精神性が古代の神々(ヤハウェ含む)を超えてしまった、義人の苦しみ?何それ?の時代からの変化を象徴するのがヨブ記として、それを受肉思想と関連づけている話かと思います。


旧約を持ち出すまでもなく、善の神が人間の犠牲(しかも映画パッションで描かれるようなおぞましい拷問の果ての)によってしか宥められない程に非和解的である...愛や最高善についてのお喋りをとがめる、まばゆいばかりの(この)光が見えないとしたら、それはもう盲目としかいいようがない、とも言っています。

#969 2019年05月12日 12:23:41

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

外典、偽典を読むに、楽園の外で泣いているエバに、ミカエルが「泣いても仕方ない
知恵の実は5000年(5500年?)経たないと実らないのだ。今はアダムの傍にいてやりなさい。」と
言ったという記述があります。私はそこに冷たさは感じませんでした。イエスが神の子で、父なる神と
人間の間をとりなすという立場なら「これ程までに苦しい」と知ることは人間の擁護者として真っ当だと
思います。そうでないと、宇宙を司る立場で、宇宙の方程式を司る神が死んではいられないと思います。(笑)
人間が神の孫なら、孫の不始末の責任は親である子が取るのは当然、そして孫は思う存分、親に弁解できる
わけです。ワンクッションあった方が良いこともある。皇帝という者は我が儘で豪腕で孤独な存在ですが
そこに丞相がいて、時にとりなす事もある。しっくり来ます。(笑)
偉いおじいさまに直接、孫が物言うのではなくて、直接の子である親を通す、とても組織的です。

私は、外典のミカエルに親近感を感じます。「しょうがないなあ、ホントのこと教えるからさあ」みたいな。
「ほんというとさ、あれ大変なんだよ、あれで宇宙つくってるからさ、あれないと代用品探すの大変なんだよね
でさ、厳しいこと言い方してるけど、今さ、工事中で、関係者以外立ち入り禁止なんだよね。」とさえ聞こえる
ような感じです。

#970 2019年05月12日 12:55:54

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

今日もノッてるからバンバン書いちゃうぞ!!時間あったら見てね。
もしもこれが旧約聖書編
「あっ何してんの?俺ここの管理人(神)なんだよ。どうすんのこれ(怒)知恵の実
ないじゃん。(これないと宇宙造るの面倒なんだよどうしてくれるのさ(怒)。」
「あいつが大丈夫と言ったから。」サタンを指さす。サタンは知らん顔。
「人の話聞いてなかった?俺よりあいつを信じるわけ?それどういう基準?」
「裏切ったな許さん。」楽園追放。
サタンごと罰する。ちなみにこの時点でまだサタンは天から下って無い模様。
神にご機嫌取りするために祭祀が始まる。兄弟で殺し合うなどの大惨事。
アダム年老いて病気になる。エバ、生き残りのセトを連れてエデンの門前まで来て
土下座する。
見かねたミカエル(楽園の従事者)が本当の事を言う。
「本当のこというと、あれがないと宇宙造るの大変なんだよ、神(管理人)は
厳しい言い方したけど、5500年経たないと、復活しないんだ。今立ち入り禁止ね。
工事中。今度はチケット配布するからそれ入手して。あれ以来、入園許可制になった
んだわ。」
エバ悟ってアダムの元に帰る。

こうやって書くと権威はなくなりますが親しみやすはなりますね。

#971 2019年05月12日 13:11:26

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

akameさんありがとうございます。

自分もそうでしたが、JW解釈で凝り固まった頭をほぐす体操にはなると思います。


いつか、akameさんの続きも聞きたいです。

自由すぎるシセイさんは、ブログじゃないからここではほどほどにね(笑)。

#972 2019年05月12日 13:23:14

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

連投すいません。これでちょっと休みます((^_^)
人の歴史とともに文化が発達して、それに伴い精神性が向上していった。当然、人の思う神のあるべき
姿も変化する。古い認識では追いつかない事がどんどん出てくる。それの一端がヨブであり、受肉思想に
結びついていったというわけですね。受肉して初めて真の完全性を得ると。まさにアブラハムの神の限界
というタイトル通り!神は肉体を持たないですから。問題はイエスは神なのだから信じない者は滅ぼされる
という結論になるところだと思います。それでは逆戻り。
不完全を含めて完全であると。それに関しては、完全とは悪と思われる事も含めて完全であるだろうと私も
思っていました。繰り返し全知全能であると唱えられているのに不完全なところが議題になって来た
と思います。その点、仏教は「諸行無常である」と言ったのですからうまい事説明してると思います。

#973 2019年05月12日 13:51:31

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

追記
これでちょっと遠慮しますね。
旧約聖書で神が「産みの苦しみ」を味わった事が書いてありますね。
じゃ、神も拷問のような苦痛を知っていたことになります。
人によっては死にますからね、今でも。あちらを繕うとこちらが綻ぶ
こちらを繕うとあちらが綻ぶ。これでは最初から諸行無常と言った方が
ましだった。
聖書が好きだっただけに残念です。

#974 2019年05月12日 20:36:35

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ほどほどにとは言いましたが、シセイさんの書き込みも楽しいです(他に語彙がないのですみません)。さやかさんとは違った意味で理解は十分に及ばないのですが。

ユングはシセイさんが大好きで大嫌いな「ヨハネ」(ヨハネな福音書とヨハネな手紙とヨハネな黙示録の著者)についても、面白い心理分析をしています。


別の新約学者は、ライバル福音書に名が付されたトマスを欠席させて、しかも後になって「わが主!わが神!」と叫ばせたのは、「ヨハネ」にとって最高にヨハネな瞬間だったであろうと分析しています。シセイさんには張り倒したくなる一言ですね。

ヨハネ共同体の存在も想定されていますが、シセイさんがカチコミかけても、ヨハネなおっさんたちが熱気むんむんで「完全な愛に恐れはないのです」「愛さない者は神をしらないのです」「さあ、愛し合いましょう☆」と語り合っているのを見て、これはそっとしておこうと気が変わるかもしれません。

聖書嫌いになるにはまだ早いかもですよ。

#975 2019年05月12日 22:35:33

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ヨハネなおっさんたちがヨハネってるんですよね・・・遠くから見ていた方が・・・
男のセ・カ・イですね♡

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