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#676 2017年10月20日 07:04:24

万年研究生
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

てつてつさん、irisさん

返信ありがとうございます
確かに全ての証拠がはっきりと開示させるというのは難しいかもと考えております。
使徒たちにも明確にしなかったですし(奇跡などはありましたが)
それでも少しでも裏づけとなるものを望んでしまう気持ちはあります。

そういった気持ちが人生を豊かにするのかもしれませんが
自分に逆らうことは神に逆らうことと同じなどと発言する集団とは(精神的に)距離を置きたいものです。

・・・・100円ですか
これからアマゾンを見てみます(安い!!)

#677 2017年10月20日 09:17:33

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

iris さんの発言:

イエスという人物が実在したことは歴史的事実でしょう。ただ、彼が復活したとか、神あるいは神の子であったとか、再臨するとかいうことに関しては、誰もが納得するような証拠はないと思います。

集英社版 漫画学習「世界の歴史」でも、イエスは、同時代のカエサルやクレオパトラと同じように、歴史の登場人物として普通に出てきます。

イエスがローマ人に処刑されたことも、カエサルがルビコン川を渡ったのと同じ歴史の出来事として扱われていますが、イエスが3日後に復活して弟子に表れたことは、そう「伝えられている」と、それは伝聞また伝承であるという書き方になっています。

その伝聞があったことも含めないと、キリスト教成立という歴史の事実を説明できませんからね。

そういう区別は、日本の教育者もきっちりしているようです。

#678 2017年10月20日 16:59:04

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

日本の学校教育やそれに準ずる教材などは、科学的な考え方も、物語文の読み方も、きちんと教えているはずなのですけれどね。

ものみの塔の教育によって、科学的な考え方も物語文の読み方も失われてしまうのでしょうか…

オフライン

#679 2017年10月20日 17:37:42

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

さやか666 さんの発言:

事実を超えた≒事実でない

事実を超えた=目の付け所が違う(達観)

どちらの意味で使われてますか?

事実を超えた≒事実であるかどうかが問題にならない

ということでしょうかね。

また、科学者としてのものの見方と信仰者としてのものの見方は、まったく同一ではありません。

オフライン

#680 2017年10月20日 19:38:25

さやか666
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

事実であるかどうか問題にならない

そうでしょうね カトリックの巨大な看板を維持するには仕方ない方便です、少なくともものみの塔よりは知恵があると思います


でもでも

突っ込まれないために用意周到な聖域を作っていませんか?


「見ないのに信じる人は、幸いである」という発言も発言者不明なんですよね


わたしはシンプルに事実はあくまで事実だと思うのですが

信仰は自由ですがリアルな世界でファンタジーを貫かれると困った問題もちらほら



エホバの証人の輸血拒否問題とカトリック教会の避妊禁止問題



傍から見てるとそんなに変わらないと思います

#681 2017年10月21日 01:36:57

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

さやか666 さんの発言:

事実であるかどうか問題にならない

そうでしょうね カトリックの巨大な看板を維持するには仕方ない方便です、少なくともものみの塔よりは知恵があると思います

宗教というのは科学ではなく、どの信仰もつまるところは「妄想」なのですから、「妄想」の部分に関しては、事実であるかどうかにこだわる必要がないのですよ。
それはカトリックに限らず、すべての宗教に共通のことがらです。宗教の働きそのものが仏教でいう「方便」なのですから。

ものみの塔が、自分たちの教えがすべて「事実」であると言い張るのは、宗教というものに対する認識が誤っている(宗教と科学とを区別できなかった時代の認識のまま)か、あるいは貢がせるために証人たちを騙しているかのどちらかでしょう。
また、ものみの塔のいう「真理」が「科学的事実(史学などの科学を含む)」であると信じてしまう人も、宗教とは科学的事実を教えるためのものではないという認識が欠けているのだと思います。

さやか666 さんの発言:

わたしはシンプルに事実はあくまで事実だと思うのですが

おっしゃるとおりですね。
ただ、ヒトというのは自分の身に起こった事実を単なる事実のまま認識するのは非常に苦手な生物でして、意味のわからないことには耐えられず、どうしても解釈し妄想せずにはいられないのです。残念ながら。

どうせ妄想するなら、毒になる妄想より薬になる妄想のほうがいいでしょう。薬も使い方が悪ければ立派な毒になりますから、解毒方法も知っておくことは安全管理上重要ですけれどね。

オフライン

#682 2017年10月21日 09:59:09

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

万年研究生さん こんにちは
ご自分の信仰の基盤として事実を確かめたいと思っておられると思いますが

イエスについてはおいておいて

一応

ノアの大洪水はなかった この掲示板のカレブさんの記事をごらんください

アブラハムとその息子たちからでたイスラエルの12部族もなかった

出エジプトもなかった

ヨシュアによるカナンの征服もなかった いやそのカナン人こそ イスラエル人の祖先だと思います

イスラエル王国が北と南がひとつだった事実はない

ダビデの王国と ソロモンの栄華と大神殿もなかった

というのが考古学から見た事実だと思いますので 発掘された聖書にそのようにかかれており自分は現在この説がより事実にちかいかなと思います
それで irisさんのいうように物語としての信仰を持つしかないと思います

編集者 てつてつ (2017年10月21日 12:02:48)

オフライン

#683 2017年10月21日 20:35:22

さやか666
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

iris さんの発言:
さやか666 さんの発言:

事実であるかどうか問題にならない

そうでしょうね カトリックの巨大な看板を維持するには仕方ない方便です、少なくともものみの塔よりは知恵があると思います

宗教というのは科学ではなく、どの信仰もつまるところは「妄想」なのですから、「妄想」の部分に関しては、事実であるかどうかにこだわる必要がないのですよ。
それはカトリックに限らず、すべての宗教に共通のことがらです。宗教の働きそのものが仏教でいう「方便」なのですから。

ものみの塔が、自分たちの教えがすべて「事実」であると言い張るのは、宗教というものに対する認識が誤っている(宗教と科学とを区別できなかった時代の認識のまま)か、あるいは貢がせるために証人たちを騙しているかのどちらかでしょう。
また、ものみの塔のいう「真理」が「科学的事実(史学などの科学を含む)」であると信じてしまう人も、宗教とは科学的事実を教えるためのものではないという認識が欠けているのだと思います。

さやか666 さんの発言:

わたしはシンプルに事実はあくまで事実だと思うのですが

おっしゃるとおりですね。
ただ、ヒトというのは自分の身に起こった事実を単なる事実のまま認識するのは非常に苦手な生物でして、意味のわからないことには耐えられず、どうしても解釈し妄想せずにはいられないのです。残念ながら。

どうせ妄想するなら、毒になる妄想より薬になる妄想のほうがいいでしょう。薬も使い方が悪ければ立派な毒になりますから、解毒方法も知っておくことは安全管理上重要ですけれどね。







丁寧な説明ありがとうございます、薬になる妄想ですね。自己完結していればそれはそれでOKだと思います


以前の投稿と重複するかもしれませんが宗教の場での子供たちへの影響をどう考えておられるのかな・・・と疑問が湧きました。


過去のカトリックの悪行は取り合えず横に置いておいて

妄想と史実や事実を混同しないように現在のカトリックが取り組んでいることって何かあるのですか??

#684 2017年10月22日 17:09:45

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

うまく説明できませんが、
科学というのはその物事がどのように成り立っているのか、
ということを説明し、この説明が正しいかどうかを
実験を繰り返すことによって証明する学問だと思います。
言い換えると繰り返すことによって確認が不可能であれば、
科学という学問の分野からはずれていることになります。

科学は「どのように」という問いに答えてくれます。

一方、宗教は「なぜ」に答えてくれるものだと思います。
なぜ人間は存在するのか。
なぜ地球は丸いのか。
なぜ悪は存在するのか。
なぜ人間は死ぬのか。

その宗教の答えで誰でも満足できるかは別です。

一つの事例として人間の創造とか進化を
科学的に証明するのは無理かもしれません。
というのは、繰り返すことによって確認不可能だからです。
現在存在している無数の生物や化石などから
推測する以外に確認するすべがありません。

だから、科学によって宗教の正しさを証明することも、
逆に宗教によって科学に正しさを証明することも
分野違いで無理があるのだろうと
最近のわたしは考えています…。

オフライン

#685 2017年10月23日 17:11:31

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

近所のJW少年が、雨の中、またやってきた。
「今週のものみの塔は、“新しい人格を身に着ける努力を続ける”というもので、素晴らしい内容でした。一緒に勉強しましょう。」
「先週の古い人格の続編か。エホバの証人は、エホバの証人を辞めるのが新しい人格を身に着ける一番よい方法だよ。」
「それはそれとして、先週の話を覚えていたので、1節の
<「新しい人格」。この言葉は「新世界訳聖書」に2回出てきます。(エフェ 4:24。コロ 3:10)>
をみた時は、“ほかの聖書には出てこないけどね”、と心の中で注解しました。」

「引用されているエフェソス4:24は、新世界訳では、
<神のご意志にそいつつ真の義と忠節のうちに創造された新しい人格を着けるべきことでした。>
しかし、新共同訳では、こうだ。
<神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。 >
かなり違うね。」
「神の意志にそってなのか、神にかたどってなのか。人格なのか、人なのか。これは人なんですよね。忠節なのか、清いなのか。単語のレベルでもだいぶ違いがありますね。」
「神の意志だけど、元の文には、意志に相当するギリシア語はない。付け加えたんだね。新世界訳が忠節と訳しているギリシア語はhosiotésiで、英語で言えばholiness。神聖、神性とか敬虔と訳される語だね。忠節は誤訳だ。信者が組織に忠節になるよう意図的かもね。」

「新世界訳が誤訳?へんだな。世界で一番優れているのですけれど。でも、エホバの証人はすばらしいでしょう。人種差別が当たり前の南アフリカの話は感動的ですよ。5節にこうあります。
<言語や人種の異なる2つの会衆が週末に何度か一緒に活動する,という取り決めです。>」
「でも、この取り決めは2013年に統治体が承認したと書いてある。人種隔離政策が廃止になったのは1994年だよ。約20年間何をしていたの?それから、統治体が決めないと交流ができないの?自分たちでは何も決められないんだね。国際的な企業なら異なる人種や国籍の人の交流にずっと前から取り組んでいる。この程度のことを自慢げに記事にするものみの塔の執筆者は、現実を知らない人たちなんだろうね。」

「3世か4世の人じゃないですか。でも、この記事を書いた人は、統治体は偉い!ともちあげたので、評価アップですよ。写真つきで紹介されている佐規子一家の話はどうですか?」
「先週の記事に出ていた妊娠中絶3回の人?」
「ちがいますよ。それはさくら。」
「この男性は元殺人犯の長老?」
「ちがいますよ。話題を変えて、ものみの塔の3節で、
<パウロは,新しい人格を身に着けるよう勧めた後,新しい人格の際立った特徴である公平さについて次のように述べました。「ギリシャ人もユダヤ人もなく,割礼も無割礼もなく,異国人も,スキタイ人も,奴隷も,自由人もありません」。 >
と、コロサイを引用しているのですが、コロサイって本当にパウロが書いたのですか?」
「引用されている部分だけど、<ギリシャ人もユダヤ人もなく>とあるだろう。パウロだったら、“ユダヤ人もギリシャ人もなく”と書くよ。コロサイの著者はギリシア人かもね。」
「確かに、ローマ1:16では、<信仰を持つすべての人にとって,すなわちユダヤ人を初めギリシャ人にとっても>となっていて、ユダヤ人が先に来ていますね。」
「コロサイを見て誰もが気づくのは、旧約聖書からの引用がひとつもないこと。旧約なんて興味がないか、知らないんだよ。パウロだったらありえないね。多数意見は、パウロが書いたものではなく、誰かがパウロに成りすまして書いた。」

「成りすまし説のほかの根拠はなんですか?」
「使用する単語の違い、文体の違い、思想の違いだね。例を挙げると、前回説明したキリスト論なんかそうだし、復活に関しては、コロサイ1:12では、
<あなた方は彼と共にそのバプテスマのうちに葬られ,また彼との関係のもとに,彼を死人の中からよみがえらせた神の働きに対する信仰によって,共によみがえらされたのです。>
とある。一方、似たようなことを言っているローマ6:4では、
<ですから,彼の死へのバプテスマ[を受けたこと]によって,わたしたちは彼と共に葬られたのです。それは,キリストが父の栄光によって死人の中からよみがえらされたのと同じように,わたしたちも命の新たな状態の中を歩むためです。 >」
「何が違うのですか?新世界訳ではどうも違いがよくわからないです。」
「コロサイでは復活はもう生じたの。パウロの真筆であるローマでは復活は未来のこと。復活という重要教義なのに、すごい違いでしょう。同じ人物がこの2つを書いたとは思えないね」
「コロサイのほうが理解できませんね。復活を文字通りではなく、パプテスマによって比ゆ的に新しい生命を得ること、と理解しているのですか?」
「そのとおり。コロサイの著者は、死人の復活なんてあるわけないよ、パウロは復活って言ったけどそれは比ゆ的なものだよと、パウロに成り代わって解説しているんだね。」
「そういえば、コリント一の15:12で、<あなた方のうちのある人たちが,死人の復活などはないと言っているのはどうしてですか。>と、パウロは怒っていますね。当時のギリシア人は死人が復活するという教義は受け入れがたいものだったのですか。」
「そのようだね。そこで、この著者は、パウロに成りすまして、ギリシア・ローマ世界の知識人から見て、より正しいと思われるキリスト教を示したんだろうね。そしてそれはある程度成功した。ものみの塔では、パウロが書いたと信じて疑わない。」
「僕も、死人が復活するなんて信じていません。死人が復活するのはゾンビ映画だけで十分です。」

#686 2017年10月24日 16:04:58

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

ラハム さんの発言:

だから、科学によって宗教の正しさを証明することも、
逆に宗教によって科学の正しさを証明することも
分野違いで無理があるのだろうと
最近のわたしは考えています…。

そのとおりですね。
科学と宗教とは扱う対象も扱い方も違いますから。

ただ、進化については「どのように」生物が現在の姿になったかを解明する学問として、科学的に検証が可能な時代になりました。すべてを解明することはできないかもしれませんが、再現性のある(誰が実験しても同じ結果になる)研究成果によって、進化の道筋をたどることができるようになってきています。
そのおかげで、医療分野も恩恵を受けています。

一方ではそのせいで、宗教が進化について科学的でない物語を語るとウソと言われてしまうようになり、納得がいかない人も多いでしょうね。
進化に関する「事実」はもはや宗教の扱う問題ではなくなり、科学のほうへ奪われてしまったのです…

編集者 iris (2017年10月24日 16:15:07)

オフライン

#687 2017年10月24日 19:44:06

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

irisさん こんにちは

再現性のある(誰が実験しても同じ結果になる)研究成果によって、進化の道筋をたどることができるようになってきています

関心ありますので どんな例があるのか教えてください

オフライン

#688 2017年10月24日 20:02:29

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

てつてつさん、進化のトピックにたくさんありますよ。

オフライン

#689 2017年10月24日 20:13:05

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

すみません ちょっとどれのことかわからないです cry

オフライン

#690 2017年10月30日 17:07:45

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は“自制心を培いましょう”でした。一緒に勉強しましょう。」
「問題を起こす不良信者対策? どんな内容?」
「ものみの塔が大好きなヨセフとポテパルの妻がいきなり挿絵で出てきます。楽しいですね。ところで、8節に、
<ポテパルの妻は,「姿が美しく,容ぼうの美しい」ヨセフに目をつけ,何度も誘惑しました。>
とありますが、ポテパルは、<わたしと寝なさい>創世記39:7といっているので、誘惑というよりは命令ですよね。」
「ヨセフはポテパルの奴隷だよ。だから誘惑ではなく命令だ。もしヨセフが女奴隷だったら、所有者によってレイプされただろう。ポテパルの妻はヨセフの所有者ではないので、ヨセフは拒絶可能だった。もちろん主人の妻と関係を持った奴隷は死刑だ。あそこを切られるだけでは済まないね。“ヨセフは自制心の強い人でした”というものみの塔の話は、全くの見当違い。誘惑という表現は当時の社会関係を反映していない表現だね。」
「聖書では“美しい”という人はたいていひどい目にあいますね。」
「そうだね。美は危険を招くという思想があるのかもね。」

「ポテパルは、“ファラオの廷臣で護衛の長”となっていますが、どんな役職なのですか?」
「“廷臣”と訳されている元の語は“宦官”という意味。護衛の元の語は“護衛”のほかに“料理人”という意味もあるね。護衛の長は、後の話の展開から考えると、刑務所長のような立場じゃないかな。しかし、料理人の長という可能性も捨てきれない。創世記の40:2,3に、こうある。
<献酌人の長とパン焼き人の長に対して憤った。 そしてそのふたりを護衛の長の家にある牢屋,つまりヨセフが囚人となっていた場所であるその獄屋に渡した。>
護衛の長ではなく料理人の長にパン焼き人の長などの処罰を任されたとすれば、つじつまが合う。」
「宦官とはなんですか?」
「王のそばに仕える、生殖器を切除した男性のこと。王の周りの女性が王以外の男性によって妊娠するのを防ぐための制度だね。かつては世界中にあった。中国やオスマン・トルコ帝国なんかの宦官は有名だ。」
「痛そうですね。それでポテパルの妻はヨセフにしつこく迫ったわけですね。ポテパルの妻に少し同情しますね。」
「彼女はヨセフに罪をなすりつけるけれど、そうしなかったら自分が危ないからね。同情の余地はある。ヨセフが服も着ないで家から飛び出したのを誰かに見られている可能性が高いだろう。」
「ものみの塔の挿絵ではヨセフは服を着ていますけれど、これじゃだめということですか?」
「絵に描くのだったら、お尻を出して逃げるヨセフを描いて欲しいな。そうしないとポテパルの妻が困った立場に立たされたことが、わからないよ。」
「その後、ポテパルの妻はエホバによって塩の柱にでもされたんですか?」
「塩の柱どころか、何のお咎めもなし。ポテパルの妻は、自分勝手な悪い女だけど、自分の気持ちに忠実だし、行動力はあるし、頭も切れる。無事危機を乗り切ったじゃないか。魅力的な悪女タイプだと思うね。でも、これも神の偉大な計画の一部だったんだね。ヨセフは投獄されるけれど、後に大臣となるきっかけをつかむ。この話はエジプトの“2人の兄弟の物語”をもとに作られたというのが通説だ。」

「5節に、<エホバは完全な自制心を示されます。すべての点で完全な方だからです。>とありますが、そんなことないですよね。俺は、神様なんだから好きなことをやる、文句言うやつはぶち殺すというのが、本当のエホバに近いと思うのですが。」
「そのような例ならたくさんあるよ。例えば、民数記16章にあるコラの話だ。出エジプト後、荒野をさまよっている時代の話。コラと250人はモーセとアロンにこう言う。
<あなた方のことはもう沢山だ。集会全体はそのだれもが聖なる者であり,エホバはその中におられるのだ。それなのに,どうしてあなた方は自分をエホバの会衆の上に高めるのか>16:3
イスラエル人にとって、モーセとアロンの事実上の支配者だ。いつあなた方は支配者になったのだ、我々はみな平等だ、おかしいではないか、という主張。」
「もっともな意見ですね。統治体の人にいってやりたいです。」
「すると、モーセは、明日の朝、火取り皿をもって集まれという。次の朝、エホバは、“今は危機の時代だ。1人の指導者の下に団結することが重要だ。約束の地に着いたら、しかるべき政治体制を整えよう、それまで我慢してくれ” などと説得すればよいものを、そんなことは言わず、モーセとアロンにこう言う。
<集会の人々に話して言いなさい,『コラ,ダタン,アビラムの幕屋の周りから離れよ!』と>16:23」
「その後どうなるか知っていますよ。<地はその口を開いて,彼らとその家の者たち,またコラに属するすべての者とすべての貨財を呑み込んでいった。>16:32」
「誠意を持って説得するのではなく、文句言ったやつは、見せしめに殺しちゃう。しかも、まだ続きがある。16:41で、イスラエルの民はこうつぶやく。「あなた方は,エホバの民を死なせたのだ」」
「もっともな意見ですね。無駄な殺人はやめて欲しいです。」
「するとエホバは、モーセにこう言う。
<あなた方は,この集会の中から立ちなさい。わたしが彼らを即座に滅ぼし絶やすためである>16:45」
「無茶苦茶ですね。16:49には、<その神罰によって死んだ者は一万四千七百人となり,ほかにコラのために死んだ者たちがいた。>とあります。エホバは皆殺しにするつもりだったのに、これくらいの死者数ですんだのは、モーセとアロンの儀式のおかげなのですよね。」
「ちょっとつぶやいたくらいで皆殺しだ!自制心はどうしたといいたいね。やっぱり聖書の神様は史上最悪のキャラクターだね。」
「ものみの塔では、“すべての点で完全な方”となっていますけど。そうだとすると、完全って恐ろしいですね。」

#691 2017年10月31日 18:04:02

プー太郎
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん、いつも示唆に富む書き込みありがとうございます。

「ヨセフはポテパルの奴隷だよ。だから誘惑ではなく命令だ。もしヨセフが女奴隷だったら、所有者によってレイプされただろう。ポテパルの妻はヨセフの所有者ではないので、ヨセフは拒絶可能だった。もちろん主人の妻と関係を持った奴隷は死刑だ。あそこを切られるだけでは済まないね。“ヨセフは自制心の強い人でした”というものみの塔の話は、全くの見当違い。誘惑という表現は当時の社会関係を反映していない表現だね。」

このような視点で考えたことなどありませんでした。目から鱗が落ちました。

#692 2017年10月31日 18:58:27

??
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

モーセの時代は明らかだった、誰が見ても。でも今は。

#693 2017年11月01日 11:38:42

素朴な疑問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

「ヨセフはポテパルの奴隷だよ。だから誘惑ではなく命令だ。もしヨセフが女奴隷だったら、所有者によってレイプされただろう。ポテパルの妻はヨセフの所有者ではないので、ヨセフは拒絶可能だった。もちろん主人の妻と関係を持った奴隷は死刑だ。あそこを切られるだけでは済まないね。“ヨセフは自制心の強い人でした”というものみの塔の話は、全くの見当違い。誘惑という表現は当時の社会関係を反映していない表現だね。」

聖書の記述では、ポテパルの妻に訴えられた後、死刑ではなく投獄になりました。
「もちろん主人の妻と関係を持った奴隷は死刑だ。あそこを切られるだけでは済まないね。」というのと若干矛盾すると思うんですが、理由について何か考察ありますか?

#694 2017年11月02日 14:37:22

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

素朴な疑問さんの質問にお答えします。

なぜヨセフは死刑にならなかったのか?このような疑問は過去に様々な人が質問し、様々な人が真面目に考えて答えてきました。

ヨセフが死んだら話が終わってしまうからというのを除きますと、

1つめは、詩篇105:17,18に着目する答えです。

<[神]は彼らより先にひとりの人を遣わされた。それは奴隷として売られたヨセフであった。 人々は彼に足かせを掛けて苦しめ,彼の魂は鉄かせの中に入った。>

ヨセフが入れられた所は最悪の場所で、すぐに殺すよりもっと苦しめるためにヨセフをそこに入れたという説明です。そこは<王の囚人たちが拘置されている>創39:20 ところなので、単なる刑法犯ではなく国家的犯罪者が収容され、厳しい扱いを受けるところではないかということです。しかし、詩篇の記述は創世記の記述と一致しません。ヨセフはそんなひどい扱いは受けていません。

2つめは、ポテパルは、妻の言い分を信じていなかったというものです。ポテパルは妻の日頃の行状を知っていたのかもしれません。ヨセフの真面目さも知っていたでしょう。しかし、妻の言い分を否定すると、今度は妻を処罰しなければならなくなる。夫としてそれはしたくない。そこで、ヨセフをとりあえず投獄することにしたというものです。

3つめは、2つ目とほぼ同じです。ポテパルは妻の言い分を必ずしも信じていません。ヨセフの言い分も聞いて、じっくり調べようと思い、まずヨセフの身柄を確保したというものです。<獄屋>と訳されている言葉は、文字通りは“丸い家”で、創世記の39章と40章にしか出てこない、意味不明の言葉です。少なくとも刑務所のような囚人を長期間拘置しておくところではなく、取調べが終わるまでの一時的な収容施設、今で言えば警察の留置所ではないかという解釈です。

というわけでポイントは、<獄屋>が地下牢のような恐ろしい場所なのか、普通の家のようなところかですが、判断しようがありません。

なお、ヨセフの物語はダニエルの物語の元ネタです。外国の宮廷で出世したり、夢の謎解きをしたりと、ダニエルはヨセフのバビロニア版です。

#695 2017年11月02日 17:00:11

888
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

>この話はエジプトの“2人の兄弟の物語”をもとに作られたというのが通説だ。

これが作り話なら、死刑にならなかったとしても不思議ではないね。

#696 2017年11月02日 17:28:53

素朴な疑問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん

返信に感謝します。
2つめと3つめの説明は非常に納得できました。

・死刑になるリスクを冒してまでポテパルの妻と関係を持たなかったのは、理性的に考えて命を守るための当然の行動であり、強い自制心がないと断れなかったというのは見当違い。
・ポテパルの妻に訴えられても死刑にならなかったのは、実際に関係を持ったとは思われていなかった可能性が高いから。

ということですね。これだと、両者は矛盾しません。
非常に明快な回答ありがとうございました。

#697 2017年11月06日 17:13:11

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

近所のJW少年が、今週もやってきた。
「今週のものみの塔は、“同情心を培いましょう”でした。いい内容でした。」
「問題の多い不良長老むけのプログラム?」
「そんなことないです。ものみの塔によりますと、“エホバは同情心の完全なお手本”だそうです。ロトを助けた話と担保にとった服は日が沈む前に返すといいう律法がその証拠なんです。同情心に富んでますね。」
「よくこんな記事を書くもんだね。ものみの塔を学んでいる人って、長い人は何十年も聖書研究と称するものをしてきたんでしょう。旧約聖書には同情心に欠けた話がたくさんあることを当然知っているんじゃないの。こんな子供だましの記事をみて、エホバは同情心のお手本だなと思うの?」
「聖書研究ではなくて聖書レッスンと呼んでいます。皆さん、疑問なんか思いませんよ。」
「そうなの?多くのエホバの証人にとって、聖書の言葉とは、一日一善とか、善は急げとかの標語の様なものなのかな。」

「まあいいじゃないですか。エホバの証人は、ロトの妻が塩の柱になったことは知っていますよ。後ろを振り返っただけの理由で。聖書の律法の特徴は、同情心に富んだものと言うより、やたらと死刑が多いことですか?」
「くだらないことで死刑になるよね。例えば、
<人の妻と姦淫を犯す者,その者は自分の仲間である者の妻と姦淫を犯すのである。その者は,姦淫を犯した男も女も共に,必ず死に処せられるべきである。>レビ20:10」
「不倫はスキャンダルですけど、今では犯罪ではないですよね。律法では死刑だなんて、エホバは死刑好きですね。」
「こういうのはどう?
<その娘に処女の証拠が見いだされないのであれば, 彼らはその娘をその父の家の入口のところに連れ出すように。その都市の人々はこれを石撃ちにしなければならず,彼女は死ななければならない。>申命記22:20,21」
「これも現代なら処罰の対象ですらないですよね。ところが、古代イスラエルでは、皆で、石をぶつけて死刑。エホバって女嫌いですよね。」
「律法の内容や形式は、その当時の中東地域の法律と同じようなもので、特別同情心に富んだものではない。奴隷制度だって認めている。」

「でも、ものみの塔によりますと、担保に取った服をその日のうちに返すので、同情心に富んだことになるわけです。ものみの塔の2節では、
<聖書には,人々の同情心を際立たせる記述が数多くあります。ソロモンの前で言い争った2人の女性のことを思い出してください。>
とあって、子どもをめぐる有名なソロモンの裁判の話が続くのですが、この話はどう思いますか?」
「この話の中では、ソロモンという名前は一度も出てこない。すべて“王”なんだ。ある王様の裁判の話をどこかからか持ってきてものだろう。もし本物の母親が、子どもを半分にすることに同意したらどうするのだろうね。非常にリスクが高い。賢者は無駄なリスクを避けるものだろう。」
「同情心の例としてものみの塔では引用していますが、これは子どもに対する愛の例でしょう?」
「同情心からと3:26には書いてあるよ。」
「新世界訳では<内奥の感情がその子に対してかき立てられたので>としか書いていません。」
「英語版では、< her compassions were stirred toward her son>で、はっきりとcompassions=同情、あわれみと書いてある。日本語訳がへんだね。ちなみに新共同訳では、<その子を哀れに思うあまり>だよ。」
「ものみの塔の翻訳者は無能なのですね。悲しいな。」

「ところで、7節のボスニアのミランの話はどう思いますか?現代の奇跡ですよね。」
「どんな戦争でも、助かった人も死んだ人もいた。生き残った人は奇跡だと思い、それを語る。何も不思議じゃない。シリア内戦で何十万の人々が国外に脱出した。途中で死んだ人もたくさんいたから、ほとんどがイスラム教徒の助かった人は、アラーのおかげだと思っているよ。となると、アラーは何十万人も救ったのに、エホバは何人救ったの?数人じゃない。アラーの勝ちだね。でも、このボスニアの話は、10節の話に続くとまずいね。」
「ものみの塔、10節は、
<同情心を示すべきではない場合もあります。サウル王は,神の民の敵であるアガグの命を容赦し,羊や牛の群れの最も良いものも殺しませんでした。自分では同情心を示したつもりでしたが,神の指示に背いていました。そのためイスラエルの王の立場から退けられました。>」
「これは、アマレク人を皆殺しにせよ、家畜も殺せという神様の絶滅命令いわゆる“聖絶”にサウルが部分的にしか従わなかったという話だけど、これはボスニアで起きたことと似ている。」
「民族浄化ですね。」
「そのとおり。異民族を追放したり殺害したりすることが旧ユーゴスラビア各地で行われた。ミランもその被害者になりそうだったんだろう。ところがアマレク人絶滅は神の命令だから同情心なんかいらないという主張だ。悪いことをした人の子孫だということで絶滅だというのは狂気の沙汰だね。」
「アマレク人を殺せというのは、出エジプト後、イスラエル人を妨害をしたというのが理由みたいですけど、サウル王の時代の数百年前の出来事ですよね。日本だと、鎌倉時代のモンゴルの侵略を理由にモンゴルに宣戦布告するくらい滅茶苦茶な理屈ですよね。宗教戦争の狂気しか感じません。旧約聖書の嫌な部分ですね。」
「ものみの塔の執筆者は何も考えていないね。現代の民族浄化を悪とするなら、旧約聖書の聖絶も悪として、徹底的に批判しなくちゃ。神の命令だと無差別殺人もOKなら、エホバの証人は、潜在的テロリストと見なされても仕方ないよ。」
「ハルマゲドンで、人類皆殺しを待ち望んでいる人たちですからね。」

#698 2017年11月13日 17:12:04

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

いつものJW少年が夕方ごろやってきた。
「今週のものみの塔は“神の言葉は,定めのない時に至るまで保つ”というもので、聖書に関する話でした。興味深いでしょう?」
「エホバの証人はものみの塔が書いたものを読んでいればいいんでしょう。なぜこんな聖書の話をするんだろうね。」
「いきなりものみの塔の教えに引きずり込むのは難しいのですよ。その前にワンクッション入れるわけです。それが聖書なんですよ。 “聖書→ものみの塔”二段階作戦だからじゃないですか。」

「なるほどね。2節に
<エホバは聖書を与えてくださいました。また,聖書に収められている情報が永久に存続する,と約束しておられます。>
とあるけど、嘘だよね。聖書にどの文書を採用するかを決めたのはエホバじゃないよ。プロテスタント(全66巻)とカトリック(全72巻)では違うし、ものみの塔は全く無視しているけど、東方教会の聖書も西側とは違う。ものみの塔はアメリカのプロテスタント系の宗教として出発したから、基本的にはプロテスタント系の聖書を自分たちの聖書(全66巻)としているけれど、これもエホバが決めたの?ドイツのルターやイギリスの清教徒が決めたんじゃなかったっけ?」
「まあいいじゃないですか。それに関連して、前から気になっていたことがありまして、ユダの手紙の13節には
<そうです,アダムから七[代]目の人エノクも彼らについて預言して言いました。>
とありまして、その後“エノク書”からの引用をしているのですが、“エノク書”って聖書にないですよね?どう考えたらいいのですか?」
「エノク書は、初期のクリスチャンの間では正典の一部と認識されていたということだろうね。エチオピア正教会の聖書には今でも含まれているよ。ところが、それ以外の教会では聖書に入れてもらえなかった。明らかに偽書だからね。でも初期のクリスチャンを見倣うのがエホバの証人だろう。エノク書も新世界訳に加えたらいいんじゃない。」
「要するに、聖書と言ってもいろいろあって、ものみの塔はプロテスタント系の聖書のみを聖書とよんでいるけれど、そう決めたのはエホバじゃなくて、プロテスタント系の人で、初期クリスチャンは違うのですね。」

「そうだね。それからオリジナルの聖書はどこに行ったの?エホバは一体何をしているの。すべて存在しない。ものみの塔では、そう批判されると予想して、“聖書に収められている情報”なんて回りくどい言い方をしているけれど、英文では“his message”だよ。」
「オリジナルは失くしちゃったけれど、エホバのおかげで、そのメッセージは写本に正確に残っているのではないですか?」
「答えはNO。写本ごとに内容が大きく違う。どれがオリジナルか決めようがないのさ。たとえば、8節に
<この聖書はギリシャ語セプトゥアギンタ訳と呼ばれており,ヘブライ語聖書全巻の最初の翻訳として知られています。>
と、いわゆる70(LXX)人訳のことが紹介してあるけど、今あるヘブライ語聖書とはかなり違う。ダニエル書なんかはずっと長いけど、エレミヤ書はずっと短い。どちらが本来のあり方なのかは判定しようがない。そのことには何も触れないなんてずるいね。」

「ずるいやり方は神権的戦略なので問題ないのです。6節に、エホバの証人が世界に誇る新世界訳について、
<重要な特色として,聖書中の正当な箇所に「エホバ」という名前を復元しています。>
とありますが、本当なんでしょうか?」
「まず神の名前はエホバじゃないよね。そんなことを言っているのは、ものみの塔だけ。でも、ものみの塔の2代目会長のラザフォードが1931年に、“エホバの証人”という名称を採用したので、いまさら変えられなくて困っているんだろうね。それまでは“エホバ”なんて言う名前にこだわっていなかったと思うよ。今となっては、エホバで押し通すしかなくなって、新約聖書にエホバなんて一度も出てこないのに、無理やり入れちゃっうという改ざんまでした。おかげで新約聖書の解釈が滅茶苦茶になってしまった。」
「なぜ新約聖書にエホバと言う名前をそこまでして入れる必要があるのですか?」
「エホバの証人はクリスチャンと称しているからだよ。しかも真のクリスチャンね。イエス様や使徒たちがエホバなんて一度も使わなかったとなると、困るんだよ。新約聖書にエホバの名前をいれて、1世紀のクリスチャンもエホバを使っていたと主張することによって、自分たちは新興宗教エホバ教の信者ではなく由緒正しい真のキリスト教徒なのだと、正当化できると思っているからじゃない。」

「しかし、新世界訳ですけれど、ローマ10:13には、
<「エホバの名を呼び求める者はみな救われる」のです。>
とありますよ。エホバの名前は大事じゃないですか?」
「それはヨエル書3:5のセプトゥアギンタ訳からの引用ね。そこにはエホバは出てこない。κυρίου(主)だ。少し前のローマ10:9には、
<イエスは主(κυρίου)であるということを公に宣言し>
とあるから、文脈からいって、κυρίουはイエス様を意味している。新世界訳は改竄だ。」
「エホバじゃなくて、イエスの名を呼び求める者が救われるのなら、エホバの証人は救われないですね。」
「そうかもね。どっちでもいいけど。」
「それでは、ものみの塔の2節で引用しているペテロ第一の1:25にある
<しかしエホバのことばは永久に存続する」とあるからです。>
という今週のテーマに関わる部分は、本当は主(κυρίου)でキリストを指すのですか?」
「そうだよ。引用部分の前に当たるペテロ第一の1:23には、<神の言葉を通して>という文言があるけど、神(theou)と言う言葉を使っている。ところが25節では主(κυρίου)に変えているの。エホバなら神(theou)のままでよくて、言いかえる必要はない。というわけで、ものみの塔以外では、主はエホバじゃなくてキリストを指していると理解されている。新約聖書の多くの部分では神とキリストの区別はあいまいだね。」
「それだと、ものみの塔としては困るので、主をエホバに強引に代えて、“新世界訳では正当な箇所に「エホバ」と言うお名前に変えています”と自画自賛するしかないわけですね。」

#699 2017年11月13日 19:31:03

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

ものみの塔の教えがキリスト教ではなくてエホバ教であることがよくわかっちゃうお話ですね。

オフライン

#700 2017年11月14日 17:44:00

通りすがり
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書にかなり詳しい。
”神権的戦略”というJW用語も知っている。
この、聖書についての質問と名乗るものは何者なのか。

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