ログインしていません。

#1501 2024年03月08日 14:35:52

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバに頼って恐れを乗り越える(1)”で、恐ろしいことが次々起こるけれど、エホバに頼って耐えなさい、という内容です。」
「迫害の恐怖をあおっている。それは信者を支配するカルトのいつものやり方。」

「ノルウェーでの裁判、JWが負けましたよね。エホバは裁判では頼っても無駄のようです。」
「弁護士費用だけでも数千万円使ったようだけど、エホバを頼って、上訴するんじゃないかな?」

「この号から、質問の答えを書く四角い欄がついています。小学生のワークブックに増々似てきましたね。」
「答えをアプリにインプットすると、自動的に組織に転送されるようになっているのかな?不気味だね。」

「1節に“私たちの誰もが恐れを感じることがあります。もちろん聖書を学んでいるので,亡くなった人や邪悪な天使を恐れたり,将来について不安に思ったりすることはもうないかもしれません。”とありますが、JWは悪霊を恐れていますし、将来については不安だらけです。現実を無視しています。」
「JWはサタンと悪霊が自分たちを狙っていると、とても怖がっているよ。中古の物には悪霊がついているかもしれないと恐れて買わないのがJWでしょう。」

「2節からダビデの話になります。突然、旧約聖書の世界に飛ぶのはよくあるパターンですが、旧約の出来事を現代のJWと関連させようとしても、何のリアリティも感じませんよ。」
「ダビデは何度も取り上げられている。信者にとっては退屈だね。」

「3節に“ダビデは恐れを感じた 時,エホバに頼りました。(詩編56:1-3,11を読む。)”とあります。引照聖句には“私は恐れる時,あなたに頼る。”とありまして、これが今年の年句です。」
「詩編56の表題には“フィリスティア人がガトでダビデを捕らえた時”とあり、その時の詩とJWは思っているようだけど、表題は後からつけられたもので、表題と中身はあまり関係ない。ダビデは作者だという根拠もない。」

「3節で“エホバの助けによって,そこから逃げる方法を思い付きました。普通では考えられないことですが,狂人のように振る舞ったのです。”とありますが、エホバの助けで狂人のふりをすることを思いついたなんて聖書のどこにも書いていません。」
「普通の人なら、別な方法をお願いします、と神様に言うね。この話はサムエル記一21章にでているわけだけど、サムエル記では神の介入はほとんどない。ダビデが追い詰められて狂人のふりをしたら、うまく騙せたという話。」

「狂人のふりをするというのは、エホバを頼っている人間のすることとは思えません。」
「詩編56の作者は56:9で“私が助けを求めるその日に,敵は退却する。私は確信している。神が味方であることを。”といっている。こう確信している人物が敵につかまって狂人のふりをするなんてありえない。」

「ダビデは狂人のふりまでしてアキシュ王の支配するガトから逃れたのに、サムエル一27章で、ガトに戻っています。アキシュ王はダビデにチクラグという町を与えます。サムエル一21章とつじつまが合いません。」
「サムエル一21:10には“その日,ダビデは立ち上がってサウルからさらに逃げ,やがてガトのアキシュ王の所に来た。”とある。その直前はどこにいたかというと、ノブにいる祭司アヒメレクの所。ダビデがガトで狂人のふりをした話は直前の話とつながらない。」

「この話は後からの挿入ということですね。」
「ダビデはアキシュ王の傭兵だったということを否定したくて、この話を挿入したのだろう。」

「4節で頼りになる医師の例を持ち出して、“同じようにエホバがこれまでどんなことをしてきたか,今どんなことをしているか,これからどんなことをしてくれるかを考えるなら,エホバに頼ろうという気持ちが強くなります。”と言っていますが、エホバってろくなことをしていません。」
「神を医師に例えるのは全く不適切だね。神を例えるなら、医師ではなく、人間を断罪し、処罰を加える裁判官兼死刑執行人でしょう。」

「5から7節が“エホバはこれまでどんなことをしてきたか”です。 5節では“詩編56:12,13を読む。”とありますが、その後に書いてあることとほとんど関連しません。」
「5節で言っているのは“例えば,ダビデはエホバが造った物に注目して,エホバの力強さや人間に対する温かい気遣いをじっくり考えました。(詩 65:6-9)また,エホバがご自分に仕える人たちをどのように助けてきたかも思い巡らしました。(詩 31:19; 37:25,26)何よりも,エホバが自分にこれまでどんなことをしてくれたかについてじっくり考えました。”ということ。詩編56:12,13とは無関係。」

「6節では自然観察に関連して、“例えば,鳥や花を「よく観察」するなら,エホバが私たちのことを必ず養ってくださると確信することができます。”といていますが、少しも確信できません。自然界の厳しさを知れば、確信できる方がおかしいです。」
「誕生した鳥のほとんどは1年以内に死ぬよ。そうでなければ地球上鳥だらけになっている。」

「7節が体験談です。真偽不明の体験談がJWの主要な教材なのはいつものことです。ストーカーの被害に遭った姉妹が“警察に連絡する時には長老にサポートしてもらいました。”とあります。警察に助けを求めるというのは珍しいですね。祈れば解決するのでは?」
「警察に通報することを推奨しているようだけれど、“長老にサポートしてもらいました。”とあるから、警察に相談する前に、無知無学の長老にまず相談しろということ。組織にとって不利益と判断したら長老は警察への通報をやめさせるのだろう。」

「組織にとって、被害者救済は重要ではないですからね。」
「死んでも復活するから問題ないという考えでしょう。」

「7節では、“でもそれだけでなく,エホバがご自分に仕える人をどのように助けてきたかについて考えるようにしました。”と続きます。誰のことを考えたかというと、ダニエルのことです。“ダニエルは悪いことを何もしていなかったのに,おなかをすかせたライオンのいる穴に投げ込まれました。でもエホバはダニエルのことを助けました。”と言っています。」
「大昔に書かれた本よりも、現実を直視すべき。過去どれだけの女性JWが伝道中に殺されたり、ひどい目にあったかを調べた方がいいよ。集会中に襲われたり、爆弾が爆発したりして何人の人が死んでいるかも調べた方がいい。そうすれば“エホバがご自分に仕える人をどのように助けてきたか” についての真実を知ることができる。」

「8から11節が“エホバは今どんなことをしているか”です。 8節はダビデの話で、9節では“あなたが恐れを感じている時,エホバはそのことを分かっていて,恐れを乗り越えられるよう助けたいと思っておられます。”と言っています。」
「でも何もしてくれないよね。」

「そんなことはないようですよ。10節で“問題にぶつかって恐れを感じている時には,エホバが助けてくれていることになかなか気付けないかもしれません。”とあります。助けてくれているのですが、気付けないだけのようです。それで、“エホバの助けに気付けるようにしてください,と祈ることができます。”と言っています。」
「普通では気付かない程度にしか助けてくれないということね。」

「10節で“最近,集会で話やコメントを聞いて,まさに自分に必要なことに気付かせてもらえたと感じたことがあっただろうか。出版物や動画やオリジナルソングから力をもらっただろうか。誰かから励みとなる考えや聖句を教えてもらって,元気が出たことがあっただろうか。”と自問せよとあります。答えは全て、“いいえ”です。」
「集会での話やコメントなんか誰も興味ないでしょう。大多数は仕方なく参加しているだけ。」

「11節は体験談です。セネガルに住むアイダ姉妹の話です。“開拓奉仕を始めるために生活をシンプルにしたので,生計は苦しくなりました。家族は怒って姉妹を責めました。”とあります。それで祈ったら、“祈りが聞かれていることに気付いて,穏やかな気持ちを持てるようになりました」。やがて姉妹は,開拓奉仕を続けながら親をサポートできる仕事を見つけることができました。”とよくあるパターンのメデタイ話です。」
「祈ったら、よい仕事が見つかった、とは言っていないね。そう誤認されるように書いているけれど。」

「この姉妹が高学歴で、お金を稼げる資格を持っていれば、祈らなくても“開拓奉仕を続けながら親をサポートできる仕事”はすぐに見つかったと思います。」
「組織のいうことを聞いて低学歴・低スキルなので、よい仕事がなかなか見つからず、苦労しているだけ。組織の言うことなど聞くものではないことがよくわかる。」

「“やがて”見つかりましたとあるだけですね。運がよかっただけですね。やっぱりエホバは大したことはしてくれません。」
「家族を犠牲にしても、カイタク奉仕をやれという指令だよ。組織の言いなりになっていると家族関係が滅茶苦茶になるということ。」

「12から15節が“エホバはこれからどんなことをしてくれるか”です。 12節がダビデの話で、13節が楽園の話です。13節に、エホバは“どんな問題も経験しないで済むようにしてくれるわけではありません。”とあるのですが、訳に問題がありますね。」
「We do not expect him to shield us from all problems. で、私たちは神が全ての問題から守ってくれるなど期待してはいけません、だね。だいぶ意味が違うよ。祈れば問題解決みたいな調子のことを言っていたのはどうなったの?」

「その後に“でも,この体制で経験するどんな試練も新しい世界で取り除くと約束しています。(イザ 25:7-9)”と、楽園さえ来たら全て解決と思わせています。楽園幻想ですね。」
「単なる楽園幻想だけじゃないよ。“そして,私たちを攻撃する人たちを除き去ることもできます。(ヨハ一 4:4)”と、しっかり復讐願望も満たしてくれることを言っているよ。」

「でも引照聖句はそんなことを言っていませんよ。“子供たち,皆さんは神から出ており,偽預言者たちを征服しました。”とあるだけです。これは未来のことじゃありません。」
「動詞の時制は完了形。もうすでに起きたことを示す時制。JWの言う楽園は聖書的根拠はないね。」

「14節では“サタンと悪い人たちがいなくなり,正しい人たちだけが残って,日に日に完全さに近づいていく様子をイメージしてみてください。”とイメージトレーニングの勧めです。現実逃避です。」
「完全になるとはどういうことか教えて欲しいね。ここで言う“正しい人”とはJWのことだよね。JWしかいない世界って、理想の世界の真逆のイメージ。ベテルのような不気味な世界でしょう。」

「14節ではテモテ二3:1-5の読み替え法が出ています。“終わりの時代は困難で危機的な時になります。人々は自分を愛し,お金を愛し,・・・”を、“新しい世では,最も幸福な時代が来ます。というのは,人々は他の人を愛する者,霊的な富を愛する者,・・・”と読み替えるのだそうです。こんなくだらないことを大真面目でいうほど、知的レベルが低下しているわけですよ。」
「爆笑ものだね。現実逃避の新しい遊び?もっと役に立つことを教えて欲しいね。」

「15節が体験談です。親から家を追い出されたタンヤ姉妹が、“エホバの側にしっかり付くなら,どんな良い結果になるかを考えるようにしました。この体制で何かを失うことになるとしても,エホバが新しい世界でいつまでも幸せに暮らせるようにしてくださいます。今経験しているつらい出来事を思い出すこともありません。”と言っています。イスラム原理主義者の自爆テロリストも似たようなことを言っていますよ。」
「殉教者の論理だね。こんなJWが組織に命令されたらとんでもないことをしそうで恐ろしい。」

「このタンヤ姉妹はどうなったかというと、“そして,エホバの助けで,住む場所を見つけることができました。今では夫婦で全時間奉仕を楽しんでいます。”とこれまたメデタイ結末です。」
「家から追い出されるのはJWだけじゃないよ。JWであることを拒否したJWの子どもだって、家から追い出される。それがいかに不当で残酷なことかを、この記事を読んだJWが少しでも気付いてくれることを望むね。」

「最後の16,17節が“今エホバに頼るのは大切”です。 大患難の話です。“大患難の時,人々は「恐れ……から気を失います」。でも,エホバに仕える人たちは揺らぐことなく勇気を持って行動します。(ルカ 21:26-28を読む。)”とあります。ルカ21章で信者に何か行動することを命じていましたか?」
「ルカ21:34で、“食べ過ぎや飲み過ぎや生活上の心配事で心が圧迫されないよう注意していなさい。”とあり、21:36で“常に祈願をしつつ,ずっと目を覚ましていなさい。”と言っている。JWの場合、“勇気を持って行動します。”というと、集会に参加し、伝道し、建設工事をすることを指していると思うけれど、そんなことは聖書は言っていない。」

「16節のその後の文が“どうしてそうできるのでしょうか。エホバに頼って助けられた経験を積み重ねてきたからです。”となっていますが、誤訳ですよ。」
「Because we will have already learned to trust in Jehovah だから、エホバを信頼することをすでに学んでいるからです、と言っているだけ。“助けられた経験を積み重ねてきた”なんてどこにも書いていない。余計なことを勝手に付け加えるのが日本語翻訳者の好きなこと。」

「その後、タンヤ姉妹のセリフなのですが、これもテキトウに訳していますよね。“どんなに大変な状況にいるとしても,エホバは必ず私たちのために行動してくださるということが分かりました。”とありますが、そんなことは言っていません。」
「ここは、エホバにできないことはないことを学びました、と言っているだけ。そもそも“エホバが私たちのために行動”したことなんかないでしょう。もしそうなら信者はどんどん増えているよ。」

「17節がまとめで、“今年一年,この聖句(私は恐れる時,あなたに頼る)について考えましょう。”と言っています。」
「17節に“この聖句について,ある聖書学者は次のように言っています。「ダビデは恐れの気持ちをただ募らせたり,問題のことばかり考えたりするのではなく,自分を救ってくれる方に目を向けていた」。”とあるけれど、英語版の引用は“ダビデは”は含んでいないよ。翻訳者が勝手に含めている。」

「これも引用元を明らかにしない不正引用ですよね。どこからの引用ですか?」
「ネット上にthe teaching ministry of Jay Mack というサイトがあり、その中の詩編56について解説しているページからの引用だね。He neither feeds his fear nor stares at his problems, but instead, looks to his Redeemer, who will deliver him.とある。ダビデは出てこないよ。」

「末端の信者には組織の提供する資料しか見ないように情報を統制し、上層部はネットから得た怪しげな情報を出典を隠して、ご都合主義的に引用するわけですね。」
「カルトってそんなもの。信者を無知無学のままにしておくと、管理統制しやすいからね。」

「17節の下にある写真は、地震で壊れた家を背景に聖書を抱きしめた女性が立っているというもので、“被災した姉妹が,年句についてじっくり考えている。”と説明があります。こういう災害被災者に、エホバを頼りなさいというのですか?もっとましなことが言えないのかと思います。」
「被災した場合、神様じゃなくて政府や慈善団体に頼った方がいいよ。」

#1502 2024年03月15日 14:24:42

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“1年で一番大切な日に向けて準備する(2)”で、キリストの死の記念式を利用して、信者集めに頑張ろう、という内容です。」
「毎年同じような記事が出るけれど、参加する必要のないカルトの儀式についてのつまらない記事だね。」

「1節には“エホバに仕える人たちは,キリストの死の記念式を1年で一番大切にしています。それはイエスが行うようにと弟子たちに命じた,たった一つの行事だからです。”とありますが、これ以外の行事はするなと言外に言っていますね。でも命じていない行事をしてはいけないということはないですよ。」
「キリストの誕生を祝ってはいけないと聖書にはないので、祝ったって、イエスは文句を言わないでしょう。」

「JWの考えるエホバという神は偏狭で、起源がどうのこうのと些末なことにこだわるつまらない神なので、機嫌を損ねないように細心の注意を払わなくてはいけないのです。」
「JWの教義では、宇宙の創造者があまりにもけちくさい存在なので呆れるね。子どもの誕生祝いにも不機嫌になる神様なんだよね。」

「3節に“賛美の歌を2曲歌い,パン とぶどう酒を回します。”とあります。飲み食いする人は順調に増加して2020年には2万人を超えました。組織としては困った事態ですよ。」
「塔1999/2/1の“土の器にあるわたしたちの宝”と言う記事の中に、“もう追加はありません!”という囲み記事があって、“そのような召しは,すでに1931年ないし1935年ごろに終わったのです。もはや追加はありません。では,交わりはじめたばかりで記念式の表象物にあずかる少数の人はどういう人なのでしょうか。もしその人が残りの者だとしたら,それは補充です。油そそがれた者の隊伍への追加ではなく,離れ落ちたかもしれない人に代わる補充なのです。”とある。この見解は今も変わっていないはず。」

「天に行く人を選ぶのが1935年頃に終わったという聖書的根拠はあるのですか?」
「あるわけないよ。JWの教義の多くと同様聖書的根拠はない。」

「記念式で飲み食いする人が今も2万人以上いるということは、天に行くはずだった人のかなりがJWをやめたことになりますね。それも組織には不都合ですよ。」
「それで、塔2011/8/15の“読者からの質問”と言う記事で“過去の宗教信条や,精神的・感情的な問題などにより,誤って自分は天の召しを受けていると思い込む人がいるかもしれないからです。”と、飲み食いする人の中に相当数の少し頭のおかしな人が含まれていると見なしているようだ。」

「組織としては、そういうおかしな人を除けば飲み食いする人は減少しているはずと言いたいわけですね。」
「なにせ、塔2000/1/15の“ずっと見張っていなさい”と言う記事で、今が終わりの日である証拠を6つ挙げているのだけれど、その6つ目として“第六に,キリストの油そそがれた真の弟子たちの人数が減少しています。”と言っている。終末カルトとしては飲み食いする人が本当に増加しているとは認めがたいわけだね。記念式の話の半分くらいは、飲み食いできる人はこの中にはいません、絶対飲み食いするなよ、というものになるよ。」

「5から12節が“記念式に向けて心を整えるには”です。 記念式に向けて精神修養が必要なようです。5節で“記念式に向けて心を整えるために,イエス・キリストの犠牲の価値についてじっくり考えることは重要です。”といっています。9節までがイエスの生涯に触れています。普段はイエスを無視しているJWもこの記事ではさすがにイエスを持ち上げています。」
「5節に“「イエスは何のために死にましたか」の動画も参照。”とある。来年からは、つまらない話はやめて、全部動画にしたらいいよ。」

「10節では“自分の息子がみんなから退けられ,虐待され,苦しむ様子を見るのは,エホバにとって本当につらいことだったに違いありません。”とありますが、聖句は引用されていません。」
「つらいかどうかなど、人間がどうして知ることができるでしょうか?と今の統治体だったら言うのかと思ったけれど、この記事でも相変わらず根拠のない断定を続けている。」

「11節で“西暦33年の春に愛する子イエスが苦しんで死ぬのを見た時,エホバがどんな思いでいたのかイメージすることができます。”とあります。JWとしては、イエスは33年に死んだことにしたいようですが、JW以外では30年とすることが多いですよ。」
「30年と33年のどちらが聖書の記述にあっているかというと、30年なんだよ。イエスの処刑の日について、マルコ15:33には“昼の12時になった時,闇が全土に垂れ込めて,午後3時にまで及んだ。”とある。これは日食があったことを示していると解釈できる。使徒2:20に“太陽は闇に,月は血に変わる。”とあり、日食と部分月食を意味しているようだけれど、これはイエスの死と復活について述べている部分と解釈できる。」

「つまりイエスの死の前に日食と月食があったと読めるということですね。」
「すると、29年11月24日に皆既日食、29年12月9日に部分月食がエルサレムで見ることができたことが分かった。それでイエスの死は30年だろうと推定されることになる。33年の前にはそのようなことが起きていない。」

「イエスが死んだのは30年4月です。日食も月食もだいぶ前ですね。」
「イエスの死の話が伝承されるなかで、数か月前の出来事が、イエスの死んだ日に起きたことに変えられたと推定しているわけだ。」

「JWがイエスの死を33年と主張するのは、JWのダニエル書9:25-27の解釈で33年に死んだことになっているからですね。今さら30年に変えられない。」
「69週と週の半ばというのを、483年と3.5年とし、33年になるわけだ。アルタクセルクセスの第20年,つまり西暦前455年を起点としているのだけど、史実では445年なんだよね。このずれは、エルサレム滅亡年をウソの西暦前607年としたことの影響。JWの年代学はメチャクチャ。多少の知性のある人はJWには向いていないね。」

「12節で“記念式までの間,個人研究や家族の崇拝で贖いについて調べてみるのはどうですか。”とあり、JWの資料から調べることを勧めています。」
「記事で書くのが面倒くさかったんだろう。それで自分で調べてくださいとなったんだよ。」

「13から16節が“ほかの人を助ける”です。 ここからが本論です。要するに、記念式にいかに来させるかということです。13節に“まずは招待しましょう。”とあります。そんなにやる気のあるJWはいますか?」
「もし招待して、何か誤解して本当に来てしまったら、気まずいよ。あのつまらない意味不明の儀式にあきれ返るのが目に見えているからね。」

「15節で“エホバの証人の集まりに出席したことがない人は特に,知りたいことがいろいろあるかもしれません。それで,どんなことを聞かれるかもしれないか予想しておいて,答えられるようにしておくのは良いことです。”と、質問に対する模範解答を準備せよと言っています。」
「新しい人なんか来ないし、来ても質問なんかしないよ。」

「16節は“記念式の後も,いろんな疑問を持つ人がいるかもしれません。”とあり、そういう人のために“jw.orgの「エホバの証人が主の晩餐を守り行なう方法はほかの教会と違いますが,なぜですか」という記事を活用できます。”と、タブレットで記事を見せることを勧めています。」
「多くの人はわざわざタブレットに書かれていることを読んだりしないよ。読むのが面倒だし、それ程興味があるわけじゃない。」

「カルトに大事なのは人を引き込む話術ですよ。それでJWも今まで話し方を練習来たわけですよ。それを放棄するわけですね。」
「JWの質が低下して、それが期待できないので、タブレットで見せるという誰でもできる方法を推奨しているのだろうけれど、ダブレットに頼るようになっては、宗教としてはおしまいだね。」

「17,18節が” しばらくお休みしている人をサポートする”です。 JWに嫌気がしてJWから離れている人を記念式に来させろ、と長老に指令しています。」
「英語ではINACTIVEなので、活動していない人、不活発な人、でしょう。それを”しばらくお休みをしている人”と訳すとは、幼稚園みたいだね。」

「17節に“兄弟姉妹のことを心から気に掛けるようにしましょう。(エゼキエル 34:12,16を読む。)”とあるのですが、聖句の誤用ですよ。」
「そこには“散らされた羊を見つけて養っている羊飼いのように,私は自分の羊を世話する。雲と濃い暗闇の日に散らされた全ての場所から,羊を救い出す。”とあるけれど、ここでいう“私”は神のことで、“羊”はバビロン捕囚によって散らされたイスラエル人のこと。JWとは関係ないよ。」

「17節には誘い方も出ています。“兄弟姉妹のことを愛していること,助けになるためにできることは何でもしたいと思っていることを伝えてください。そして,記念式に招待しましょう。”とあります。記念式の直前にそんな見え透いたウソを言っても、反感をかうだけですよ。」
「長老は、こういう白々しいウソをまじめに言える男じゃないと務まらないということだね。いやなら長老をやめればいいだけ。」

「18節で、しばらくお休みをしている人が記念式に来た場合、”“気まずくさせるような質問をしたり,傷つくようなことを言ったりしないようにしましょう。”と言っています。余計なことを言うJWがいるということですね。」
「18節の下に2枚の写真と二人の人の体験談が出ているけれど、ウソくさい話だね。」

「歓迎を受けて、一人は、“わが家に帰ってきたんです”と言っていますし、もう一人は“まるで家に帰ってきたかのようでした”と言っています。何かの冗談ですか?ありえませんね。」
「以前JWとして活動していたなら、JWの行動パターンを知っているはず。熱烈に歓迎を受けてもそれは表面だけで、本音は別の所にあることぐらいわかるよ。“わが家”なんて思うはずがない。」

「最後の19節では“では,1年で一番大切な日である記念式に向けて,今年もできる限りの準備をしましょう。”と信者のしりを叩いています。時間も報告しなくてよくなったので、どれほどの信者がまじめにやるのか楽しみです。」
「19節の後に、“2024年のように,日曜日に記念式が行われる場合,週末の集会はありません。そのため,来週の研究記事はありません。”とある。これは良いニュースだ。」

#1503 2024年03月29日 14:34:35

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“大変な時も,エホバが助けてくれる(3)”で、人生のどん底でエホバがどのように助けてくださるか、という内容です。」
「どうすればよいかというと、ここでは祈る、聖書を読む、JWの出版物を読む、JW仲間に頼る、の4つがでている。つまり何か問題があってもJWの枠内で対処せよ、JW以外の専門家や機関にたよるなということだ。」

「うつ状態であっても、祈りと聖書ですか?悪化するだけですね。」
「JWの自殺率が高くなるのも無理はないね。」

「1節に、大変な時とは具体的にどんな時かについて、例をあげています。“ルイス兄弟は,特殊ながんにかかっていて余命数カ月しかない,と医師から言われました。モニカ姉妹は夫婦で忙しく奉仕していました。でもある日,長老である夫が何年も隠れて罪を犯していたということが分かりました。オリビアという独身の姉妹は,大きなハリケーンが近づいていたため,避難しなければなりませんでした。戻ってみると,家は嵐で壊れ,めちゃくちゃになっていました。”とあります。」
「病気、夫の浮気、自然災害だね。これらのことを神様が助けてくれると誤認するように、この記事で誘導するわけだね。」

「3から6節が“エホバは守ってくれる”です。 事実に反しますね。守ってくれません。今までどれ程のJWが奉仕中に死んだり、暴行を受けたりしたか、組織は報告すべきです。」
「この記事では、①挑戦→②エホバはどのように助けてくれるか→③私たちがしなければならないこと、という順番で話が進むようになっている。小学生でもわかるように工夫しているのだろう。」

「3節が“挑戦”で、病気、夫の浮気、自然災害がでてきます。4節が“エホバはどのように助けてくれるか”で、“エホバは私たちに「神からの平和」を与えると約束しています。(フィリピ 4:6,7を読む。)”とあります。“エホバに真剣に祈った後,自分でも驚くほど穏やかな気持ちになったことがありますか。それが「神からの平和」です。”と解説しています。」
「祈ったあと気持ちが穏やかになったら、それをエホバの助けだと思えということね。別の神に祈っても同じようなことは起きるけれど、これもエホバの助けなのかな?祈るという行為自体がもたらす気持ちの変化じゃないの?」

「4節で、“フィリピ 4章7節には,神からの平和が「心と考えを守[る]」ともあります。「守る」と訳されるギリシャ語は軍事用語で,守備隊が町を敵の攻撃から守ったことと関係しています。”と言っているのですが、正しくは、4:7は“神からの平和が,キリスト・イエスを通して皆さんの心と考えを守ります。”です。“キリスト・イエス”が省略されています。エホバ教ならではの引用ですね。」
「訳もヘンだね。“キリスト・イエスを通して”ではなくて“キリスト・イエスにあって in Christ Jesus”だよ。キリスト・イエスという町にとどまる限り、神からの平和が守ってくれるといっているわけで、JWのように怪しげなエホバの町に行ってしまったら守ってはくれない。」

「神の平和は何から心と考えを守ってくれるとパウロは言っているのですか?」
「パウロが平和という時は、異端との戦いを背景にしていることが多い。例えば、コリント二13:11で“最後に,兄弟たち,これからも喜び,正され,慰められ,同じ考え方をし,平和に生活してください。そうすれば,愛と平和の神が共にいてくださいます。”といっている。神の平和に満たされているなら、JWみたいなインチキ宗教から守られ、だまされることもない、ということじゃないの。」

「6節が“私たちは何をすべきか。”で、“神からの平和を感じられるまで祈る”ことを勧めています。余命数カ月のルイス兄弟の話が出ていて、“こういう状況になると,医療に関することなど,いろんなことを決定する のはとても難しいです。でも,私たちは祈りのおかげで,大変な中でも穏やかな気持ちでいることができています。”とあります、“医療に関すること”と言うのは輸血に関することですよね。」
「終末期になると、よく敗血症になる。敗血症の初期段階では赤血球輸血が推奨されている。JW独自の奇妙な血液理論によると赤血球はダメなわけだね。それで敗血症に対してアルブミン製剤を勧めることがある。」

「アルブミン製剤は血漿分画成分で、血漿から分離精製したものですね。これはJWの血液理論では問題ないですね。JWの表現では、良心の問題ということですね。」
「でもアルブミン製剤では効果があまり期待されない。どうするJW?というわけだ。JWの患者は病院からすれば来ないで欲しいよね。」

「6節では“2人は真剣に何度も祈り,穏やかな心や良い決定を下すための知恵を与えてくださるようエホバにお願いしました。そして,エホバの助けを実感しました。”とあります。具体的にどんな決定をしたのか書いて欲しいです。」
「具体的に書くと、“エホバの助け”の実態がわかってしまうから書けないんだよ。抽象的表現でごまかしている。」

「7から9節が“エホバは私たちが安定できるように助けてくれる”です。 7節で、ルイス兄弟が死亡したことになっています。8節が“エホバはどのように助けてくれるか。”で、“エホバは私たちを安定させると約束しています。(イザヤ 33:6を読む。)”とあります。これは聖句の誤用ですね。」
「イザヤ33:1-6は要するに助けてくれという祈りだ。33:2で“エホバ,憐れみを示してください。私たちは希望を抱いてあなたを待ちます。朝ごとに力を与えてください。苦難の時に救ってください。”とある。33:6の“その方はあなたの時代に安定をもたらす。”は神様の約束じゃないよ。“その方”が神様のことで、神様が安定をもたらすはずだと願っているわけ。」

「“あなたの時代”とはイザヤが生きていた時代のことですよ。」
「21世紀のことではないよね。文脈を無視して、聖句を切り取って、これが神の約束ですというのは、誤用というより、キリスト教系のカルトがよくやる詐欺だね。」

「8節に船のスタビライザーの話が出てきて、“このスタビライザーは船が前に進んでいないと効果を発揮できません。同じように,難しい状況の中でも諦めずにエホバに仕え続けるなら,エホバは私たちを安定させてくれます。”とあるのですが、エホバは難しい状況でも前に進まないと信者を安定させてくれない過酷な神様なんですね。」
「船のスタビライザーとエホバは何の関係もないよ。それなのに“同じように”と無理矢理関連付けて、信者を酷使しようとしている。こういうのを非論理的文章という。」

「9節は“私たちは何をすべきか。”で、“祈りや集会や奉仕の習慣を守るように努力しましょう。”とあります。夫が死亡しても、いつものJW活動をしなさいという過酷な要求です。」
「それだけじゃないよ。9節には“個人研究やじっくり考えるための時間をきちんと取ることも大切です。”といって、JWの資料を勉強しなくてはならないようだ。夫が死んだときに、一体何のためにそんなことをしなくてはならないのかな?人が死ぬと様々な法的な手続きがあるから、それをきちんとしましょうと言って欲しい。」

「10から13節が“エホバは支えてくれる”です。 10節で“大変な問題が降り掛かると,身体面でも感情面でもダメージを受けて,「もうだめだ」と感じることがあるかもしれません。”とあります。11節が“エホバはどのように助けてくれるか。”で、“エホバは私たちを支えると約束してくれています。(詩編94:18を読む。)”と力強く言っていますが、これまた聖句の誤用ですね。」
「詩編94:18には“「足を滑らせてしまう」と私が言った時,エホバ,あなたは揺るぎない愛を示し,私を支えてくださった。”とある。これがどうしてエホバの約束になるの?詩編94の前半は、悪人に対する報復を神に祈り求めたもので、後半は悪人を滅ぼすであろう神に対する信頼感を述べたもの。」

「12節で“エホバは,誰かの心を動かして私たちを支えることがよくあります。”と言っていますが、誰かが助けてくれたら、それはその人の意志ではなく、エホバに操られて助けに来たと解釈せよということですね。」
「JWは良いことはエホバのせい、悪いことはサタンのせい、という単純な二元論で生きているので、そういうことになるね。でもJWには良いことは滅多に起きないから、エホバは役に立たないね。」

「13節が“私たちは何をすべきか。”で、“大変な時こそ,家族や友達や長老たちの助けを進んで受け入れるようにしましょう。エホバはそうした人を通して,あなたを支えたいと思っているのです。”とあります。執筆者はエホバの考えがわかるのですね。」
「人の弱みに付け込むのがJWのやり方でしょう。夫を亡くした妻に長老が押しかけて、JWをやめたら復活した夫に会えないと言って、JWに囲い込むようにするわけだね。」

「14から16節が“エホバは安心させてくれる”です。 14節で“私たちは恐れを感じることがあります。”とあります。15節が“エホバはどのように助けてくれるか。”で、“エホバは私たちを安心させ,落ち着かせてくれます。(詩編94:19を読む。)”とあります。11節に出ていた聖句の続きですね。“心配事で圧倒されそうな時,あなたは私を安心させ,落ち着かせてくださった。”とありますが、これはエホバの約束ではありません。聖句の誤用です。」
「15節では“小さな女の子がひどい雷のせいで怖くて眠れなくなっている様子をイメージしてみてください。”とあるけれど、英文ではThis psalm may make us think of a little girl who is scared・・・で、この詩編を読むとおびえている少女を思い浮かぶかもしれません、と言っている。この詩編94を読んで、そんなことを思う人はいないよ。執筆者はまともに聖書を読んだことがない人だね。」

「詩編94:16で“私のため,悪人に対抗してくれるのは誰か。悪を行う人に立ち向かってくれるのは誰か。”と作者は問いかけています。おびえる少女ではありませんね。」
「そして詩編94:17-19で、神以外に誰もいないことを言っている。神様、あなた以外悪に立ち向かってくれる人はいません、だからしっかり悪人を滅ぼしてくださいね、信頼していますよ、という内容。」

「15節で“私たちが試練に遭って怖いと感じる時,天のお父さんエホバは私たちを“抱き寄せ”,気持ちを落ち着かせてくださいます。”と言っています。いつからJWはエホバの子どもになったのですか?」
「JWはエホバの友、しかもいつでも捨てられる条件付きの友じゃなかった?本当に子どもに格上げしたのか?」

「16節が“私たちは何をすべきか。”で、“いつでも祈り,聖書を読んでエホバと一緒に時間を過ごすようにしましょう。”と、恐れおののいている時でも、祈りと聖書で解決のようです。」
「16節で“そうするなら,ストレスを感じる時にも,まずエホバに助けを求めることができます。”とあるけれど、英文ではThen when you are under stress, your first thought will likely be to turn to your heavenly Father.で、”あなたの天のお父さん”なんだよ。でも翻訳者は違和感があったので、”エホバ”に変えたのだろう。日本のJWは神の子どもじゃないということね。」

「最後の17節で、“エホバは私たちを守り,安定させ,支え,安心させてくれます。”と言っていますが、聖書の誤用に基づくカラ約束ですね。」
「エホバが頼りにならないことは、古い信者なら十分理解しているよ。」

#1504 2024年04月05日 14:15:13

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバはあなたのことを心から愛しています(4)”で、エホバは私たちのことを愛しているので、エホバの組織のために働けという内容ですね。」
「エホバという神様は愛の神からは程遠いと思うけれど、JWでは、神は愛ですという聖句一つあれば、愛の神になるわけだね。」

「1節で“エホバについて考える時,どんなイメージが浮かびますか。”と問いかけています。子どもなら白いひげを生やしたおじいさんです、と答えるのでしょうか?」
「聖書の神は一つのイメージでは語れない。戦争の神でもあるし、平和の神でもある。残忍な殺戮者でもあるし、人を慈しむこともある。つまり、多面的で理解不可能な存在。」

「わかりやすい、神のイメージは全て疑わしいということですね。」
「聖書の神は、愛の神です、とか善い神です、といった単純な言葉では片づけられないということ。」

「1節で“例えば,エホバは「太陽,盾」,「焼き尽くす火」と表現されています。(詩 84:11。ヘブ 12:29)”とありますが、太陽と盾は良いとしても、焼き尽くす火はよくないですね。執筆者はよい意味と誤解しているのではないですか?」
「それはヘブライ12:29からの引用だけど、さらにそれは申命記4:24の“あなたの神エホバは焼き尽くす火であり,全くの専心を要求する神だからです。”を引用したものだね。」

「ふつうは“ねたむ神”と訳しますね。それだと神のイメージが悪いと思って、“全くの専心を要求する神”とJWでは長たらしく訳したわけですね。」
「神は焼き尽くす火というのは、神に従わないと焼き尽くされてしまうという警告で、エホバに服従と崇拝と捧げものをしないと殺されるというもの。愛とは程遠い神様と言っているんだけどね。」

「2節で“エホバは目に見えないので,エホバが自分のことを愛してくれていると信じるのを難しく感じることがあるかもしれません。”とあるのは、まとはずれです。エホバの愛を信じられないのは、エホバが見えないこととはそれ程関係ありません。」
「見えなくても、朝起きたら素敵なプレゼントを枕元に置いてくれるような神様なら、愛を信じられる。JWの神様は信者にあれこれ要求し、酷使するだけだから、愛を信じられないのも無理はない。」

「3節で“エホバを一言で言い表すなら,愛です。(ヨハ一 4:8)”といっています。引照聖句には“愛さない人は,神をよく知りません。神は愛だからです。”とあります。」
「愛を強調するのは、ヨハネの特徴。ヨハネの神学がそうだということだね。ヨハネ一4:7-21はヨハネ3章のイエスとニコデモの会話を下敷きにしたものとされる。」

「ヨハネ一4:9の“神は独り子を世に遣わし,その方によって私たちが命を得られるようにしてくださいました。このことから,神が私たちを愛してくださっていることが明らかになりました。”は、ヨハネ3:16の“神は,自分の独り子を与えるほどに人類を愛したのです。”を言い換えたものですね。」
「JWの翻訳者は“人類を愛した”と意図的な誤訳をしている。英文では“God loved the world”で、神が愛したのはこの世界。神がこの世界を愛したとあるのを受けて、ヨハネ一では“神は独り子を世に遣わし”となっている。“人類”に遣わしたのではない。」

「JWはこの世界は滅ぼされるものと決めつけているので、神がこの世界を愛しているというのは不都合ということで、変えたわけですね。」
「ヨハネには終末論はないんだよ。神はこの世界を愛しているのだから、滅ぼすことはないというのがヨハネの思想。JWの教義とは相いれないからといって、聖書を改ざんしてはダメだろう。」

「4から7節が“エホバは私たちのことを心から愛している”です。 4節で“「エホバは優しい愛情にあふれ[る]方」です。(ヤコ 5:11)”とあるのですが、引照聖句には“皆さんはヨブの忍耐について聞き,ヨブがエホバのおかげでどんな結末を迎えたかを知っています。エホバは優しい愛情にあふれ,憐れみ深い方なのです。”とあります。これは納得できませんね。」
「ヨブはどんな結末になったかというと、ヨブ42:12,13には“エホバがヨブを祝福したので,ヨブの残りの人生は以前よりも豊かになった。ヨブは,羊1万4000匹,ラクダ6000頭,牛1000対,雌ロバ1000頭を持つようになった。さらに,息子7人と娘3人を持つようになった。”とある。ヨブにはもともと息子7人と娘3人がいたけれど、サタンによって殺されてしまった。サタンの行為は神の許可のもとで行われている。」

「亡くなった子どもと同じ数の子どもが新たに生まれたのだから、問題ないだろうということですね。人間は単なる数字です。」
「神には一人一人がかけがえのない人間だ!という思想はないということ。数字があっていれば問題としないようだ。優しい愛情にあふれている神とは言えないね。」

「4節で“聖書の中でエホバはご自分のことを愛情深い母親に例えています。(イザ 66:12,13)”とあります。引照聖句には“母親が子を慰めるように,私もあなたたちを絶えず慰める。”とあります。」
「神は本来、男でも女でもないでしょう。でも聖書の神は男だよね。女性的なイメージは例外的だ。」

「5節で“何か重大な間違いを犯したとしても,エホバは私たちのことを見捨てたりしません。自分の間違いを認めてエホバのもとに戻るなら,私たちのことを変わらずに愛してくれます。”とあります。これは排斥された人に向けて言っていますね。エホバは許しても、組織は許してくれません。」
「逆に、エホバは許さなくても、長老と仲が良かったらすぐに許される。人間的な、あまりに人間的な組織だからね。」

「6節に“ゼカリヤ 2:8を読む。エホバは私たちのことを瞳に例えています。”とあります。そこには“あなたたちに触れる者たちは私の瞳に触れているのである。”とあります。瞳とは大切なものの例えですね。」
「この聖句は当時のイスラエル人に向けて言われたもので、現代のJWに向けて言われたものではない。2:9に“私は今,彼らに向かって手を振りかざす。彼らは自分の奴隷たちに略奪される。”とあるように、イスラエル人を虐げているものに滅亡が近いことを言っている。愛の神ではなく、破壊し滅ぼす神だね。」

「8から11節が“エホバは愛を表している”です。 エホバはイエス、天に行く人たちに愛を表しているそうです。そして9節の最後で“では,エホバが愛しているのは天に行くよう選ばれた人たちだけなのでしょうか。そうではありません。エホバは私たち全てのことを愛しています。”と付け足しています。」
「JWの教義では、人間は天に行く少数の人と行かないその他大勢の2階級に分かれるわけだけど、JWが想像する神様は天に行く人の方を当然愛していて、その他はどうでもいい。」

「9節に“ローマ 5:5を読む。エホバは天に行くよう選ばれた人たちにも愛を表しています。”とあります。そこには“神の愛が心の中に注がれているからです。”とありますが、通常は全ての信者が当てはまると解釈しますよ。」
「JWの教義ではそうじゃなくて、たった144000人だけにしか適用できないというもの。天に行かない人は新約聖書を読む必要はないと思うよ。自分たちに無関係のことが書かれているわけだから。」

「10節で“エホバが私たちを愛しているといえる最大の証拠は何でしょうか。贖いです。”とありますが、納得いきません。エホバは単なる傍観者にすぎません。」
「JWの教義では神とイエスは完全に別の存在なので、そう思われても仕方ないね。頑張ったのはイエスで、神は大したことはしていない。」

「10節で“おかげで私たちの罪は許され,エホバと友になることができるようになりました。”とあります。前回は天のお父さんエホバ、ということが出てきましたが、JWでは父ではなく友のようです。」
「JWでは、神様を天の父と呼んでいいのは天に行く人だけのようだよ。それ以外のひとには単なる友達。でも、友達ならお金がない時、貸してくれてもよさそうだけど、そういうことは一切してくれない冷淡な友達ね。」

「11節に“(エレミヤ 31:3を読む。)エホバは私たちを愛しているので,ご自分のもとに引き寄せてくださいました。”とあります。そこでは“揺るぎない愛をもってあなたを引き寄せたのである。”と言っています。これはJWは神から選ばれた特別な人間だ、と言っているわけですね。」
「この聖句は、古代イスラエルのことを言っているわけで、今のJWのことを言っているわけではない。でもカルトは信者の選民意識を高めるような教育をするもの。JWも同様だね。」

「12から18節が“エホバの愛について考えると,どんな気持ちになるか”です。 詩編の中で一番有名な、詩編23:1-6を取り上げ、エホバの愛についてどう感じるべきかを指示します。カルトらしく感情までコントロールするわけですね。」
「12節で“ダビデはエホバが愛し,優しく気遣ってくれていることを確信していました。そのことを詩編 23編で歌っています。”とあるけれど、“歌っています。”は違和感がある表現だね。羊飼いの杖をマイクがわりにして歌っている姿を想像してしまう。英文ではdescribesなので、表しています、くらいにして欲しい。」

「12節で“ダビデには,牧者であるエホバとの強い絆がありました。”とあり、“牧者”は太字で強調しているのだけれど、古代中東では、神を牧者に例えるのはよくあることじゃないですか?」
「例えば、バビロニアの神であるウトゥ(シャマシュ)は牧者とよばれている。王が自分のことを牧者と呼ぶのもよくあることで、聖書の発明ではない。」

「13節が“私は何も不足しない”です。詩編23:1からです。模範的なJWはそう感じるべきだということですね。14節が体験談です。クレア姉妹は“父親が脳卒中になり,妹は排斥され,家族がやっていた仕事がうまくいかなくなり,家を失いました。”が、しかし“エホバは私たち家族が必要な物に事欠かないようにしてくれました。エホバが私たちの想像を超えるほどたくさんのものを与えてくれたことが何度もありました。”と言っています。極めてまれなケースを取り上げているだけですね。」
「エホバは不幸のどん底に落ち込むまでは何もしてくれないけれど、飢え死にするのは何とか防いでくれるということかな。でも、それでもって“私は何も不足しない”とはいえない。」

「本当は、エホバが与えてくれたんじゃなくて、周囲の人がくれたんですよ。」
「そういうわけで、クレア姉妹は裕福な信者が多くて、慈善活動に熱心な宗教に改宗した方がいいかも。でも、そういう宗教はJWとは違って、信者でなくても援助してくれるから、あえて改宗する必要はないかもね。」

「15節が“力を取り戻す” 詩編23:3からです。模範的なJWはそう感じるべきだということです。16節が体験談で、夫に捨てられたレイチェル姉妹は“エホバに愛されていることを実感できるようにしてくださいました。兄弟姉妹は一緒に時間を過ごし,食事を届けてくれました。温かいメッセージや聖句を送ったり,ほほ笑んで安心させたりもしてくれました。”とあります。これまたエホバではなく、仲間が助けてくれたという話ですよ。」
「JWよりもはるかに信者同士の助け合いが活発な宗教はたくさんある。助けて欲しければ、この人もJW以外の宗教に改宗した方がいいね。」

「実際は、年老いて、極貧にあえぎながら、孤独に死ぬJWの方が多いわけですよ。現実をゆがめています。」
「そういう暗くて悲惨な話は、JWなら皆よく知っているから、記事では滅多にない良い話をとりあげ、少しでも元気出せるようにという統治体の暖かい配慮なんだよ。」

「17節が“何も悪いものを恐れない。あなたが共にいてくださるから”です。詩編23:4からです。模範的なJWはそう感じるべきだということです。18節が体験談で、息子が自殺したスージー姉妹が“エホバの優しい愛について考えると,エホバに守られているように感じ,穏やかな気持ちになりました。”と、嘘くさいことを言っています。」
「本当かもよ。JWを長年やっていると普通の思考や感情がなくなるようだからね。息子が死んでも、エホバの名を聞くと条件反射的に穏やかな気持ちになれるのかも。」

「タソスという長老の話も出ています。徴兵を拒否して刑務所に4年間入れられたのですが、“エホバは必要な物を与えるだけでなく,十分に世話してくれました。それで,エホバに心から頼ろうという気持ちが強まりました。”とあります。必要な物は刑務所から与えられたのではないですか?刑務所に天使が食べ物を持ってきてくれたわけじゃないでしょう。」
「JWにとって、刑務所はそんなに悪い場所ではないようだね。衣食住が保証されるし、退屈な集会にも出なくていい。この長老は“刑務所にいる間に正規開拓奉仕を始めました。”といっている。暇だからできるわけでしょう。」

「インパクトに欠ける体験談ばかりでした。」
「どうせなら、飢え死にしそうになったら天使が食べ物を持ってきてくれたとか、殺人犯に襲われたけれどエホバが守ってくれたとか、常識をぶち破った奇想天外なものにして欲しいね。」

「最後の19節が“優しいエホバがそばにいてくださる”です。 “兄弟姉妹の経験からも分かる通り,「愛……の神」であるエホバが私たちと共にいてくださいます。”とありますが、英文ではThe experiences that we have discussed all prove that Jehovah, “the God of love,” is with us!です。だいぶ意味を変えています。」
「英文では、これまで議論したすべての経験は、“愛の神”エホバが私たち共におられることを証明しています!とかなりバカなことを言っているので、変えたんだろう。」

「執筆者は高等教育を受けたことがないので“証明する prove”の意味が分からないのでしょうね。」
「体験談をいくら積み重ねても、何かを証明することにはならない。でもそうは思っていないので、毎回真偽不明の体験談を並べて、そういうわけで神は愛ということが証明されました、などとバカなことを書いているのだろう。」

#1505 2024年04月05日 16:44:46

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ユダヤ教では、神をイメージすることは偶像(image)崇拝とされます。

聖書を読んで神様をイメージしてくださいといっても、箇所ごとに全くイメージが違うし、それを読む人が受けるイメージもそれぞれです。


では神は○○である、○○な方である、といろいろ聖書に書いてあるのはOKなのでしょうか。

これもユダヤ教で大昔から議論されてきたことですが、それはその人の神を称えたいという「気持ち」を表現しているだけで、○○である、という人間のつたない言語や、さらにその言語を解釈する人間によって神が定義されることはありません。

それでも人間が言語によって神を表現したい、表現しよう、とする営みは、子どもがつたない似顔絵を書くようなもので、小さな子どもが何人かいて親の似顔絵を描かせれば、目の前に見ている親でも、それぞれ全く違う似顔絵になります。むしろ、子どもの側の個性や特徴が表れます。

親はどれも似てないぞ、似顔絵を描くのは禁止だ、と破り捨てはしないように、神様もそれくらいは大目に見てくれているんじゃないか、という考えです。


ユダヤ教は書物宗教ですが、書物崇拝教ではなくそれも偶像崇拝になるので、神は○○である、と聖書に書いてあることでも、それは書いた人の情緒、思想や特徴が表れているものと読みます。

キリスト教で「神は愛である」はヨハネ神学の特徴を示すものと言われるのと同じですね。

#1506 2024年04月12日 14:30:55

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“決してあなたを見捨てない(5)”で、統治体は間もなく天に行くけれど、心配するな、という内容です。」
「どうでもいい話だね。JWという宗教の奇妙さが味わえる内容かも。」

「1節で“「ものみの塔」2013年7月15日号で,地上に残っている選ばれたクリスチャン全てはハルマゲドンが始まる前に天へ行くと説明されました。”と、JWの最新の教義を紹介しています。“前”が太字です。」
「10年も前だから、誰も覚えていないよ。今ごろそうだったのかと、多くのJWが驚いているよ。」

「3から5節が“どんなことは起きないか”です。 3節に“統治体の兄弟たちがいなくなったら,ほかの羊は頼れる存在を失ってエホバから離れてしまうのではないか,と思う人もいます。”とあります。そうはならないと言いたいようです。」
「統治体がいなくても何も問題ないでしょう。まるで統治体のためにエホバ教があるみたいだ。」

「統治体がいなくなったら、輸血禁止とか誕生祝い禁止とかおバカなルールがなくなり、よりましな宗教になると思います。」
「誰もがそう思うけれど、統治体の老人はそう思わないようだね。」

「3節にエホアシュ王の話が出ていて、“エホヤダが死ぬとすぐに悪いことを行うようになりました。エホバに従わない高官たちの言うことに耳を傾け,エホバに仕えるのをやめてしまいました。(代二 24:2,15-19)”とあるのです。引照聖句の歴代二24:18に“民は父祖たちの神エホバの家を捨てて,聖木や偶像を崇拝するようになり,その罪のゆえに神の怒りがユダとエルサレムに向けられた。”とあるのですが、これは誤訳ですよ。どうして突然“民”が出てくるのですか?宮廷内部の話ですよ。」
「民ではなく、王と高官たちでしょう。英文ではThey(彼ら)なんだけど、あまり頭が良いとは言えない翻訳者はそれを民と誤解したわけだ。」

「旧約聖書は一般の人間のことなどあまり関心を持っていませんよ。関心があるのは王とその周辺の権力者だけです。」
「一般のイスラエル人の間では偶像崇拝は普通のことで、古代の様々な偶像はイスラエル各地からよく発掘されている。」

「4節では最後の使徒ヨハネの話で、“でもヨハネが死んだ後,背教は山火事のように一気に広がりました。そして数十年の間に,クリスチャン会衆は間違った考えや行いによってすっかり腐敗してしまいました。”と言っていますが、その根拠はありません。」
「1世紀のクリスチャンはよかったけれど、2世紀目から背教者になったというのがJWの歴史観だというだけ。根拠なんかないよ。」

「5節で、統治体がいなくなっても、” エホアシュのように教えられた道から外れてしまったり,2世紀のクリスチャンたちのようにエホバから離れてしまったりするのでしょうか。決してそんなことにはなりません。”と断言しています。根拠はありません。」
「そうだけど、今の統治体がいない方が、よりましな宗教になるのは確実。」

「6から10節が“清い崇拝が途絶えることはない”です。 3つの時代別に論じています。7節が“古代イスラエルの時代”で、8節が“使徒たちが死んだ後の時代”です。要するに邪悪な時代だったと言いたいようです。」
「8節で“背教したキリスト教が誕生し,それが大いなるバビロン(世界を惑わしている宗教全体)の主要な部分となりました。”とある。こんなことを言っているのはJWだけ。JWがキリスト教を憎んでいるのがよくわかる。」

「9節が“全ての事柄の回復の時”で、1914年に始まり、“メシアの王国が人間を完全な状態にし,地球を楽園に変える時まで続きます。”とあります。今は“終わりの時”であり、“回復の時”のようです。好きなことを言っていますね。」
「1914年というインチキ年代が登場だ。1914年から離れられないのがJWにとって致命的だね。黙っていれば、そのうちみんな忘れるのに。」

「10節がイザヤ54章の解釈です。“イザヤ 54:17を読む。聖書には「あなたを攻撃するために作られるどんな武器も役に立た[ない]」とあります。この預言は今実現しています。”とありますが、こんなこと断言していいのですか?」
「この聖句が現代のJWに向けて書かれていると思う時点でまともじゃないね。」

「ここでいう“あなた”は誰のことかというと、イザヤ54:11に“苦しめられ,嵐に翻弄され,慰められていない女よ,私は固いモルタルを使ってあなたの石を敷き,サファイアをあなたの土台として据えている。”とありますように、エルサレムのことですよ。」
「ヘブライ語の文には“女”という単語はない。訳するときに補ったもの。協会共同訳では“苦しめられ、嵐に弄ばれ/慰められなかった都よ”としている。エルサレムのことを言っているので、“都”にしたのだろう。」

「10節ではさらに“次の言葉も今の時代にまさに当てはまります。「あなたの子たちは皆エホバに教えられ,豊かな平和を味わう。あなたは正しさによってしっかりと据えられる。……何も恐れず,おびえることもない。恐怖を抱かせるものがあなたに近づくことはない」。(イザ 54:13,14)”とありますが、これもデタラメですね。」
「ここでいう“あなた”はJWのことではなくエルサレムのことだからね。“あなたの子たち”とはエルサレムの新しい市民のことだね。」

「その聖句と違って、JWはいろいろなこと怖れ、脅えていますよ。その現実を否定するわけですね。」
「恐れや不安をいうと、信仰心が足りない、と非難されるだけなので、黙っているだけだね。」

「11から17節までが“どんなことが起きるか”です。 どんなことが起きるかなんて、あの統治体がわかるはずないですよ。11節で“選ばれた人たちが天に行った後,どんなことが起きるのでしょうか。”と問いかけています。答えは“天で王として治めるイエスは,地上にいる私たちを必ず世話してくださいます。それで,何も心配する必要はありません。”というものです。」
「つまり、統治体など要らないということだね。早く天にでもどこにでも行って欲しいね。」

「12節が旧約聖書の話で、モーセとエリヤが登場します。二人ともちゃんと後継者を育てていたから、死んでも何も問題はなかったと言いたいようです。」
「12節に“モーセの代わりにヨシュアが指導者になるようにし,モーセが生きている間にヨシュアが何年もトレーニングを受けられるようにしました。(出 33:11。申 34:9)”とあるけれど、民数記27章では違うことが書かれているよ。」

「民数記27章は、荒野放浪の40年目の出来事で、モーセがアバリム山に登って、神が約束した土地を見なさいと言われる場面ですね。」
「民数記27:15,16で“モーセはエホバに言った。「全ての人に命を与える神エホバが,民の上に立つ1人の男性を任命してくださいますように。”と言う。ということはこの時点でモーセの後継者が決まっていないようだ。そして民数記27:18で“エホバはモーセに言った。「健全な精神を持つ,ヌンの子ヨシュアを選び,彼に手を置きなさい。”とある。つまり、民数記ではモーセの死ぬ直前に後継者が決まったことになっている。」

「13節では“統治体の兄弟たちはモーセやエリヤのように,トレーニングを行うことがどれほど大切かをよく理解しています。それで,教え導く責任を果たせるよう,ほかの羊の兄弟たちを長い間トレーニングしてきました。”とあるね。統治体はモーセやエリヤと同等と言いたいようだ。」

「14節は預言です。統治体が天に行った、“その時,私たちは諸国家の連合体であるマゴグのゴグからの攻撃を受けます。(エゼ 38:18-20)でもその攻撃は一時的なものです。エホバを崇拝することをやめさせることは決してできません。エホバは必ずご自分の民を救い出します。”とあります。統治体が天に行くことなどありませんから、好きなことを言えますね。迫害の恐怖をあおって信者を引き締めようということじゃないですか?」
「ほとんど国ではJWなんかに関心を持っていないよ。世界的な迫害が起こりそうもないとわかったら、“諸国家の連合体であるマゴグのゴグ”という解釈をまた変えるかもね。やっぱりマゴグのゴグはサタンに率いられた邪悪な天使たちのことです、と言い出すかも。」

「“マゴグのゴグ”はエゼキエル書の表現ですよ。JWの大好きな啓示20:7では“彼は出ていって,地の四方にいる人々,ゴグとマゴグを惑わし,戦争のために集める。”とあって、“ゴグとマゴグ”ですよ。意味が違いますよ。啓示の方は無視するということですか?」
「エゼキエル書ではマゴグは地名だけれど、啓示では人物名になっている。啓示の著者のうっかりミスかも。」

「それ以外にもエゼキエル書と啓示では違いがありますよね。」
「エゼキエル書ではマゴグのゴグは終末論とは無関係だね。エゼキエル書ではゴグの攻撃は神が引き起こすことになっているけれど、啓示ではサタンが軍勢を集める。二つの異なるシナリオがあるわけで、JWはエゼキエル書の方を採用するつもりなのか?」

「15節は天に行った人が何をするのかについての説明です。“将来この世界の政治体制が「子羊と戦います」。そして「子羊は……彼らを征服します」。その戦いでは,「招かれ,選ばれた忠実な者たち」が子羊を助けます。(啓示 17:14を読む。)この人たちは天に復活した人たちのことです。それで,大患難の終わりごろ天に復活した人たちに与えられる最初の仕事は,戦うことです。”とあります。戦争ですか。今から軍事について学んでおいた方がいいですよ。」
「今度は啓示のシナリオを採用するわけね。でも啓示17章は地上での出来事が描かれている部分。“招かれ,選ばれた忠実な者たち”が天に行った人のことを指すとはどこにも書かれていない。普通は信者のことを指していると解釈される。」

「天に行く144000人と地上組へと人間が別れるというJWのインチキ教義が、こういう特殊な解釈を産んでいる原因ですね。」
「天には強力な天使軍団がいるはず。144000人の援軍なんかいらない。地上の戦いだから、信者が子羊を助けるという設定なの。」

「16節が面白いです。“地上に残っている選ばれたクリスチャンの中には,高齢で体の弱い人たちもいるかもしれません。でも天に復活した後は不滅の命を与えられ,イエス・キリストと一緒に力強く戦います。”とあります。誰もがあの肥満した統治体の老人が戦いで役立つとは思いませんから、わざわざこうして弁解しているのですよ。」
「恐らく統治体の老人たちは、かっこいい戦士に変身した自分の姿を想像して、早く天に行って、戦いたいな、と思いながら生活しているよ。楽しいね。」

「最後の17節は地上組へのメッセージです。“ハルマゲドンの戦いが始まる時,どんなことをする必要があるでしょうか。エホバに頼り,エホバからの指示に従うことです。”とあります。」
「ここで言うエホバとは組織のことだよね。組織に頼っているとろくなことにはならないということは長年JWをやっていればわかるよね。」

「17節にも聖句の誤用がありますね。“パウロが言っている通り,「政府も,今あるものも,これから来るものも,……神の愛から私たちを引き離すことはできません」。(ロマ 8:38,39)”とあるのですが、“これから来るものも”は太字にして強調しています。これからくると統治体が予想している大患難を指していると思っているようです。」
「訳がダメだね。協会共同訳では“死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも”で、現在と未来の2つで“時間”を指している。神の愛を引き離すという点では、“時間”というものだって無力だ、という意味。抽象的な議論をしているわけで、具体的な出来事を言っているわけではない。」

「最後に“エホバがあなたを見捨てることは決してないのです。”とありますが、奉仕活動中に強盗に襲われても守ってはくれませんので、注意してくださいと書き加えて欲しいですね。」
「それから、末端の信者は組織にとっては使い捨てです、と書き加えて欲しい。」

#1507 昨日 14:00:06

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバの名を賛美せよ(6)”で、エホバという神の名前を宣伝をしなさい、という内容です。」
「エホバは聖書の神の名前じゃないよ。エホバ教の神の名前にすぎない。1年に1回はこういう記事を出さないといけない規則でもあるのかな?」

「この記事の主題聖句は詩編113:1で、“ヤハを賛美せよ!エホバに仕える人たち,賛美せよ。エホバの名を賛美せよ。”です。“ヤハ”は神の名前の短縮形ですよ。それなのに、どうして神の名がエホバになるのですか?ありえません。」
「正論が通じるような宗教じゃないということだね。都合が悪いので“ヤハを賛美せよ!”の部分は省略している。」

「4から7節は“エホバに喜んでもらうことができる”です。 エホバの名を賛美する理由①です。4節で“ある人は,不安で自信がないので褒め言葉が欲しいと思うかもしれませんが,全能の神であるエホバはそうではありません。”とあります。これは聖書の神って絶えず愛され、ほめられることを要求する宇宙一のナルシストだ、という評価を意識したものですね。」
「聖書の神ほど、自分を愛せ、ほめよ、奉仕せよという神はいないよね。出エジプト34:14,15は“エホバは全くの専心を要求することで知られている。全くの専心を要求する神なのである”と訳されているけれど、協会共同訳では“主はその名を妬みと言い、妬む神だからである。”とあり、こちらの方が正しい。」

「聖書の神の名は“妬み”なんですね。」
「妬みは英語でjealousなので、エホバ(Jehovah)の証人よりもジェラスの証人に変えた方が、より聖書的。」

「4節では、エホバが賛美称賛マニアであることを弁護するのにヘンな例えが出てきます。“幼い娘が父親に抱き付き,「世界で一番好き!」と言います。父親は娘の素直な言葉を聞いて感動し,とても幸せな気持ちになるでしょう。では,この父親について,「この人は娘からのこういう言葉がないと不安になるんだ」と思うでしょうか。そんなことはないはずです。”というものです。“そんなことはないはずです。”とは必ずしも言えませんね。」
「この父親が、娘に、わが家の第一の掟は父親を心を込め、魂を込めて愛さねばならない、そうしないと家から追い出す、と日ごろから言っている人だとすると、精神的に危ない人と思うよ。聖書の神は例えるならこういう父親。」

「5節がJWの神学です。“天の父エホバを賛美するなら,サタンが私たち一人一人について述べているうそに反論できます。”とあります。JWはサタンの主張がウソであることを命を懸けて証明する任務を背負っているようです。」
「サタンの主張はなにかというと、“サタンは最後まで神に忠誠を尽くす人はいないと主張しました。人は神に背いた方が自分にプラスになると思ったなら必ず神に背くと言いました。(ヨブ 1:9-11; 2:4)”とある。なぜかこの主張に反論する責任をJWが負っているというわけだね。そう思うなら、JWは死ぬまで忠誠をつくして、サタンのウソに反論して欲しいね。JW以外の人はその様子を見物しているよ。」

「6節では“エホバを愛する人はエホバという名を心から賛美したいと思うはずです。”と言っています。“思うはずです。”は事実上命令です。」
「JWなら、エホバ、エホバと賛美しまくるしかないわけだ。」

「7節で“現代の私たちも,エホバへの愛や感謝を熱く語ることによって,エホバに喜んでもらうことができます。”とあります。これは伝道でエホバ、エホバと語れということです。」
「やっぱり賛美するだけじゃ足りなくて、伝道という無意味な苦行をしなくてはいけないようだ。でも、聖書のどこにもそんなことは書かれていない。本気でそう思うなら、エホバを賛美せよ、と看板に書いて、それを持ち歩いたらいい。」

「7節では“さらに,エホバに倣うために一生懸命努力することによっても,エホバを賛美できます。”とありますが、これも新たな信者獲得のためです。」
「“その結果,誠実な人たちはエホバのもとに引き寄せられます。”とあるからね。信者獲得につながらないことには関心がないのがJW。組織が勧める様々なことはたいてい信者獲得を目的にしているよね。」

「8から13節が“イエスに喜んでもらうことができる”です。 エホバの名を賛美する理由②です。珍しくイエスが登場です。最近、キリスト教からJWに改宗した人にアピールするためですよ。」
「そういう人はエホバなんかになじみがないからね。」

「8節では、イエスが“「私はあなたのお名前を彼らに知らせました」と言いました。(ヨハ 17:26)これはどういう意味だったのでしょうか。”と問いかけていますが、イエスは神の名前を口に出すことなどありませんよ。1世紀のイスラエルでは神の名を言うことは重大な冒とく行為で、神の名を出せば捕まって殺されます。」
「“神の名”というのは神のこと、あるいは神の性質を指す。“私はあなたのお名前を彼らに知らせました”というのは、JWが想定しているように、神の名は○○だよ、と教えたということではなく、神がどのような方かを教えたということ。」

「JWはエホバというインチキネームを人々に知らせているということは、聖書の神はインチキな神と言っているようなものじゃないですか?」
「聖書の神様はインチキネームを宣伝しているJWのことを怒っていると思うよ。」

「9節に、“イエスは神の名前がエホバだということをただ人に伝えただけではありません。”とありますから、JWはイエスは神の名前はエホバだと選挙カーのように連呼したと信じているようです。」
「そのような場面は福音書の中に一度もないのはなぜなんだろうね?」

「10節に“イエスはほかの人にもエホバの名前を使ってほしいと思っていたでしょうか。確かにそう思っていました。”と言っています。JWだけです。こんなことを言っているのは。」
「その根拠としているのは、マルコ5:19の“親族のもとに帰り,エホバがしてくださった全てのことと示してくださった憐れみについて知らせなさい。”というイエスの発言。まず元のギリシャ語本文にはエホバなど出てこない。JWが勝手にエホバに変えた。」

「それに、JW訳でも、エホバの名前を宣べ伝えなさいとは言っていません。“エホバの名前を使ってほしいと思っていた”という根拠になりません。」
「自分たちの教義に合うように聖書を改ざんし、改ざんした聖書を自分たちの教義の根拠にしているけれど、JWらしく、どこか間抜けだね。」

「イエスがエホバの名前を宣伝していたという根拠にマルコを用いるのは不適切ですよ。執筆者は聖書を知りませんね。」
「例えば、マルコ1:44で皮膚病を治した男に、イエスは“誰にも何も言わないようにしなさい。ただ自分を祭司に見せに行き,モーセが指示した物を捧げなさい。癒やされた証拠としてです。”と言う。マルコではイエスは宣伝に熱心ではない。」

「*をクリックすると、“マルコがイエスの言葉を記録した時にエホバという名前を使ったといえる十分な証拠があります。それで,「新世界訳聖書」ではエホバの名前が使われています。この聖句の注釈もご覧ください。”とあります。この聖句の注釈には“ほとんどのギリシャ語写本はここマル 5:19で「主」(ホ キュリオス)としているが,もともと神の名前が使われていて後代に主という称号に置き換えられたと考える十分の理由がある。そのため,ここの本文でエホバという名前を使っている。付録C1,C3の序文とマル 5:19を参照。”とありますが、具体的に“十分の理由”とは何か書かれていません。」
「何も根拠がない時に、JWは“十分な理由がある”とだけ書く。神の名前が置き替えられたとする十分な理由はわからないね。」

「10節には“イエスの願いは今も変わっていません。私たちに世界中でエホバの名を知らせてほしいと思っています。(マタ 24:14; 28:19,20)”と主張していますが、引照聖句にはそんなことは書いていません。」
「例えば、マタイ28:19では“父と子と聖なる力の名によってバプテスマを施し”とある。JW訳でもエホバではなく“父”だね。もし新しい翻訳がJWから出るとすると、エホバに変える十分の理由がありますといって、ここはエホバに変えるのだろう。」

「11節では“それで弟子たちにこう祈るように教えました。「天におられる私たちの父よ,お名前が神聖なものとされますように」。(マタ 6:9)”と、イエスがエホバという名前を重視していたかのように言っています。」
「名前はその対象そのもの、その対象の特徴や権威を表す。それらが神聖なものとなりますようにという意味。また神を直接指すのは恐れ多いことなので、神とは言わず間接的に神の名前が神聖なものになるようにと祈りなさいという意味もある。」

「11節に“イエスは,この問題が人間にとっても天使たちにとっても一番大きな問題であることを理解していました。(エゼキエル 36:23を読む。)”とあります。今度はエゼキエル書に飛びますが、的外れですよ。」
「そこには“私は,あなたたちが異国の人々の中で汚した,私の偉大な名を,必ず神聖なものとする。”とあるけれど、名前そのものではなく名前が指すものを神聖なものとするという意味。つまり神の名前ではなく神そのものを問題にしている。その後に“そして,あなたたちの中で,異国の人々の目の前で,私が神聖なものとされる時,”とあり、神の名前が神そのものを指していることがわかる。」

「どうやって神聖なものにするかというと、エホバ、エホバと連呼することによってではないですよ。」
「エゼキエル36:24では“私はあなたたちを国々から連れ出し,あらゆる土地から集めて,あなたたちの土地に連れ戻す。”とある。離散したイスラエル人を元の土地に戻すことによって、イスラエルの神は聖なる真の神だということを示すという意味。JWとは何の関係もない。」

「13節では“王であるイエスに喜んでもらいたいと思うなら,エホバがどんな方かについてほかの人に伝えて神の名を賛美しましょう。そのようにしてイエスの手本にしっかり付いていくことができます。 (ペテ一 2:21)”とまとめていますが、いつものことですが、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「そこでは、キリストが“その歩みに皆さんがしっかり付いてくるよう手本を示しました。”とあるだけ。エホバを宣伝する話なんか出てこない。」

「14から16節が“人々の命を救うことができる”です。 エホバの名を賛美する理由③です。14節では“エホバの名を賛美するなら人々の命を救うことにもなります。”と主張しています。知りませんでした。JWが輸血拒否で死んだり、伝道中に殺されたりということはどうなったんですかね。エホバのせいで命を失っていますよ。」
「JWの教義では、エホバの名を知る→エホバ教に入る→永遠の命、というものだから、途中で犠牲が出てもそれは小さいことで問題ないということ。」

「16節が体験談です。“エホバという名前を知ったことで,アリーアの人生は大きく変わりました。「神様には名前があって,しかも親友になれるんだ!」と思いました。アリーアはこう言います。「今では本当に穏やかな気持ちを味わうことができています。エホバという名前を知ることができて本当にうれしいです」。”というものです。全く理解できません。」
「神に名前があると知って驚きました、というだけの話を滅茶苦茶誇張した話のように思えるね。」

「JW以外の資料を調べれば、聖書の神の名をエホバと呼んでいるのはJWだけということに気が付きますよ。たいていの本には、一部の宗教団体がエホバと呼んでいるが、それは間違いである、とさえ書いています。」
「情報弱者がJWに騙される。」

「もう一つの体験談は“スティーブはこう言います。「それまで,神様に名前があるなんて知りませんでした。……生まれて初めて,神様を身近な存在に感じることができました。最高の友達を見つけたと思いました」。”というものです。これもウソ臭さプンプンです。」
「似たような話は以前にもあったね。こうした体験談を載せることによって、エホバ、エホバ、と連呼するよう信者を誘導しているわけだ。」

「最後の17節が信者に対する指令です。“伝道や聖書レッスンで,エホバという名前について伝えていますか。エホバがどんな方かを知るように助けているでしょうか。”とあります。こういうことを言うのは、未だに多くの国で、性犯罪者の保護、輸血拒否、体罰による児童虐待、様々な行事への参加拒否以外ではエホバの証人というのはほとんど知られていないからでしょうね。」
「本気で、エホバの名前を知らせたいなら、テレビ広告でも、新聞広告でもしたらいいよ。そういうことをしないで、末端の信者にエホバ宣伝を押し付けるのは、本気でそんなことを重視していないから。」

「広告を出すのに必要なお金が惜しいから、広告はしませんね。」
「無給でこき使える信者がいるかぎりはそうだろうね。」

クィック投稿

メッセージを書いて送信してください。

Board footer