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#1 Re: 総合フォーラム » ここが変だよJW » 昨日 17:09:41

エホバの証人に、聖書に基づいて考えてもらおうと散々努力してきましたが、正直疲れました。。。

自分たちとは異なる考えを一方的に「背教者」と断罪することは、どれほど検証されても輝きを失わない本物の真理を教えているのではなく、検証されることで偽りを暴露されることへの恐れであることに気づけなければなりません。

信仰は、
“自分で考え、自分で確かめ、自分で立つ”ところから始まる。

なぜこんな簡単な真理に気付けないのでしょうか。
それとも、見ないようにしているだけなのでしょうか。

どれだけ聖書に基づいて話そうとしても、薄ら笑いを浮かべて「意味不明」とレッテル貼りをする彼らの反応を見ていると、謙遜さを教えられている人々とはとても思えません。
教理を何度変更しても一切謝らない、統治体の傲慢さを反映しているようで、とても残念な気持ちです。

それでも、家族を偽りの宗教から取り戻すために、引き続きがんばります。
弱音を吐くだけのコメントですみません。

#2 Re: 総合フォーラム » アブラハムの神の限界 » 2025年05月10日 18:46:34

  1. あなたは自分の罪を悔い改めて転向し,エホバ神のみ前で,自分が有罪の宣告を受けた,救いを必要とする罪人であることを認め,またその救いはみ子イエス・キリストを通して,父なるエホバからもたらされるものであることを認めていますか。

  2. 神と,救いのための神の備えとに対するそうした信仰に基づき,神がイエス・キリストを通して,また啓発を与える聖霊の力のもとで聖書を通してあなたに啓示してくださるところに従って,これからは神の意志を行なうべく,神に無条件で献身しましたか。

これが1985年以前のエホバの証人の、バプテスマの質問です。
ここでは「啓発を与える聖霊の力のもとで聖書を通してあなたに啓示してくださる」ことに対する信仰が求められています。
もともと彼らは、神が聖霊のもと聖書を通して個人個人に啓示を与えると理解していました。そこに「組織」などという表現や考えはありません。

  1. あなたは,イエス・キリストの犠牲に基づいて自分の罪を悔い改め,エホバのご意志を行なうため,エホバに献身しましたか。

  2. あなたは,献身してバプテスマを受けることにより,自分が,神の霊に導かれている組織と交わるエホバの証人の一人になることを理解していますか。

これが現在も採用されている、変更された質問の内容です。そもそも2番目の質問は必要でしょうか?

エホバの証人の大会に出席しバプテスマを受けようとしているその人は、自分がエホバの証人の一人になることは理解しているはずです。
では2番目の質問は何を意味するのでしょうか。

この質問の肝は、エホバの証人の組織を、神の聖霊に導かれていると信じ受け入れることを表明させるということでしょう。
この質問では肝心な聖書に触れてすらいません。重要なのは「組織」なのです。
自分は神エホバに献身したのだと、純粋なエホバの証人は考えているのでしょうが、実際には組織に対する忠誠も誓っていたのです。

この質問に肯定の答えをした人は、組織がどれだけ聖書からかけ離れた見解を述べているように思えたとしても、それに疑問を差し挟んだりすることはもはや許されていないのです。だからこそ、理解できない奇妙な教えがあっても「エホバを待つ」などという姿勢を取るしかないわけです。
公然と非難したり反抗したりする人は、一度バプテスマの際に宣誓したその誓いを破っていると見なされ(残念ながら実際に破っていることになるでしょう)、背教やら排斥やら断絶やらと理由をつけて徹底して排除されてきたのです。そこに「聖書的な裏付け」などほとんど関係ありません。

なぜこの質問のおかしさに気付けなかったのか、今でも後悔しています。

#3 Re: 総合フォーラム » 罪と死、永遠の命 » 2025年01月19日 09:47:20

Venturiさん、とても参考になる論考をお寄せいただき、本当にありがとうございました。
どうも私の場合、「神との交わりが生命そのもの」という視点がまだまだ欠けているようです。エホバの証人的な考え方や発想が抜けていないのでしょうね。

ここで提起した疑問は元々、エホバの証人が教える「油注がれた者たちは天で、み使いたちですら得られない不滅の命を得る」という不可解な教えについて考察していた際に、付随して沸いてきた疑問でした。

彼らは「不滅の命と永遠の命は違う」「不滅の命は単なる終わりのない命ではなく、変質や分解の及ばない、また滅びの及ばない命です」などと教えますが、本質的には同じなのではないかと。
「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着る」(コリ一15:53新共同訳)という聖句が示しているのは、「朽ちる体」という地上における肉体を捨て、「朽ちない体」という霊的な体を身に着け、天で永遠に生きることであると考えます。

エホバの証人は同じ聖句を「朽ちるものは不朽性を身に着け,死んでいくものは不滅性を身に着けなければなりません」(コリ一15:53新世界訳)と訳しており、イエスが有しておられるこの不滅性を、「キリストの復活と似た様にあずかる」自分たちも得るのだと説明しています。そのイエスの復活については、「復活に際してイエスに与えられた不滅の命は単なる終わりのない命ではなく,変質や分解の及ばない,また滅びの及ばない命です」と述べており、要するに「不朽」という言葉は「滅びたりしない」という考えが含まれているので、滅びる可能性のあるみ使いたちが得ている命とは異なっている、ということです。

自分たちはイエスと同じと述べているようで「いや、なんでやねん」という突っ込みを入れたくなるのですが、Venturiさんが示してくださっている「神との交わりが生命そのもの」という視点があれば、理解できそうですね。「不滅の命」と「永遠の命」などという表現にこだわるあまり、「神を離れては誰も生きられない」という本質を見失っていたようです。

不躾な質問に、時間をかけて丁寧に考察をお寄せいただき、本当にありがとうございました。

#4 Re: 総合フォーラム » 罪と死、永遠の命 » 2025年01月17日 20:57:29

Venturiさん、詳しい論考をありがとうございます。
まだ十分に咀嚼できておりませんので、聖書と照らし合わせながらゆっくりと考慮させてください。

不躾ながら一点お考えをお聞きしたいのですが、創世記の示す「完全な人間」像は、完全な命=永遠の命ではないことを示しているようにしか思えません。
アダムは当初完全な人でしたが、結局彼は永遠の命を有していたのではなく、その無償の賜物を受けることなく死にました。

イエスは贖いを備えるために地上に来られ、ご自分の命を投げ打たれたわけですが、贖いとは身代金のことであり、アダムが失ったものに完全に対応しているものかと思います。
イエスが初めから死の支配下にいなかったのであれば、イエスの支払われた代価とアダムのそれとは価値が釣り合わない(命の価値が異なる)ように思えるのですが、ここはどう考えますか?創世記の解釈に問題があるのでしょうか?

#5 Re: 総合フォーラム » 罪と死、永遠の命 » 2025年01月12日 10:11:37

命の実を定期的に取り入れる、という考え方は興味深いですね。
今まで考えもしませんでした。

新たな視点を与えてくださり、ありがとうございます。

#6 総合フォーラム » 罪と死、永遠の命 » 2025年01月08日 11:14:10

ゆずポン
返信: 8

いまいち整理ができていないように思うので、教えてください。

罪の代償は死ですが,神が与える贈り物は,私たちの主であるキリスト・イエスによる永遠の命なのです。ーロマ6:23

このような訳で,1人の人によって人類に罪が入り,罪によって死が入り,こうして,全ての人が罪人になったために,死が全ての人に広がったように―。ーロマ5:12

エホバの証人は上記のような聖句を引用し、「人は生まれながらに罪人なので死ぬ」と教えます。つまり、罪に対する罰として死があるということです。(塔15 4/1 12–14ページ
しかし、私はこれは間違いだと思っています。

エホバ神は,食べられる実を付けるさまざまな美しい木が地面から生えるようにし,庭園の真ん中に命の木を生えさせた。また,善悪の知識の木を生えさせた。ー創2:9

それからエホバ神は言った。「人は私たちのように善悪を知るようになった。人が命の木からも実を取って食べて永遠に生きるということのないために,―」。(略)こうして神は人を追い出し,ケルブたちと,回転し続ける炎の剣とをエデンの園の東に配置して,命の木への道を守らせた。ー創3:22-24

神は善悪の知識の木とは別に命の木を生えさせ、その木から実を取って食べることが永遠の命につながることを示唆しています。
そしてその木から実を取ることができないように、ケルブたちに守らせました。
つまり、アダムははじめから永遠の命を有していたのではなく、命の木から食べることを神から許されるときにはじめて、永遠の命を享受できるはずだったということです。

ですから、罪のない完全性がイコール永遠の命なのではありません。
エホバの証人も、「千年統治の最終段階で、完全性へと引き上げられた時点で試みがあり、その試みを通過した人だけが永遠の命を得る」とも教えており、つまりそういうことです。完全性へと引き上げられた時点で永遠の命が与えられるわけではないのです。

そうしますと、「罪の罰として死ぬ」という説明は本質をとらえていないように思います。
動物は不完全ではないとされていますが、同じように寿命を迎えて死にます。永遠の命とは神が与える賜物であって、人も動物も完全であろうとなかろうと、もともと死ぬように造られているということではないでしょうか。つまり、死は罪に対する罰なのではなく、それが本来の造りなのでしょう。
そして天使たちさえもこの点は同じように考えます。

生き返らされたキリストはもう死なない,ということを知っています。死はもはやキリストの主人ではありません。ーロマ6:9

贖いを備えたキリストについて、「死はもはや主人ではない」と書かれており、つまりそれまではキリストに対してさえも死は主人だったということではないでしょうか。死に至るまで神への忠実を示したキリストに、神は賜物として永遠の命をお与えになったということでしょう。
ですから、天使たちも単に人よりずっと寿命が長いのであって、本来は死ぬように造られているのであり、神への忠実に対する報いとして最終的に永遠の命が与えられるのだと思います。彼らも、神への忠実を人と同じように試されているのです。
確かに、結果的に罪人には永遠の命が与えられないので最終的に死ぬわけですが、罪イコール死という単純な説明ではないはずです。

そうしますと、冒頭の「罪の代償は死」や「罪によって死が入り」という聖句は、実際には何を教えようとしているのでしょうか?
説明できそうで、うまく言語化できないので教えてください。

#7 Re: 総合フォーラム » とりあえず書き込み用 » 2024年10月23日 15:18:18

なるほど、現地の情報ですか・・・となるとスペイン語ですかね。英語ならまだよかったのですが。

#8 Re: 総合フォーラム » とりあえず書き込み用 » 2024年10月22日 06:21:00

レイモンド・フランズ氏の「良心の危機」の中で、憤りを感じたのが「二重基準と御都合主義」の章にある、マラウイ問題とメキシコ対応でした。
マラウイに対しては「党員カードを買うのは妥協であり、中立を保てなくなる」と答えていたのに、メキシコの「軍務修了証明書を賄賂で発行してもらうのは、みんながしていることだし、パスポートの発行に必要な書類なので問題ない」というのが主旨でした。当時のマラウイの兄弟姉妹たちが受けた仕打ちを考えると、一般の信者には見えないところでこんな二重基準がまかり通っていたのだということを知り、本当に頭に来ました。当時のメキシコのエホバの証人の多くが良心の呵責を感じていた、というのももっともだと思います。

しかし当然と言いますか、協会の出版物を調査しても、当時のメキシコに対して上記指針が示されたことを証明する資料が見当たりません。フランズ氏の書いていることは真実だと思うのですが、この背景を証明する情報などがあるでしょうか?もしご存じの方がいらっしゃいましたら、是非ご教示ください。

#9 Re: 総合フォーラム » 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ » 2024年10月20日 09:17:35

私は聖書学者ではないので細かなことまではわからないのが歯がゆいのですが、創3:6の表現については「塔90 6/15 31ページ」で以下のように解説されていました。

創世記 3章6節には,エバが「その実を取って食べはじめた。その後,共にいたときに夫にも与え(た)」と記されています。しかし,別の聖書翻訳からは違った印象を受けます。ジェームズ王欽定訳はこの本文を,「遂にその実を取りて食らい,またこれを己と共なる夫に与えければ彼食らへり」と訳しています。

「与えた」と訳されているヘブライ語の動詞は未完了態であり,「そして」(ヘブライ語,ワウ)という特殊な形態の接続詞が付いているため,時や論理の継続が示唆されています。それゆえ新世界訳は,創世記 3章6節の一連の出来事をつなぐものとして何度か出てくるワウを訳出するのに,「そして」(「……して」)だけでなく,「そこで」,「それで」,「その後」などの訳語も使っています。ですから,上記の新世界訳聖書の訳には確かな根拠があるのです。

アダムは妻が蛇と話している様子を黙って見守り,蛇の背後にいた目に見えない反逆者の語る偽りや中傷を聴いていたのでしょうか。興味深いことに,ドイツの聖書学者J・P・ランゲはその考えを退け,「誘惑者が働きかけていたときに夫がその場にいて,しかも黙っていたなどとはとても考えられない」と注解しています。またユダヤ人の注釈者B・ヤーコブは,「共にいた」という部分について説明し,この表現は「(エバが食べる前,もしくは食べていた時に)共に立っていた,という[意味]ではない」と述べています。

エバが蛇と交わした会話の内容からして,エバの夫が,その木から食べてはならないという神の命令を彼女に伝えていたことは明らかです。(創世記 3:3)

新共同訳を見ると、「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」となっています。
「一緒にいた男」という表現は、日本語の読み方によっては「配偶者としての男」という風にも受け取れる表現で、その時その場にいたのかどうかという点については、原語の表現がどうなっているのか、気になるところではあります。
しかしながら、「夫」には「配偶者としての男」という考えがすでに含まれていますので、「一緒にいた時に夫に」あるいは「共にいた夫」という翻訳と整合性が取れなくなりますが・・・難しいです。

ただ、スタディー版の表現からは「賢くなる」という考えが損なわれているようではありますね。ここは他の聖書翻訳と明確に異なっているようです。
いずれにしても、スタディー版の「聖書用語を分かりやすくする」や「読みやすくする」という特色は、新世界訳の翻訳者(恐らくはjw)の考え方やとらえ方というバイアスがかかりますので、非常に危険だと思います。
たとえ表現が難解であったとしても、「聖書翻訳は基本に忠実」でなければ、結果的に神の言葉を書き換えることになると個人的には考えています。

#10 Re: 総合フォーラム » 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ » 2024年10月17日 17:25:15

アノニマス さんの発言:

「jwの聖書執筆者はこれらの意味がわかっているのでしょうか?

コリ一5:5の翻訳について、以前訪ねてきた長老たちに指摘したことがありますが、「ああ、ほんとですね」と言うだけでその後のリアクションは何もありませんでした。

jwは「良心にタコができている」ようで、残念ながら結局のところ、事実や証拠などはどうでもいいのだろうと思っています。
統治体が全てで、彼ら自身が否定している「盲信」状態に陥っています。
まさか自分たちが「神の言葉を書き換えている」などとは思ってもいないのでしょうね。

#11 Re: 総合フォーラム » 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ » 2024年10月16日 09:12:03

5,000を超す新約聖書のギリシャ語写本のいずれにも、神のみ名は一つも出ていません
エホバの証人は新約聖書に神の名を復元するにあたり、「西暦二,三世紀の背教したクリスチャンたちが写本からみ名を取り除いた」と主張しています。
色々と複雑な推論を元に新世界訳聖書には神のみ名を記していますが、もっと単純に考えられないのでしょうか?

迫害を耐えるよう神が聖書を守ってこられたのであれば、なぜ新約聖書の原文にあったと主張しているみ名を、「取り除く改ざん」からは守らなかったのでしょうか?
神のみ名がそれほど神にとって重要なのであれば、それこそ守るべきメッセージではありませんか?

エホバの証人は、自分たちが用いている「新世界訳聖書」にもっと真摯に向き合うべきでしょう。

#12 Re: 総合フォーラム » 聖書その他関連冊子のレビューをどうぞ » 2024年10月16日 05:17:42

  • そのような人をサタンに引き渡して悪い影響力を除き去らなければなりません。主の日に会衆の健全な精神が守られるようにするためです。ーコリ一5:5(新世界訳スタディー版:日)

  • you must hand such a man over to Satan for the destruction of the flesh, so that the spirit may be saved in the day of the Lord.(新世界訳スタディー版:英)

  • あなた方がそのような人を肉の滅びのためにサタンに引き渡し,こうして主の日に霊が救われるようにするためです。(新世界訳参照資料付き)

  • このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。(新共同訳)

主語まで変わっていますが、スタディー版の日本語訳はおかしすぎませんか。
教理に合わせたこんなあからさまな意訳が、許されるのでしょうか?

#13 Re: 総合フォーラム » 選択肢と公正さ » 2024年08月15日 13:53:52

様々なご意見ありがとうございます。

>福音聞かずに死んだら復活だから公正ではないという見解も心を全て見抜くキリストの前では通用しなくて、福音を聞かず悪を行う者らの中で許される人とそうではない人がいる

これは運命予定説に近いような気がしなくもないです。
それならそもそも試練自体が必要ないようにも思えてきますが、どうなのでしょうか?

>千年の終わりに復活がありまして、それは裁きの復活ですから聖書的にはチャンスは悪い者には与えられないです。

「罪の報いは死」だった気がするのですが、チャンスもなくただ断罪されるために復活するのだとしたら、何のための復活なのでしょうか?
そんなことをするくらいなら、死んだままで良い気もします?

いずれにしても、公正な措置が簡単に思いつくなら苦労はないわけで、明確な答えを出すというのは難しそうですね。
自分がそうだったので言えるのですが、エホバの証人は疑問を持つと「エホバを待つ」と言って思考することを止め、否定的な意見は「背教者」として一切耳を貸さないことが問題です。
明確な答えが分からなくても、疑問を持ったり他者の意見に耳を傾けたりすることはとても大事なことだと思うのですが。

#14 Re: 総合フォーラム » 選択肢と公正さ » 2024年08月15日 10:33:06

>コウセイさん

コメントいただき、ありがとうございます。

実のところ私の提案した公正さも、おっしゃる通り公正とは言えない部分があることは薄々気づいていたんですよね・・・それで「短絡的」とあえて書いて逃げていたのですが tongue

ただ、エホバの証人は「真理に接することなく亡くなった人は不義者として復活し、楽園で生まれてくる人も含め千年統治の最後にサタンの試みを受ける」ということを教えており、ではそうした人たちとハルマゲドンで滅ぼされる人たちとでは明らかに前者のほうが有利だとも思うわけです。今の時代、日々生きることだけで精一杯な人も無数におられるわけですから。

こうした考えは元々、エホバの証人が行なっている伝道活動への疑問から生じたものです。

今日エホバに信仰を持たない人はハルマゲドンで虐殺されることになっており、それが本当に公正な裁きなのか?と。
「エホバに信仰を持たない」ことが原因だというなら、その信仰を推し進めるエホバの証人の努力が圧倒的に足りていないのではないか?
なぜ未だに1,000人に1人しかいないのか?
西暦70年の滅びに備えさせるために用いた「聖なる力」による驚異的な奇跡を、必要とされている今こそ全人類に、異論を差し挟む余地もないほどはっきりと見せ、神に信仰を持つべき「圧倒的な証拠」を示すべきではないのか?
独り子を贖いとして捧げるほどの愛を人類に対して抱いている神が、来たるべき大患難で「一人も滅ぼされることがないよう」にと本当に願っているのだというなら、人を救おうとする必死さがもっと表明されて然るべきではないのか?

こうした疑問から、そもそもエホバの証人が教える「公正さ」は全く公正でないと感じたのです。
「短絡的」などという表現で逃げ道を作っている程度の考えでは、信者を目覚めさせるには足りないですね・・・難しいです。

#15 Re: 総合フォーラム » 選択肢と公正さ » 2024年08月14日 22:26:00

>青い果実果実さん

コメントいただき、ありがとうございます。

青い果実果実 さんの発言:

混乱し複雑に絡んだ混沌としたこの世界で、真の公正について論ずる気力も失せてしまいます。

しかし少なくとも、エホバの証人の組織は決して公正では無いことだけは
断言出来ます。

確かにおっしゃる通りですね。
私自身もエホバの証人の教えについて論じる気力を失いそうになることが多々あります。
しかしながら私の場合は、家族をエホバの証人の組織から連れ戻すための闘いがあり、どのようなアプローチで近づけばそれができるのかを日々考えています。

エホバの証人が発行する文書をもとに矛盾を論じても、まともな返信すら返って来ず、ひたすら空を打っているような虚しさを感じることもあります。
なかなかに大変な戦いです。

#16 総合フォーラム » 選択肢と公正さ » 2024年08月14日 13:21:51

ゆずポン
返信: 11

公正さに基づき、エホバの証人の教えを考察してみました。
ちょろっと思い立って書いただけの内容ですので、不足もあると思います。
様々な視点があると参考になりますので、よろしければご意見ください。

ーーーーーーーーーー

エホバの証人は、近い将来に大患難とハルマゲドンが引き起こされ、そこで邪悪な人々が滅ぼされるという、終末論を唱える宗教の一つである。
その終末においては各人が神とキリストへの信仰に基づいて裁かれ、救うに値する人は羊、滅びに値する人は山羊に分けられる。エホバの証人が行なう伝道活動は、最終的なその裁きにおいて「救うに値する人」として分けられるよう人々を助けるものだと信じている。

ではここで、神の「公正さ」という特質に基づいて考慮したい。
もちろん私のようなただの人間が、神の持たれる特質についてその真意を理解しようとすることなどおこがましいことであることは十分承知しているが、エホバの証人の教えが神の公正さという基準に照らして考えたときに、果たしてどういうものなのかをあえて考えてみたい。

まずアダムとエバについて考えてみよう。
彼らは「完全な人」として神に創造された、とされている。そして彼らには、神への忠誠を表す判断材料がただ一つだけ与えられた。「善悪の知識の木」である。この木の実をあえて食べないことによって、人は神の主権への忠誠を誓うことになり、その報いとして「命の木」から食べること、すなわち永遠に生きることを許されるはずだったと聖書は教えている。しかしご承知の通り、サタンの誘惑を受けて彼らはあえてその実を食べる選択をし、結果として「原罪」が持ち込まれ、彼ら自身は死ぬことになったのである。
完全な人が救いに値するか否かを判断するために神が用いた手段は、「善悪の知識の木」から食べる誘惑に抵抗するかどうか、ただそれだけのことだったのだ。

では私たちの場合はどうか?
アダムとエバの場合とでは、前提となる条件が全く違うという点に注意を払うべきである。
まず「完全性を備えていない」という点で大きな違いがある。しかも彼らは「エデンの園」という魅力的な環境で生活しており、環境面の大きな違いも見過ごせない。誘惑となる状況も全く違うし、そもそも彼らは神と直接かかわりを持っていた。
住みにくい今日の地球環境で、しかも原罪を抱えている不完全な人である私たちは、日々様々な誘惑に直面している。お金、性的なコンテンツ、飲酒、暴力的な傾向、数えようとしてもきりがない。神とかかわりを持とうとすると、これまた星の数ほどの宗教があり、そもそも「神はおられるのか」という信仰がまず試される。
こうした中で私たちの場合は、そもそも不完全なのに、まず神とかかわりを持つ正しい方法を見出して信仰を持ち、数々の誘惑をはねのけ、神への忠誠を示すための唯一の道を見出してそれを生き方とすることが救いにつながるのだ、とエホバの証人は教えるのである。

「公正さ」に基づいて尋ねたい。
このことのどこに、公正さがあるのか?

私なりの「公正なやり方」を、あえて聖書の教えに絡めて短絡的に示すならこうだ。
大患難やハルマゲドンで不完全な人の裁きについてあれこれ判断するのではなく、まずはじめに地上のパラダイスを回復する。これまでに亡くなった人も復活させ、そこで皆が神との直接のかかわりを持ちつつ千年のあいだ生活を楽しむ。最終的に完全な人となった時点でサタンの誘惑を受ける。そこで神への忠誠が試されて、忠誠であることを示した人だけが「命の木から食べて永遠に生きる」のだ。
アダムとエバが受けた試みと条件を揃えようとするなら、少なくともこのような措置が取られて然るべきではないか?エホバの証人が教える神は、本当に公正なのだろうか?

#17 Re: 総合フォーラム » ご感想ご批評お願い致します。私が運営するJW関連の2つのブログについて » 2024年03月21日 08:14:14

「油注がれてます」NGの項ですが、「洞察」のメシアにもはっきり書いてあるんですね。

クリストスという語は時に,メシアつまり油そそがれた者,あるいはそのような者であると主張する者に関して,単独で用いられることがあります。(マタ 2:4; 22:42; マル 13:21)ー(洞察2 P.944)

またその時,『見なさい,ここにキリストがいる』とか,『見なさい,そこにいる』とか言う人がいても,信じてはなりません。ー(マル13:21)

洞察にここまではっきり書いてあることに気づかなかったです。
気づきを与えてくださり、ありがとうございます。

#18 Re: 総合フォーラム » ご感想ご批評お願い致します。私が運営するJW関連の2つのブログについて » 2024年03月18日 11:07:32

はじめまして。
「JW完全論破ブログ」を読ませていただいている途中ですが、ここまでの感想をお伝えしたいと思いました。

まず内容についてはとても深い考察で、「なるほど」と考えさせられるよく練られたものだと思い、興味深く読み進めております。
JWはまず統治体ありきなので、その情報源にしか注目していないと気付かないことは無数にありますよね。

個人的に一点だけ少し気になったのは、表現の仕方や言い回しです。
せっかく「現役JW」も対象にしておられるご様子ですので、そうした方々へのリスペクトや敬意がもう少しあってもよいのかな?とは感じます。
お気持ちはわかるのですが、たとえばベテルを指して「コンクリートと鉄クズ」と表現なさったり、文末に「笑」など入っていたり、小バカにされているような表現がありますと、せっかくの内容が台無しになるような気がします。

私も現役のJWに対して「もっと聖書読めよ!」と言いたくなることは多々あるのですが、ある程度敬意をもって書かれたほうが、現役の方々もyooさんの投稿を敬意をもって最後まで目を通す気持ちになり、自分の信仰を素直に見つめ直すきっかけになるのではないかと思います。(現役の方々がそもそも読もうとなさるのか、という難しい課題はありますが)

あくまでも私個人の意見ですので、参考程度にしていただけたら幸いです。
yooさんのご尽力に感謝いたします。

#19 Re: 総合フォーラム » 霊感と統治体 » 2024年01月20日 09:51:14

大阪女子好きさんの投稿で、「霊感を受けている」ことと「聖霊によって導かれている」こととの違い?は何となくイメージできた気がします。
ただ調べれば調べるほど、「統治体は霊感を受けているわけではない」という説明はおかしいとしか思えなくなりました。

統治体って皆「油そそがれた者たち」の一人なんですよね?
油そそがれた者について考察してみたのですが、



内面的証拠からすればモーセの著作が神の霊感を受けたということには疑問の余地がありません。イスラエル人の指導者になるというのはモーセの考えではありません。彼は最初その勧めにしりごみしました。(出エジプト 3:10,11; 4:10-14)むしろ,神がモーセを立てて,彼に奇跡的な力を与えられたのです。(塔71 7/15 p. 420)



まず聖書の一部を書いたモーセは当然霊感を受けたとみなされていて、霊感を受けている状態を説明するものとして上記の記事では「モーセの考えではない」考えを与えられたことが示されています。
油そそがれて天への召しを受けたことを示す証拠については、このように定義されています。



ある人が油そそがれて天への召しを受けていることを示す主要な証拠は,子としての霊,つまり支配的な意識です。(ガラテア 4:6,7)そのような人は,自分が天の王国の共同の相続人となる14万4,000人の一人として,神によって生み出された霊的な子となったことを全く確信しています。そのような人は,自分の天的な希望が自ら培った願いや想像ではなく,むしろ自分に対する神の霊の働きの結果としてエホバから与えられたものであることを証言できます。(塔91 3/15 p. 19-20)



上述の記事が示すように、そもそも油そそがれた者というのは「支配的な意識」「自ら培った願いや想像ではない」希望を神から与えられていると述べており、これはつまりモーセの場合と同じです。その聖霊に動かされるままに聖書を書いたかどうかの違いはありますが、それは神による人間の用い方の違いであって、彼らも「霊感を受けている」と結論できると思います。

統治体は霊的食物を与える「奴隷」として、油そそがれた者を含む「召使いたち」を世話するという特別な役割をイエスから与えられていると主張しているわけで、そもそも「霊感を受けている」はずの人たちがそんな重要な仕事を果たすときには「霊感を受けていない」というのは、論理的にもおかしいと思います。
神は霊感を与えて「真理」である聖書を人間に書かせたのですから、その真理を教える役割をもし人間の代表者の一団に委ねるのであれば、同じように霊感を与えて間違いのない導きを与えると思うんです。

ですから、「イエスはご自分の奴隷が完全な霊的食物を与えるとは述べませんでした」とか「霊感を受けているわけではない」と書いている時点で、「真理の経路」としてはアウトなんじゃないかと考えています。

#20 Re: 総合フォーラム » 霊感と統治体 » 2024年01月19日 17:34:49

個人的に聖書を読んでいて、「エルサレムにいる使徒や長老たち」が統治体の根拠であるとするのが間違いであることを示す聖句を見つけたような気がします。
それはガラテア2章です。

「エルサレムにいる使徒や長老たち」が1世紀の統治体だったことを説明する際に、エホバの証人は必ずと言っていいほど使徒15章の記述を引用します。
ここで起きた「割礼」を巡る問題は、西暦49年頃のこととされています。
ところで、ガラテア2章でもパウロは「エルサレムに上った」ことについて言及しており、この部分も西暦49年頃の出来事とされています。
ですから、ここでパウロが述べていることも使徒15章で扱われている問題に関連した内容であることが分かります。

ガラテア2章を読み進めますと、6-9節でパウロは「エルサレムにいる使徒や長老たち」について興味深い表現を用いています。

重要と見なされている人たちに関してですが(その人たちが以前どんな人だったか,私は気にしません。神はうわべで人を判断したりはしないからです),私はその主立った人たちから新しいことは何も告げられませんでした。」
柱と見なされていたヤコブとケファとヨハネ」

このパウロの書き方からしますと、恐らく当時「キリストの使徒たち」として持ち上げられていた、いわゆる「重要な人たち」について、パウロは冷ややかに見ていたのではないでしょうか?
パウロ自身が元々当時のエリートのような生い立ちだったものを、キリストによって考えを根底から覆され、まるで逆を向いて歩んでいた自分に過分の親切を示してくださったキリストに対する深い感謝を抱いた人生を歩んでおり、また何度も「律法を守る」ことよりも「信仰の実践」の方が重要であると説いていることからも、肩書やステータスで判断する風潮を毛嫌いしていたように思います。だからこそ「その人たちが以前どんな人だったか,私は気にしません。神はうわべで人を判断したりはしないからです」という言葉が出てくるのかと。

パウロはこの問題に関連して、「その主立った人たちから新しいことは何も告げられませんでした」と結論付けています。
このことから、もし「エルサレムにいる使徒や長老たち」が当時の統治体だったとしたら、なぜパウロが「見なされている」という表現を繰り返したり、「新しいことは告げられなかった」と述べているのか、つじつまが合わないように思います。神が当時の統治体を認めておられたとするなら、不敬ともとれるこんな記述を聖書に残すはずもありません。
この部分は急所なのか、索引やリサーチガイドを調べてもガラテア2章のこの部分に関する考察はほとんどありません。

霊感についてもそうですが、聖書的にも根拠不足だと思いました。

#21 Re: 総合フォーラム » 霊感と統治体 » 2024年01月11日 11:38:56

皆さんのご指摘のように、統治体の指導が生み出してきた結果に目を向けて判断する、というのは確かにそうかなとは思います。

高齢化した人たちの生活が立ち行かなくなり、じゃあ子どもたちが面倒みれるかというと、その子どもたち自身もJWで低収入だったりして、結局生活保護などの行政サービスに頼らざるを得なくなっている現実は日本でも実際増えてきていますね。

鞭打ちの件は、確かに自分が子どもだった時代に、トイレから鞭打ちの音と子供の泣き声が聞こえたり、王国会館に鞭が飾られていたり、どの鞭が一番効くか母親たちが談義していたりした事実は目にしてきています。
でも組織がそこまで体罰を推奨してきたかと問われると、資料を調べると「体罰も必要な場合がある」ことは教えていても、「推奨」と言えるほどではないとも思います。
神の組織が時代背景に左右されるというのもどうかとは思いますが、自分の学生時代を振り返ると、当時は一般的な風潮として、子どもたちの教育にある程度の体罰も容認されていたとも感じています。
ですから鞭打ちについては、今受け入れられている世間的な常識からすると問題ありとは思いますが、それをもって組織の教え云々を問題にするのは少し弱いかな、というのが個人的な見解です。

輸血については、「漸進的な真理の理解」ではなく、時代のニーズに合わせて教理を調整してきていると感じています。
「血を取り入れてはいけない」ので輸血はしないというのであれば、現在のように、分画や血液の関係する特定の治療法に関しては自分の良心において判断しなさい、というのは一貫していないと思っています。
じゃあなぜ献血を禁止するのかとか、母乳に白血球が含まれている事実をどう説明するのかとか、複雑化する教理が別の疑問を生み出していますね。

霊感愛子 さんの発言:

霊感を受けているとか、霊の助けを得ているとか、そういうことを証明することは誰にもできません。ただそう主張しているだけです。そして、だまされやすい人たちがそれを信じているのです。

それで、こんなQ&Aになります。

Q1 統治体が過去に誤った主張をし、それを信じた人たちが悲惨な人生を歩んでいることについてはどう思いますか?
A1 統治体は霊感を受けていませんし不完全なので間違えることもあります。どのような人生を歩むかは個人の選択です。統治体は謝罪する必要はありません。

Q2 そんな統治体なのに絶対服従すべきなのですか?
A2 はい。統治体の決定は霊の助けを得ているものだからです。従わない人はエホバに逆らうことになります。サタンの側に立つ人となります。排斥され、滅ぼされるのです。

私の今の結論も、これに近いです。

#22 Re: 総合フォーラム » 霊感と統治体 » 2024年01月10日 10:19:54

大阪女子好き さんの発言:

霊感を受けるって、よく言う憑依した状態?みたいな感じなんじゃないでしょうか。
だから人間が書いた聖書もあたかも神が書いたかのように、神の考えが反映されているってな感じなんじゃないっすか。

聖霊を受ける、最近は聖なる力の影響ってな言い方しよるねぇー。
簡単に言えば、何かの影響を受けてピコンってなる感じなんじゃないのかな。
聖なる力の影響だからねー。
夏に蛾が電灯に向かって飛んで行くけど、真っ直ぐにズバーって飛ぶのではなくクルクル回りながら街灯にめがけて飛ぶのと同じなんだと思う。
飛ぶ先は光の影響でわかっているんだけど、憑依されてるわけではないのでww、間違うことがある。それはちょうどクルクル回ってる蛾のようなもんじゃないの?

うーん、何となくわかるようなわからないような・・・そんな感じです。

そもそも、霊感を受けていないのに聖霊に導かれているって、どうしてわかるのでしょうか?
「1919年以降,聖書の理解がこれほど早く進んだのは,聖霊の働きによるとしか考えられません。」と書いていますが、その聖書理解が正しいとはどのようにして判断するのでしょうか?単なる主観でしかないように思います。

出していただいた例でたとえるなら、「蛾が向かっている電灯」が真の神で、「電灯が発している光」が聖霊だと言える根拠は何なのでしょうか・・・
「じゃあ憑依している(霊感を受けている)」という前提であれば信じられるのかというと、それを証明するのも難しい気がするので、結局統治体が真に神に導かれていることは証明できないようにも思えます。
神が奇跡でも見せてくれたら一番簡単な気がするのですが・・・

#23 総合フォーラム » 霊感と統治体 » 2024年01月10日 00:56:09

ゆずポン
返信: 16

ものみの塔の説明がいまいちピンとこないので、教えてください。

ものみの塔2017年2月 P.26 12,13節
統治体は霊感を受けているわけでも,完全であるわけでもありません。 教理上の説明や組織上の指示の点で間違いをすることがあります。・・・イエスはご自分の奴隷が完全な霊的食物を与えるとは述べませんでした。・・・統治体は聖霊によって,かつては理解していなかった聖書の真理を理解するよう助けられてきました。・・・統治体は,次のように述べたパウロと同じように感じています。「わたしたちはそれらの事も,人間の知恵に教えられた言葉ではなく,霊に教えられた言葉で話します」。(コリ一 2:13)・・・ですから,1919年以降,聖書の理解がこれほど早く進んだのは,聖霊の働きによるとしか考えられません。

上記の通り、統治体は「霊感を受けていない」とはっきり述べていますが、続く節で、「聖霊によって真理を理解するよう助けられている」と述べています。
「洞察」の「霊感」の項を見ると、次のように定義されています。

洞2 P.1213-1217 霊感
超人間の源から発する霊によって動かされている,もしくはその霊の指示のもとに生み出されている特質や状態。その源がエホバである場合,その結果は,真に神の言葉である宣言や書物となります。・・・「聖書全体」に霊感を与える手段もしくは媒体となったのは,神の聖霊,つまり神の活動する力でした。(「霊」を参照。)その聖霊は人間に対して,または人間の上に働き,神の音信を書き記す人を動かし,導きました。・・・証拠が示すところによると,神の霊はすべての聖書筆者の思いと心に働きかけ,彼らを神の意図される目標に導きました。・・・最終的に出来上がるものが正確かつ真実なものとなると同時に,エホバの目的にかなったものともなるよう,筆者たちを常に十分制御し,導かれ

聖霊の働きについては、次のように書かれています。

洞2 P.1209-1210 霊
割礼を巡る疑問に関してエルサレムの使徒や年長者たちの一団もしくは評議会が決定をしたように,疑問が生じた場合,聖霊は決定を下す際の助け手でした。・・・こうして,神の聖霊の動き,または流れは唯一の方向を指し示していたので,このことを認めたその長老団もしくは評議会は,自分たちの決定を知らせる手紙を書き,「というのは,聖霊とわたしたちとは,次の必要な事柄のほかは,あなた方にそのうえ何の重荷も加えないことがよいと考えたからです」と述べました。

また、天的な希望を抱くようになった人については、以下のように説明されています。

ものみの塔1991年 3/15 p. 19-20
ある人が油そそがれて天への召しを受けていることを示す主要な証拠は,子としての霊,つまり支配的な意識です。(ガラテア 4:6,7)・・・自分に対する神の霊の働きの結果としてエホバから与えられたものであることを証言できます。

私の理解では、

  • 「霊感を受ける」からこそエホバの目的にかなったものとして導かれる

  • 聖書は「霊感を受けた人が書いている」ので信頼できる

そして、

  • 霊感を受けている=聖霊が働いている状態

という解釈になります。

そうしますと、一世紀の統治体(そう呼べるものがあるとして)は、決定を下す際に「聖霊が助け」となったこと、天への召しを受けている人には「神の霊が支配的な意識として働く」ことから、これらはいずれも「霊感を受けている」状態だということになると思います。
そうであれば、冒頭の説明である、「今日統治体は霊感を受けていない」ということと、「聖霊によって真理を理解している」という主張はどう見ても矛盾しているようにしか思えません。「天への召しを受けている」者として霊感を受けている人たちの集合体であり、神の組織の意思決定機関である統治体が、「霊感を受けていない」というのは不自然に思えます。

これは今日の統治体を、神が用いる奴隷級として、また真理の経路として受け入れるかどうかを大きく左右しそうなのですが、私の理解の方に間違いがあるのかはっきりわかりません。
そもそもイエスが、わざわざ「不完全な霊的食物」を奴隷級に与えたり、明快な真理のことばとしての聖書を書くよう導かれたエホバが、今日真理を漸進的にしか明らかにされないとはどうしても思えません。

ご意見があればご教示ください。

#24 Re: 総合フォーラム » 献血と血液分画について » 2023年11月23日 20:21:02

性的虐待 さんの発言:

目撃証人が2人必要というシステムが、まずは問題点だと思います。
今はどうか知りませんが、仲間を訴えてはならない的な聖句の適用で警察に通報されないこと。
問題を起こした特権持ちが、再び特権を持てること。

これ、私の理解に間違いなければ今も変わっていないと思います。
そもそも目撃証人が2人以上いるような場所で、普通は性的虐待を加えるはずもありませんよね・・・明るみに出ていない犯行もたくさんありそうです。

警察に通報せず組織内で隠ぺいするかのようなスタイルが、明るみに出て攻められているようですね。
私が見た動画では、ある長老が聴聞に際して、「子どもに性的虐待を加えた人を排斥した場合、組織のにいる子どもたちをその人の再犯から守るために何の策も講じないのですか?」と尋ねられた際に、「私は会衆の牧者なので会衆のことを心配する」「会衆外の子どもたちすべてを守ることなんて不可能だ」というようなニュアンスのことを証言していました。
一長老としてはそう証言するしかないでしょうね。
確かにエホバの証人のこのシステムは、会衆の中の人を守ることに重点を置くあまり、会衆外の人のことはほとんど気にかけていないことの一例ですね。

#25 Re: 総合フォーラム » 献血と血液分画について » 2023年11月23日 17:21:47

匿名 さんの発言:

ユーチューブで JW Governing body Anthony Morris と検索してみて下さい。

4年前モリスが日曜朝の集会の時間に酒屋で大量のウイスキーボトルを買って車に積み込む動画がありました。

ありがとうございます。こんな動画もあるんですね、知りませんでした。

この動画から「日曜朝の集会の時間」というのはわかりませんでしたし、「大量のウィスキー」(しかしかなりの量ですね;)を買っていたとしても、それをすべて自分で飲むためなのか、それとも仲間と一緒に楽しむためなのかなどは判断がつきませんでした。

背景情報がわかりませんので、この動画だけをもって何かを判断するのも難しい気はするのですが、いずれにしても普段見られない姿が見れたのはよかったです。
お酒が原因で統治体からはずされた、という可能性はあるのかもしれませんね。

調べてみると、オーストラリアの聴聞会で証言しているジャクソン兄弟の動画などもありますね。
児童に対する性的虐待は、残念ながら組織内で思ったよりも横行しているようで、わりとショックです。

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