ログインしていません。

返信

メッセージを書いて送信してください。
オプション

戻る

トピックレビュー(最新表示)

sk
2013年09月15日 20:39:14

ものみの塔だけが聖書予言の正確な理解を得ていると思い込んでいるJWの皆さん。

ものみの塔以外のクリスチャンたちも、皆さんと同じように聖書予言の正しい理解を得ていることを知ってください。

ダニエル書の予言の正しい理解は、中世以来キリスト教を信じる人々の間で知られていました。
ものみの塔はそれを広めているに過ぎません。
他のクリスチャンも皆さんと同じ理解をもっています。
また、ものみの塔より正確なところもあります。
きっと驚かれるでしょう。


以下のビデを見てください。

ダニエル書

sk
2013年01月07日 22:59:48

19世紀の終わりから20世紀の間、ものみの塔は聖書予言の計算に明け暮れました。
イエスのことばを無視して、終わりの時を年代計算により定めようとする無駄な試みの記録を残しています。
その結果彼らは予言のバージョン・アップを余儀なくされました。
そしてその都合のいい言い訳に「増し行く光」と「現時点での真理」の教えで従順で疑うことを知らない、またはそのように教育、むしろ洗脳されたJWをうまく丸め込んできました。

21世紀の今、実現しない予言、長引く期待のため、ものみの塔は相変わらず、偽予言が関わる聖句の理解や解釈のバージョン・アップを余儀なくされています。

JWの皆さん、神の霊の導きに下に統治体を通し与えられるいわゆる「増し行く光」を冷静に評価してください。



http://www.youtube.com/watch?v=njPNXoVDgyw

ラッセルの聖書研究第三巻
あなたの王国が来ますように
研究2
終わりの時(彼の準備の時)
ダニエル11章

ラッセルの解釈
終わりの時、1799年から1914年までの115年の期間は特に聖書中に記されています。「彼の準備の時」は同じ期間の別の他の名前です。なぜならその時に一般的な知識の増加、結果として発見、発明、その他、来るべき千年紀の恵みに至る下準備となり、労力を節約する機械装置を備え一般に世に時間と利便性を提供し、キリストの義の支配下のすべての人の祝福となり、地を主の知識で満たす助けとなります。

彼は、ナポレオンがエジプトに侵攻した1798年5月からフランスが獲得した1799年10月までの期間をダニエル 11:40-44 に適用しました。その同じ期間は教皇が辱められた期間と同じであると解説しました。

ラッセルは115年の期間の適用を606BCEにもあてはめ得られた年代に歴史的な意味を付与することを、ものみの塔誌上で試みています。明らかに彼の試みは彼自身の思いつきに基づくもので現時点で振り返ってその説明を読めば、それは誰の耳にも人間的な思いつきのつじつま合わせにしか響かないでしょう。


ジョセフ・ラザフォードも同じ道を歩みます。
1799年を終わりの時の始まりと断言し多くの偽りの予言を語りました。
やがて、彼は、終わりの時の始まりを1799年から1914年に変更します。(ものみの塔誌1920/12/1)

「終わりの時」の予言が実現しないので、彼ら(ラッセル、ラザフォード)は、目に見えない臨在という教えを導入しました。最初は1874年を臨在の開始と教え、1943年にその時を1914年に変更しました。

このように、多くの定められた年代が現れては消えてゆきました。
普通に考えれば、それらはこじつけによる無意味な年であることが分かるでしょう。
それらを覚えるだけでも大変で、実に人の思いを混乱させます。

このような年代計算を主体とした聖書へのアプローチの仕方は、神が望んでおられる聖書研究ではあり得ません。それは、人を惑わすサタンにとって都合のいい道具になったでしょう。そして結果から見ると、現在全世界で700万人の羊のような人々が、もっともらしい年代計算と終わりの日のしるしによりサタンに捕まってしまい、彼らもまた他の教会員と同じように敬虔な専心の形を取りながら実質のない者となっています。

テモテ第二 3:5
終わりの日に人々は、
5 . . . 敬虔な専心という形を取りながらその力において実質のない者となるからです。

iris
2012年12月30日 20:06:33

「実際の命の救い」とはどのようなことでしょうか?
ラザロが死んで何日も経ってから生き返ったというようなことでしょうか?
それとも、ものみの塔が楽園に期待させているようなことでしょうか?

お答えは教理のトピックの方にお願いします。

もんもん
2012年12月30日 08:54:26

irisさん
少し話を変えますね。irisさんは「命の救い」が聖書の主要なテーマであるとお考えですか。「精神的な救い」ではなくって「実際の命の救い」です。

iris
2012年12月30日 07:06:34

もんもんさん
反省してくださってありがとうございます。もんもんさんは誠実な方ですね。

私は、ものみの塔には人を行動で裁き、組織の望む行動をしない人を排除する傾向があると感じています。
その人の心が何を感じているかにかかわらず、強制的に組織の規律に従わせる力が働いています。
そのため、規律を守れない人は去り、規律を守れる人だけが残る仕組みができていると思います。

私は、エホバの証人の中に真剣に聖書に従おうとしている人がいることを知っています。その人の心は尊いものだと思います。
もんもんさんにも、カトリック(に限らずエホバの証人以外)の中に真剣に神を愛している人がいることを知っていただきたいと思います。

それから、純潔は特に女性にとっては名誉にかかわる問題です。ものみの塔の教えや、世間の情報などで、「世」の性は
乱れきっていると誤解している人も多いかもしれませんが、統計上は結婚するまで純潔を守る人は少なくないのです。
安易に侮辱するのは慎まれることをお勧めします。

もんもん
2012年12月30日 00:27:22

irisさん
わたしが語ったことには、人づてで聞いたもので、確かな根拠はないです。統計的な裏づけもないです。というわけで、カトリック教会について誤解を招くだけですので、取り下げます。申し訳ありませんでした。

iris
2012年12月29日 19:21:43

もんもんさん

そのプロテスタントの方の言葉の意味は、
「後でイエスを信じているといえば救済されるから、どんなに極悪なことをしてもよい」という意味ですか?
もしそうであれば、その方は神を愛しているとは言えません。

殺人を犯すとき、殺す相手を本当に自分のように愛していると言えますか?
人のものを盗むとき、その人を本当に自分のように愛していると言えますか?
そう言える状況があるとすればどんな状況なのか、教えていただきたいです。
神の求めるように神と人とを愛していれば、殺すことも、姦淫することも、盗むこともできません。

イエスの求める愛は、「友のために自分の命を捨てる」ほどの愛です。
「愛している」という言葉で神を欺くことはできません。その人の心を神は御覧になるからです。

カトリック教会の人の中に、平気で婚前交渉を行う人がたくさんいるかどうか、もんもんさんは調査したことがあるのですか?
特にカトリック教会を目の敵にしているものみの塔の言うことを、鵜呑みにしたわけではないですよね?
では、どの程度の比率で存在するのか参考までに教えてください。ついでにエホバの証人についての統計もお願いします。
カトリックはともかく、ものみの塔の組織の中でそのような調査が可能であるとは思えませんが。

カトリックは有効な洗礼を受けた人をすべて信者とみなします。
信仰を持ち続けていようがいまいが、破門にするという制度が事実上ないからです。
ものみの塔では、婚前交渉を行った人がエホバの証人であり続けられるのでしょうか?
そのあたりの事情も統計に影響しそうですね。
(性的虐待は組織的に隠蔽されるのに、婚前交渉は断罪されるというバランスが理解できませんが。)

もんもん
2012年12月29日 17:12:14

irisさん

>「互いに愛し合うこと」自体は新しいおきてではありません。昔ながらの律法に含まれているおきてです。
>何が新しいかというと、契約の条件として「互いに愛し合うこと」以外には何も要求されない、ということが新しいのです。

わたしはプロテスタントの人ともこの点で話したことがありますが、たぶんここがエホバの証人と一番相違するところだと思われます。
たとえば互いに愛しているといいながら、婚前交渉を持ったとします。
また愛してるといいながら、殺人を犯したとします。
また愛しているといいながら、仲間の兄弟が持っているものを盗んだとします。

わたしが前に話したプロテスタントの方は、どんなに極悪なことをしても、イエスを信じていると言うなら救済されるといいました。
カトリック教会の人は、神は許してくださるからということを言い訳にして
平気で婚前交渉を行う人がたくさんいるのではないでしょうか。
この点では、わたしはきちんと守ろうとしているエホバの証人を支持します。

単に愛していると言うだけではなくって、
実際に愛し合うということが、どういうことなのかが、
聖書から論じられる必要があると思います。

iris
2012年12月29日 05:51:32

補足です。

キリスト教で最も大切なメッセージは、「神はあなたを愛している」ということです。
もんもんさんがものみの塔のおかげで本当のキリスト教の教えを知らなくても、神はもんもんさんを愛しておられるのです。
人間の目から見るとどんなに極悪に見える人でも、神はその人を愛しておられます。

けれども、神が愛であるのに対し、人間は愛そのものではありません。
神のように隣人を愛することもできないし、自分を愛することさえできないかもしれません。
神から離れ、隣人(や自分)を愛せない状態を、罪といいます。

神は罪とはかかわりのない方です。ですから人間が神と親しく交わるには、罪のない状態でなければなりません。
しかし人間は自分の力で罪をなくしたり、ゆるしたりすることはできません。
神の恵みによって、キリストを信じることで罪をゆるされ、神との親しい関係に戻ることができる、というのが新しい契約でありキリスト教の教えです。
そして、二度と神から離れることのないように、神を愛し隣人を愛しなさいと勧められているのです。

もんもんさん、ものみの塔の教えと比べてみて、どう思われますか?
エホバの証人研究さんのご感想も伺いたいものです。

iris
2012年12月29日 05:08:51

もんもんさん

>これはもしかして「わたしはあなたがたに新しいおきてを与えます。それは、わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合うことです」という
>おきてのことを言っておられますか。もしそうであれば、イスラエル国民に与えられた律法契約が廃されて、イエス・キリストによる愛の契約が
>できたということは、エホバの証人で学ぶことのひとつですよ。
>ものみの塔聖書冊子協会が主張する「新しい契約はイエス・キリストと14万4000人との契約」という主張は、妥当かどうかskさんがこれから論じてくれる気がします。

「イエス・キリストによる愛の契約」=「イエス・キリストと14万4000人との新しい契約」という図式が成り立つとして、
もんもんさんはこの契約に関係があるのでしょうか? ないのでしょうか?


詳しい解説はskさんにお願いするとして、簡単に説明しましょう。

旧い契約は、神とイスラエルの民との間に結ばれました。
イスラエルの民が神の民として神と結ばれ守られる条件は、律法を守ることでした。律法は長い歴史の中で細かくなり、守りきれないほどになりました。

新しい契約は、神と(キリストを信じる)すべての人との間に結ばれました。
キリストの血によって罪のゆるしが与えられるというこの契約の条件が、「新しいおきて」を守ることです。

「互いに愛し合うこと」自体は新しいおきてではありません。昔ながらの律法に含まれているおきてです。
何が新しいかというと、契約の条件として「互いに愛し合うこと」以外には何も要求されない、ということが新しいのです。


私もこの契約にあずかっています。私の心には神さまの「契約済」のハンコが押されています。
「キリストが御自身を犠牲としてささげることによって、神さまから私の罪のゆるしを得てくださった」と信じる人は誰でも、
神さまとの間に罪という壁のない、平和な親しい関係をもつことができるのです。これが新しい契約であり救いなのです。

もんもん
2012年12月28日 10:15:45

irisさん
>「本来のキリスト教の教え」の指す内容がわからないのは、もんもんさんの責任ではありません。ものみの塔の責任です。

これはもしかして「わたしはあなたがたに新しいおきてを与えます。それは、わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合うことです」というおきてのことを言っておられますか。もしそうであれば、イスラエル国民に与えられた律法契約が廃されて、イエス・キリストによる愛の契約ができたということは、エホバの証人で学ぶことのひとつですよ。

ものみの塔聖書冊子協会が主張する「新しい契約はイエス・キリストと14万4000人との契約」という主張は、妥当かどうかskさんがこれから論じてくれる気がします。

>ものみの塔も、表向きは「聖書の指針に基づいて、自分の良心で決定する」ように勧めていることでしょう。
>けれども、実際に聖書の指針に基づいて、自分の良心に従って、輸血を受け入れる決定をしたとしたら、どうなるでしょうか?
>「それは本当に神に受け入れられることでしょうか」などと言われませんか? 輸血を受けたら排斥だと暗に脅されませんか?
>そして輸血を受けずに家族が亡くなったとしても、「本人の自由な決定です」ということになりませんか?
>ものみの塔の組織は事実上「排斥」などの方法によって、個人の信仰を細部まで規定しようとしています。
>その適用には会衆による違いがあるかもしれませんが、それによって苦しんでいる人がいるのは確かだと思います。

何も言い返すことはないです。そのとおりだと思います。現状は「聖書の教え」と「ものみの塔聖書冊子協会の教え」が混ざっています。

iris
2012年12月28日 00:27:13

もんもんさん

お返事ありがとうございます。もんもんさんとのやりとりが楽しくなってきました。

>名前で呼ばれることは神にとっては失礼ではないと思いますよ。

失礼ということはないでしょうけれども、私の習慣にはないということです。
最近ではYHWHは「ヤーウェ」と読まれていた可能性が高いと考えられており、カトリックでは詩編のYHWHは必要に応じてヤーウェと読みます。

>神の教えは、聖書全編に書かれていると思います。新約だけにキリスト教の教えが書かれていると信じる信仰が、カトリック教会の信仰なのではないでしょうか。
>わたしには「本来のキリスト教の教え」が何を指しているのかよくわかりません。

「本来のキリスト教の教え」の指す内容がわからないのは、もんもんさんの責任ではありません。ものみの塔の責任です。

skさんも、次のように書かれています。
>すべてのエホバの証人の兄弟・姉妹たちは、ものみの塔の誤りの教えにより、新しい契約についての正確な知識を阻まれており、キリストの死の記念の意義を逸しています。

本来のキリスト教の教えとは、新しい契約についての教えです。新しい契約については、新約聖書に書かれています。
「新約」とは、この新しい契約のことであって、それが書かれている聖書が新約聖書なのです。
skさんのおっしゃるとおり、ものみの塔は新しい契約についてウソを教えています。ですからキリスト教とはいえません。

本来のキリスト教の教えを、私はこの掲示板で何度も書いてきましたが、ものみの塔の教えを先に学んだ人には理解しにくいかもしれません。
skさんはエホバの証人であったにもかかわらず、聖書をきちんと読んで新しい契約について正しく理解されていると思います。
もんもんさんには、skさんから説明していただいた方がわかりやすいのではないのでしょうか。

>irisさんは、個々のエホバの証人について誤解しています。個々のエホバの証人は、組織によってすべてを規定された信仰で生きているわけではないです。
>聖書の指針に基づいて、自分の良心で決定することが、最近ではとても重要視されるようになってきています。

私が問題にしているのは個々のエホバの証人の信仰ではありません。新しい契約についてウソを教えているものみの塔の教えです。
「エホバの証人はキリスト教ではない」というのは、エホバの証人研究さんが「エホバの証人はキリスト教か」と表現しているのに合わせただけで、
正確には「ものみの塔の教えはキリスト教の教えではない」という意味です。詳しく説明している場合は、そのように表現してあります。

個々のエホバの証人は、誠実に聖書に従おうと努めていると思います。
ものみの塔も、表向きは「聖書の指針に基づいて、自分の良心で決定する」ように勧めていることでしょう。
けれども、実際に聖書の指針に基づいて、自分の良心に従って、輸血を受け入れる決定をしたとしたら、どうなるでしょうか?
「それは本当に神に受け入れられることでしょうか」などと言われませんか? 輸血を受けたら排斥だと暗に脅されませんか?
そして輸血を受けずに家族が亡くなったとしても、「本人の自由な決定です」ということになりませんか?

ものみの塔の組織は事実上「排斥」などの方法によって、個人の信仰を細部まで規定しようとしています。
その適用には会衆による違いがあるかもしれませんが、それによって苦しんでいる人がいるのは確かだと思います。

sk
2012年12月27日 21:17:32

こんばんは、皆さん

いろいろな話題が出ていますね。


akame さん

投稿ありがとうございます。


akame さんの発言:

基本的な質問をさせてください。SKさんは
① 聖書だけが「神のことば:信仰の唯一の根拠」とお考えでしょうか?
② エホバ神はどのような神だとお考えでしょうか?
③ 真の崇拝者とはどのような者でしょうか?
そしてこれまではその者たちのコミュニティはなかったのでしょうか?

① エホバ神のご意思に関しては、霊感を受けた聖書だけです。

テモテ第二 3:16-17
16 聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。17 それは,神の人が十分な能力を備え,あらゆる良い業に対して全く整えられた者となるためです。

書かれているとおり、聖書だけで十分であることが分かります。

その他の文献や研究結果は真理に至るための助けと見ています。


② 天の父と見ています。

またエホバ神と、イエスキリストについては独自のトピックを設けたいと思っています。


マタイ7:9-11
9 実際,あなた方のうち自分の子からパンを求められるのはだれでしょうか—その人は石を渡したりはしないではありませんか。10 あるいは,[子]は魚を求めるかもしれません—その人は蛇を渡したりはしないではありませんか。11 それで,あなた方が,邪悪な者でありながら,自分の子供たちに良い贈り物を与えることを知っているのであれば,まして天におられるあなた方の父は,ご自分に求めている者に良いものを与えてくださるのです。


③ 真の崇拝者は霊と真理をもって父を崇拝する人たちです。

ヨハネ4:23-24
23 とはいえ,真の崇拝者が霊と真理をもって父を崇拝する時が来ようとしています。それは今なのです。実際,父は,ご自分をそのように崇拝する者たちを求めておられるのです。24 神は霊であられるので,[神]を崇拝する者も霊と真理をもって崇拝しなければなりません」。

イエスは、ご自分の羊たちを人間性の宗教組織(ユダヤ教の制度)から開放なさいました。
イエスの弟子たちは、これまで慣れ親しんできたユダヤ教の会堂での崇拝、神殿での儀式、祭りなどの組織的な崇拝の様式を後にしてキリストへの信仰で結ばれたクリスチャンの共同体 (community) を造りました。それには見える神殿も、祭司も、主の記念式を除いて祭りも儀式もありませんでした。あったものは、キリストの教えだけでした。それがキリスト教の始まりです。加えて神はイエスをとおして聖霊を各自の信仰に応じてそれぞれに配りクリスチャン会衆の成長を助けられました。そのようにして霊感を受けたクリスチャンギリシャ語聖書が書かれ、当時の兄弟姉妹たちの間で回覧され、その音信が共有されました。兄弟姉妹たちはその教えに導かれて、それぞれの立場や境遇のなかで真理を実践しました。また御使いたちも動員されパウロやペテロ、その他の福音宣明者たちを文字どおり導きました。このようにしてキリスト教は、真理と霊により動かされた人々により実践され、広めれたことが分かります。

初期クリスチャン会衆の姿についてここを参考にして下さい。
http://www.jwstudy.com/jwbbs/viewtopic.php?pid=198#p198

バプテスマについて
http://www.jwstudy.com/jwbbs/viewtopic.php?pid=200#p200


その後、警告されていたとおりサタンの働きにより、マタイ 13章の小麦と雑草のたとえの状況が生じ、使徒たちの死後大規模な背教により偽クリスチャンの教会がローマ政府の国教となり、その後自称キリスト教世界は多くの政治がらみの宗教的な争いや迫害の歴史を経て今日に至っています。

それで、サタンが運営する人間性の宗教組織の中に小麦のような真のクリスチャンが数少なく存在していると見るのが道理にかなっていると思います。そして歴史はそのことを物語っています。多くの真のクリスチャンたちが、組織宗教の権力による迫害のために命を失いました。これは、何も新しいことではありません。古代イスラエルの例を思い起こしてください。律法契約による崇拝の方式を実践していたイスラエルは、やがて目に見える人間の王を求めイスラエル国家が誕生し、西暦70年にに国家が滅亡するまで、事実上その宗教制度及び政治制度はサタンにより運営されました。ですからイエスは当時の宗教指導者を、蛇、まむしの子孫と呼び、彼らの父が悪魔であると述べています。

ここで、宗教でも政府でも企業でも大規模な組織は世の支配者の承認、影響なしに存在しえないことが分かります。しかし、イスラエルの例から分かるように義を愛する人々がそのようなサタンが管理運営する組織の中にいます。それが誰であるかを正確にご存知なのはエホバ神とイエスキリストです。西暦1世紀にイエスは、ご自分の羊をエホバ神の崇拝を代表するとされていたユダヤ教の組織、その崇拝の方式から導き出されました。

同様に、啓示の18章によると主の日に、神がご自分の民を大いなるバビロンから導き出すことが予言されています。
つまり、その日に至るまで神の民は大いなるバビロンの中にいることが分かります。
そのようにして本物は圧倒的に優勢な偽者の組織のなかで収穫まで育つことが分かります。
御使いによる小麦の収穫の時に、神の民と言われている本物のクリスチャンたちにバビロンから出るようにとの呼びかけがなされています。
では、その大いなるバビロンとは何ですか。
それは偽りの宗教の世界的な組織全体の象徴です。(この説明は別の機会にします)

数十万もの世界の宗教組織について考えてください。 (具体的な数は不明)

日本における宗教法人数:182,659法人
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/767839.html

世界のキリスト教の宗派の数:39,000
http://www.askmehelpdesk.com/488647-post8.html


そのすべては、税金対策、その他の宗教的恩典のため国家に法人登記をしています。
それをしなければ、国家の規定する恩典を受けられません。
それで、カトリック教会、エホバの証人、モルモン、セブンスデー・アドベンチスト、その他どんな宗教法人も全て国に法人登記をしています。その登記による恩典の中に政教不可侵条約があります。これは特に階級制度を持つカトリック教会と中世の国家との争いの末できた条約で、政府と教会の互いの法における不可侵権を保証しています。ものみの塔協会は、メンローパーク乗っ取り裁判の際、自らをカトリック教会と同じ階級制度を持つ宗教法人としその不可侵権の適用を主張しています。興味深い点は、その条約の恩典を受けるためには、宗教法人は政府に宗教法人登記をする際、以下の趣旨の合意事項に署名しなければなりません。

それは、使徒 5:29 にある主張を政府に対して行なわないという合意事項です。

使徒 5:29
29 . . .  わたしたちは,[自分たちの]支配者として人間より神に従わねばなりません。

カトリック教会も、ものみの塔協会も、この政府との合意事項に署名して、政府に対して神権優位性を放棄し宗教法人登記をしています。それにより法人登記の恩典である免税、法律的不可侵権を有して宗教活動を世界的に展開しています。

他の宗教法人も同じです。

それで、世界の全ての宗教法人はすべて野獣との関係を持っています。それは明らかに便宜を優先した神への背信といえます。

ですから、神の裁きが臨む主の日に組織宗教の中の義を愛する個人に対し啓示 18:4 の呼びかけがなされます。
そして小麦はその呼びかけに答え応じることが期待されています。


そのようにしてバビロンを後にしたクリスチャンのコミュニティについては、また別の機会に投稿します。




ここからは、クリスマスについての追加です。

わたしにとってクリスマスは何の意味もありませんが、ふさわしい見方をもって、異教の風習を取り入れずに、またはそれと知らずに疑いをもたずにクリスマスを祝う誠実なクリスチャンがいることを認めます。皆さんの中には、以前そのようにクリスマスを祝っていた方がいるかもしれません。

法律でも善意の第三者に抵抗することはできないと規定されているように、潔白な良心の持ち主は神以外の誰からも裁かれないでしょう。もしある人の是認していることが、神からみて間違いであるなら、神はやがてその人を正されるでしょう。そのようにしてローマ 14:4 に書かれていることが実現するでしょう。

ローマ 14:4
4 . . . 実際,その人は立つようにされるでしょう。エホバはその人を立たせることができるからです。


タルソスのサウロに起きたことを思い起こしてください。
サウロの思いには、ナザレのイエスの弟子たちが神の権威に逆らっていることへの一点の疑いもありませんでした。

使徒 9:1-2
1 しかしサウロは,主の弟子たちに対する脅しと殺害の息をなおもはずませながら大祭司のもとに行き,2 ダマスカスの諸会堂への手紙を求めた。だれでもこの道に属する者を見つけたら,男でも女でも縛ってエルサレムに連れて来るためであった。

使徒 26:14-15
14 そして,わたしたちがみな地面に倒れてしまった時,わたしは,ヘブライ語で,『サウロ,サウロ,なぜあなたはわたしを迫害しているのか。突き棒をけりつづけるのは,あなたにとってつらいことになる』と言う声を聞きました。15 しかしわたしは,『主よ,あなたはどなたですか』と言いました。すると主は言われました,『わたしはイエス,あなたが迫害している者です。


それで、この種の個人的な確信の関わる問題は、わたしたちの天の父の御手にゆだね、おのおの他人の見方により動揺したり、異なる見方の人を見下したり裁いたりせずに自らの確信のうちに留まるべきです。


個人の誕生日も同じように扱えます。

誕生日を罪に定める、ものみの塔の論議は聖書的な裏づけのない独善的なものといえます。

人の誕生にについて

ルカ 1:14
14 そしてあなたには喜びと歓喜とがあり,多くの人がその誕生を歓ぶであろう。

ヨハネ 16:21
21 女は出産に臨んで嘆きを抱きます。彼女の時が到来したからです。しかし,その幼子を産んでしまうと,ひとりの人が世に生まれた喜びのために,もうその患難を覚えていません。


誕生は人にとって喜びのときであり、それを記念する、思い出して他の人々と喜びを共にすることは罪でしょうか。
それは、ものみの塔が主張するように、生まれた人を不当に高める機会ですか。そうではありません。そのように主張するのは独善的なことです。

喜びの表現方法

ダンス
他の人と共有する
その他

ルカ 15:8-9
8 「また,十枚のドラクマ硬貨を持っていて,一枚のドラクマ硬貨をなくした場合に,ともしびをともして家を掃き,それを見つけるまで注意深く捜さない女がいるでしょうか。9 そして,それを見つけると,彼女は自分の友人や隣人の女たちを呼び集めて,こう言います。『一緒に歓んでください。わたしのなくしたドラクマ硬貨が見つかったからです』。

明らかにお子さんの誕生は、ドラクマ硬貨以上のものです。


人は、特定の日を特別視する異なる理由をもってはいけないのでしょうか。
そうすることは罪ですか。
ヨブの息子たちの例は何を教えていますか。

ヨブ 1:4
4 そして,その息子たちは行って,自分の日に各々の家で宴会を催し,人をやって,その三人の姉妹をも招いて一緒に食べたり飲んだりした。


結婚記念日
バプテスマ記念日
誕生日
その他記念日

これらはみな同じ性質のものではありませんか。

だれが、その良し悪しを決めるのですか。
そのような権威を神が宗教組織に与えていると思いますか。
わたしは、そう思いません。

ローマ 14:5
5  ある人は,ある日がほかの日に勝ると判断し,別の人は,どの日もほかのすべての日と同じであると判断します。おのおの自分の思いの中で得心していなさい。

それで、ものみの塔協会はパリサイ人と同じことを神の名の下に行なっています。

マタイ 23:4
4 重い荷をくくって人の肩に載せますが,自分ではそれを指で動かそうともしません。


ものみの塔の説明によると、聖書中の誕生日の記録は異教徒の2人の支配者(ファラオ、ヘロデ)のもので、その際、それぞれの支配者の命令で殺人がなされたので、誕生日は神の是認を受けないとなっています。

そのような考え方は道理にかなっていますか。

世の支配者は自分の意のままに、いつでも人を殺してきました。誕生日と殺人の直接の因果関係はありません。
そももそも世の支配者は獣で象徴されている支配権の代表者であり、その者の誕生日に、いつものように獣の性格が現れたからと言って、それをもって、誕生日が悪いと決定する思考パターンをあなたの道理は受け入れますか。従順な普通の親は子供の誕生と成長を喜びたいだけではありませんか。


ものみの塔の教えは聖書教えの根拠と理解や慈しみのある推論を欠いています。
ここに挙げた聖句と、それに基づく推論がエホバの証人の会衆の中で通用すると思いますか。
もしそうでないなら、なぜでしょうか。

それは、ものみの塔協会が神の霊を受けておらず、神に導かれていないからではありませんか。
それで、そのような人間性の組織宗教(他の宗派についても同じと思います)に留まる理由はないでしょう。

イエスは、自分の羊を知っていると述べています。
また、イエスの羊も羊飼いの声を知っているとも言われています。
さらに、神はご自分に属するものを知っていると述べられています。

ヨハネ 10:14, 26-27
14 わたしはりっぱな羊飼いであり,自分の羊を知り,わたしの羊もわたしを知っています。
26 しかしあなた方は信じません。わたしの羊ではないからです。27 わたしの羊はわたしの声を聴き,わたしは彼らを知っており,彼らはわたしに付いて来ます

テモテ第二 2:19
19 しかしながら,神の堅固な土台は不動であり,それにはこの証印が付いています。すなわち,「エホバはご自分に属する者たちを知っておられる」,また,「すべてエホバのみ名を唱える者は不義を捨てよ」。


何も恐れる必要はありません。
バビロンを離れてください。

啓示 18:4
4 また,わたしは天から出る別の声がこう言うのを聞いた。「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄を共に受けることを望まないなら,彼女から出なさい


コリント第二 6:17-18
17 「『それゆえ,彼らの中から出て,離れよ』と,エホバは言われる。『そして汚れた物に触れるのをやめよ』」。「『そうすればわたしはあなた方を迎えよう』」。18 「『そしてわたしはあなた方の父となり,あなた方はわたしの息子また娘となる』と,全能者エホバは言われる」。


神のことばのみにより導かれてください。
そうすれば、真理を知り、真理はあなたを自由にするでしょう。

ヨハネ8:31-32
31 そこでイエスは,自分を信じたユダヤ人たちにさらにこう言われた。「わたしの言葉のうちにとどまっているなら,あなた方はほんとうにわたしの弟子であり,32 また,真理を知り,真理はあなた方を自由にするでしょう」。

そして、同じようにバビロンを離れた、霊と真理をもって父を崇拝する兄弟・姉妹たちを見出せるでしょう。
インターネットは、この面で極めて有効に働くでしょう。
それで、ものみの塔を含め組織宗教をあとにすることを恐れる理由は何もありません。


マタイ 11:28-30, 28:20
28 すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう。29 わたしのくびきを負って,わたしから学びなさい。わたしは気質が温和で,心のへりくだった者だからです。あなた方は自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう。30 わたしのくびきは心地よく,わたしの荷は軽いのです」。

28:20 . . . そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」。


読んで頂きありがとうございました。

もんもん
2012年12月27日 19:34:04

irisさん

>イエスが教えた父である神にエホバという名があると私は思いませんが、エホバという名があると思う人がいてもかまわないと思います。

あるないという議論で言えば、間違いなく名前はあります。ヘブライ語で書かれた旧約聖書には、YHWH(ローマ字表記)という4文字が神の名前としてでてきます。またダビデは詩編の中で、神のことを名前で頻繁に呼んでいますから、名前で呼ばれることは神にとっては失礼ではないと思いますよ。

>旧約聖書の時代には、この神はイスラエルの神でした。イエスによって、すべての民への救いの道が開かれたのです。

新約の時代も、同じ神です。新約の時代も、ヤコブの神、イサクの神、アブラハムの神と呼ばれた、旧約時代の神が、新約時代の神でもあります。神の子イエスだけを仲介者とするという新しい部分が加わりましたが、神は何も変わっていないのではないでしょうか。

>キリスト教の教えは新約聖書に書かれています。
うーん、神の教えは、聖書全編に書かれていると思います。新約だけにキリスト教の教えが書かれていると信じる信仰が、カトリック教会の信仰なのではないでしょうか。わたしには「本来のキリスト教の教え」が何を指しているのかよくわかりません。

>もんもんさんにも、組織によってすべてを規定された信仰ではなく、もんもんさんだけの信仰があるべきなのです。
irisさんは、個々のエホバの証人について誤解しています。個々のエホバの証人は、組織によってすべてを規定された信仰で生きているわけではないです。聖書の指針に基づいて、自分の良心で決定することが、最近ではとても重要視されるようになってきています。特に神との個人的な関係は大切です。

Board footer