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トピックレビュー(最新表示)
- crecent
- 2021年04月28日 19:48:33
真実のべただけ
何処でもよいではない?
気難しい人間様
あなたがここの管理人なの?
- YN
- 2021年04月26日 20:53:46
モトシモベさん。
別にいいのでは?
そこまで制限して、あなたは何がしたいのですか?
童貞だと、性格が歪んでしまうのですね。
クワバラクワバラ。
- モトシモベ
- 2021年04月26日 20:38:16
crecentさん
はじめまして。
てつてつさんからも注意があったかと思いますが、そろそろマルチポストまがいの投稿は控えましょうか。
何かテーマに沿って主張したい内容があればトピ立てされるのが良いでしょう。
確か、広島県で、起きた、子供のせっかん死の事件・・確か1994年位かな・・・
この時も、長老と言う幹部は、ゴムホースを鞭として使ってよい、と指導し
その後、ものみの塔協会は、コメントを差し控えて頂く と逃げて、
組織の責任者の謝罪などはなかったそうですね。事件を起こした犯人は、どうなっているか知りませんが、真の宗教を唱えるわりには、都合が悪いことが起きても、
素直に間違いを認めなかったり、謝罪するということを知らない団体のようです
- crecent
- 2021年04月26日 19:55:35
確か、広島県で、起きた、子供のせっかん死の事件・・確か1994年位かな・・・
この時も、長老と言う幹部は、ゴムホースを鞭として使ってよい、と指導し
その後、ものみの塔協会は、コメントを差し控えて頂く と逃げて、
組織の責任者の謝罪などはなかったそうですね。
事件を起こした犯人は、どうなっているか知りませんが、真の宗教を唱えるわりには、都合が悪いことが起きても、
素直に間違いを認めなかったり、謝罪するということを知らない団体のようです
- 名無し
- 2017年04月12日 18:31:01
正直、よくわかりませんでしたが
はっきり違うとも言い難いのでしょうか?
ありがとうございました。
- 名無し
- 2017年04月11日 18:56:36
ニサン14日って本当に今晩4/11ですかね?
調べてみると違う日を指している資料の方が多いです。
事情を知ってる方、おられますでしょうか?
- run
- 2017年02月13日 09:46:38
油そそがれた追随者もいれば、そうではない人もどちらも存在したと思います。
であれば、組織に拘る必要性はないということです。
神は心をご覧になられるお方です。
JWのバプテスマを考えておられるのでしたら、私からは「やめときなさい」としか言えません。(^^;)
- 土の器のかけら
- 2017年02月13日 09:14:23
世のキリスト教には、「迫害を受けても、精神的、感情的または身体的な苦悶を耐え忍んだイエスのように」信仰を貫いて殉教の死を遂げられた多くの信仰者がいますけど、彼らは油そそがれた追随者と見なされますか?
恐らく土の器のかけらさんの立場からいうと「分からない」というのが答えになるのかも知れませんね?
はい、runさんのいうとおり、私にはわかりません。油そそがれた追随者もいれば、そうではない人もどちらも存在したと思います。
リッチさんに、私は数多くの人々が殉教したという事実に感動したと答えたのですが、彼らが油そそがれた追随者かどうかではなく、私の側の気持ちです。私の思い込みですね。
しかしながら、殉教した人々に続くさらなる数多くの人々が存在するという事実は、もしかしたら「聖霊の後ろ盾がある人」かも知れません。ファンタジックな物語です。
またまた余談ですが、殉教者とはギリシア語で本来「証人」を意味します。バプテスマを受ける前のそれ以前の討議で、私の「わかりません」という答えが増加していきます。
- run
- 2017年02月13日 08:38:05
「首尾よく切り抜ける人」とは、迫害を受けても、精神的、感情的または身体的な苦悶を耐え忍んだイエスのように信仰にとどまる人のことです。
世のキリスト教には、「迫害を受けても、精神的、感情的または身体的な苦悶を耐え忍んだイエスのように」信仰を貫いて殉教の死を遂げられた多くの信仰者がいますけど、彼らは油そそがれた追随者と見なされますか?
恐らく土の器のかけらさんの立場からいうと「分からない」というのが答えになるのかも知れませんね?
- 土の器のかけら
- 2017年02月13日 08:14:09
土の器のかけら さんの発言:私の主観では、油そそがれた追随者はキリストの苦しみにあずかる者であり、燃えさかる火の試練を忠実に首尾よく切り抜ける人です。
「首尾よく切り抜ける人」とはどういう意味ですか?
私が「首尾よく切り抜ける人」かどうかは別という前提でよろしければ、模範回答で答えます。
使徒 14章22節では「わたしたちは多くの患難を経て神の王国に入らなければならない」と信仰にとどまるように励ましています。また、ローマ 12章12節には「患難のもとで耐え忍びなさい」と付け加えています。
そして、テモテ第二 3章12節では「キリスト・イエスにあって敬虔な専心のうちに生活しようと願う人はみな同じように迫害を受けます」と預言されています。
したがって、「首尾よく切り抜ける人」とは、迫害を受けても、精神的、感情的または身体的な苦悶を耐え忍んだイエスのように信仰にとどまる人のことです。
- run
- 2017年02月13日 07:07:00
私の主観では、油そそがれた追随者はキリストの苦しみにあずかる者であり、燃えさかる火の試練を忠実に首尾よく切り抜ける人です。
「首尾よく切り抜ける人」とはどういう意味ですか?
- 土の器のかけら
- 2017年02月13日 06:29:44
「経済的な支援」という解釈は私も聞いたことがありません。財宝や宝物を持って来るというのは千年王国設立に伴う「ギフト/贈り物」でしょう。
まぁ、重要なのは、自分がそこに居るという確信があるかどうかですよね。貴方には、まだその答えは「わからない」とのことですし、いつか確信が与えられるといいですね。
runさん、ありがとうございます。
巡回監督の質問は「あなたはハガイ2章7節の『あらゆる国民のうちの望ましいもの』ですか」ということですから、私は人的資源という意味に捉えました。「聖霊の後ろ盾があることを認識していますか」というような質問もよくありますね。私は「聖霊に満たされ」「聖霊の後ろ盾があることを認識している人」ではありません。
巡回監督は質問一覧表のようなものを持っていたので、どのように答えればよいのか知りたいと思いました。
私の主観では、油そそがれた追随者はキリストの苦しみにあずかる者であり、燃えさかる火の試練を忠実に首尾よく切り抜ける人です。私は溜め息ばかりです。
- run
- 2017年02月13日 05:26:19
「あらゆる国民のうちの望ましいもの」を経済的な支援とするのは間違いではないでしょうか、という意味です。
「経済的な支援」という解釈は私も聞いたことがありません。財宝や宝物を持って来るというのは千年王国設立に伴う「ギフト/贈り物」でしょう。
まぁ、重要なのは、自分がそこに居るという確信があるかどうかですよね。貴方には、まだその答えは「わからない」とのことですし、いつか確信が与えられるといいですね。
また、世のキリスト教では「天的級・地的級」(この言い方はダメでしょうけど、私的には使いやすい言葉ですので あえてこう言います)という概念はありませんので、【「神と共に働く者」とは油そそがれた追随者です】と言われても、「また出た」としか思いません。ごめんなさいね。
- 土の器のかけら
- 2017年02月13日 05:23:36
土の器のかけら さんの発言:2014年頃からの変更は私にとって大きく印象的でした。特に「級」を用いてはいけないと、手持ち文書の「級」を目の前で抹消するように指示されました。口頭での言葉遣いも助言を受けました。
戦後、「墨塗り教科書」というものがあったそうですけど、それを想像してしまいました。
(ズコーってまでは行きませんでしたよ。^^;)
私には感慨深い経験でしたが、他の人はどうしたでしょうか。この掲示板を閲覧しているみなさんはどうしたのでしょうか。会衆の文書は廃棄したようです。
- 土の器のかけら
- 2017年02月13日 04:48:04
土の器のかけら さんの発言:ハガイ2章7節の「あらゆる国民のうちの望ましいもの」を経済的な支援とするのはいかがでしょうか。
意味が解りません。
「財宝/宝物」という訳を JWでは「望ましいもの」と訳しているわけですけど、そうではなく「経済的な支援」と訳すのはいかがでしょうか?という意味でしょうか?いや、違いますね。「神と共に働く者たちを経済的に支援する」と解釈するのはいかがでしょうか?という意味で言っているのでしょうか?
runさん、不明瞭でごめんなさい。議員さんなどが用いる「いかがなものか」という疑問符、不賛成、賛同しかねるという言い回しです。「あらゆる国民のうちの望ましいもの」を経済的な支援とするのは間違いではないでしょうか、という意味です。
「望ましいもの」と同じ意味の「自発的な捧げ物」(歴代第一 29:14)を、「自発的な寄付」と解釈するのもズコーっとなりました。これは、他の人の見解に反論するものではありません。
runさんが新共同訳に付記した意訳のイメージをありがとうございます。7節の「諸国のすべての民の財宝(神と共に働く者)をもたらし」で正確な理解です。
8節は「銀(神と共に働く者A)はわたし(神)のもの、金(神と共に働く者B)もわたし(神)のもの」になると思います。
銀と金はさまざまな特質の違いだと思います。さまざまな能力などの特質や、経済力も含まれます。
但し、コリント第一 3章5‐9節の「神と共に働く者」とは油そそがれた追随者です。『ものみの塔』には「神と共に働く者」という言葉が掲載されていますが、同時に「聖霊に満たされ」「聖霊の後ろ盾があることを認識している人」のことだと明確に併記されています。(コリ一 3:9。使徒 4:31)これ以上言うと、ズコーっとなる人がいるかも知れませんね。