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トピックレビュー(最新表示)

ラハム
2017年03月21日 16:40:31

#565の最後の部分で
マタイ20:35が引き合いに出されていますが、
わたしの所蔵している聖書で確認したところ、
その節は存在しませんでした。愛嬌かもしれません…。
機会があったら著作者に確認しようかと思っています…。

ラハム
2017年03月19日 18:37:33

#562の補足事項です。

中沢啓介氏の著作を公開することについてです。
わたしは氏の信奉者ではありませんし、
中沢氏もN/T/ライトのファンではないとおっしゃっていました。

わたしが、聖書を物語として読むことに感動し、
納得しやすい論議であることを出席者の前で述べてから、
著作をWeb上などで公表する許可を求めたのですが、
そのときのご返事は「自分は公人なので名前を公表することはかまわない、
著作物も自由に使ってよい。質問があれば、ここに来てくれれば、答える」
ということでした。「ここに来てくれれば」というのは
おそらくJWTCに出席して質疑応答することか、
あるいは、氏に対面し直接質問することでしょう…。というのは、
メールでは答えられないというコメントがあったのです。
最近、JWTCのサイトに1,000単位のアクセス数があり、
急上昇しているということでした。
たった一人の人間が、1,000人単位の事細かな質問事項に
返信することは物理的に無理なことは、だれでもわかりそうです。

だから、どうしても質問したいことがあるのでしたら、
それなりの努力が必要だということですね…。

ラハム
2017年03月17日 13:55:09

#564の続きです。
みなさんもご存じのようにJW組織は聖書に誤りがないことを
証明しようとして、学術文献を文脈から切り離して
まったく異なる意味を説明しようとすることが非常に多いです。
そういう意味では聖書の「無誤性」を強く証明しようと
しているグループの一つと言えるでしょう。
そのような教育を受けてしまい、聖書には誤りがないと
思い込まされてきたわたしたちが、聖書について
どのように考えることができるか参考にできます。
いただいたコピー文書最後の部分です…。

-無誤性は聖書的か_その3-

最後に、私は聖書の霊感と権威を固く信じる者ですが、
「無誤」という用語は使わない方が賢明だと思っています。
その理由は四つあります。
まず、もし「無誤性」を主張すると、
「聖書に出てくる様々の矛盾(これを「聖書の現象」と言います)」に対し、
様々の詭弁を弄しながら弁護しなければならなくなります。
第二に、
「無謬性」という言葉は福音派内に無用な混乱を招いた歴史を持ち、
否定的なイメージがつきまとっています。
そして第三は、
権威は神にのみ帰されるべきもので、聖書の無誤性ではないからです。
パウロは「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、
神によって立てられた」(ローマ13:1)と述べています。
イエスも同様です(ヨハネ19:11、マタイ28:19)。
クリスチャンは聖書ではなく、
聖書を与えた神ご自身に権威を置かねばなりません。
最後に、「聖書は物語」だからです(この点については後でふれます)。
物語には、無誤か無誤でないかといった議論は意味をなしません。
プロテスタントは伝統的に、聖書の権威を擁護するのに
「無謬性」という用語を使ってきました。
従って,様々な問題をはらんでいる
「無誤性」という言葉を使う必要はありません。
しかし最近の福音派の学者たちは、もっと賢い表現を提唱しています。
詩篇119篇の作者のように、
「真理」「まこと」「真実」などの積極的な言葉を使うことです。
イザヤは「私たちの神のことばは永遠に立つ」(40:8)と述べていますし、
イエスもまた「あなたのみことばは真理です」(ヨハネ17:17)、
「すたれることはありません」(マタイ5:18)、
「減びることがありません」(マタイ20:35、マルコ13:31)、
「廃棄されるものではない」(ヨハネ10:35)などと、
積極的な表現を使っています。

ラハム
2017年03月16日 14:27:11

#561の続きです。

-無誤性は聖書的か_その2-

二つ目の目的は「神の人が、すべての良い働きのために
ふさわしい十分に整えられた者となる」ことです。
「神の人」とは「神に属する人」の意で、
キリストの救いを受けたクリスチャンのことです。
「すべての良い働き」とは、
クリスチャンそれぞれが神から託されている使命のことです。
クリスチャンがその使命を果たすには、
「教えと戒めと矯正と義の訓練」が必要です。
これら四つの意味の違いについては説明を省きますが、
類似した四つの言葉が繰りかえされているのは、
クリスチャンの使命遂行には「熟練工のような厳しい
訓練を旧約聖書から受けねばならない」ことが暗示されています。
(ローマ15:4、Ⅰコリント10:1-13)
実際、初代のクリスチャンたちは、
旧約聖書を「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために」用いながら、
自分の働きを展開しています。
(使徒1:16、1:16、2:16、13:40など多数)

この聖句について、
さらに二つの大切なことを付け加えておきましょう。

一つは、パウロがここで言及している聖書は、
テモテが幼いころから親しんできた(Ⅱテモテ1:5)
「ギリシャ語訳旧約聖書(七十人訳聖書)」だったということです。
福音派はしばしば、この聖句に基づいて論じながら、
「霊感された原典ヘブル語聖書」のことを問題にします。
パウロはここで翻訳された聖書について言及しているのですから、
その議論がおかしいことは明らかです。
二つ目は、この聖句は「聖書の霊感」について述べていますが、
「誤りがない」とまでは述べていないことです。
ペテロも「聖霊に動かされた人たちが、
神からのことばを語った」(Ⅱペテロ1:20,21)と、
聖書の霊感について言及していますが
(「動かされる(ノェロメノー)」とは「運ばれる」が原義で、
聖霊が主導権をもって神のことばを語らせたことを示唆する)、
「誤りがない」ことには触れていません。
結局、「誤りがない(無謬であれ、無誤であれ)」という概念は、
聖書が直接説いている教えではなく、
聖書の霊感と権威を擁護するための「神学的な告白」なのです。

鬼太郎
2017年03月15日 23:07:03

ラハム兄弟 是非ともお願いします
元JWにとって救いや精神安定になると思います
楽しみにしています。

ラハム
2017年03月15日 20:33:51

聖書は歴史的・科学的にも立証された研究分野に
一致していると思い込まされてきたわたしたち元JWにとって、
確実無比な神の言葉の集大成「聖書全巻」を物語として
読み、理解することは気が動転するようなことでしょう。
でも、自分の人生と全精力を費やして学んできた
聖書についてまったく
別の読み方と理解・解釈が存在したことを知ることは、
傷ついた心をいやすため、とても必要だと思いました。
希望が持てるのであればさらに良いことです。

きょう、中沢啓介氏に直接確認しました。
聖書を物語として読むことに関して、氏の書いてくださった
説明をWeb上に公開してもよいかということです。
了解を得ることができましたので、
わたしの時間、体力、気力が続く限り
皆さんに読んでいただけるようにしたいと思いました…。

ラハム
2017年03月14日 13:16:20

#555の続きです。
irisさん、コメントをありがとうございます。
確かに何を伝えようとしているのかという視点から
聖書を読む方がすっきりしている感じがします。

年始に購入したプリンターの使い方が徐々にわかり、
スキャンした文章を自動でPDF化してくれました。
そのテキストデータをパソコンで編集したものです。
以下、転載します…。

-無誤性は聖書的か_その1-

プロテスタントのほとんどの教会は「聖書は神の霊感によるもので、
信仰と生活の唯一の規範である」と告白しています。
この信仰告白は、主として「聖書はあなたに知恵を与えて
キリストイエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
聖書はすべて、神の霊感によるもので、
教えと戒めと矯正の義の訓練のために有益です。
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい
十分に整えられた者となるためです」(Ⅱテモテ3:15-17)
という聖句に基づいています。
確かにパウロは、このテキストにおいて、
「聖書は神の霊感による」と説いています。
「霊感」(セオプニューストス)とは「霊が息を吹きかける」が
原義で、聖書が神の御霊によって生み出されたことを示唆します。
パウロはここでさらに、
旧約聖書の書かれた目的が二つあることを述べています。
一つは、「キリスト・イエスに対する信仰による救い」を
得させることです。旧約聖書を読むなら
「イエスがキリスト(メシヤ)である)」とを理解でき、
「キリストの救いの恵みにあずかる」ことができるはずです。
旧約の預言者によって、イエスの誕生と十字架、復活などが預言されていますし、
アプラハムの信仰による義が私たちの信仰のモデルであることも分かります
(ローマ3:10-18、4:6-8、18-22ガラテヤ3:8、13,22など参照)。
イエスもまた、「旧約聖書がご自身のことを証している」と明言しています。
(ヨハネ5:39、ルカ24:27、44)
実際、使徒たちや初代のクリスチヤンたちは
「イエスによる救いのメッセージ」を旧約聖書から説き明かしました。
(使徒8:28-35、17:2,3など多数)

では、聖書が明らかにしている
「イエスによる救い」とは、どのようなものでしょうか。
多くのクリスチャンは「罪が赦され、天国に入ること」だと考えています。
しかし、新約聖書が明らかにしている「救い」は、
それよりはるかに豊かなものです。それは少なくとも、
①イエスの贖いの死によってすべての罪が赦されること、
②聖霊を受けることによって神の子になること、
③創造時に与えられた「神のかたち」が回復されること、
④世界の相続人になること、
⑤神の国の民となり「王なる祭司」として被造物を管理すること、
⑥ キリストが再臨される時に「復活のからだ」をいただくこと、
などが含まれます。どれ一つを欠いても「キリストの救い」とはいえません。

iris
2017年03月14日 12:33:43

医療の分野では、Narrative-based Medicine(NBM)という臨床手法があります。
日本語に訳すと「物語に基づいた医療」ですね。

患者さんと対話することによって、患者さんが病気になった理由や経緯、
病気について今どのように考えているかなどの「物語」を語ってもらいます。
そうすることで医師はその人の病気の背景や人間関係を理解し、
その人が抱えている問題に対して全人的にアプローチすることができます。

物語というのは必ずしも事実そのままではありません。
語る人の思いが込められ、事実よりも重要な情報が伝えられることもあります。

聖書の物語も、歴史的・科学的事実であるかどうかよりも、
何を伝えようとしているかに関心を持って読むべきなのではないでしょうか。

ラハム
2017年03月13日 18:54:19

わたしたちは聖書に関して,神に関して、
良いイメージと悪いイメージを同時進行で
植え付けられた人間かもしれませんね…。
まったく残念で、悲しいことです…。

鬼太郎
2017年03月13日 17:25:09

WT出版物の中で 確か楽園の本だったと思いますが、、、
『聖書は愛され、憎まれてきた』というふうな表現があったはずです。
これは、そのまま脱会者の心情ではないか?と感じています。
脱会直後は、それでも自分は聖書全巻を通読したわけだし、聖書の原則を生活に適用してきた、、、
この知識と経験は知的な財産では? そう自分に言い聞かせていました。

しかし、、、聖書を開くと、条件反射で思い出すJW教理とJW生活、、、、
それもWT組織のために生活と人生、最悪のケースでは命まで犠牲にする掟、、、
やがて嫌気がさし、、JWTCからも聖書からも離れたました。

ところが欧州旅行で偶然に教会のミサに参加、、フランス語で全く理解できないのに、不思議な
落ち着き、、まるで故郷に帰ったような感覚、、、。

それから、再び、カトリック教会の勉強会という軽い聖書アプローチ。
聖句アレルギーも軽くなり、いっそのこと古事記や他の古い宗教経典と同様に考えれば、、
そう考えると気が楽になり、、再びJWTCに参加。

愛と憎しみ、こだわりと嫌悪感、、愛着と否定したい気持ち、、それが聖書に対する交錯した感情。
しかし、今ではJWの歪んだ解釈に最大の責任があるわけで、気持ちも整理されつつあります。

とりとめのないカキコですが、、元JWの方なら理解していただけると思います。

ラハム
2017年03月13日 16:36:50

わたしの人生における残り時間が
あといくら残されているのかわかりませんが、
生き続けている限り聖書を忘れてしまうとか、
無関心になってしまうということはできなさそうです。
でも、そうなったほうが楽かもしれません。

高校一年のとき「倫理社会」という科目があり、
教科書に様々な宗教の代表的な教えが記述されていました。
キリスト教は山上の垂訓でしたね。
ここで「姦淫」という表現が出てきて、
先生にその意味を質問したのですが、
困ったようで何も答えてもらえなかったことを
はっきり覚えています。
同級生の女子にも聖書を読んでいるという子がいました。
三年生の時、JWと家庭聖書研究が始まり、
彼女に「神の名前って知っている?」って聞いてみたら、
「エホバでしょ」って答えていました。
「ヤハウェ」じゃあありませんでした。

そこから始まって30年近くJWを続けることになったのですが、
1985年に「論じる」が出版されたのです。
この本の見開きには引用されている日本語訳聖書が
10ぐらい紹介されていました。
当時は当然新世界訳もあったわけですが、
宣教者のすすめもあって他の訳も読むことにしたのです。
「論じる」に紹介されている日本語訳はほとんど読みました。

こうして聖書漬けの日々を送ったわけです。
脱塔して14年目ですが、てつてつさんと同じように
聖書自体はほとんど読まなくなってしまいました。
でも、嫌いになったわけではありません。
あまり必要を感じなくなったと思います。

でも、ここに来て掲示板で意見交換するようになり、
聖書に関する関心を呼び覚まされたのかもしれません。
JWの聖書解釈が多くの点で間違っていることは確かですが、
だからと言って聖書が間違っているとも思えませんでした。
掲示板で論議が続いているのですが、
現在の科学的発見、実際の歴史上の出来事と、
照合してみても正確ではなさそうだと
思わざるを得ませんでした。

でも、そのような事実を認識したうえで、
聖書を真実神の言葉として受け入れ
信じておられる人たちがいるのは
どうしてだろうとも考えたのです。何か理由がありそうです。
あるいは、世界のベストセラーですから、
これまで学んできた読み方や解釈とは
まったく異なるものがあるのかもしれないと思いました。
そこで、知ることになったのが、JWTCで聞くことになった、
聖書を「物語として読む」ということでした。

わたしは宗教全体につまずいていますので、
信仰心を回復させることはないだろうと思っています。
しかし、聖書がどんな書物かを知っておくことは
とても有意義であろうと考えています…。

てつてつ
2017年03月13日 06:10:25

ラハムさん よく調べていただいてありがとうございます 自分は聖書が神の言葉ではないと感じるようになってから全く読まなくなってしまったんですけど cry  ラハムさんはがんばってください

ラハム
2017年03月12日 19:20:24

じっくり読み返すと
現代のJWも聖書の「無誤性」を証明しようと
やっきになっているグループの一部に思えてきました…。
以下、転載です-

-無誤性が出てくるまで-

初めに「聖書は無誤である」という考え方が
出てきた背景を考えてみましょう。
今から500年ほど前、カトリック教会の
堕落を憂えた人たちが「聖書のみ、信仰のみ、万人祭司」の
三つの旗印を掲げ、宗教改革運動を展開しました。
改革者たちは、カトリックが自分たちの伝承を重んじて
聖書から逸脱したことを批判しました。
その批判に対しカトリックは「法王の無謬性
(infallibity)」という教義を持ち出して反論しました。
それに対しプロテスタントは「聖書のみ」を主張し
「聖書の無謬性(infallibity)」を表明しました。
時が進み18世紀になると「聖書批評学」が盛んになります。
その学問では、聖書は古代オリエントで発見された文献の
一つにすぎないと見なされ、
考古学上で発見された様々の文献や資料、
遺跡などと比較検討されるようになりました。
その結果、聖書に含まれるそれぞれの書物は、
著者の信仰や世界観、言語能力や表現力、
時代思潮や精神風土、論理力や文学類型などの
制約内で執筆されていることが明らかにされました。
プロテスタント主流派(Mainline)は、
このような学問的な成果を当然のこととして
受け止めましたが、福音派(Evangelical)は
一般的に「聖書は神によって霊感されたので、
他の文献と同じような人間的・時代的な
制約を受けるはずがない」と主張し、批判的でした。

18世紀から19世紀にかけての聖書批評学は
「現存する聖書は元々どのような資料を基にして
作り上げられていったのか」という
問題を究明しようとしました
(これは「資料批評」と言われます)。
ところが20世紀初頭になると「そのような個々の資料は、
どのような共同体がどういう状況に置かれた時に生
み出されたのかか」ということが問題にされました
(これは「様式史批評」と言われます)。
さらに20世紀も後半になると「それらの資料を
今日の聖書の形にした編集者の意図や神学は
どのようなものだったのか」が盛んに論じられました
(これは「編集史批評」と言われます)。
そして20世紀も終わりに近づくと
「聖書は一つのまとまった物語である」と
見なされるようになり、その物語をどのように
解釈したらよいのかが大きな問題になりました
(これは「物語批評」と言われます)。

福音派の聖書学者は、初期段階の資料批評や
様式史批評に対しては否定的でしたが、
編集史批評の頃から好意的になり、聖書を客観的、
学問的に読むメリットに理解を示すようになりました。
そうなりますと、
聖書の中には一見矛盾に見える箇所
(例えば、福音書間で)
数字の食い違い
(例えば、列王記と歴代誌の間で)
一般の科学や歴史と矛盾する記述
(例えば、創世記の天地創造とビッグバン理論や進化論の間で)
など一つ一つに丁寧に弁護する必要が生じます。
そのような作業に頁摯に取り組もうとする人々は、
宗教改革者たちの主張した「無謬性」は信仰告白的な
神学用語であり、実証的なニュアンスの言葉ではない、と
見なしました。それに対し「聖書は神の霊感を受けて
書かれた神の言葉である以上、矛盾など一切存在しない。
歴史的にも科学的にも誤りがあるはずはない」と
強力に主張する人々が現れました。
彼らは「無謬性(infallibity)」という言葉では飽き足らず、
「無誤性(inerrancy)」という言葉を使うべきだと主張し始めました。
こうして、無謬か無誤かという論争が始まったのです。

ラハム
2017年03月10日 19:40:56

これまでの二つのトピックで転載した、
聖書を物語として読むという説明文は、
『物語の世界で「無誤性」は問題にならない」という
中沢啓介氏が「船の右側」誌に寄稿した記事からものです。
決してわたしの著作ではありません。
文字データはありませんから、
コピー文章を見ながら入力しています。

JWだったとき「無謬」という言葉は聞いていたのですが、
聖書に関して「無誤」ということは聞きませんでした。
「聖書は無誤である」という考えの歴史、
「無誤性は聖書的か」という記事の後で
「聖書は物語である」という記事に続いていました。
この最後の部分を転載したのです。

とても興味深い内容ですから、
体力の許すときに転載してみようかと思っています…。

鬼太郎
2017年03月10日 14:05:07

ラハム兄弟 簡潔で理解しやすい、整理した説明に感謝します
現在進行形の舞台で演じている自分達の存在という説明も受け入れやすいです。
全てを楽園待ちにするJW教理と、その教理を前提とした組織の仕組みでは、、、
現在進行形の犠牲者を作るだけですから、、、。

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